子どもが泣いていた。
人通りの多い道の端にうずくまって。
華奢な両腕で抱いた膝に、顔を埋めて洟をすすっている。
年齢は十歳くらいだろうか。
痩せた体に青い甚平を纏っている。
淡いオレンジ色の髪はふわふわで、頭の上には三角形の耳が二つ、ぴょこんと立っている。
目の前を行き交う大人たちは、誰も足を止めようとしない。
ひしめき合うように人が往来するそこは、四条通。
ここ京都を代表する繁華街だ。
泣いている子どもは、おそらく人の子ではない。
これだけ人の多い街中で、誰からも声をかけられないことがその証拠だ。
この子の姿はきっと、誰の目にも見えていない。
たった一人、私だけを除いて。
(どうしようかなぁ……)
スクールバッグに付けている猫のキーホルダーをいじりながら、私は迷っていた。
高校からの帰り道。
晩ごはんの食材を買うため、駅近くのスーパーへ寄ろうとしていたところだった。
まだ日の明るいうちから、こういう存在に出くわすのは珍しい。
いつもなら夕方の日没あたりから夜にかけて、たまーに見かける程度なのに。
(さすがに、このまま放っておくのは可哀想……だけど)
こんなに小さな子どもが一人で泣いているとなると、さすがに無視はできない。
けれど今までの経験則からすると、こういうモノにはあまり不用意に近づいてはいけない、という教訓もある。
過去には良かれと思って近づいて、祟られそうになったことも何度かあった。
いま目の前で泣いているこの子どもだって、私を罠に嵌めるために演技をしている可能性もある。
そう考えると、ここはやはり見て見ぬフリをした方が良さそうだ。
文字通り、触らぬ神に祟りなしである。
わかっている。
わかってはいるのだけれど。
「ねえ、キミ。どうして泣いてるの?」
気づけば私は、そう声をかけていた。
どうしても無視することができなかった。
だって、子どもが泣いているのだ。
こんな状態の子を、一人にしておけるわけがない。
「……あれ。おねえちゃん、ボクのことが見えるの?」
それまで膝に顔を突っ伏していたその子は、恐る恐るといった様子で、不思議そうにこちらを見上げた。
透き通るような飴色の瞳が、私をまっすぐに見つめてくる。
可愛らしい顔をしているけれど、どうやら男の子のようだ。
声変わりを迎えていないボーイソプラノが耳に心地良い。
ふわふわの髪の毛の上にある耳の形からすると、猫……だろうか?
こういう存在は時々、人と動物とが融合したような姿形をしていることがある。
「うん。見えてるよ。だから、どうして泣いてるんだろうと思って」
「そっか……。人間でも、ボクたちのことが見える人もいるんだ。それじゃあ、ちょっと恥ずかしいところを見せちゃったね」
男の子はそう言うと、照れ隠しのように目元の涙を拭う。
それからすぐに立ち上がって、改めてこちらを見上げた。
「ボク、『ねこがみさま』を捜してるんだ。この辺りにいるって聞いたんだけど、迷っちゃって」
「ねこがみさま?」
「うん。猫の神様。この大通りの近くに住んでるんだって。おねえちゃんは知らない?」
猫神様、と呼ばれる人物のことはもちろん知らない。
おそらく人ではないだろうし、そういう存在がこの辺りに家を構えているなんて聞いたこともない。
いや、神様というからには、もしかしたら神社にいるのだろうか。
だとすれば、この辺りには確かに神社がいくつもある。
古都と呼ばれるこの京都には、歴史ある神社仏閣が集まっているのだ。
「うーんとね。猫神様のことはわからないけど、神様がいそうなところは心当たりがあるよ。よかったら案内しようか?」
私が提案すると、男の子はぱあっと顔を輝かせる。
