私、大矢場伊右衛門はまたしても、あの集落へ繋がる坂道を自転車で上がっていた。
担任するクラスの子どもたちから聞いた、節分祭へは集落の人間や祭りの関係者、障害のある人など以外は自家用車で行くことは出来ない。
山袋とは比にならないくらい開けた那珂都山集落に車を止めて残りは徒歩やその日は終日駅から往復しているバスで行くのがスタンダードなようだ。
2月の祭に向かう人々は黒っぽい服装が多く、小さな子どもたちでも立派に坂道を歩いて登っている。
自転車でやってくるのは子どもたちで、山の子どもはさすがの健脚で、坂道を互いにはっぱをかけながらのぼるにぎやかな声が聞こえた。
「大矢場センセー!来たんだ!」
集落が用意した自転車置き場に止めて鍵をかけ、そこにいた老人に札をもらっていると、自転車で後ろからやって来た子どもたちに声をかけられた。
みなそれぞれ、老人から札をもらい自転車置き場となっている広場から、集落の間を通る細い道へ向かった。
この集落は山の中の小さな盆地にある。
集落の中心となる那珂都山神社は、山袋地域だけでなく、須山市内や近隣の自治体からも広く信仰を集める神社で、山袋はその神社の氏子だけが住んでいる集落だった。
氏子でなければこの集落に住むことは出来ず、大工も家を建てず、家を買うことも借りることも出来ない。
「自転車で来るの大変でしたか?」教え子の坂本という小柄な男子生徒が聞いた。
「汗だくだ。坂本たちは?」
「俺たちは大丈夫です。なあ?」
お調子者でクラスのムードメーカー。少し空気が読めず、それでも補って余りある明るさがあった。
帽子を脱ぎメガネを外して、顔をぬぐう。
「大矢場先生ってメガネ外すとかっこいい」坂本がいい、みなに顔をのぞき込まれる。
「恥ずかしいから、やめて」
顔を帽子で隠すと、10人ほどいた子どもたちはみな笑った。
先任の草尾先生はこの子たちにメンタルを壊されて辞めた、と言っていたがにわかには信じられなかった。
元々草尾先生は心の病気があって、子どもたちに好かれなかったことによりそれが再発してしまったのですと教頭先生は言っていた。
子どもたちに好かれなかった、というのがつまり具体的にはなにかあったのかは判然とせず、彼の残したノートには『教室へ行くのが怖い。教室の後ろにいるのは誰だ』『子どもたちが一斉にこちらを睨む、特に恐ろしいのは五十嵐、次に櫻井』『櫻井は子どもにあるまじき様子。休み時間になると鈴がなり私を誘惑する。昨日は私の家まで鈴の音がした』などと書かれていた。
実際にクラスにやってきてすぐに、二人と一緒に山袋まで自転車で行ってみた。
二人とも、自転車通学で相当な体力があるということがわかり、受け答えなどもしっかりしていた。
集落の中心となる那珂都山神社まで案内してもらい、二人と別れる。
伊達メガネと帽子を外し、リュックに突っ込んだ。
ここに来る前に、地元の新聞を読んでここ数年の山袋地域の事を調べた。
特に大きな記事はない。
毎年の初詣の話題。夏祭り、正月。一番扱いが大きいのが今日行なわれている節分祭だ。
雪が無い今年は当たりらしく、雪が降ると山袋まで行く方法は徒歩か祭りの当日だけでるシャトルバスだ。
子どもたちはみな徒歩で行く。
けんちん汁と餅にそれだけの魅力があるのだろうか。雪の年には毎回列になって雪道を歩く、子どもの写真が地元の新聞に載っていた。
去年は民宿で客の車一台が盗まれた。
大きな記事ではない。
盗まれた客が誰なのかも記事には無く、見つかったという記事も見当たらなかった。
図書館の公衆電話から電話帳を見て宿にかける。
「はい、駒木屋でございます」
「すいません。つかぬことをお伺いしますが、去年盗まれたお客の車って出てきましたか」
電話は無言で切れた。もう一度かける。
「はい」
「すいません。去年…」
電話は切れた。
盗まれたにしろ、なにかろくでもない経緯があるようだ。
自転車での訪問の翌朝、朝のホームルームのあとに櫻井は倒れた。
