集落の門が見えてきた。
門、と言っても大昔からある石を組んだ門柱で、高さは1メートル足らずしかない。
道が舗装される前までは、ここに竹を渡してあって通るたびに外して、門柱の脇にある7つのお地蔵様にそれぞれ挨拶してから集落から出たそうだ。
今でもお地蔵様はみな、かわいい帽子や傘をかぶり、お花やお水を供えて集落の人たちに大切にされている。
とてもかわいい顔のお地蔵様で、ニコニコとしている。
私が小さな頃、母は集落ではみんなが家族だからニコニコと暮らしましょうねとお地蔵様は言ってる、喧嘩は持ち込まないお約束と繰り返し言っていた。
集落の外にある保育園で私と郁人が喧嘩をすると、この門柱を通る前に仲直りをすると約束させられ、お地蔵様にお参りして明日は仲良くしますと約束をした。
郁人は仲直りは嫌だ嫌だと騒いで、門柱あたりで郁人のお母さんからお仕置きをされた事があるらしかった。
今でもなんとなく集落の中でケンカするのは気が引ける。
夫婦ゲンカや揉め事も、この門を抜けたあたりまでわざわざ出てきてしている人をたまに見かける。
お地蔵様はそれをニコニコと眺め、みな仲直りはしないまでも喧嘩はやめて、お地蔵様にお参りしてそれぞれの家に戻った。
郁人は一足先に最後の坂を登りきり、暗い山道を登る私と大矢場先生を見下ろしていた。
私も着いて後ろを見ると、大矢場先生もすぐ後ろにつけていて坂を登りきった所でメガネを外し、額の汗を拭った。
「やあ、やっと着いたな…。すごいね、君たちは毎日ここを行き来してるのか。はは、先生は汗だくになったよ」
メガネを外してにこやかに笑う大矢場先生は若く見えた。最近ポケベルのCMで見かける、なんとかという俳優に似ている。
「ここがうちの集落の…山袋の入口です。集団登校する時の集合場所もここです」郁人が言った。
集落の門柱を抜けると、その先はなだらかな坂道で住宅が密集して建っている。
今時分は門柱から夜景のように村の家々の灯りが見えた。
田舎では隣近所は離して建てるのが普通かもしれないが、山袋のほうでは家は集落の入口あたり、那珂都山神社を囲うようににまとまって建っていて、畑や牛の農場や山の作業場は山際の方半分にある。その先は山だった。
山にも神社の分社があり、そちらはお山様と呼ばれていて、祭りの時にお参りに行く以外は、イノシシが出るので子どもは行ってはならない事になっていた。
「先生は戻りますか」
「いや、集落をぐるりと走ってから戻る事にするよ。自転車で20分以上と聞いていたけれど、30分かかったね。僕が足を引っ張ったんだな」
「行きは下り坂だから速いけど、帰りは登りだからそのくらいです」郁人が言った。
「そうか、そうだな…下り坂か…」
「先生自転車漕ぐの速いと思います」
「ありがとう、櫻井」
ハンドルにもたれてニコッと笑ってメガネをかけ直した先生は、かっこいいお兄さんから、また冴えないオジサンに戻った。
先生とは那珂都山神社の前で別れ、私と郁人は家に帰った。
「凛花、今日一緒に宿題やる?」
「いいよ。うちのこたつでやろう」
「オッケー、またな」
うちと郁人の家は一軒家を挟んだご近所さんだ。あいだに挟まっている家は郁人のお母さんの両親の家で、郁人とは隣同士みたいなものだ。
郁人の祖母とうちの母方の祖母がいとこ同士で、私と郁人も遠縁だが血がつながっている。
父は集落の外から来たが、集落の中はだいたい誰かの親族で、大きな家族同然の仲だった。
「ただいまー」玄関を開けて土間に自転車を入れる。
「おかえり、凛花。遅いから心配した。郁人くんと帰って来たか?」
「うん。郁人と私と担任の先生も一緒に自転車で帰ってきた。次の1年生の集団登校の見守りだって」
「先生が?パパ挨拶…」父は土間につながるダイニングキッチン、うちでは単に食堂と呼ばれている、から土間に出てきた。
「先生とは那珂都山神社の前でサヨナラした。少し見て回ってから帰るって言ってたよ」
「そうか。先生よくこんなところまで自転車で来たね。若い先生?」
「わかんない。名前は大矢場先生。オオヤバイエモン先生」
「すごい立派な名前だなあ。武士じゃないよな?武士はこの集落は入っちゃいけないんだ」
