郁人が帰るのを土間の出口まで送った。
「鍵しめろ」
「心配性」
私の言葉に郁人は言い返さず、夜空を見た。
何か少し、赤い気がした。
一瞬後、ハッとした顔をした郁人は私の家の中に戻り、階段を駆け上がって父の寝室を横切り、二階のベランダに出た。
「凛パパ!!お山様の山が燃えてる!」
私も郁人のあとに続いてベランダに出た。
「えぇ?」父の寝ぼけた声がした。
真っ暗な空の向こう側が、赤く夕焼けの様な色に染まり、一瞬の沈黙のあとに火の見櫓の鐘を打ち鳴らす音がして、どこからか車のクラクションを鳴らす音が響いた。
翌朝、私と郁人は完全に睡眠不足で学校へ行った。
山火事はごく狭い範囲を焼き、どうもお山様の近くの乾燥した畑の草が燃え、木に燃え移り、しかしお山様の社は無事であったようだった。
畑の持ち主のおじさんはその日は作業がなく火の気があるはずもなく、山袋では去年宿のお客さんの車が消えて以来の事件だった。
消防署や警察が来て、誰かがそのあたりでタバコでも吸い、その不始末かもしれないなどと言ったが、山袋の住民は乾燥した草むらに吸い殻を投げ捨てたりはしない。
防犯カメラも無く、きっとどうにもならないだろう。
車が消えた時も、防犯カメラが無いのかと車の持ち主が大騒ぎしたらしいが、無いものは無い。
「おはようございます」大矢場先生が教室に入って来た。
生徒たちはバラバラと自分の席につき、出欠を取る。
「見て、先生の寝癖」
芽生が後ろからシャーペンで突付いた。
確かに後頭部からぴょこりと髪がひとたば出ていて、真面目な印象とチグハグだ。
「シッ芽生」芽生を黙らせて、先生の話を聞くが2時間しか寝ていない頭には何も入って来ない。
先生の顔には昨日の自転車で山道を走った疲れは無かった。
チラと郁人を見る。寝癖どころでは無く盛大に髪が乱れていて手でなんとかしようとしているが、無駄なようだ。
郁人は目線に気がついたようにこちらを見て、眉毛を歪め前向けと声を出さず唇を動かして言ってきた。
「朝のホームルームは以上。櫻井と五十嵐は話があるから来て」
ガヤガヤとした教室を抜け、教卓のところまで行く。
立ち上がると少しふらついた気がした。
「昨日は案内をありがとう。あの後、山袋で火事があったと聞いた。君たちの家は被害は大丈夫かな」
「ハイ。畑がある辺りが少し燃えただけで、被害はありませんでした」
「良かった。昨日は眠れた?」
「ハイ」郁人が言ったが、目の下には青いクマに寝癖だらけの頭で説得力はなかった。
「櫻井は」
「私は…けっこう眠いです」正直に言う。
「顔色が悪いよ。元々色白?五十嵐、櫻井の顔色どうだ」
「いつもより白いと思います」
顔色が悪い、と言われなんだか気分が悪くなった。
急に手足が冷え、目の前が白っぽく見える様な気がして、郁人の顔を見るともうあまりよく見えず、手をつこうと教卓に手を伸ばすが、手に力が入らない。
「凛花!」郁人が私を呼ぶのが聞こえた気がした。
「凛」
呼ばれて目を開けると目の前に郁人の顔があり、頬をさすられる。
何か話そうと思うが口から言葉が出てこない。
「櫻井、養護の先生がすぐに来るよ」
目の前に大矢場先生の顔が現れた。
どうやらここは教室で、周りにはクラスメイトがいる中で郁人が床で私を抱きかかえている、と気が付く。
恥ずかしいがどうしようもない。
「お母さんに連絡をしなきゃな」大矢場先生が言った。
「お母さんはいません」声が出た。
「櫻井のお父さんはこの時間は無理だと思います」郁人が言った。
朝の8時台は確かに無理だった。
