…ピピピッ。…ピピピッ。

けたたましくなる目覚まし時計の音に、今日も鉛のような重い体をベッドから起こす。

それは、朝早く、目が覚めた日のこと。

「…え…」

私の頬には、いつの間にか涙がつたっていた。

ベッドの隣にある小さな鏡と、「AMANE」と彫ってある綺麗な空色のネックレス。

ー忘れちゃダメだ。

―忘れたくないんだ。

心の中の誰かが、私の胸をギュッと押さえつける。

体が動かないほど、頭の回転が速く回って。

―「助けて」

一番最初に救いを求めるようにスマホを手に取って、メッセージ画面を開いたのは…。

『世界で一番、儚いキミだった―。』

「私…ダレだっけ」

朝早く目が覚めて、一番にそんな声が出た。

いつも通りの、ちょっとだけ高い私の声。

けれど、そんな私の声は、私の想像をはるかに超えた言葉を発する。

ハッとして、すぐに近くにあった薄緑色のスマホを手に取り、ロック画面を開く。

パッ、と現れたロック画面の表紙は、綺麗な空の景色で。

私は慣れた手つきで顔認証でロックを解除し、すぐにカレンダーのアプリを開く。

『6月2日』と表示された画面に、私は心底ホッとする。

少し動かすとコキッと背中から音が出た。

机に置かれて、開いたままのノートと教科書、それに私の手に握られたシャープペンシルに、昨日のことをぼんやりと思い出す。

「雨音(あまね)ー!ご飯できてるわよ!早く降りていらっしゃい」

そんな時、二階の寝室まで届く声量で、お母さんの声が聞こえてきた。

相変わらず、私に似た高い声。

「はーい、今行くね」

いつものようにそう返事をした私は、部屋着のショートパンツとTシャツを制服に着替えてから、部屋を出た。

「おはよう、雨音」

「おはよう、お母さん」

いつものようにそう挨拶をかわし、水色のコップが置かれている席に腰を下ろす。


隣には、新聞を持ったお父さんが、朝食の目玉焼きを頬張りながら、私をちらりと見て、「おはよう」とあいさつをしてくれた。

「おはよう、お父さん」

私もそうやって返事を返して、醤油の乗った目玉焼きを「いただきます」と声を掛けてからお箸でつかんで食べ始める。

「ねえ雨音。昨日徹夜していたでしょう?いくらテストが近いからって、寝不足は健康に悪いのよ?」

お母さんは私の向かい側にそう言って席に着く。

これもいつものことなので、私は別に気にしていないけれど、看護師の仕事をしているお母さんにとっては、寝不足は健康によくない

と、私に気を使ってくれている。

「優等生っていう感じを出さなくてもいいの。雨音は好きなように生きればいいんだからね」

優しく微笑みかけてくれるお母さんをちらりと見て、私はとっさに笑顔を作る。

「うん。もちろん。私は今も自由に生きてるよ。ありがとう、お母さん」

そう、私は誰もが認める、”優等生”。

テストはいつも平均より上だし、体を動かすことだって、キライでもスキなわけでもないから、ほどほどにできる。

得意なことというものは特にないけれど、なにをしても普通よりちょっと上くらいにはできる。

だからだろう、私に変なイメージがついたのは。

「…ごちそうさま」

お味噌汁を少しと目玉焼きを平らげた私を見て、お父さんが目を丸くした。

「それだけでいいのか。野菜や白ご飯も、ちゃんと食べなさい」

「ちょっと今日は急がなくちゃなの。ほら、私学級委員長だからさ、朝から会議があって」

会議があるのは本当だけれど、そんなに急がなくてもいつもの時間で間に合う時間。

だけど私は、これ以上説得するのもあまり気に乗らず、わざとそう言ってリビングを出た。

部屋に戻ると、異様な安心感に包まれる。

一人であることが好きな私は、ちょっとだけ、今のクラスになじめずにいる。

みんなは私に話しかけてくれるけれど、私から話しかけるというのは珍しい。

ひとりの時間が惜しくて、あまり人と話すことの大切さも、あまりわからないから。

時間割を確認して、鞄に教科書を詰めていく。

「…ふぅ」

ひと段落ついたとき、ふとベッドの隣にある小さな鏡に目を向けた。