甚平の裾から覗いているふわふわの尻尾も、嬉しそうにピンと立つ。
「うん! お願い、おねえちゃん!」
言うなり、彼はスクールバッグの反対側、私の左腕にギュッとしがみつく。
ああ、なんだか弟ができたみたいでかわいい。
やっぱり勇気を出して声をかけてよかったな、と思う。
とにもかくにも、私はその猫神様とやらを捜して、春の京都を進んでいくのだった。
◯
「ねえねえ。おねえちゃんはお名前なんていうの?」
四条通を東へ歩きながら、私の左腕にくっついた彼は無邪気にそう尋ねてくる。
「私はね、天沢桜っていうの。キミは?」
「へえー。おねえちゃん、サクラっていうんだ。お花の桜かな? ボクはね、蜜柑っていうんだ」
「蜜柑くん? かわいい名前だね」
彼のふわふわのオレンジ色の耳を見ていると、確かに蜜柑って感じがする。
なるほど、猫に蜜柑。
あとはコタツがあれが完璧だな——なんてくだらないことを考えていると、不意に人の視線を感じた。
私が改めて周りに目をやると、道を行き交う人の何人かが、こちらをチラチラと見ていた。
不思議そうにしていたり、どこか気味の悪そうな顔をしていたり。
(ああ、そうだった)
こういう視線は、あんまり好きじゃない。
でも仕方ないよね、とも思う。
周りの人たちはみんな、私の隣にいる蜜柑くんのことが見えていないのだ。
彼らからすれば、私は一人でおしゃべりしているように見えているはず。
昔はこういう場面を学校の友達に見られて困ったことになったりもしたんだけど、今日は久々だったから油断してた。
でもまあ、気にしない。
この街にはまだ友達と呼べる友達もいないし、それに何より、今は蜜柑くんのためにも猫神様を見つけることが先決だ。
そうこうしているうちに、私たちの足は道の突き当たりまで辿り着いた。
目の前にそびえる立派な朱色の門を見上げて、私は言う。
「さあ、着いたよ。神様がいそうな場所」
四条通の東の果て。
石段を登った先にあるのは、『祇園さん』の呼び名で親しまれている八坂神社だ。
平日の昼間にもかかわらず、多くの人が出入りしているそこには、本殿の他にもたくさんの摂社と末社とがあり、それぞれの場所で別の神様が祀られている。
それだけ多くの神様が集まる場所なら、蜜柑くんの捜している猫神様も見つかるかもしれない——と、そう思ったのだけれど。
「ここって、神社……だよね? 猫神様は、多分ここにはいないよ」
そんな彼の反応に、私は面食らった。
「えっ。そうなの? 神様って、神社にいるものじゃないの?」
「んっとね。猫神様は神様だけど、神社にいるわけじゃないんだ。もっとこう……お店みたいな場所にいるって聞いたよ。お料理屋さんがいっぱい並んでるところとか」
お店みたいな場所。
ということは、どこかの飲食店の神棚にでも祀られているのだろうか。
「そ、そっか。じゃあ、もっと別の場所を探さないとだね」
蜜柑くんからの情報を元に、私たちは四条通を再び練り歩く。
お料理屋さんがいっぱい並んでいるところ——もしかしたら四条河原町の辺りかな? と思って、私はそこへ向かった。
東西にまっすぐ伸びる四条通と、そこへ垂直に交わる河原町通。
その交差点を中心として、辺りには多くの店が軒を連ねて賑わっている。
「うーん……。お料理屋さんはいっぱいあるけど、ちょっと雰囲気がちがうかも」
蜜柑くんは残念そうに言って、ふわふわの耳をしょんぼりとさせる。
「猫神様がいるのは、もっと静かで、古いお座敷があるところなんだ」
古いお座敷。
もしかしたら、どこかの老舗だろうか。
この四条通付近で、そういう雰囲気のお店がたくさんあるところ、となると、