母が死んだ事で人前で泣いた事は無かったが、何か急に悲しくなって涙が出て服の袖で拭った。
その後、養護の先生が来て貧血だろうと言われ、保健室まで郁人と芽生が付き添ってくれて自分で歩いて行き、しばらく保健室で寝て、父に迎えに来てもらう事になった。
その後は養護の先生がかけてくれた冷たい布団の感覚に奇妙な安心感を覚え、ストーブの音を聞いているうちに眠くなり、寝てしまった。
「凛花、調子どう?給食持ってきたよ」
カーテンの影から現れたのは芽生だ。手には給食のトレーを持っている。
「ありがとう。すごくよく寝た」
「顔色普通になったね。倒れたときは紙みたいな色で心配した」
養護の先生も顔を出し、体温計を渡され一応測る。体温計の細いガラスが脇に挟まり、ひんやりとした。
「睡眠不足?」
「はい、昨日は火事で眠れませんでした」
「そういうときは無理せずお休みして。お父さんと連絡がついて、一時頃に迎えにみえるから。結城さん、櫻井さんの荷物を持ってきてもらえる?」先生が芽生に頼んだ。
給食を食べていると養護の先生が出ていって、保健室に1人きりになった。
今は給食の時間で全校生徒は教室で給食を食べている。
私も1人、給食を食べた。
ガラリとドアが開いた。
「櫻井、目が覚めたか。気分は」大矢場先生だった。
「もう平気です」
「よかった」先生はメガネを外して胸ポケットに入れ、給食を食べている私の向かい側に座った。
「お母さんの事で無神経なことを聞いて申し訳ない」
先生はそれを謝りに来たのだ、と思う。真面目な申し訳なさそうな顔と普段はメガネに隠れている妙にかわいい目がチグハグだった。
「先生は昨日来たばかりだからいいです」
先生が真面目に謝ろうとしている様子がおかしくなって、ふふふと笑った。
「それでもすまなかった」メガネをしていない素の顔は、やはりあのポケベルのCMの男性に似ている。
「大丈夫です」私が笑って返事をすると、先生も少しだけ笑った。
芽生がバッグを持って保健室に顔を出した時には、大矢場先生はもういなかった。
「ねー!大変だったんだよ、さっき!給食の後に郁がね、坂本に凛花と郁がラブラブだって言われて、『凛花が倒れたのにふざけてんじゃねえよ!凛花は俺の家族だ!血がつながってんだよ!』って言って胸ぐら掴んで、坂本チビじゃん?全然抵抗出来なくて、そんなつもり無かったって泣いて……」
「なにそれ、最悪なんだけど。殴った?」
「殴ってない。みんなで引き離そうとしたら、隣のクラスの山袋の子がクラスの入口からのぞいて『郁人!ならぬはならぬ!心得よ!』って大声で言ったの。そしたらこんな鬼みたいな目で振り返って『心得ました』って返して、坂本を離した。あれ何?」
「それ言ったの男子でしょ。山袋の男子はみんな柔道を集落でやるんだけど、喧嘩は絶対に禁止で、でも男の子ばっかり集まってるとたまに揉めるじゃん?そういう時は先生が古い言葉で叱るんだって。友達同士で遊んでる時も、喧嘩になりそうになると『ならぬ事はならぬ』って誰かが言ったら、どれだけ怒っていても『心得ました』って返さなきゃならない」
「男子だけ?」
「女子はお稽古で揉めると、『お山様が怒ります』って禰宜さまに言われる。怒らせたくないから、そこで喧嘩はおしまい」
「お山さま?ネギさま?なにそれ」芽生は笑った。
山袋の風習は街の人たちには古臭く、意味不明な事も多いだろう。
芽生は昼休みが終わり、教室へ戻り入れ違いに養護の先生と父が来て、私はそのまま病院へ行き、『寝不足が原因の体調不良』と太鼓判を押されて家に戻った。