母親に迎えに来てもらう方がいいという、私の失言で櫻井は泣き、倒れた櫻井を腕に抱いて床に座っていた五十嵐がほんの僅か、目だけをこちらに向けて私を見た。
その一瞥が伝えてきたのは非難では無かった。
それから一ヶ月ほどして、五十嵐が自分は節分では鬼をやると言った時に合点がいったものだ。
あれは鬼の目だった。
節分の会場はにぎやかで、各地の自治会名がプリントされているイベント用の白いテントが運動会のように連なって、それぞれにストーブや長机やパイプ椅子がいくつも置いてあり、人々はそこに座ってけんちん汁や餅を食べ、甘酒を飲んでいた。
日本酒も振る舞われていたが、参拝客が持参したおちょこや盃や斗などにほんの僅か注ぎ、酒を愉しむというよりは縁起物であるようだった。
子どもたちはけんちん汁の屋台にみな並び、そこで別行動になった。
けんちん汁の屋台では、駒木屋と書かれた前掛けをしめた年配の婦人と若い人が何人かいて、どうやら私が車の事で電話をした駒木屋さんが仕切っているようだった。
出汁の香りから離れ参道を進む。大人は祭りを見て回る前に、まずはお参りをせねばならないだろう。
列はじわじわと進み私の番が来た。賽銭をいれ、あと一ヶ月半ほどのクラス運営がなんとかなりますようにと祈る。
今のところ、順調だ。子どもたちは、子どもたち以上のなにかでは無かった。
カメラを取り出して祭りの様子を撮る。
向こうから体格のいい白装束で鬼の面をつけた男が歩いて来た。
五十嵐では無い。
鬼の面、と言っても想像していたお能の面の様なものでは無く、口元辺りは出ていて顔の上半分を覆っていた。
素材はおそらく和紙であろう。目のあたりには穴が開けられていて色は白、形は細面で立体的でどこか狼を思わせた。
人々は次々と鬼にお辞儀をし、鬼は静かに私の横を通り過ぎた。
「ありがたいありがたい」
そこかしこから声が聞こえる。
厄を引き連れて行ってくれる鬼。
この後、彼も川の水で身を清めるのだろう。
祭りを撮ってまわった。
何人か山登りの服装にナップザックを背負って祭りを観ている人もいた。観光客もかなりいるようだ。
シャンシャンと鈴の音が聞こえ振り返ると、小学校低学年の子どもたちが四人、お稚児衣装に身を包み、鈴を鳴らしながら列になって歩いて来た。
御稚児行列には付き添いの大人はおらず、小さな子どもたちだけで、人混みの中を鈴の音を鳴らしながら進んで行く。人々は何も言われなくとも道を開けた。
「やっぱり山袋の子は器量良しだわ」
中年の女性が連れの女性に言った。
御稚児行列が去った後、人々は本殿の方へ動き出した。
本殿の向かい側にある能舞台の前はぎっしりと黒山の人だかりで、それでも人混みの中を鬼がモーセのように通り抜け、そこかしこでまた「ありがたいありがたい」という声がさざ波のように置きた。
私は舞台のそばまでは到底行けず、正面ではなく脇の方まで行き、そこで待った。まもなく巫女舞が始まる。
舞台に神主をはじめとして5人の男性が出てきて、神主が祝詞を上げ、神主と男性たちは舞台の一番後ろに等間隔に並んで座り、暗さも相まってその姿はあまりよく見えなくなった。
次に、朱色の袴の装束の女の子たちが7人出て来て二人は横笛、1人は小さなシンバルのような楽器、後の二人はそれぞれ太鼓の前に緊張した面持ちで座った。
演奏が始まり、しばらくした後に一度演奏は止み、巫女が1人出てきた。
ああ、コレが櫻井なのか、と思うがにわかにはそうとは分からない。
片手に紐の様なもののついた巫女鈴をもち、頭の上には金色の花の飾り、白一色の巫女の衣装を着ている。
静まり返った参拝客の前で、シャンと巫女鈴が鳴り巫女舞はゆっくりと始まった。
特に変わった舞とは最初は思えなかった。
祖母につきあわされ意味もわからず何回か日舞の発表会を見に行った事があるが、それとどことなく似ていた。