「もしかして、先斗町のことかな……?」
私が言うと、蜜柑くんは両耳をぴょこりと立てて食い付いてくる。
「あ。そんな名前だったかも!」
どうやら当たりらしい。
先斗町というのは、この四条通の途中、鴨川の手前を曲がったところにある細長い通りのことだ。
風情のある日本家屋が並ぶ花街で、たまに舞妓さんが歩いていることもある。
「よし。それじゃあ、そこに一緒に行ってみよっか」
「うん!」
蜜柑くんは嬉しそうに私の左手をギュッと握ってくる。
そこから目的の場所までは、歩いて十分とかからなかった。
「わっ、すごい。この道だけ、なんだか他と雰囲気がちがうね」
先斗町は、車が通れないほどの狭い小路だ。
その細長い道の両脇に、日本情緒あふれる町家が立ち並ぶ様を見て、蜜柑くんは感嘆の声を上げた。
「うん、やっぱりこの辺りかも。猫神様がいるところ」
どうやらこの通りのどこかにいるらしい。
もう少しで、猫神様に会える。
けれど、店がたくさんありすぎて一体どこへ入ればいいのかわからない。
気軽に中へ入って確認できればいいのだけれど、なんだか敷居の高そうなお店や、一見さんお断りのところもあって、ちょっと入りづらい雰囲気がある。
さてどうしようか、と私が頭を悩ませていると、
「あっ!」
と、急に蜜柑くんが大きな声を上げた。
一体どうしたのかと見てみると、彼の瞳が見つめる先に、一匹の白猫がいた。
小路の奥、道の真ん中で、ちょこんと座ってこちらを見つめ返す白猫。
その可愛らしい姿をまっすぐに見ながら、蜜柑くんは言った。
「猫神様だ!」
「えっ……?」
猫神様、と彼は言う。
けれど、道の先にいるのはどう見てもただの猫だ。
真っ白な毛並みはツヤがあって、ところどころに赤い線のような模様が入っている。
鼻と耳がピンク色をしていてとても可愛い……じゃなくて。
あの白猫が、本当に例の『猫神様』なのだろうか。
「あ……蜜柑くん、待って!」
こちらがぼーっとしている間に、蜜柑くんの背中はどんどん遠くなって、私は慌てて追いかける。
白猫はそんな私たちをどこかへ誘うように、身軽な体を翻らせて小路の奥へと駆けていく。
道の両脇に並ぶ店の提灯が、次々と赤い光を灯していく。
どうやら日没を迎えたようで、空はいつのまにか夜の色を連れてきていた。
白猫はやがて、道の途中で右へ曲がった。
同じようにして私たちもそこを曲がろうとすると、
「わっ……」
思わず、そんな声が出た。
曲がり角の向こうに続く路地は、さらに細くて暗かった。
人がひとりギリギリ通れるくらいの狭い道が、長ーくまっすぐ続いて、その突き当たりの左側からほんのりと灯りが漏れている。
なんだか、この先に秘密の隠れ家でもあるような雰囲気だった。
決して覗いてはいけない世界が、そこに広がっているかのように。
「きっとあそこだね、猫神様のところ!」
蜜柑くんは変わらず明るい声で言って、そのまま道の先へと走り出す。
そして私はといえば、その場の雰囲気につい怖気づいて尻込みしていた。
この先で、猫神様が待っている。
蜜柑くんと違って人間である私は、このまま足を踏み入れてもいいのだろうか——と、今さらになって不安を覚える。
「桜おねえちゃん、何してるの。早くおいでよ!」
蜜柑くんが早く早くと嬉しそうに手招きする。
そんな彼を見て、私はようやく前へ進む決心をする。
そうだ。
私は道案内を引き受けたのだから、最後まで見届けなきゃ。
意を決して足を踏み出し、真っ暗で狭い路地を進んでいく。
やがて突き当たりの手前までやってきて、左側をそっと覗いてみると——、そこには何かのお店と思しき入口があった。
