誰にも言えずに飲み込んだ苦しみは鉄の味。口内から体中へと広がっていく感覚が気持ち悪くて、ついネクタイを強く締め上げる。
首元を締め付ければ、苦しみが体中には広がらないと思った。
だけど現実はそう甘くない。いくら首元を締め付けても鉄の味は体中へと広がり、ただただ呼吸が苦しいだけだった。
泣いたって消えはしない。
ただ静かに僕の視界を滲ませ、見えるものの鮮明さを失わせるだけ。
もう嫌だったんだ。
不甲斐ない僕自身のことが。
死ねばすべて解決するわけでもないけれど、それでも願ってしまう。
「……死にたい」
——死んで、楽になりたい。
学校まであと僅かだという場所にある小さな橋の欄干に身を預け、勢いよく流れる水に目を向ける。
ここから落下すれば望み通りになるだろう——、その思いで胸がいっぱいになった時、僕は鞄を投げ置いて欄干を跨いだ。
これで、これで僕は……
「……ねぇ、なにしてんの?」
「え?」
「なにしてんのって聞いてんだよ!!」
「え、えっ」
振り返った先にいた女子は、あまりにも凄い剣幕で僕のことを睨みつけていた。
大きな青いリボンが特徴的なその制服は、市内の女子校のものだ。それだけで、今睨んでいる女子が他校生であることが分かる。
「とりあえず戻ってきなよ。私が助長させているって思われても不快だし」
「……」
「ほら、早く。早く」
5、4……とカウントダウンをされ、僕は焦って元いた場所に戻った。
せっかく心に決めていたのに、今の僕は完全に彼女のペースに乗せられている。
「よくできました」
「……」
アスファルトの上で座り込み、思い切り脱力をした。覚悟はできていたはずなのに、いざこちら側に戻ってくると恐怖心の方が勝る。
僕は何をしようとしていたのか——、今度はその思いが有意に立ち、胸が苦しくなった。
しばらく呆然と一点を見つめていると、ふいにポンポンッと優しく頭を叩かれた。突然の人肌に驚き挙動不審になった僕は、静かに彼女を見つめる。
彼女はわざとらしく驚いたような表情を浮かべながら、微かに笑っていた。
「……」
「やだ、引き止めたことを恨まないでよね。見過ごせなかっただけだから」
「何も言っていないよ」
「目が口ほどに語っているの! 邪魔しやがって……って!!」
「そんなつもりはないよ」
小さく溜息をつき、ゆっくりと立ち上がる。
僕を引き留めた彼女と並んで目を見合ったのだが、意外にも身長が同じくらいで驚いた。
彼女はそっと手を差し伸べて、僕に優しく微笑みかける。
その行動が意味分からずに首を傾げると、「どうせ、死ぬ予定だったんでしょ?」と弾むような声で言った。
言葉の真相はよく分からないけれど、とりあえず流れで頷いてみると「なら、私についてきて!」と言って僕の腕を強く掴んだ。
彼女はタンッと軽くアスファルトを蹴りつけ、まるで宙を飛ぶように走り始める。
掴まれている僕の腕も引っ張られて体が持って行かれそうになり、思わず体勢を立て直した。
そして忘れそうになった自身の通学鞄を咄嗟に掴んで、先行こうとする彼女の後を追った。
***
名前も知らない彼女は何も言わずに走り続けて、すこし先にある海浜公園にやってきた。
平日の午前なこともあり、静かな海辺には誰ひとりとして人の姿がない。彼女と2人、聞こえてくるのは波の音だけだった。
「……」
僕はなぜ、ここにいるんだっけ?