―そこに映る私は、苦しそうな、醜い顔をしてた。

「…白神、雨音」

不意に自分の名前を口にしてみた。

時々、自分の名前すらも忘れそうになる。

私は誰なのか、誰として生きているのかって、頭の中をぐるぐるしていると、そんな現象があることもある。

でも、今は違う。ちゃんと覚えてる。私の、自分の名前を。

「…行ってきます!」

鞄をつかみ、下へ降りてお弁当をつかんでバッグに入れ、玄関へ向かう。

いつもの靴を履いて、玄関の扉を開ける。

「行ってらっしゃい」

後ろからお母さんの声がした。

「頑張るね」

その声に対して、私は笑顔を浮かべてそう言った。

「おーはよっ、雨音」

クラスに一歩でも入れば、そこにはもう「一人の空間」っていうものはなくて。

ギュッ、と抱きついてきたクラスメイトを見て、私は心とは真逆の笑顔を浮かべた。

「おはよう。今日も元気だね」

「まぁねー。それだけがあたしの取り柄だし」

ふふん、と笑みを浮かべたこの子は、高本野々花。

クラスでも陽キャ組にいて、皆を明るくさせられる女の子だ。

「あっ、ねぇ雨音!」

「えっ?」

不意に野々花が、クイッと目線をあげて私の後ろを指さした。

不思議に思って、彼女が指をさす方向に振り向く。

「あ?なんだよ。こっち向くんじゃねーよ」

「っ…」

―顔を見なくても分かる。子のとげとげしい言い方、私だけに向けられる、冷たい視線。

「まぁまぁ。そんなこと言わなくてもいいじゃん。さすがは鈴木悠真君、相変わらずのツンデレだね」

「は?何言ってんだよ。別にツンデレとかじゃねーし」

―『鈴木悠真』(すずきゆうま)。

彼の名前は、私の学校の人なら必ずしも全員が知っているだろう。

真っ黒のウルフカットの髪に、キリ目、その上高身長。

しかも勉強も運動も難なくこなす秀才。

去年なんて、絵画コンクールでいい賞をもらって、全校集会で賞状も受け取っていた。

それくらい、彼はこの学校で有名だし、人気がある。

けど私は、学校での人気とは裏腹に、心底彼のことを苦手意識を持っていた。

なんでもズバッと言い切る性格に、あまり相手のことを考えていない行動、言動。

無責任で、自分勝手。よく言えば、自由な人間。

だから私は、あまり彼の印象がいいとは言えなかった。

「あははっ。もー、いつも鈴木君は冗談ばっかり言うよね。さすがに朝からはやめてよー?」

でも私は、”優等生”だから。

皆に優しくて、平等に接する。

誰か一人を差別するわけでもなく、好きな人も特別な関係も作らない。

かといって、誰かを嫌いになるわけもない。

表面上だけの私は、今日も猫をかぶる。

醜くて汚い、私の心を隠すために。

「…あはっ、ほんと笑えるよねー。雨音、よくわかってんじゃん」

ニヤニヤと笑う野々花に、私も笑顔を返す。

でも、わかってる。

この人が「ツンデレ」というキャラでこんなことを言っているわけじゃないっていうのも、冗談じゃないっていうのも。

それはたぶん、野々花も同じだろう。

彼は一瞬顔を引きつらせてから、「チッ」と舌打ちをして、自分の席へ足を進めて言った。

もうこれ以上話していても、仕方ないとでも思ったのかもしれない。

「あはは、ほんとやになっちゃうよね」

彼が去った後、野々花が苦笑いを零して、「気にしないでいいんだからね」と私に耳打ちしてきた。

「そかな。私は大丈夫だよ」

私は心底、ちょっとだけ嫌な気持ちになる。

まるで彼の言葉で、私のプライドが傷ついたっていうイメージを持たれているみたいで。

だから私は、笑顔を作ってそう彼女に返した。

この薄黒い気持ちは、きれいさっぱり言葉と一緒に送り出すつもりで。

「じゃあここを…白神!」

「あ…はい」

時が過ぎるの早く、五限目。

数学の授業中、運悪く先生と目が合ってしまった。

先生の方は、なぜかとても嬉しそうなのだけれど。

「えっと…」

「ちなみに!ここは応用問題だから、ちょっと難しいぞ」

私が式を言う前に、先生が声を上げた。

応用問題…?