しかし途中から巫女鈴の鳴らされる間隔が徐々に狭まり、静かに始まった演奏は、実際の何倍もの音で迫って来るように感じられた瞬間、今となっては存在を忘れていた舞台の後ろに等間隔で座っていた神官たちが一斉に祝詞をあげはじめ、その低い声はまるでもっと速くもっと速くと巫女を急かすようだった。
巫女舞は続いた。
ひときわ高く笛の音が鳴り響き、完全なる静寂が訪れた。
巫女は舞台の上でその動きを完全に止め、先ほどまでの舞で息を切らした様子も無く、参拝客の方に顔を向けている。
私はカメラを構え、ズームして櫻井の顔を見た。
穏やかな人形のような顔。
その瞳は空の色を映し水色で、微動だにせず、息をしている様子もない。その刹那、櫻井は人間ではないように見えた。
人々は口々に、今年の巫女舞はよかったと言いながら舞台のまえから去って行き、次は豆まきがあるようだった。
カメラで無人になった舞台を撮る。
向かい側から小柄な鬼がやってきて、面の中から横目でこちらをチラリと見て通り過ぎた。
五十嵐だと思うが声はかけない。
鬼に声をかけてはいけないのだ。
「大矢場先生!巫女舞見られましたか?」
後ろから教え子の1団がやってきた。
「見たよ。すごかったね。君たちのまえ評判通りだ。写真撮っていい?そこに並んで」
みんなを舞台の前に並ばせて1枚撮った。
この後はお相撲さんの奉納の四股踏みと豆まきがある。
子どもたちは、張り切って本殿の方へ向かって行った。
祭りの喧騒を少し離れて、那珂都山神社の周りの集落をみて回った。
どこの家にも祭りの提灯が出されていて、この集落はみな氏子、という話に信憑性が出る。
細い道を通り抜けた先は少し開けていて、そこに駒木屋はあった。
宿の横が駐車場になっていて、今日は満車だ。
車はここから盗まれたのだろう。
宿の中をガラス戸越しに覗く。なかなか居心地の良さそうな旅館だった。
「こんにちは。お泊りのお客様ですか」
若い男性の従業員だった。
「いえ、あの素敵だなあと思いまして。今日泊まれますか」
「すいません。あいにく満室でして…」
「そうですよね。また来ます。須山市に最近越してきたので」
「はい。お待ちしています」
「あの…すいません。去年、ここで車が盗まれた事件がありましたよね。車って見つかったんですか」
「見つかって無いですよ。あれっきりです。お客様はその後何日か集落の中をあちこち車を探し回ってましたけど、こんな小さな集落の何処かに車が隠れているわけもありません。大学生で親に買ってもらった車だったそうで…オフロードが好きで、林道を走るためにだいぶ凝ってお金をかけていたっておっしゃってました。お気の毒ですよね」若い従業員は笑った。
この集落で起きた小さな事件は解決はしていなかった。
哀れな大学生。
林道のことは学校の地図で見て知ってはいた。山袋集落の舗装された道はここで行き止まりだ。山の向こうへ繋がる道は無いが、山の中腹にある那珂都山集落との間に市道以外に山の中を抜ける林道があった。
林道というのは未舗装の山の管理をするための道で、普通の人は通らない。
昔は無鉄砲だった。大学時代はマウンテンバイクで友人たちと林道を走った事もあったが……。
駒木屋の前からのんびりと歩いて、神社の参道まで出た。
本殿からはかなり距離があるが、大歓声とよいしょ!よいしょ!という声が聞こえる。
お相撲さんが四股踏みを奉納しているのだろう。
歩いて本殿に向かった。
「こんにちわぁ」
向かい側から歩いて来た、髪を後ろでシニヨンにして白い細身のコートに身を包んだ美しい女が、ゆったりとした口調でこちらに挨拶をした。
思わず振り返り、自分以外に挨拶をしたのかと思うがそうではなさそうだ。
「先生」
「櫻井?」
櫻井は返事をせずに笑った。
「化粧が…服も大人っぽいからわからなかった」
「巫女は白を着なくてはならないので。お化粧は舞が終わったあとにしてもらいました」
櫻井の隣には背の高い神社の袴姿の男性が一緒にいた。
「はじめまして。櫻井さんの担任の大矢場です」
「櫻井さんの友人の須山高校3年の名賀俊輔です」