閉じられた木製の格子戸から、淡い光が漏れている。
足元には行燈もあって、一見すると他のお店と変わらない佇まいだ。
けれど看板のようなものは何もないし、暖簾も表札も出ていない。
本当にここがそうなの? と訝る私の目の前で、蜜柑くんは無遠慮に扉を横へスライドさせた。
「おじゃましま——す!」
「あっ……ちょ、ちょっと蜜柑くん!」
いきなり入ったら怒られるんじゃ、と焦る私の耳へ、今度は別の声が届く。
「いらっしゃい。ようここまで辿り着きましたね」
男の人の声だった。
京都っぽい訛りのある、穏やかで、どこか甘い響きのある透き通った声。
見ると、扉の奥にはまるで旅館のような広い土間があり、上り框の向こうには客を迎えるためのスリッパが揃えてある。
そして、さらにその奥。
淡い暖色の絨毯が敷かれた正面には、一人の青年が立っていた。
その姿は、一目でこの世のものではないとわかる美しさだった。
雪のように真っ白な、腰まで伸びる長い髪。
それを赤い組紐で高く結び、身に纏うのは白を基調とした羽織袴。
肌も抜けるように白く、やや切れ長の瞳は黄金色。
見た目の年齢は二十代の前半から半ばくらい。
鼻筋の通った端正な顔に、ふわふわの三角形の耳がぴょこんと頭から生えている。
「猫神様!」
蜜柑くんは嬉しそうに言って、すぐさま彼のもとへと駆けていく。
あれ?
さっきはあの白猫のことを猫神様って言ってたけど、こっちが本物?
確かに見た目の神々しさでいえば、こちらが正解のような気はするけれど。
「よしよし、蜜柑さん。あなたはまだ半人前なんですから、こっちの世界に来たらあかん言うたはずでしょう」
猫神様は、自分の腰にしがみついてきた蜜柑くんの頭を優しく撫でる。
「ごめんなさい。でもボク、どうしても会いたい人がいて……」
どうやら二人は顔見知りらしい。
彼らの会話についていけない私は、どういう顔をしていればいいのかわからず、所在なく視線を泳がせる。
と、そんな私の様子に気づいたのか、猫神様は今度は私の方を見てにこりと笑いかける。
「そちらのお嬢さんも、遠慮せんと中に入ってくださいね」
「えっ。あ、はい。ありがとうございます……」
思いのほか優しげに声をかけられて、私はオロオロとしながら土間に足を踏み入れた。
「さて。蜜柑さんがわざわざこっちの世界に来たいうことは、込み入った事情があるわけですね。お腹も空いてるでしょうし、三人でご飯でも食べながらお話ししましょか」
「え。ご飯……?」
猫神様からのまさかの提案に、私のお腹は卑しくも「ぐぅ」と鳴る。
「わーい、ごはんー! ボク、猫神様の作ったごはん大好き!」
蜜柑くんは飛び上がって喜び、それを見た猫神様は穏やかに微笑んで、私たちを奥の座敷へと案内する。
そうして足を進ませる度、何やら美味しそうな香りが漂ってくる。
「お腹が空いてると、気持ちも沈みますからね。ようさん食べて、ゆっくりしてってくださいね」
◯
炊き立ての筍ごはんに、かぶの千枚漬けと赤だし。
つやつやのだし巻き卵と、メインは桜鯛の煮付け。
座敷に通された私たちのもとへ猫神様が用意してくれたのは、旬の食材を使った手料理だった。
「わぁ……。ほ、ほんかくてき」
まさかここまでしっかりとしたご飯をいただけるとは思っていなかったので、私は驚きと感動とで目を回してしまう。
やけに美味しそうなにおいがするな、とは思っていたけれど、こうして実物を目の前にすると、手慣れた感じのする盛り付けまでもが美しい。
隣に座る蜜柑くんはすでに食べ始めており、お箸をぎこちなく使いながら「うん、おいしい!」としきりに唸っている。
「あ、あの。私までご馳走になっちゃっていいんですか? それにお代は……」