私はもう一度ノートの式を見直す。

うん、多分大丈夫なはず。

私はノートの答えをまるまる口に出して回答する。

数十秒後の間があり、先生ががっかりしたように肩を落として、「正解」とボソッと口にした。

なんだったんだろう、今の間は…。

そんなことを思いながら、私は席に着く。

左隣にある窓に目を向ければ、しとしとと雨が降っていた。

帰り、大丈夫かな…。

思わずそんな考えが浮かんだあと、すぐにまた「白神!」という先生の声が聞こえたので、「はい」と返事をして視線を逸らす。

その様子を、じっと誰かが見つめていたなんて、気にも留めずに。

「…やっぱり、降ってる」

ほんの少しの可能性にかけたのに、私の願いはむなしく、昇降口を出ると、さっきまではしとしと雨だったのが、

土砂降りの雨になっていた。

今日は折り畳み傘も、修理中で持ってきていない。

「仕方ない…走って帰ろう」

心の声が声に漏れたことにも気づかず、私は靴を履いて昇降口を飛び出した。

冷たい雨の刺激を気にしつつ、一歩外へ出る。

「何してんだよ」

…覚悟していた冷たい濡れた感覚は、私の体には来なかった。

変わりに、ぼたぼたっと雨をはじく傘の音だけが、昇降口に響いていた。

「っ…鈴木、君」

そこにいたのは、またぶっきらぼうに向こうを向いたままの、鈴木悠真で。

ビニール傘を私に差し出したままの手は、気を付けて見て見ると、少し震えていた。

「風邪ひくぞ。おまえ」

やっとこちらに視線を戻した彼は、私をキッと睨んで、隣に並んだ。

「…い、いいよっ。私免疫力だけは自信あるからっ…!!」

その行動を見て、彼が私をカサにいれようとしてくれていることが分かる。

「うるせぇ。いいから、言われた通りにしろよ」

「っ!?」

そのとたん、むぎゅうっとほっぺを寄せられた。

驚いて彼を見上げると、数秒後彼が「ぷぷっ」と噴出した。

「っぷ。はははっ」

「な、なにょっ…!?」

笑い出した鈴木悠真に、思わず私までつられて笑ってしまう。

手が離されると、二人で昇降口前で笑い転げてしまった。

「しばらくやみそうにないな」

「あ…うん、そうだね」

校門を出て、少し先の屋根がある公園のベンチに二人して並んで座る。

私は「帰っていい」と言ったのに、「どうせ俺もここで用事あるから」と言ってきかない。

でも、ウソだというのはバレバレだった。

「…」

しばらくの間、沈黙が訪れる。

二人して何もしゃべらないから、雨の音だけが公園に響いた。

と、その時。

彼がかばんをあさりだし、鞄から絵具や筆、それと小さめの色画用紙を手に取り、ベンチにそれを置いた。

「な、なにするの…?」

「なにって、絵」

けろっ、とした顔で答える彼に、思わず私の頭はこんがらがってしまう。

うそ…こんな場所で?

あっけにとられている私を置いて、彼は優しく筆を濡らして、そして絵具と筆を使って画用紙に絵を描き始めた。

青色の絵具から塗り、白色、黄色、オレンジ色、赤色…。

色々な色を混ぜて、”風景画”を描き始める。

「…これが、なんの風景になるの?」

ただ絵具が乗っただけの画用紙に、私は思わずそんなことを言ってしまう。

すると彼は、ギョッとした顔をして、こちらの顔をのぞいてきた。

「…なんで俺が、風景がを描くと思ったんだよ」

「えっ…?」

そのとたん、自分が言った言葉を振り返ってみて、思わず私も目を見開く。

「な、んでだろう…」

私の本望だからかもしれない。

優等生を演じる私にとって、”癒し”というものは、とても大事な息抜きだから。

だから私は、彼が風景画を描くと思ったのかもしれない。

…なんて本人に言うわけにもいかず、黙ったままじっとしている。

私が黙っていると、彼は私から目をそらしてまた絵を描き始めた。

もうこれ以上は仕方ないと思ったのだろうか。

また沈黙が訪れた。

なにを言おうか、と迷っている私の耳に入った言葉は、驚くべきことだった。

「…お前は…雨音は…雨の色って、なんだと思う?」

「えっ…?」

雨の、色…?

「えっと…あ、青とか…水色とか…?」

何も考えずそう答えると、「ブッ」と彼が噴き出した。

「なっ…!?」

「ククッ。おまえ、小学生かよ」

「失礼な。高校二年生だよ!」

笑いをこらえながらひーひーいう鈴木悠真に、私は「じゃあ」と声をあげる。

「透明とか白色っていうこと?」

「ハズレ」

私が悩んで悩んで導き出した答えも、彼はあっけなく終わらせる。

元々、雨の色っていうのはあるんだろうか。

普通の水と、なにが違うの…?

「…見せてやるよ」

「え…?」

「俺が、描いて見せる。おまえが知らない色を」

「鈴木君が…?」

私の知らない色を…知らない雨を、見せてくれる…。

「だー、鈴木君っていうのやめろ。胸糞わりぃ」

げぇっ、と舌を出してマズそうな顔をする彼に、私はむっと口をとがらせる。

「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」

「んなもん、おまえが呼びやすい名前で」

えぇ…?と眉を下げると、彼はまた私から視線をそらして絵を描き始める。

「…じゃあ、悠真」

「…っ」

彼の肩が、ビクッと跳ねた。

「悠真って呼ぶ。それが一番、呼びやすい」

「…悠真」

彼…悠真が繰り返す。

私はうん、と力強くうなずいた。

その時、ふっと私の世界から、一瞬音が無くなった。

「いいな、それ」

エコーするように繰り返す、悠真の声。

でも、それだけじゃない。私を、揺さぶったのは…

―雨も止むほどの、悠真の明るい笑顔だった。