父は先生の珍名に困惑気味に笑い、鍋に手のひらの上で切った豆腐を入れた。
「今の時代に武士なんていないよ、パパ」
「それなら安心だ。お山様が怒ると困る」
この集落にはいくつかのタブーがあった。
一つはこじれた揉め事。
暴力によって流れた血は穢れで、水で身を清め、服は焼き払わねばならない。
暴力を忌む習わしに伴って帯刀している武士も、この集落に入ることは出来ない。
刀は必ず門柱の所でおろして、そこで村のものが預かる。
那珂都山地域一帯に伝わる昔話かある。
その昔、斬り捨てると言われても刀を置いてくだされと言って引かず、山袋の門柱の所で殿様のお付に斬られた村の若者がいたそうだ。
すっぱりと首が落ち、落ちた首が『なりませぬ!なりませぬ!』と叫んだなどと言われているが、それは嘘だと山袋の子どもたちはみな聞かされた。
本当の所は、斬りすてよ!と言われたお付のものの目がぐるりと白目になったかと思うと、殿様の乗っていた馬の尻尾を切り落とし、馬は怒り狂って殿様を乗せたまま矢のようにお山様の神社の前まで駆けて行った。
みながお山様のところへ来た頃には、殿様はお山様の社の前に自分の刀を置いて胡座をかき穏やかな顔で笑っていた。
その後生涯に渡って穏やかな殿様であり続けたそうだ。
もう一つのタブーは酒。
集落を出て飲む分には構わない。
盆と正月、葬式と祝言、それに那珂都山神社の祭りの1週間は許される。
寄り合いや何かで出るのはお茶で、大きな土瓶ややかんがみなの家にあった。
最後のタブーはお山様へみだりに近づく事だった。
お山様が怒ると困るから、と集落の人達は言う。怒ったらどうなるのかは聞いたことがないので分からない。
みなを見守るのがお山様の役目で、バチを当てたりはしないのだ。
鍋には豆腐と小松菜とお正月の残りの鮭がくつくつと煮えていた。ご飯をよそい、呑水とレンゲ、お箸を出す。
父は両手にミトンをつけてテーブルの上に鍋を置き、蓋を取った。
「お茶を淹れるから先に食べなさい」
「はぁい。いただきます」
父は母と結婚してこの集落へやって来た。
仕事は結婚まえからずっと街の市場で働いていて、4時半には家を出て帰ってくるのは夕方前、残業があるともっと遅い。朝は父に会うことは出来ない。
小学生の頃は郁人の家で朝ご飯を食べていたが、今は私も父も夕食の残りを朝食べて、それが朝食だった。
冬は鍋が多いので好都合。父子二人でもなんとかなる。
「こんばんはー」
ガラリと玄関があく音がして、タオルに包まれた何かを持った郁人が食堂に入ってきた。
「凛パパ、これうちのお母さんから」
「アップルコブラ!やったあ」父の手元をのぞき込み、思わず歓声が口をついて出る。
20センチ四方のガラスの四角いベイクウェアからアルミホイルを剥がすと、大ぶりに切って甘く煮たリンゴにビスケット生地を覆って焼いた菓子が、甘酸っぱい匂いとともに現れた。
「いつもありがとう。焼き立てだ」
「お母さんがリンゴありがとうって。凛パパがリンゴくれると、お母さんがコレ作るから俺も嬉しい」
郁人のお母さんが作る洒落たリンゴの焼き菓子は私と郁人の好物で、よく作ってくれた。
二人で焼き立てをハフハフ言いながら食べたあと、こたつで宿題を始めた。もう8時だ。父は風呂に入って9時までには寝る。
「郁人、音読練習しよ」
「いいけど、凛花が先に読んで」
二人で協力して、英語の音読を終わらせ、音読カードに櫻井とスタンプを押す。
何度か郁人と付き合ってるのか聞かれた事があるが、郁人が冷静に「俺たち親戚」と言ってからは口出しするものはいなかった。
宿題が終わる頃には父は寝室へ引き上げて行き、郁人と二人こたつでテレビを見ていた。
ポケベルのCMが流れ、さっきの先生のメガネを外した顔を思い出す。
「大矢場先生ってメガネ外すと、この人に似てない?」
「わかんねー。暗かった」
「そっか。…郁人、告白されたってホント?」
「されてねえし」
「でも、噂で聞いた。1年生のバスケ部のエミリって子がサッカー部の五十嵐先輩に告ったら、今は部活が忙しいからって言われたって」
「なんでお前らに会話が筒抜けなんだよ。怖すぎだろ」
「告白されたんじゃん!」
「話したこともない子はノーカウント」
「話したことある子は?」