髪をきっちりとセットし背が高く顔つきがくっきりとして大人っぽいが、まだ高校生だった。
「これから二人でお山様のところへ行くの」
「二人で?」
「お山様がそうしろとおっしゃるから」
櫻井はうれしそうに傍らの名賀青年をみあげ笑った。櫻井はまだ14歳。ひょっとして13歳かもしれなかった。
話し方がおかしい。櫻井はどちらかと言えば控えめで、敬語できちんと話す。
「気をつけて」
「大矢場先生、お祭りを楽しんでください」
名賀青年は美しい顔に笑みを浮かべ一礼をして歩みを進め、櫻井もその後をついていった。
本殿の方へ向かって歩く。
豆まきが始まったのだろう。鬼たちが境内のあちらこちらに立ち、その周りだけ規制線でも張られたように人がいなかった。
その中で境内の端のほう、ほとんど豆の来ないほうに1人、小柄な鬼がいる。
あれが五十嵐のようだ。
私はリュックを体の前にかけ、バッグから手帳を出してメッセージを書き引きちぎった。
人混みの外側を通り、一番小柄な鬼に近づく。五十嵐という確信は無い。
鬼がこちらを見て、わずかに唇を開いた。その形の良い唇と、面からみえるあたたかみのかけらもないスッキリとした眼差しに、五十嵐だと確信する。少し距離があり、私はたたんだメモを五十嵐の前に投げて落とした。
五十嵐は冷たい目で一度、私を睨み、拾ったメモを開き読んで、懐にしまった。
「鬼は外!!」
人々の歓声が上がり、豆まきは最高潮を迎え、そして終わった。
五十嵐は参道を歩いて行った。
決して走らず、「ありがたいありがたい」と言われながら、参道の先の人がほとんどいないところまで行き、立ち止まった。
五十嵐は面をかぶったまま振り返った。
「ここより先は、1人で参る」
「やはり、櫻井は行かせたら行けなかったのか。他の大人を呼んで先生も一緒に…」
「ならぬ」
五十嵐が鬼の面を外し、その目は、顔は、山の夕陽が映り真っ赤に染まっていた。
一瞬後に五十嵐は参道を神社の反対側へ、お山様の社へ向かって駆け出した。
担任するクラスの子どもたちから聞いた、節分祭へは集落の人間や祭りの関係者、障害のある人など以外は自家用車で行くことは出来ない。
山袋とは比にならないくらい開けた那珂都山集落に車を止めて残りは徒歩やその日は終日駅から往復しているバスで行くのがスタンダードなようだ。
2月の祭に向かう人々は黒っぽい服装が多く、小さな子どもたちでも立派に坂道を歩いて登っている。
自転車でやってくるのは子どもたちで、山の子どもはさすがの健脚で、坂道を互いにはっぱをかけながらのぼるにぎやかな声が聞こえた。
「大矢場センセー!来たんだ!」
集落が用意した自転車置き場に止めて鍵をかけ、そこにいた老人に札をもらっていると、自転車で後ろからやって来た子どもたちに声をかけられた。
みなそれぞれ、老人から札をもらい自転車置き場となっている広場から、集落の間を通る細い道へ向かった。
この集落は山の中の小さな盆地にある。
集落の中心となる那珂都山神社は、山袋地域だけでなく、須山市内や近隣の自治体からも広く信仰を集める神社で、山袋はその神社の氏子だけが住んでいる集落だった。
氏子でなければこの集落に住むことは出来ず、大工も家を建てず、家を買うことも借りることも出来ない。
「自転車で来るの大変でしたか?」教え子の坂本という小柄な男子生徒が聞いた。
「汗だくだ。坂本たちは?」
「俺たちは大丈夫です。なあ?」
お調子者でクラスのムードメーカー。少し空気が読めず、それでも補って余りある明るさがあった。
帽子を脱ぎメガネを外して、顔をぬぐう。
「大矢場先生ってメガネ外すとかっこいい」坂本がいい、みなに顔をのぞき込まれる。
「恥ずかしいから、やめて」
顔を帽子で隠すと、10人ほどいた子どもたちはみな笑った。
先任の草尾先生はこの子たちにメンタルを壊されて辞めた、と言っていたがにわかには信じられなかった。