「お代なんていりません。あなたは蜜柑さんのことをここまで案内してくらはった恩人ですから」
「いえ、そんな。私、行き先に迷ってばかりで全然役に立たなくて……」
道案内を申し出たわりに、ここへ来るまでにあちこち彷徨ってしまった。
ほとんど蜜柑くんと一緒に迷っていただけなので、とても仕事をしたとは言えないのだけれど、
「そんなことないよ! 桜おねえちゃんが一緒じゃなかったらボク、ここまでたどり着けなかったもん」
蜜柑くんはそう、口元にご飯粒を付けたまま私をフォローしてくれる。
「み、蜜柑くん……」
彼の優しすぎる言葉にじーんとして、私は思わず泣きそうになる。
「そういうことですから、ほんまに遠慮せんと。それに、私も自分の作った料理でお腹いっぱいになってもらえるのは嬉しいんで」
優しい二人に促されて、私はようやくお箸を手に取る。
そうして最初に口へ運んだのは、メインの桜鯛の煮付けだった。
甘めの煮汁が染み込んだ身が、口の中で解けていく。
「お、おいしい……」
あったかくて、顔全体がとろける。
「お口に合って何よりです」
ふふ、と微笑する猫神様の美しい姿に、視界まで幸せになる。
見た目も綺麗で、優しくて、色んな意味で神様って感じがする。
「それで、蜜柑さん。こっちの世界で会いたい人がいるって言うてましたよね?」
猫神様は私たちの向かいに腰掛けると、ようやく本題に入ったようだった。
(こっちの世界……?)
私が赤だしをすすりながらキョトンとしていると、それに気づいた猫神様が補足を入れてくれる。
「こっちの世界いうのは、あなたたち人間が住む『この世』のことで、『現世』といいます。そして私たちのような存在は、本来は『幽世』という別の世界に住んでるものなんです」
「うつしよと……かくりよ?」
急にファンタジーの世界に飛び込んでしまったような気がしたけれど、いま目の前にいる彼らがまさにそういう存在なのだから当たり前か、とも思う。
「私たちが今いるこの場所は、その狭間にある空間で、普通の人間には辿り着けません。あなたのように、私たちの存在が見える特別な人でないと」
言われて、ハッと思い出す。
なんとなく流されるまま私はここにいるけれど、普通の人はそもそも彼らの存在すら認知することができないのだ。
「たまにいらっしゃるんです。あなたのように、我々『あやかし』の姿が見える人間が」
「あやかし……」
彼らのような存在には今まで何度も遭遇してきたけれど、それが『あやかし』と呼ばれるものだというのは初めて知った。
普通の人には見えない、不思議な存在。
それが見える私は、幼い頃から嘘つき呼ばわりされて、周りとうまく付き合うことができなかった。
「普段は幽世に住んでいるあやかしですが、修行を積んで一人前になると、こちらの世界にやってくる者もいます。それ自体は問題ないんですが、稀にこの蜜柑さんのように、まだ半人前にも関わらずこちらの世界へ迷い込む者もいます」
半人前、と言われた蜜柑くんは気まずそうに苦笑して頭をかく。
どうやら彼は道に迷っていただけでなく、世界そのものに迷い込んでしまっていたようだ。
「蜜柑さんのような、こちらの世界で迷子になったあやかしを、あちらの世界へ送り帰す案内人——それが、私の役目なんです」
そう言うと、彼は蜜柑くんの方を見て「ね?」と優しく微笑む。
蜜柑くんは口いっぱいにだし巻き卵を頬張ったまま、「うん!」と頷く。
そうか。
だから蜜柑くんは猫神様を捜していたのだ。
けれど、まだ一つ疑問が残っている。
(蜜柑くんがこっちの世界で会いたい人って、どんな人なんだろう……?)