「いない。凛花は」
「私は告白されたよ」
「誰だよ。俺知ってるやつ?」
「うん。でも絶対に当てられない」
こういうと、郁人はムキになるのはわかっていた。
「ヒント。身長は?」
「高い」
「サッカー部?」
「うん」
「チームの誰かかよ、最悪…。絶対断れ」
「郁人の言うことなんて聞きません。でも須山西のサッカー部じゃない」
「……わかんねーもっとヒント」
「山袋の人」
「はぁ?山袋のサッカー部なら全員須山西……」
郁人は思い当たるところがあったようだが、信じられないという顔で私を見た。
「宮司の家の俊輔?須山高のサッカー部の?」
「正解。俊兄ちゃん」
「今は高3だろ?からかわれたんじゃねえの」
「年末に那珂都山神社の手伝いに行ったら、久しぶりに俊兄ちゃんがいて、一緒に作業したんだ。俊兄ちゃんに、俺はもうすぐ大学に行くから集落を出るけど、凛花が奉納芝居で姫をしていたときから好きだったって言われた」
「凛花が姫をやったのは小五…?」
「うん。よく考えたら変態だよね」
「百%変態。ちゃんと断ったか」
「付き合ってとは言われなかった。大学に行くから気持ちを言いたかったんだって。私は大学頑張ってくださいって言って、俊兄ちゃんは笑ってた」
郁人ははぁ、とため息をついた。
「ふざけんなよ、凛花。心配ばっかりかけんな。告白されんの禁止。神社の手伝いも行くな」こたつの中で郁人が凛花を蹴飛ばした。
「痛いなあ、もう。わかったからやめて」
「俊兄ちゃんから告白された話、俺以外にはすんなよ」
「わかった」
「おくちにチャックチャックな」
「懐かしい!」
幼い頃、私と郁人が騒がしくしても、迷惑にならない場所なら大抵の場合親は大目に見てくれたが、たまに行き過ぎると母が「おくちにチャックチャック。ママが開けて上げるまで凛花はおしゃべり出来ないの」と言って口をつまんで私を黙らせた。
母の魔法の効果はさほど長くは続かず、しばらくするとまた喋りだしてしまう。
懐かしい母。断片的な思い出は優しいものばかりだ。
私は自分で口にチャックして、郁人におどけて見せ、もう一度こたつの中で足を蹴られた。
門、と言っても大昔からある石を組んだ門柱で、高さは1メートル足らずしかない。
道が舗装される前までは、ここに竹を渡してあって通るたびに外して、門柱の脇にある7つのお地蔵様にそれぞれ挨拶してから集落から出たそうだ。
今でもお地蔵様はみな、かわいい帽子や傘をかぶり、お花やお水を供えて集落の人たちに大切にされている。
とてもかわいい顔のお地蔵様で、ニコニコとしている。
私が小さな頃、母は集落ではみんなが家族だからニコニコと暮らしましょうねとお地蔵様は言ってる、喧嘩は持ち込まないお約束と繰り返し言っていた。
集落の外にある保育園で私と郁人が喧嘩をすると、この門柱を通る前に仲直りをすると約束させられ、お地蔵様にお参りして明日は仲良くしますと約束をした。
郁人は仲直りは嫌だ嫌だと騒いで、門柱あたりで郁人のお母さんからお仕置きをされた事があるらしかった。
今でもなんとなく集落の中でケンカするのは気が引ける。
夫婦ゲンカや揉め事も、この門を抜けたあたりまでわざわざ出てきてしている人をたまに見かける。
お地蔵様はそれをニコニコと眺め、みな仲直りはしないまでも喧嘩はやめて、お地蔵様にお参りしてそれぞれの家に戻った。
郁人は一足先に最後の坂を登りきり、暗い山道を登る私と大矢場先生を見下ろしていた。
私も着いて後ろを見ると、大矢場先生もすぐ後ろにつけていて坂を登りきった所でメガネを外し、額の汗を拭った。
「やあ、やっと着いたな…。すごいね、君たちは毎日ここを行き来してるのか。はは、先生は汗だくになったよ」
メガネを外してにこやかに笑う大矢場先生は若く見えた。最近ポケベルのCMで見かける、なんとかという俳優に似ている。
「ここがうちの集落の…山袋の入口です。集団登校する時の集合場所もここです」郁人が言った。
集落の門柱を抜けると、その先はなだらかな坂道で住宅が密集して建っている。
今時分は門柱から夜景のように村の家々の灯りが見えた。
田舎では隣近所は離して建てるのが普通かもしれないが、山袋のほうでは家は集落の入口あたり、那珂都山神社を囲うようににまとまって建っていて、畑や牛の農場や山の作業場は山際の方半分にある。その先は山だった。