元々草尾先生は心の病気があって、子どもたちに好かれなかったことによりそれが再発してしまったのですと教頭先生は言っていた。
子どもたちに好かれなかった、というのがつまり具体的にはなにかあったのかは判然とせず、彼の残したノートには『教室へ行くのが怖い。教室の後ろにいるのは誰だ』『子どもたちが一斉にこちらを睨む、特に恐ろしいのは五十嵐、次に櫻井』『櫻井は子どもにあるまじき様子。休み時間になると鈴がなり私を誘惑する。昨日は私の家まで鈴の音がした』などと書かれていた。
実際にクラスにやってきてすぐに、二人と一緒に山袋まで自転車で行ってみた。
二人とも、自転車通学で相当な体力があるということがわかり、受け答えなどもしっかりしていた。
集落の中心となる那珂都山神社まで案内してもらい、二人と別れる。
伊達メガネと帽子を外し、リュックに突っ込んだ。
ここに来る前に、地元の新聞を読んでここ数年の山袋地域の事を調べた。
特に大きな記事はない。
毎年の初詣の話題。夏祭り、正月。一番扱いが大きいのが今日行なわれている節分祭だ。
雪が無い今年は当たりらしく、雪が降ると山袋まで行く方法は徒歩か祭りの当日だけでるシャトルバスだ。
子どもたちはみな徒歩で行く。
けんちん汁と餅にそれだけの魅力があるのだろうか。雪の年には毎回列になって雪道を歩く、子どもの写真が地元の新聞に載っていた。
去年は民宿で客の車一台が盗まれた。
大きな記事ではない。
盗まれた客が誰なのかも記事には無く、見つかったという記事も見当たらなかった。
図書館の公衆電話から電話帳を見て宿にかける。
「はい、駒木屋でございます」
「すいません。つかぬことをお伺いしますが、去年盗まれたお客の車って出てきましたか」
電話は無言で切れた。もう一度かける。
「はい」
「すいません。去年…」
電話は切れた。
盗まれたにしろ、なにかろくでもない経緯があるようだ。
自転車での訪問の翌朝、朝のホームルームのあとに櫻井は倒れた。
母親に迎えに来てもらう方がいいという、私の失言で櫻井は泣き、倒れた櫻井を腕に抱いて床に座っていた五十嵐がほんの僅か、目だけをこちらに向けて私を見た。
その一瞥が伝えてきたのは非難では無かった。
それから一ヶ月ほどして、五十嵐が自分は節分では鬼をやると言った時に合点がいったものだ。
あれは鬼の目だった。
節分の会場はにぎやかで、各地の自治会名がプリントされているイベント用の白いテントが運動会のように連なって、それぞれにストーブや長机やパイプ椅子がいくつも置いてあり、人々はそこに座ってけんちん汁や餅を食べ、甘酒を飲んでいた。
日本酒も振る舞われていたが、参拝客が持参したおちょこや盃や斗などにほんの僅か注ぎ、酒を愉しむというよりは縁起物であるようだった。
子どもたちはけんちん汁の屋台にみな並び、そこで別行動になった。
けんちん汁の屋台では、駒木屋と書かれた前掛けをしめた年配の婦人と若い人が何人かいて、どうやら私が車の事で電話をした駒木屋さんが仕切っているようだった。
出汁の香りから離れ参道を進む。大人は祭りを見て回る前に、まずはお参りをせねばならないだろう。
列はじわじわと進み私の番が来た。賽銭をいれ、あと一ヶ月半ほどのクラス運営がなんとかなりますようにと祈る。
今のところ、順調だ。子どもたちは、子どもたち以上のなにかでは無かった。
カメラを取り出して祭りの様子を撮る。
向こうから体格のいい白装束で鬼の面をつけた男が歩いて来た。
五十嵐では無い。
鬼の面、と言っても想像していたお能の面の様なものでは無く、口元辺りは出ていて顔の上半分を覆っていた。
素材はおそらく和紙であろう。目のあたりには穴が開けられていて色は白、形は細面で立体的でどこか狼を思わせた。
人々は次々と鬼にお辞儀をし、鬼は静かに私の横を通り過ぎた。
「ありがたいありがたい」
そこかしこから声が聞こえる。
厄を引き連れて行ってくれる鬼。
この後、彼も川の水で身を清めるのだろう。
祭りを撮ってまわった。
