時は少しだけ前に遡る。

乃花の機転が光り、混乱の中でエルフたちは脱獄を果たし、地下道へと急いで逃げ込んだ。

「みんな! 見張っているからどんどん逃げて!」

メイサは後方を気にしながら、全員が地下道に避難するのを見届けた。次第に黒霧に覆われて視界が閉ざされてくる。

「よかった、これで全員脱出だ……」

最後にメイサも宮殿を後にし、地下道へ続く扉を越えようとした。

けれど、その瞬間――背後の闇の中でシュルシュルと風を切る音がした。その音は獲物に飛びかかる蛇のような素早さでメイサの耳を越え、声をあげる間もなく口元に巻きついた。

うぐっ……!!

目線を下へ向けると淡い魔法の光が口をふさいでいる。助けを求めて仲間のほうへと手を伸ばすが、全員が地下道の闇の中に消えてしまった後だった。

――まずいっ!

振り向くと、黒霧の中にうっすらと人の影が見えた。次第にあらわになるそれは、帝王アルトゥスの姿だった。

「ノハナの奴め、せっかく捕らえたエルフを逃がしおって!」

アルトゥスはメイサに向けて右手を伸ばし、操るように拳を握りつつ引き寄せる。すると、メイサの華奢な体はたやすく倒され、床の上を引きずられてゆく。

「……ッ!」

アルトゥスの瞳は炎のようにぎらつき、恐怖の影をメイサに投げかけた。

「余の支配地に残ったおまえは、さながら最後の獲物だな」

メイサの白銀の髪を鷲掴みにして吊るし上げる。

「いっ……痛いっ、痛いよぉ!」

ばたばたと悶えて叫ぶが、アルトゥスはメイサを見て歪んだ笑みを浮かべた。

「今は魔力を吸収したばかりだが、おまえは貴重なストックだ。ここから逃げられると思うなよ」

「離せッ! このエルフ攫いがッ! あたしを捕まえてどうするつもりなのよっ!」

メイサは宙に浮いた両足でアルトゥスの膝を蹴ろうとしたが、その蹴りは容易にかわされ、振り子のような半円の軌道を描く。

「まったく、余のまわりの女は足癖の悪い者ばかりだな。どうやら教育が必要なようだ」

アルトゥスは拳を握り、メイサのみぞおちに一撃、拳を突き込んだ。

「ぐふっ……!」

メイサはあまりの痛みに気を失い、ぐにゃりと全身の力を失う。アルトゥスは魔法のロープを発動させてメイサの手足を縛りつける。

「ダイゾーンめ、余が育てたこのラスカ帝国を滅ぼさせてたまるか!」

アルトゥスは宮殿の階段を一段一段、昇ってバルコニーを目指す。執事やシェフたちは破壊音に驚いて外に避難したので、宮殿は空虚な空間となっていた。

バルコニーにたどり着くと、頭上に渦巻く黒霧が光を遮り、街を薄闇色に染めていた。

その薄闇の中で、空を裂くような金切り声の鳴き声が聞こえた。どこからともなく鳥のような生き物が現れ、宮殿の上空に集ってゆく。

爬虫類を思わせる瞳は冷たく、鋭い牙と鎧のような鱗が光り、翼が空気を裂く音が不気味に響き渡る。

「ちっ……ダイゾーンめ、ワイバーンを呼びやがったか!」

ワイバーンの叫びが、空気を震わせる。ワイバーンは街の人々に狙いを定め、鋭い爪を持つ足を開き、無差別に人々を襲い始めた。

逃げ惑う人々の叫び声とワイバーンの雄叫びが響き、街は一瞬にして混乱の渦に包まれた。

アルトゥスはバルコニーで仁王立ちになり、薄闇が支配する街に向かって叫ぶ。

「皆の者よ、魔物が暴走し、我々を破滅させようとしている。だが、今こそ我々人間の潜在能力を知らしめてみせるのだ!」

その声に呼応するように、兵士たちはいっせいに拳を天に突き上げ、「うおおおお!」と戦いの叫び声をあげた。

覇気みなぎる兵士たちは弓矢を構え、街を襲うワイバーンに立ち向かう。人々を襲おうと高度を下げたタイミングを見計らい、矢の豪雨が放たれる。

ワイバーンがアルトゥスを狙って滑空してきた。アルトゥスは手のひらをかざして魔法を詠唱する。

――『雷光という戦慄の旋律(ガルミシャス・デ・ヴォーイス)!」

ピシャアァァァッ!!

アルトゥスの手のひらから雷光が放たれると、ワイバーンは悲鳴をあげ、全身を震わせながら地面に落ちていく。鱗の焦げた匂いでメイサは意識を取り戻した。

見上げるとアルトゥスの背中姿が目に映った。起き上がろうとするが、手足を縛られ身動きが取れない。視界には空が映り、高所に連れてこられたのだと気づいた。まずい状況だと察し、冷たい汗が背中を伝う。

アルトゥスは魔法を唱え、次々とワイバーンを撃ち落としていく。一匹、また一匹と撃墜するたびに地上の人々が喝采をあげる。

「どうして人間が魔法を……」

その光景を見たメイサは呻くような声をもらした。気づいたアルトゥスは振り向き、冷たい目でメイサを見下ろす。

「ふっ、目を覚ましたか。余の魔法はエルフの力を得た恩恵だ」

「力を得たって……捕まえたエルフたちにいったいなにをしたの!?」

アルトゥスは発動した雷の魔法を手の中で踊らせながら言う。

「なぁに、余が魔力を引きついたまでだ。おまえも余の一部となり、帝国の礎になれることを誇らしく思うがよい」

「なんだってッ! そんなの、ちっとも誇らしくないわ!」

メイサは怒りを叩きつけるように叫んだ。四肢の動きを封じられても、瞳の輝きは失われていない。

誰かに助けを求めなくちゃ。でも、この場所じゃ叫んでも無駄だ。こうなったら――。

メイサは右手を小刻みに9回、リズムをつけて動かした。それがメイサにできるせいいっぱいだった。

――どうかヨナに届いて!

メイサは心の中で祈りを捧げた。

アルトゥスは近づいてくるワイバーンを次々と落としていった。空を支配する魔物は徐々にその数を減らしてゆく。

しかし、アルトゥスの魔法は次第に勢いを失っていく。魔力が枯渇してきたのだ。

ワイバーンを一撃で撃墜できなくなった時、アルトゥスは口角を上げて横たわるメイサに視線を落とした。いよいよ腰に携えた罹災狂を握りしめた。

「ついにおまえの出番だな。さあ、おまえの魔力をたんと味わってやろう」

アルトゥスはご馳走にありつく獣のような、迷いのない目でメイサに歩み寄る。横たわるメイサの髪を掴んで持ち上げ、顔をのぞき込んだ。

「深いブルーの目をしているな。その瞳に宿る目力もまた、余のものとなるのだ。さあ来い、人外の者よ!」

「人間か、それ以外か、みたいな言い方するな! 自惚れた人間に栄光なんかあるはずないわ!」

メイサは視線に抵抗の意思を込めてアルトゥスを睨みつける。

「ふふっ、おまえの辞世の句は、確かに聞き留めたぞ。恨みつらみは来世で語るがよい」

アルトゥスは、メイサの屈しない意思を跳ねのけて罹災狂を振り上げる。

運命がついえる瞬間が、メイサの目の前に迫っていた――。