「どうしたのあさひなちゃん?」
行平はいかにも「理知的な男」といった風貌だった。学校でタンクトップの上にジャージを着ているような暑苦しい男には到底見えないのが驚きだった。その「理知的な」部分が、僕のよく知ってる「筋肉馬鹿」と齟齬を起こして僕の頭をバグらせた。双子の兄弟かなんかだろうか? いやでも、行平は自分のことを一人っ子と称していたからそれはない。嘘をつくような器用さはアイツにはない。
「い、いえ、ごほ」
「風邪?」
「そうです、ちょっと風邪を引いてしまって」
男にしては高めの声だけど、流石に無理があったかもしれない。僕は気を取り直して、「あさひな」を続行する。
「からし寿司さん、お会いできて嬉しいです」
「俺も会えてうれしい」
俺も会えてうれしい?
ぞっとする。からし寿司さんがそう言うならともかく、七松旭の担任の行平拓郎が言うと、ただただ気持ち悪い。多分、からし寿司さんが行平じゃなかったら見えなかった、下心というか、スケベ心というか、そういう視線が、僕のセンサーに鋭敏に引っかかってくる。
こいつ。結局そのつもりであさひなに近づいたのか。
「いつも見てるけど、やっぱ実物の方が可愛いじゃん」
「ごほ、ありがとうございます……」
行平拓郎が何歳だったかは忘れたけれど、三十は超えて居なかったか。二十代後半だったか。そんな行平拓郎が、二十歳のあさひなと「ワンチャン」あると思ってこの場にいることに、僕はこらえがたい嫌悪感を抱いていた。僕十七なんですけど。
「予約した店、行こうか」
さりげなく肩を抱かれそうになって、ぞっとして、振り払った。
「大丈夫ですから」
「ああ、ごめんね、近すぎたら言って」
とか言って、ワンチャンあるならベッドインなんだろ?
気づかねえのかよ。僕男だぞ。お前の教え子だぞ。担任のくせに、化粧に騙されんのかよ。
連れて行かれたのは雰囲気のいいバルだ。個室に通されて、メニューを渡される。知らないカクテルの名前ばかり並んでいて、困惑したけれど、ここで困惑を見せたらあさひなの演技がバレてしまう。
子役根性で、行平へのキモさみたいなものを封印した僕は、首をことりとかしげた。
「うーん、どうしようかな……」
「何飲む?」
ここで酒を呑んだ方がバレないだろうか。僕は注意深くメニューを見たけれど、どれがいいかまでは分からなかった。
「……呑みやすいおすすめってありますか?」
「カルアミルクとか、甘くておいしいよ」
これくらいなら、許容範囲だろう。僕は不本意ながらも呑みやすいという「カルアミルク」を頼む。
「あさひなちゃん、意外と背が高くてびっくりしたよ」
行平がウィスキーの水割りとかいうやつを口に含みながら煙草を取り出した。
「あ、煙草吸っても大丈夫?」
「へいきです……」
カルアミルクは確かに甘くておいしかったけれど、視界がふにゃんとほどけてしまって元に戻らない。
「あさひなちゃん、お酒弱いんだ、かわいいね」
「かわいいって、あんま、いわないでください……」
お酒なんか飲むべきじゃなかったかな。二十歳設定とはいえ、お酒が苦手で通すべきだったか。
「でも、かわいいって言われるの好きでしょ?」
行平が僕の顔をのぞき込んでくる。
「すき、だけど……」
「女装するくらいだもんね、分かるよ」
僕ははっとした。やっぱり声からバレたんだろうか?