何人か山登りの服装にナップザックを背負って祭りを観ている人もいた。観光客もかなりいるようだ。
シャンシャンと鈴の音が聞こえ振り返ると、小学校低学年の子どもたちが四人、お稚児衣装に身を包み、鈴を鳴らしながら列になって歩いて来た。
御稚児行列には付き添いの大人はおらず、小さな子どもたちだけで、人混みの中を鈴の音を鳴らしながら進んで行く。人々は何も言われなくとも道を開けた。
「やっぱり山袋の子は器量良しだわ」
中年の女性が連れの女性に言った。
御稚児行列が去った後、人々は本殿の方へ動き出した。
本殿の向かい側にある能舞台の前はぎっしりと黒山の人だかりで、それでも人混みの中を鬼がモーセのように通り抜け、そこかしこでまた「ありがたいありがたい」という声がさざ波のように置きた。
私は舞台のそばまでは到底行けず、正面ではなく脇の方まで行き、そこで待った。まもなく巫女舞が始まる。
舞台に神主をはじめとして5人の男性が出てきて、神主が祝詞を上げ、神主と男性たちは舞台の一番後ろに等間隔に並んで座り、暗さも相まってその姿はあまりよく見えなくなった。
次に、朱色の袴の装束の女の子たちが7人出て来て二人は横笛、1人は小さなシンバルのような楽器、後の二人はそれぞれ太鼓の前に緊張した面持ちで座った。
演奏が始まり、しばらくした後に一度演奏は止み、巫女が1人出てきた。
ああ、コレが櫻井なのか、と思うがにわかにはそうとは分からない。
片手に紐の様なもののついた巫女鈴をもち、頭の上には金色の花の飾り、白一色の巫女の衣装を着ている。
静まり返った参拝客の前で、シャンと巫女鈴が鳴り巫女舞はゆっくりと始まった。
特に変わった舞とは最初は思えなかった。
祖母につきあわされ意味もわからず何回か日舞の発表会を見に行った事があるが、それとどことなく似ていた。
しかし途中から巫女鈴の鳴らされる間隔が徐々に狭まり、静かに始まった演奏は、実際の何倍もの音で迫って来るように感じられた瞬間、今となっては存在を忘れていた舞台の後ろに等間隔で座っていた神官たちが一斉に祝詞をあげはじめ、その低い声はまるでもっと速くもっと速くと巫女を急かすようだった。
巫女舞は続いた。
ひときわ高く笛の音が鳴り響き、完全なる静寂が訪れた。
巫女は舞台の上でその動きを完全に止め、先ほどまでの舞で息を切らした様子も無く、参拝客の方に顔を向けている。
私はカメラを構え、ズームして櫻井の顔を見た。
穏やかな人形のような顔。
その瞳は空の色を映し水色で、微動だにせず、息をしている様子もない。その刹那、櫻井は人間ではないように見えた。
人々は口々に、今年の巫女舞はよかったと言いながら舞台のまえから去って行き、次は豆まきがあるようだった。
カメラで無人になった舞台を撮る。
向かい側から小柄な鬼がやってきて、面の中から横目でこちらをチラリと見て通り過ぎた。
五十嵐だと思うが声はかけない。
鬼に声をかけてはいけないのだ。
「大矢場先生!巫女舞見られましたか?」
後ろから教え子の1団がやってきた。
「見たよ。すごかったね。君たちのまえ評判通りだ。写真撮っていい?そこに並んで」
みんなを舞台の前に並ばせて1枚撮った。
この後はお相撲さんの奉納の四股踏みと豆まきがある。
子どもたちは、張り切って本殿の方へ向かって行った。
祭りの喧騒を少し離れて、那珂都山神社の周りの集落をみて回った。
どこの家にも祭りの提灯が出されていて、この集落はみな氏子、という話に信憑性が出る。
細い道を通り抜けた先は少し開けていて、そこに駒木屋はあった。
宿の横が駐車場になっていて、今日は満車だ。
車はここから盗まれたのだろう。
宿の中をガラス戸越しに覗く。なかなか居心地の良さそうな旅館だった。
「こんにちは。お泊りのお客様ですか」
若い男性の従業員だった。
「いえ、あの素敵だなあと思いまして。今日泊まれますか」
「すいません。あいにく満室でして…」
「そうですよね。また来ます。須山市に最近越してきたので」