◯
食事を済ませてお腹がいっぱいになると、蜜柑くんはうつらうつらと船を漕ぎ始める。
「蜜柑さん、蜜柑さん。まだ眠ったらあきませんよ。こっちの世界でまだやりたいことがあるんでしょう?」
「ふぁ……あ、うん。そうなんだ。ボク、ずっと前にこの世界でお世話になった人に会いたくて……」
寝ぼけ眼をこすりながら、蜜柑くんはここへ来た目的を思い出す。
「ずっと前に、この世界で? あれ。蜜柑くんって、前にもここへ来たことがあるの?」
不思議に思って、私は聞き返す。
まだ半人前のあやかしである蜜柑くんは、本来ならまだこっちの世界に来てはいけないはずだ。
なのに以前にもここへ来たことがあるということは、もしかして彼は迷子の常習犯なのだろうか。
「んっとね。その人と会ったのは、ボクがまだあやかしになる前のことだよ」
「あやかしになる、前……?」
ますますわからなくて、私はオウム返しに聞く。
そこへ助け船を出してくれたのは猫神様だった。
「あやかしは、もともと現世で生きていた人間や動物の生まれ変わりも多いんです。蜜柑さんの場合は、昔こちらの世界で生きていた猫が、亡くなった後にこうしてあやかしになったんですよ。ですから今は、一人前の化け猫になれるよう修行中なんです」
ね、と彼が蜜柑くんに微笑むと、蜜柑くんはやはり「うん!」と元気よく返事をする。
生まれ変わりという神秘的な現象をさらりと説明されて、私は不思議な気持ちになった。
「生まれ変わり……。じゃあ蜜柑くんが会いたい人ってもしかして、前世の飼い主さんってこと?」
「かいぬし? 名前はよく覚えてないけど、こっちの世界でずっと一緒にいた人だよ。やさしい女の人だった」
彼の話からすると、やはり会いたい人というのは彼の飼い主だった可能性が高い。
「本来であれば、今すぐにでも蜜柑さんをあちらの世界へ帰さなあかんのですけれど……」
「えっ。やだよ、猫神様。ボク、どうしてもあの人に会いたいんだ。猫神様なら何とかしてくれると思ってここまで来たのに」
蜜柑くんは必死に訴える。
確かにこの優しい神様なら、困っている人を見ると放ってはおけない気がする。
「一目見るだけでいいんだ。あの人はきっと、ボクの姿も見えないだろうし……。あの人が元気でいるところさえ確認できたら、すぐに帰るからさ」
「そうですね。少しだけ寄り道するくらいなら、上の方々も許してくらはることでしょう。一緒に、その人のことを捜してみましょか」
「ほんと!? やったぁ! ありがとう猫神様!」
やっぱり、こうなった。
どうやら蜜柑くんの見立ては間違っていなかったらしい。
それにしても、『上の方々』とは。
神様より上の存在って、一体何者なんだろう?
「……しかし問題は、その人がどこに居たはるのか、ですよね。蜜柑さんがこの京都に迷い込んだいうことは、ここからそう遠い場所ではないと思いますけど」
そういうものなのか——と、私は今日何度目かになる感想を抱きつつ、熱いほうじ茶をすすって二人の会話の行方を見守る。
「蜜柑さん。その人の居場所について、何か手掛かりになりそうな記憶はありませんか? たとえばその人の家の近くに、何か目印になりそうなものがあったりとか」
「うーん、家の近く……。そういえば、あの人はよく、ボクと一緒に近所の神社に行ってたよ。そこでゆっくり散歩をして、ぼーっと木を眺めてることが多かった気がする」
家の近所に神社があった——貴重な情報ではあるけれど、残念ながらそれだけでは場所が絞り込めない。
なにしろここ京都には歴史ある神社仏閣がそこかしこに存在しているのだから。
猫神様も、これには困った顔をして頭を悩ませている。
心なしか、頭の上にある白い耳もしょんぼりしている気がする。
「もう少し、情報がほしいですね。その神社ならではの特徴とか、何か思い出せることはありませんか?」