山にも神社の分社があり、そちらはお山様と呼ばれていて、祭りの時にお参りに行く以外は、イノシシが出るので子どもは行ってはならない事になっていた。
「先生は戻りますか」
「いや、集落をぐるりと走ってから戻る事にするよ。自転車で20分以上と聞いていたけれど、30分かかったね。僕が足を引っ張ったんだな」
「行きは下り坂だから速いけど、帰りは登りだからそのくらいです」郁人が言った。
「そうか、そうだな…下り坂か…」
「先生自転車漕ぐの速いと思います」
「ありがとう、櫻井」
ハンドルにもたれてニコッと笑ってメガネをかけ直した先生は、かっこいいお兄さんから、また冴えないオジサンに戻った。
先生とは那珂都山神社の前で別れ、私と郁人は家に帰った。
「凛花、今日一緒に宿題やる?」
「いいよ。うちのこたつでやろう」
「オッケー、またな」
うちと郁人の家は一軒家を挟んだご近所さんだ。あいだに挟まっている家は郁人のお母さんの両親の家で、郁人とは隣同士みたいなものだ。
郁人の祖母とうちの母方の祖母がいとこ同士で、私と郁人も遠縁だが血がつながっている。
父は集落の外から来たが、集落の中はだいたい誰かの親族で、大きな家族同然の仲だった。
「ただいまー」玄関を開けて土間に自転車を入れる。
「おかえり、凛花。遅いから心配した。郁人くんと帰って来たか?」
「うん。郁人と私と担任の先生も一緒に自転車で帰ってきた。次の1年生の集団登校の見守りだって」
「先生が?パパ挨拶…」父は土間につながるダイニングキッチン、うちでは単に食堂と呼ばれている、から土間に出てきた。
「先生とは那珂都山神社の前でサヨナラした。少し見て回ってから帰るって言ってたよ」
「そうか。先生よくこんなところまで自転車で来たね。若い先生?」
「わかんない。名前は大矢場先生。オオヤバイエモン先生」
「すごい立派な名前だなあ。武士じゃないよな?武士はこの集落は入っちゃいけないんだ」
父は先生の珍名に困惑気味に笑い、鍋に手のひらの上で切った豆腐を入れた。
「今の時代に武士なんていないよ、パパ」
「それなら安心だ。お山様が怒ると困る」
この集落にはいくつかのタブーがあった。
一つはこじれた揉め事。
暴力によって流れた血は穢れで、水で身を清め、服は焼き払わねばならない。
暴力を忌む習わしに伴って帯刀している武士も、この集落に入ることは出来ない。
刀は必ず門柱の所でおろして、そこで村のものが預かる。
那珂都山地域一帯に伝わる昔話かある。
その昔、斬り捨てると言われても刀を置いてくだされと言って引かず、山袋の門柱の所で殿様のお付に斬られた村の若者がいたそうだ。
すっぱりと首が落ち、落ちた首が『なりませぬ!なりませぬ!』と叫んだなどと言われているが、それは嘘だと山袋の子どもたちはみな聞かされた。
本当の所は、斬りすてよ!と言われたお付のものの目がぐるりと白目になったかと思うと、殿様の乗っていた馬の尻尾を切り落とし、馬は怒り狂って殿様を乗せたまま矢のようにお山様の神社の前まで駆けて行った。
みながお山様のところへ来た頃には、殿様はお山様の社の前に自分の刀を置いて胡座をかき穏やかな顔で笑っていた。
その後生涯に渡って穏やかな殿様であり続けたそうだ。
もう一つのタブーは酒。
集落を出て飲む分には構わない。
盆と正月、葬式と祝言、それに那珂都山神社の祭りの1週間は許される。
寄り合いや何かで出るのはお茶で、大きな土瓶ややかんがみなの家にあった。
最後のタブーはお山様へみだりに近づく事だった。
お山様が怒ると困るから、と集落の人達は言う。怒ったらどうなるのかは聞いたことがないので分からない。
みなを見守るのがお山様の役目で、バチを当てたりはしないのだ。
鍋には豆腐と小松菜とお正月の残りの鮭がくつくつと煮えていた。ご飯をよそい、呑水とレンゲ、お箸を出す。
父は両手にミトンをつけてテーブルの上に鍋を置き、蓋を取った。
「お茶を淹れるから先に食べなさい」
「はぁい。いただきます」
父は母と結婚してこの集落へやって来た。