「ちがいます、これ、地声で、その……」
「――嘘はいけないな、七松」
僕は今度こそ凍り付いた。目の前にはクレバーな行平、ふらふらの僕、そして二人きりの酒場。机の下で足が触れあう。
「SNSで見たときから気づいてたよ。眉の横のほくろが同じ」
「ちが、そんなん、たまたまでしょ」
「その、汚いもの見るような目がさ――」
行平はふうと煙草の煙を吐いた。僕は噎せて咳き込み、体をまるめた。
「俺の担任してる七松旭と同じなんだよな」
「しらない、そんなの、しらない」
「ちょっとかすれてる声も七松旭と同じ」
僕はちがうちがうとかぶりを振り続けるけれど、行平はとどめとばかりにこう口にした。紫煙とともに。
「七松さあ。俺のことめちゃくちゃ馬鹿にしてるだろ? あれ、なんで?」
「えっ、あ、その」
一瞬「あさひな」から七松旭に戻ってしまった僕を引きずり出すみたいに、行平は口の端を曲げてみせる。
「俺、人当たりのいい先生を目指してるんだけどな。お前だけだよ、親の敵みたいに見下してくるの。ねえ、なんで?怒んないから教えてよ」
「あ……」
その瞬間、あさひなが消失し、七松旭が着火した。
「う、――るせえよ、筋肉馬鹿。いつもいつも根性論精神論押しつけやがって!」
行平が眉を上げる。煙草を灰皿に押しつけてもみ消す。
「そ、んなん、時代遅れだ。従いたくないし、暑苦しいし、無理。見てるだけで無理。存在が無理。ていうか、今日だってあさひなとワンチャンセッ、セックスするつもりできたんだろ、お前、マジ、キモいよ」
「……そうか、そういう見方もあるかーなるほどな参考になったわ」
勢いよく罵声を吐き出したというのに、行平は取り立てて怒ったふうにも見えなかった。
「俺の理想とする体育教師像ってのはアレなんだよ。俺はそれを仮面みたいに被ってるわけ。ペルソナって知ってる?」
僕は素直に首を横に振った。
「見せたい自分を表に出すんだよ。俺にとって見せたい俺は、お前の言う筋肉馬鹿な体育教師。今の俺じゃない」
「なんで……」
「弱いから」
行平ははっきりした眉をハの字にして笑った。
「打たれ弱いし、ワンチャンあると思った相手に罵倒されるし、もう泣いちゃいそう、おじさん」
それを聞いて、僕はカッとなって立ち上がった。
「僕、十七なんだけど⁉ それ分かっててきてんのに、わんちゃん、あるわけねえじゃん! ばかじゃねえの」
「え? なんか問題ある?」
それは、初めての酒でぐらぐらする頭を持て余している僕を、ぽかんとさせるのには充分だった。
「は? 教師と生徒だが?」
「うん、なんか問題ある?」
「終わってんじゃん、倫理観。警察呼ぼうか?」
「その場合七松は補導されるわけだけど――だから、ペルソナ被ってるんだよね、わかる? 七松」
行平は口元に手をやって、にやりと笑う唇を隠した。
「だから隠してる。見せたい自分だけ見せてる。だって、七松だっていやだろ? こんな男」
「嫌だ、キモい、しね」
「しねはひでえな。自分だって人におおっぴらに言えないから女子大生なんて嘘ついてんだろ。酒まで飲んで誤魔化そうとして」
「お前ほどキモくねえよ!」
「飲酒が学校にバレたらおおごとだぜ? バレても良いのか? 夜のお楽しみ」
筋肉馬鹿の面影がない、賢そうな男が一人居て、酔ってどうしようもない僕を理詰めする。僕は反抗することしかできない。
「うるせえ。お前が呑ませたんだって言う」
「七松。賢くなれよ。……黙っててやるって言ってるんだぞ、俺」
「うるせえ、筋肉馬鹿。お前なんか嫌いだ」
そのとき、うだうだと暴言を並べていた僕を射貫くように、行平が目を光らせた。
「七松」
僕は竦む。
「今晩のことは黙っててやる。だから、お前も全部黙ってろ。一言でも漏らしたら、お前のアカウントとフルネームをセットにして女装の自撮りを学校の掲示板に貼る」
「脅迫じゃねえか」
「そうでもないと言いふらすだろ、お前。行平がゲイだの、なんだのかんだの」
「……言わないよ」
そんなこと、言わない。流石に僕にも分別がある。
でも、行平のあれが全部見せたい自分を見せた結果のペルソナだってことは……漏らしてしまうかもしれない。
「何も言うなよ。居たい自分で居させてくれよ」
行平は笑いながら眉を下げた。僕はしゃっくりをひとつし、黙っててもらえるならまあ、いいか、と思った。
記憶はそこで途切れている。
起きたら行平の家だったり、朝帰りして親に怒られたり、まあいろいろあったんだけど、僕の日常は戻るところへ戻ってきた。つまり、つまらなくて鬱屈とするような、平凡で普通の日々に。
「よおし、今日も授業を始めるぞ! 体育委員、よろしく!」
今日もうるせー。
僕はとうとう長ジャージを脱いでシャツとハーフパンツになった。見学席からではない景色はどこか新鮮で、から回ってる筋肉馬鹿も、それに従うクラスメイトたちも、全然違う景色を僕に見せてくれた。
「七松! 今日は参加してくれるんだな! 先生は嬉しい!」
「うっせー!」
行平の瞳は何も考えていないように見える。それが正しいことなのかは分からない。でも、僕がたまに、時折どうしようもなく「演じたい」と思わされることと、行平の「ペルソナ」は似た場所にあるのかもしれない。
それが幸福なことかどうかは分からない。わからないけれど。
僕はみんなに一拍遅れて、準備運動をこなしていく。口の中だけで「ペルソナ」とつぶやいて。
行平はいかにも「理知的な男」といった風貌だった。学校でタンクトップの上にジャージを着ているような暑苦しい男には到底見えないのが驚きだった。その「理知的な」部分が、僕のよく知ってる「筋肉馬鹿」と齟齬を起こして僕の頭をバグらせた。双子の兄弟かなんかだろうか? いやでも、行平は自分のことを一人っ子と称していたからそれはない。嘘をつくような器用さはアイツにはない。
「い、いえ、ごほ」
「風邪?」
「そうです、ちょっと風邪を引いてしまって」
男にしては高めの声だけど、流石に無理があったかもしれない。僕は気を取り直して、「あさひな」を続行する。
「からし寿司さん、お会いできて嬉しいです」
「俺も会えてうれしい」
俺も会えてうれしい?