「鍵しめろ」
「心配性」
私の言葉に郁人は言い返さず、夜空を見た。
何か少し、赤い気がした。
一瞬後、ハッとした顔をした郁人は私の家の中に戻り、階段を駆け上がって父の寝室を横切り、二階のベランダに出た。
「凛パパ!!お山様の山が燃えてる!」
私も郁人のあとに続いてベランダに出た。
「えぇ?」父の寝ぼけた声がした。
真っ暗な空の向こう側が、赤く夕焼けの様な色に染まり、一瞬の沈黙のあとに火の見櫓の鐘を打ち鳴らす音がして、どこからか車のクラクションを鳴らす音が響いた。
翌朝、私と郁人は完全に睡眠不足で学校へ行った。
山火事はごく狭い範囲を焼き、どうもお山様の近くの乾燥した畑の草が燃え、木に燃え移り、しかしお山様の社は無事であったようだった。
畑の持ち主のおじさんはその日は作業がなく火の気があるはずもなく、山袋では去年宿のお客さんの車が消えて以来の事件だった。
消防署や警察が来て、誰かがそのあたりでタバコでも吸い、その不始末かもしれないなどと言ったが、山袋の住民は乾燥した草むらに吸い殻を投げ捨てたりはしない。
防犯カメラも無く、きっとどうにもならないだろう。
車が消えた時も、防犯カメラが無いのかと車の持ち主が大騒ぎしたらしいが、無いものは無い。
「おはようございます」大矢場先生が教室に入って来た。
生徒たちはバラバラと自分の席につき、出欠を取る。
「見て、先生の寝癖」
芽生が後ろからシャーペンで突付いた。
確かに後頭部からぴょこりと髪がひとたば出ていて、真面目な印象とチグハグだ。
「シッ芽生」芽生を黙らせて、先生の話を聞くが2時間しか寝ていない頭には何も入って来ない。
先生の顔には昨日の自転車で山道を走った疲れは無かった。
チラと郁人を見る。寝癖どころでは無く盛大に髪が乱れていて手でなんとかしようとしているが、無駄なようだ。
郁人は目線に気がついたようにこちらを見て、眉毛を歪め前向けと声を出さず唇を動かして言ってきた。
「朝のホームルームは以上。櫻井と五十嵐は話があるから来て」
ガヤガヤとした教室を抜け、教卓のところまで行く。
立ち上がると少しふらついた気がした。
「昨日は案内をありがとう。あの後、山袋で火事があったと聞いた。君たちの家は被害は大丈夫かな」
「ハイ。畑がある辺りが少し燃えただけで、被害はありませんでした」
「良かった。昨日は眠れた?」
「ハイ」郁人が言ったが、目の下には青いクマに寝癖だらけの頭で説得力はなかった。
「櫻井は」
「私は…けっこう眠いです」正直に言う。
「顔色が悪いよ。元々色白?五十嵐、櫻井の顔色どうだ」
「いつもより白いと思います」
顔色が悪い、と言われなんだか気分が悪くなった。
急に手足が冷え、目の前が白っぽく見える様な気がして、郁人の顔を見るともうあまりよく見えず、手をつこうと教卓に手を伸ばすが、手に力が入らない。
「凛花!」郁人が私を呼ぶのが聞こえた気がした。
「凛」
呼ばれて目を開けると目の前に郁人の顔があり、頬をさすられる。
何か話そうと思うが口から言葉が出てこない。
「櫻井、養護の先生がすぐに来るよ」
目の前に大矢場先生の顔が現れた。
どうやらここは教室で、周りにはクラスメイトがいる中で郁人が床で私を抱きかかえている、と気が付く。
恥ずかしいがどうしようもない。
「お母さんに連絡をしなきゃな」大矢場先生が言った。
「お母さんはいません」声が出た。
「櫻井のお父さんはこの時間は無理だと思います」郁人が言った。
朝の8時台は確かに無理だった。