仕事は結婚まえからずっと街の市場で働いていて、4時半には家を出て帰ってくるのは夕方前、残業があるともっと遅い。朝は父に会うことは出来ない。
小学生の頃は郁人の家で朝ご飯を食べていたが、今は私も父も夕食の残りを朝食べて、それが朝食だった。
冬は鍋が多いので好都合。父子二人でもなんとかなる。
「こんばんはー」
ガラリと玄関があく音がして、タオルに包まれた何かを持った郁人が食堂に入ってきた。
「凛パパ、これうちのお母さんから」
「アップルコブラ!やったあ」父の手元をのぞき込み、思わず歓声が口をついて出る。
20センチ四方のガラスの四角いベイクウェアからアルミホイルを剥がすと、大ぶりに切って甘く煮たリンゴにビスケット生地を覆って焼いた菓子が、甘酸っぱい匂いとともに現れた。
「いつもありがとう。焼き立てだ」
「お母さんがリンゴありがとうって。凛パパがリンゴくれると、お母さんがコレ作るから俺も嬉しい」
郁人のお母さんが作る洒落たリンゴの焼き菓子は私と郁人の好物で、よく作ってくれた。
二人で焼き立てをハフハフ言いながら食べたあと、こたつで宿題を始めた。もう8時だ。父は風呂に入って9時までには寝る。
「郁人、音読練習しよ」
「いいけど、凛花が先に読んで」
二人で協力して、英語の音読を終わらせ、音読カードに櫻井とスタンプを押す。
何度か郁人と付き合ってるのか聞かれた事があるが、郁人が冷静に「俺たち親戚」と言ってからは口出しするものはいなかった。
宿題が終わる頃には父は寝室へ引き上げて行き、郁人と二人こたつでテレビを見ていた。
ポケベルのCMが流れ、さっきの先生のメガネを外した顔を思い出す。
「大矢場先生ってメガネ外すと、この人に似てない?」
「わかんねー。暗かった」
「そっか。…郁人、告白されたってホント?」
「されてねえし」
「でも、噂で聞いた。1年生のバスケ部のエミリって子がサッカー部の五十嵐先輩に告ったら、今は部活が忙しいからって言われたって」
「なんでお前らに会話が筒抜けなんだよ。怖すぎだろ」
「告白されたんじゃん!」
「話したこともない子はノーカウント」
「話したことある子は?」
「いない。凛花は」
「私は告白されたよ」
「誰だよ。俺知ってるやつ?」
「うん。でも絶対に当てられない」
こういうと、郁人はムキになるのはわかっていた。
「ヒント。身長は?」
「高い」
「サッカー部?」
「うん」
「チームの誰かかよ、最悪…。絶対断れ」
「郁人の言うことなんて聞きません。でも須山西のサッカー部じゃない」
「……わかんねーもっとヒント」
「山袋の人」
「はぁ?山袋のサッカー部なら全員須山西……」
郁人は思い当たるところがあったようだが、信じられないという顔で私を見た。
「宮司の家の俊輔?須山高のサッカー部の?」
「正解。俊兄ちゃん」
「今は高3だろ?からかわれたんじゃねえの」
「年末に那珂都山神社の手伝いに行ったら、久しぶりに俊兄ちゃんがいて、一緒に作業したんだ。俊兄ちゃんに、俺はもうすぐ大学に行くから集落を出るけど、凛花が奉納芝居で姫をしていたときから好きだったって言われた」
「凛花が姫をやったのは小五…?」
「うん。よく考えたら変態だよね」
「百%変態。ちゃんと断ったか」
「付き合ってとは言われなかった。大学に行くから気持ちを言いたかったんだって。私は大学頑張ってくださいって言って、俊兄ちゃんは笑ってた」
郁人ははぁ、とため息をついた。
「ふざけんなよ、凛花。心配ばっかりかけんな。告白されんの禁止。神社の手伝いも行くな」こたつの中で郁人が凛花を蹴飛ばした。
「痛いなあ、もう。わかったからやめて」
「俊兄ちゃんから告白された話、俺以外にはすんなよ」
「わかった」
「おくちにチャックチャックな」
「懐かしい!」
幼い頃、私と郁人が騒がしくしても、迷惑にならない場所なら大抵の場合親は大目に見てくれたが、たまに行き過ぎると母が「おくちにチャックチャック。ママが開けて上げるまで凛花はおしゃべり出来ないの」と言って口をつまんで私を黙らせた。
母の魔法の効果はさほど長くは続かず、しばらくするとまた喋りだしてしまう。
懐かしい母。断片的な思い出は優しいものばかりだ。
私は自分で口にチャックして、郁人におどけて見せ、もう一度こたつの中で足を蹴られた。