ぞっとする。からし寿司さんがそう言うならともかく、七松旭の担任の行平拓郎が言うと、ただただ気持ち悪い。多分、からし寿司さんが行平じゃなかったら見えなかった、下心というか、スケベ心というか、そういう視線が、僕のセンサーに鋭敏に引っかかってくる。
こいつ。結局そのつもりであさひなに近づいたのか。
「いつも見てるけど、やっぱ実物の方が可愛いじゃん」
「ごほ、ありがとうございます……」
行平拓郎が何歳だったかは忘れたけれど、三十は超えて居なかったか。二十代後半だったか。そんな行平拓郎が、二十歳のあさひなと「ワンチャン」あると思ってこの場にいることに、僕はこらえがたい嫌悪感を抱いていた。僕十七なんですけど。
「予約した店、行こうか」
さりげなく肩を抱かれそうになって、ぞっとして、振り払った。
「大丈夫ですから」
「ああ、ごめんね、近すぎたら言って」
とか言って、ワンチャンあるならベッドインなんだろ?
気づかねえのかよ。僕男だぞ。お前の教え子だぞ。担任のくせに、化粧に騙されんのかよ。
連れて行かれたのは雰囲気のいいバルだ。個室に通されて、メニューを渡される。知らないカクテルの名前ばかり並んでいて、困惑したけれど、ここで困惑を見せたらあさひなの演技がバレてしまう。
子役根性で、行平へのキモさみたいなものを封印した僕は、首をことりとかしげた。
「うーん、どうしようかな……」
「何飲む?」
ここで酒を呑んだ方がバレないだろうか。僕は注意深くメニューを見たけれど、どれがいいかまでは分からなかった。
「……呑みやすいおすすめってありますか?」
「カルアミルクとか、甘くておいしいよ」
これくらいなら、許容範囲だろう。僕は不本意ながらも呑みやすいという「カルアミルク」を頼む。
「あさひなちゃん、意外と背が高くてびっくりしたよ」
行平がウィスキーの水割りとかいうやつを口に含みながら煙草を取り出した。
「あ、煙草吸っても大丈夫?」
「へいきです……」
カルアミルクは確かに甘くておいしかったけれど、視界がふにゃんとほどけてしまって元に戻らない。
「あさひなちゃん、お酒弱いんだ、かわいいね」
「かわいいって、あんま、いわないでください……」
お酒なんか飲むべきじゃなかったかな。二十歳設定とはいえ、お酒が苦手で通すべきだったか。
「でも、かわいいって言われるの好きでしょ?」
行平が僕の顔をのぞき込んでくる。
「すき、だけど……」
「女装するくらいだもんね、分かるよ」
僕ははっとした。やっぱり声からバレたんだろうか?