波が満ち引きする音に混じり、時折近くの木々から鳥のさえずりが聞こえてくる。
自然の音に耳を傾けたのはいつぶりだろうか。そもそも、これまでの人生にそのような機会はあっただろうか。自身にそう問いかけながら、隣に立っている彼女に視線を向ける。
見知らぬ彼女は、長い瑠璃色の髪を風になびかせながら、優しい笑顔を浮かべていた。
「……ねぇ、君。空を見てごらん」
「空?」
「うん」
促されるがまま目線を上げて、目の前に広がる空を見る。
なんの変哲もないただの青空に、迷いが見られないくらいにまっすぐな飛行機雲が1本伸びていた。
「生きていれば辛いこともあるし、悲しいこともある。私だって、死にたくなることがたくさんあるよ。それでも頑張って生きていれば、良いことだってあると思わない?」
「……」
「例えば、君と私が出会ったこととか」
僕はまっすぐ空を眺めている彼女に視線を向ける。彼女の胸元にある大きな青いリボンは、風に乗って静かに揺れ動いていた。
そしてゆっくりと視線を空に戻し、もう一度だけ飛行機雲を眺める。
先に生まれた古い雲は、早くも消えかかっていた。
「私ね、神崎茉祐っていうの。白銀女子学園の高等部2年生だよ」
なんの前触れもなく自己紹介が始まった。
神崎さんと名乗った女子は、横目で僕を見ながら小さく微笑んでいる。
「……」
死ぬつもりだったのに。
どうして僕は自己紹介を受けているのだろうか。
つい芽生えてしまったそのような感情はねじ伏せて、僕も彼女の方を見る。
そして呟くように、小さく言葉を紡いだ。
「僕は……蓮田充。倉下高校の2年生……」
「へぇ、蓮田くん。同い年なんだ!」
嬉しそうに僕の名前を呼んだ神崎さんは、僕の両手を掴んでブンブンと上下に強く振った。
その様子に驚きを隠せない。僕が今までに出会ったことがないタイプだ——、率直にそう思った。
「ねぇ、蓮田くん。君はどうして、橋から飛び降りようとしていたの?」
神崎さんは、なんの躊躇いもなく直球で聞いてくる人だった。一瞬だけ嫌悪感を抱き、すこしだけ彼女を見つめる目に力を込める。
だけど、彼女の目はただただまっすぐだった。
素直に疑問を抱き、素直に聞いているだけ。それ以外の感情はない。ほんとうにただ、それだけなのだろう。
「……」
僕は神崎さんからの問いに対する答えがすぐに出てこなくて、しばらく黙り込んだ。
不甲斐ない僕の話は、人に話すようなことではない。
僕が死にたいと思う理由、そのような話は……人に話すことではない。
「……」
だけど一言、言うならば……
「僕は……誰の役にも、立てないから」
それだけを言って、僕は地面に座り込む。そしてそっと顔を膝に埋めた。
勉強、勉強。
学年1位は当たり前。
順位を落とし2位にでもなれば、説教。
塾を理由に部活動もさせてもらえず、僕の学校生活は勉強で彩られた。
課されたノルマが達成できずに、休憩時間も勉強をしていた。最初は僕を気にかけて話してくれていた人もいたが、みんなが徐々に離れて行った。
それはそうだ。
勉強しかしていない僕など、面白いわけがない。
僕みたいな人が僕の友達ならば、僕だって同じ選択をするだろう。
だから、勉強しかしない僕は、存在する意義がないのだ。
「……」
神崎さんは僕の隣に座り込み、睨むように僕の顔を覗き込んだ。
大きな茶色っぽい瞳が、まっすぐ僕を見つめる。
その目にすこしの恐怖心を抱いて警戒心を高めた時、神崎さんはフッと吹き出すように爆笑をし始めた。
「……ねぇ。今日から毎日、放課後はここに集合しない?」
「……え?」
「私ね、君ともっと話してみたいと思った」
「……」
「どうせ死ぬつもりだったのでしょう? なら、もう良いじゃない。私と毎日会って、私の話し相手になってよ」
神崎さんは、今までに出会ったことがないタイプの人だった。
僕の返答も聞かずに立ち上がった彼女は「よし、決まり!」と自己完結させ、軽く手を叩く。
その姿を呆然と眺めていると、軽く肩を叩かれてそのまま掴まれた。
「君は——、私の光になれる」
「……え、光?」
「うん。そう、確信できた」
それだけを言い残して、神崎さんは「また明日!」と言って走り始めた。
陸上部なのだろうか。
あっという間に遠くまで行ってしまった彼女は、すこし先にある角を曲がって姿を消した。
「……」
嵐みたいな人だと思った。
けれど……妙に神崎さんの言葉が心に残り、胸が温まるような感覚がする。
「僕が、君の光になれる……?」
別れ際に言われた言葉を思い出し、小さく呟いてみた。光とは一体、何を指すのだろうか。
「……こんな僕でも、誰かの光になれるのだろうか」
答えは見つからない。
正解は何ひとつ分からない。
だけど、どうせ終わらせる予定だった僕の人生だ。
偶然出会って助けられた神崎さんに、すこしだけ賭けてみてもいいと思えた。
僕はその場に寝転がり、真上に広がる青空を眺める。
鮮明に見えていた視界が徐々に滲み始めた時、どこからともなく現れた飛行機が、また新しい飛行機雲を生み出していた。