母が死んだ事で人前で泣いた事は無かったが、何か急に悲しくなって涙が出て服の袖で拭った。
その後、養護の先生が来て貧血だろうと言われ、保健室まで郁人と芽生が付き添ってくれて自分で歩いて行き、しばらく保健室で寝て、父に迎えに来てもらう事になった。
その後は養護の先生がかけてくれた冷たい布団の感覚に奇妙な安心感を覚え、ストーブの音を聞いているうちに眠くなり、寝てしまった。
「凛花、調子どう?給食持ってきたよ」
カーテンの影から現れたのは芽生だ。手には給食のトレーを持っている。
「ありがとう。すごくよく寝た」
「顔色普通になったね。倒れたときは紙みたいな色で心配した」
養護の先生も顔を出し、体温計を渡され一応測る。体温計の細いガラスが脇に挟まり、ひんやりとした。
「睡眠不足?」
「はい、昨日は火事で眠れませんでした」
「そういうときは無理せずお休みして。お父さんと連絡がついて、一時頃に迎えにみえるから。結城さん、櫻井さんの荷物を持ってきてもらえる?」先生が芽生に頼んだ。
給食を食べていると養護の先生が出ていって、保健室に1人きりになった。
今は給食の時間で全校生徒は教室で給食を食べている。
私も1人、給食を食べた。
ガラリとドアが開いた。
「櫻井、目が覚めたか。気分は」大矢場先生だった。
「もう平気です」
「よかった」先生はメガネを外して胸ポケットに入れ、給食を食べている私の向かい側に座った。
「お母さんの事で無神経なことを聞いて申し訳ない」
先生はそれを謝りに来たのだ、と思う。真面目な申し訳なさそうな顔と普段はメガネに隠れている妙にかわいい目がチグハグだった。
「先生は昨日来たばかりだからいいです」
先生が真面目に謝ろうとしている様子がおかしくなって、ふふふと笑った。
「それでもすまなかった」メガネをしていない素の顔は、やはりあのポケベルのCMの男性に似ている。
「大丈夫です」私が笑って返事をすると、先生も少しだけ笑った。
芽生がバッグを持って保健室に顔を出した時には、大矢場先生はもういなかった。
「ねー!大変だったんだよ、さっき!給食の後に郁がね、坂本に凛花と郁がラブラブだって言われて、『凛花が倒れたのにふざけてんじゃねえよ!凛花は俺の家族だ!血がつながってんだよ!』って言って胸ぐら掴んで、坂本チビじゃん?全然抵抗出来なくて、そんなつもり無かったって泣いて……」
「なにそれ、最悪なんだけど。殴った?」
「殴ってない。みんなで引き離そうとしたら、隣のクラスの山袋の子がクラスの入口からのぞいて『郁人!ならぬはならぬ!心得よ!』って大声で言ったの。そしたらこんな鬼みたいな目で振り返って『心得ました』って返して、坂本を離した。あれ何?」
「それ言ったの男子でしょ。山袋の男子はみんな柔道を集落でやるんだけど、喧嘩は絶対に禁止で、でも男の子ばっかり集まってるとたまに揉めるじゃん?そういう時は先生が古い言葉で叱るんだって。友達同士で遊んでる時も、喧嘩になりそうになると『ならぬ事はならぬ』って誰かが言ったら、どれだけ怒っていても『心得ました』って返さなきゃならない」
「男子だけ?」
「女子はお稽古で揉めると、『お山様が怒ります』って禰宜さまに言われる。怒らせたくないから、そこで喧嘩はおしまい」
「お山さま?ネギさま?なにそれ」芽生は笑った。
山袋の風習は街の人たちには古臭く、意味不明な事も多いだろう。
芽生は昼休みが終わり、教室へ戻り入れ違いに養護の先生と父が来て、私はそのまま病院へ行き、『寝不足が原因の体調不良』と太鼓判を押されて家に戻った。