「うーん、思い出せること……」
蜜柑くんはしばらく部屋の天井をぼんやりと眺めていたけれど、やがて何かに思い当たったのか、ほんのりと口元を綻ばせて言った。
「そういえば、桜がきれいだったよ」
「桜?」
急に私の名前が呼ばれたような気がして、一瞬どきりとする。
けれどもちろん、彼が口にしたのはお花の桜の方だった。
「桜の季節になるとね、その神社にはたくさんのお店が集まって、人もいっぱい来るんだ。みんなでおいしいものを食べながら、楽しそうに桜を見てたよ。ボクも、あの人も」
そう語る蜜柑くんの表情は、これ以上になく幸せそうだった。
きっと大切な思い出なのだろう。
「桜の時期にお店……ってことは、屋台のことかな? お祭りがあったってこと?」
私が聞くと、蜜柑くんは「そう、かも?」と曖昧に首を傾げる。
「この京都で桜祭りが行われる神社いうと、ある程度は絞られますね。平野さんに天神さん、やわたのはちまんさん、それから……」
猫神様がさん付けで並べたそれらの名前は、すべて京都にある神社のものだった。
京都の人は色んなものに『さん』を付けて呼ぶ文化がある。
いま名前が挙げられた神社は、平野神社、長岡天満宮、石清水八幡宮、平安神宮、梅宮大社、向日神社の六ヶ所だ。
さすがは案内人の神様。
現世での土地勘もしっかり持っているらしい。
「蜜柑くん。この六つの中に聞き覚えのある名前はない?」
「ごめん。ボク、あやかしになる前は人間の言葉はよくわからなかったから……」
「ああ、そっか」
確かにそうだな、と思う。
彼がまだ普通の猫だった頃は、こんな風に人と話すことはできなかったのだから。
とはいえ、たまに人の言葉を理解していそうな反応をする猫もいるけれど。
「その神社の桜はね、お昼に見るのも好きだったんだけど、夜に見るのも綺麗だったんだ。境内のあちこちに灯りがあってね、夜でもたくさんの人が見に来てた」
「夜桜のライトアップもあったいうことですね」
猫神様の言葉を聞いて、私はすぐさまスマホで夜桜の情報を検索する。
ちょうど今は桜の時期。
開花情報や祭りの日程など、桜に関する情報が日々更新されている。
「……石清水八幡宮と梅宮大社、それから向日神社では、夜桜のライトアップはないみたいです。他の三つの神社では開催されてますけど」
私がネットの検索結果を報告すると、猫神様は私と目を合わせて「ありがとうございます」と微笑んだ。
夜桜のライトアップがないということは、蜜柑くんの思い出の場所はそこではないということだ。
となると、残るは平野神社、長岡天満宮、平安神宮の三つ。
おそらくこの中のどれかが、彼の記憶にある場所なのだろう。
「蜜柑さん。その神社の桜は、どんな形をしてましたか? 色んな形をしてませんでしたか?」
(形……?)
猫神様が不思議な質問をしたので、私はその意図を測りかねていると、
「あっ。うん! そうそう! お花の形がね、みんなバラバラだった。花びらが少ないのもあれば、いっぱいなのもあって。どこを見ても、ちょっとずつ形が違うんだ」
蜜柑くんは興奮気味に、猫神様の質問に食いつく。
「なるほど。桜の種類が多いいうことは、その神社は平野さんかもしれませんね」
猫神様はそう納得した様子で、今度は私に声をかける。
「すみませんが、『平野神社』を検索してもらえますか。できたら境内の写真を蜜柑さんに見せてあげてほしいんですが」
私はもちろん快諾して、言われた通りに画像を検索する。
すると、画面には平野神社と思しき境内の写真がいくつも並んだ。
「蜜柑くん。あなたの思い出の場所って、ここのことかな?」
スマホの画面を蜜柑くんに見せると、彼はそれを目にした瞬間、ふわふわの耳をぴょこりと立てる。
「……うん。間違いないよ。ボクがあの人と一緒にいたのは、この神社だ!」