「ちがいます、これ、地声で、その……」
「――嘘はいけないな、七松」
僕は今度こそ凍り付いた。目の前にはクレバーな行平、ふらふらの僕、そして二人きりの酒場。机の下で足が触れあう。
「SNSで見たときから気づいてたよ。眉の横のほくろが同じ」
「ちが、そんなん、たまたまでしょ」
「その、汚いもの見るような目がさ――」
行平はふうと煙草の煙を吐いた。僕は噎せて咳き込み、体をまるめた。
「俺の担任してる七松旭と同じなんだよな」
「しらない、そんなの、しらない」
「ちょっとかすれてる声も七松旭と同じ」
僕はちがうちがうとかぶりを振り続けるけれど、行平はとどめとばかりにこう口にした。紫煙とともに。
「七松さあ。俺のことめちゃくちゃ馬鹿にしてるだろ? あれ、なんで?」
「えっ、あ、その」
一瞬「あさひな」から七松旭に戻ってしまった僕を引きずり出すみたいに、行平は口の端を曲げてみせる。
「俺、人当たりのいい先生を目指してるんだけどな。お前だけだよ、親の敵みたいに見下してくるの。ねえ、なんで?怒んないから教えてよ」
「あ……」
その瞬間、あさひなが消失し、七松旭が着火した。
「う、――るせえよ、筋肉馬鹿。いつもいつも根性論精神論押しつけやがって!」
行平が眉を上げる。煙草を灰皿に押しつけてもみ消す。
「そ、んなん、時代遅れだ。従いたくないし、暑苦しいし、無理。見てるだけで無理。存在が無理。ていうか、今日だってあさひなとワンチャンセッ、セックスするつもりできたんだろ、お前、マジ、キモいよ」
「……そうか、そういう見方もあるかーなるほどな参考になったわ」
勢いよく罵声を吐き出したというのに、行平は取り立てて怒ったふうにも見えなかった。
「俺の理想とする体育教師像ってのはアレなんだよ。俺はそれを仮面みたいに被ってるわけ。ペルソナって知ってる?」
僕は素直に首を横に振った。
「見せたい自分を表に出すんだよ。俺にとって見せたい俺は、お前の言う筋肉馬鹿な体育教師。今の俺じゃない」
「なんで……」
「弱いから」
行平ははっきりした眉をハの字にして笑った。
「打たれ弱いし、ワンチャンあると思った相手に罵倒されるし、もう泣いちゃいそう、おじさん」
それを聞いて、僕はカッとなって立ち上がった。
「僕、十七なんだけど⁉ それ分かっててきてんのに、わんちゃん、あるわけねえじゃん! ばかじゃねえの」
「え? なんか問題ある?」
それは、初めての酒でぐらぐらする頭を持て余している僕を、ぽかんとさせるのには充分だった。
「は? 教師と生徒だが?」
「うん、なんか問題ある?」
「終わってんじゃん、倫理観。警察呼ぼうか?」
「その場合七松は補導されるわけだけど――だから、ペルソナ被ってるんだよね、わかる? 七松」
行平は口元に手をやって、にやりと笑う唇を隠した。
「だから隠してる。見せたい自分だけ見せてる。だって、七松だっていやだろ? こんな男」
「嫌だ、キモい、しね」
「しねはひでえな。自分だって人におおっぴらに言えないから女子大生なんて嘘ついてんだろ。酒まで飲んで誤魔化そうとして」
「お前ほどキモくねえよ!」
「飲酒が学校にバレたらおおごとだぜ? バレても良いのか? 夜のお楽しみ」
筋肉馬鹿の面影がない、賢そうな男が一人居て、酔ってどうしようもない僕を理詰めする。僕は反抗することしかできない。
「うるせえ。お前が呑ませたんだって言う」
「七松。賢くなれよ。……黙っててやるって言ってるんだぞ、俺」
「うるせえ、筋肉馬鹿。お前なんか嫌いだ」
そのとき、うだうだと暴言を並べていた僕を射貫くように、行平が目を光らせた。
「七松」
僕は竦む。
「今晩のことは黙っててやる。だから、お前も全部黙ってろ。一言でも漏らしたら、お前のアカウントとフルネームをセットにして女装の自撮りを学校の掲示板に貼る」
「脅迫じゃねえか」
「そうでもないと言いふらすだろ、お前。行平がゲイだの、なんだのかんだの」
「……言わないよ」
そんなこと、言わない。流石に僕にも分別がある。
でも、行平のあれが全部見せたい自分を見せた結果のペルソナだってことは……漏らしてしまうかもしれない。
「何も言うなよ。居たい自分で居させてくれよ」
行平は笑いながら眉を下げた。僕はしゃっくりをひとつし、黙っててもらえるならまあ、いいか、と思った。
記憶はそこで途切れている。
起きたら行平の家だったり、朝帰りして親に怒られたり、まあいろいろあったんだけど、僕の日常は戻るところへ戻ってきた。つまり、つまらなくて鬱屈とするような、平凡で普通の日々に。
「よおし、今日も授業を始めるぞ! 体育委員、よろしく!」
今日もうるせー。
僕はとうとう長ジャージを脱いでシャツとハーフパンツになった。見学席からではない景色はどこか新鮮で、から回ってる筋肉馬鹿も、それに従うクラスメイトたちも、全然違う景色を僕に見せてくれた。
「七松! 今日は参加してくれるんだな! 先生は嬉しい!」
「うっせー!」
行平の瞳は何も考えていないように見える。それが正しいことなのかは分からない。でも、僕がたまに、時折どうしようもなく「演じたい」と思わされることと、行平の「ペルソナ」は似た場所にあるのかもしれない。
それが幸福なことかどうかは分からない。わからないけれど。
僕はみんなに一拍遅れて、準備運動をこなしていく。口の中だけで「ペルソナ」とつぶやいて。