「はい。お待ちしています」
「あの…すいません。去年、ここで車が盗まれた事件がありましたよね。車って見つかったんですか」
「見つかって無いですよ。あれっきりです。お客様はその後何日か集落の中をあちこち車を探し回ってましたけど、こんな小さな集落の何処かに車が隠れているわけもありません。大学生で親に買ってもらった車だったそうで…オフロードが好きで、林道を走るためにだいぶ凝ってお金をかけていたっておっしゃってました。お気の毒ですよね」若い従業員は笑った。
この集落で起きた小さな事件は解決はしていなかった。
哀れな大学生。
林道のことは学校の地図で見て知ってはいた。山袋集落の舗装された道はここで行き止まりだ。山の向こうへ繋がる道は無いが、山の中腹にある那珂都山集落との間に市道以外に山の中を抜ける林道があった。
林道というのは未舗装の山の管理をするための道で、普通の人は通らない。
昔は無鉄砲だった。大学時代はマウンテンバイクで友人たちと林道を走った事もあったが……。
駒木屋の前からのんびりと歩いて、神社の参道まで出た。
本殿からはかなり距離があるが、大歓声とよいしょ!よいしょ!という声が聞こえる。
お相撲さんが四股踏みを奉納しているのだろう。
歩いて本殿に向かった。
「こんにちわぁ」
向かい側から歩いて来た、髪を後ろでシニヨンにして白い細身のコートに身を包んだ美しい女が、ゆったりとした口調でこちらに挨拶をした。
思わず振り返り、自分以外に挨拶をしたのかと思うがそうではなさそうだ。
「先生」
「櫻井?」
櫻井は返事をせずに笑った。
「化粧が…服も大人っぽいからわからなかった」
「巫女は白を着なくてはならないので。お化粧は舞が終わったあとにしてもらいました」
櫻井の隣には背の高い神社の袴姿の男性が一緒にいた。
「はじめまして。櫻井さんの担任の大矢場です」
「櫻井さんの友人の須山高校3年の名賀俊輔です」
髪をきっちりとセットし背が高く顔つきがくっきりとして大人っぽいが、まだ高校生だった。
「これから二人でお山様のところへ行くの」
「二人で?」
「お山様がそうしろとおっしゃるから」
櫻井はうれしそうに傍らの名賀青年をみあげ笑った。櫻井はまだ14歳。ひょっとして13歳かもしれなかった。
話し方がおかしい。櫻井はどちらかと言えば控えめで、敬語できちんと話す。
「気をつけて」
「大矢場先生、お祭りを楽しんでください」
名賀青年は美しい顔に笑みを浮かべ一礼をして歩みを進め、櫻井もその後をついていった。
本殿の方へ向かって歩く。
豆まきが始まったのだろう。鬼たちが境内のあちらこちらに立ち、その周りだけ規制線でも張られたように人がいなかった。
その中で境内の端のほう、ほとんど豆の来ないほうに1人、小柄な鬼がいる。
あれが五十嵐のようだ。
私はリュックを体の前にかけ、バッグから手帳を出してメッセージを書き引きちぎった。
人混みの外側を通り、一番小柄な鬼に近づく。五十嵐という確信は無い。
鬼がこちらを見て、わずかに唇を開いた。その形の良い唇と、面からみえるあたたかみのかけらもないスッキリとした眼差しに、五十嵐だと確信する。少し距離があり、私はたたんだメモを五十嵐の前に投げて落とした。
五十嵐は冷たい目で一度、私を睨み、拾ったメモを開き読んで、懐にしまった。
「鬼は外!!」
人々の歓声が上がり、豆まきは最高潮を迎え、そして終わった。
五十嵐は参道を歩いて行った。
決して走らず、「ありがたいありがたい」と言われながら、参道の先の人がほとんどいないところまで行き、立ち止まった。
五十嵐は面をかぶったまま振り返った。
「ここより先は、1人で参る」
「やはり、櫻井は行かせたら行けなかったのか。他の大人を呼んで先生も一緒に…」
「ならぬ」
五十嵐が鬼の面を外し、その目は、顔は、山の夕陽が映り真っ赤に染まっていた。
一瞬後に五十嵐は参道を神社の反対側へ、お山様の社へ向かって駆け出した。