姉のウォークインクロゼットから服を持ち出すのは簡単だ。持ち物を管理できていないし、管理しようともしない女だから、多少服が消えたところで気づきやしない。
 僕はそうして、盗んできた姉の服を工夫して着込んでいく。喉仏を隠せて、肩幅の目立たない、ふんわりしたスリーブのブラウスを選び、下はフレアスカートとニーハイソックスを合わせた。ニーハイは流石に自前だ。
 それから化粧だけど――化粧は独学で覚えた。色むらをなくして、光と影のメリハリをつけて――SNSには沢山の情報が並んでいる。全く化粧に無知だった僕がここまで一人でできるようになるほどの。
 三十分もすれば、別人のようになった僕が鏡の前にいる。



 僕は「あさひな」という名前でSNSアカウントを持っている。「あさひな」は二十歳の女性で、顔の下半分を隠した自撮りをよく晒す。大学に通っていて、好きな食べ物は赤身のお寿司。好きな色は淡い紫色。
 全部嘘だけど。
 でもこの、「あさひな」という役を演じているときだけ、僕は僕のなかの空白を満たすことができるような気がする。
 いつも通り全身を姿見に映して、家具や私物が映り込まないように計算した画角で、一枚、二枚、三枚と自撮りを重ねていく。撮影した画像は加工をかけて、一番よかったものを「あさひな」のアカウントにアップロードする。結構ファンもいたりして、みんな「かわいい」って褒めてくれる。そりゃそうだ。一時期子役としてやっていた僕の目元は、化粧さえ施せば子鹿のような女の子に見える。

「今日の服可愛いね。よく似合ってる」

 よくコメントをくれる「からし寿司」さんからレスがついた。僕は即座に「いいね!」を押して、答える。
「ありがとからし寿司さん。今日はアイメイクに合わせてみました♡♡」
 ハートマークを語尾に散らしたりするのも、いつもなら「きも」って思うんだけど、今だけは特別。僕は「あさひな」。二十歳の女子大生。一人暮らしで、手料理がちょっと苦手で、オシャレが大好きな女の子だ。


 ダイレクトメールに届いた、からし寿司さんの「あさひな」宛てのメッセージには、知らない男の熱が籠もっている。
「あさひなちゃんまじでタイプ。いつか会いたいな」

 いくら「あさひな」激推しのからし寿司さんといえど、「会いたい」って言われるとちょっとぎょっとする。
嬉しいけど、実際会うのはどうなんだろう。僕は自分が女装男子だとバレることより、「あさひな」を生で演じる事のほうに興味があった。演じる事に僕は飢えていた。乾いた砂漠で一滴の水を求めるみたいに。
 観客がほしい。
 視線がほしい。
 体に視線を浴びたい。

「こんど会えない? 都内住みでしょ?」
 からし寿司さんはたたみかけてくる。僕の心は揺れる。

「そうなんですけど、ふたりで会うのは……」
 実際ふたりで会うのは不安が伴った。相手がどんな奴か分からない以上、危険もあると思う。からし寿司さんもそれは分かってるんだろう。女の子が、知らない男とふたりで会うことのリスクとか、分からないわけないよね。

「やっぱり不安かな? だいじょぶだよ、俺ただのファンだし。もし不安なら、男友達とか連れてきていいよ」
 僕は悩みに悩んで、そこまで言ってくれるからし寿司さんの言葉に甘えることにした。

「わかりました。……一人で行くので、実物見て、幻滅したりしないでくださいね」

「やった! じゃあ日にちは――」

 僕は「あさひな」に浸ったまま、とんとんと進んでいくオフ会の予定に胸を膨らませる。

 何を着ていこう。どんなメイクにしよう。
 からし寿司さんは、どんなひとだろう――。





 待ち合わせの場所に着いたのは十分前だった。僕は姉から盗んだ、いや拝借してきたあらゆる小物をひっさげて、待ち合わせスポットの周囲を注意深く見渡した。マスクを付けているし、喉元も隠しているし、何よりロングのウィッグを被っているし――誰も僕を男子高校生だと見抜く人はいなかった。

 案外、行けちゃうんじゃない?

 なんて僕が浮き足立っているときに、僕の背後から声がかかった。

「ひょっとして『あさひな』ちゃん?」
「あ、『からし寿司』さ――」

 僕の言葉は途中で途切れてしまう。目の前に居る男はどう見ても僕が嫌いな「筋肉馬鹿」の行平だった。