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与那の視界には、厚い雲に覆われた空が飛び込んできた。雲の隙間からわずかに差し込む光が、異世界の空気の冷たさを和らげているように感じられた。
身を起こして周囲を確かめると、そこは清流の川の岸辺で、地面はまるで隕石が衝突したかのように凹み、周囲には砂利が飛び散っていた。与那はそのくぼみの中央に横たわっていた。
強烈な衝撃があったようだが、与那の体に異変はない。神の言葉を思い出す。
――とにかく死に物狂いで頑張れ!
あれは夢だったのか? 夢であってほしい。俺は店に戻って、あの可愛い子とふたりでお仕事ライフをエンジョイしたいんだぁぁぁ!
心の中で叫び願うが、どう見てもここはかつて住んでいた街の雰囲気ではない。周囲の景色は見慣れないもので、異世界に転移させられた現実を突きつけられた。
まじで異世界に来ちまったのかよぉぉぉー!
川の上流から冷たい風が吹いてくるのを感じた。さらに草をかき分ける音がして、何者かが近くの草むらの中から飛び出してきた。
おっ、異世界人間第一号、発見!
目深に麦わら帽子をかぶり、質素な革造りのケープコートを纏う、中学生くらいに見える小柄な子供だった。顔隠しのせいで性別はわからない。たびたび背後を振り返りながら駆けてくる。
住人がいるのなら救いを求めることができるかもしれない。そう思ったところで子供は与那に気づき、急ターンしてこちらに向かってきた。
「おいっ、そこの人間、頼みがある!」
小鳥が鳴くような甲高い声をしている。やはり子供のようだ。与那の目の前で足を止め、息を切らせながら見上げる。目が合った。
与那をのぞく瞳は、晴れやかな空を吸い込んだかのような、きれいなセレストブルーをしていた。その瞳には切迫感と必死さが宿っていた。
「あいつらを引きつけてほしい!」
「はぁ? あいつらって?」
「追われているんだ!」
その子供は振り返って走ってきた方向を指さす。事態が把握できずに戸惑ったが、この子供を見捨てることなんてできない。
すると、草むらから見たことのない姿をしたいきものが飛び出してきた。二本足で走る、大きな犬のようないきものだ。しかも剣を手にし、雑な作りの服をまとっている。魔物と呼ぶにふさわしい、いかつい姿。それも三体だ。
「ひいいっ! あいつら、いったいなんなんだよ!」
「知らないの? コボルドだって!」
まさに異世界! さっそく絶体絶命のピンチ! 殺気立った目に睨まれ、背中が凍りついて身動きが取れなくなった。
「ウジュルウジュル、腹へっタ。……ハーネス様は言ったネ。逃げ出した奴は捉えテ喰ってもイイと」
ヨダレを垂らし、舌舐めずりをしながらじりじりと迫ってくる。
「言っとくけど俺、ノースキルだぞ!」
「そんなわけないでしょ、でなきゃこの森の深層部まで来られるわけがないじゃない!」
「そんなこと言われても知らないよ。気づいたらここにいたんだから」
「押し問答してる場合じゃないでしょ! とにかく相手を引きつけて。そうすれば魔法一撃で片づけるから!」
「おおっ!? 魔法が使えるのかよ!」
『魔法』というキーワードに、異世界感を覚える与那であった。
「でもなんで俺が囮にっ!?」
「魔法を放つと気を失っちゃうんだってば! だから、一発で倒さないとぉぉぉ!」
「おまえ、ポンコツ魔法使いかよぉぉぉ!」
「好きでそうなったわけじゃないってばぁぁぁ!」
すると、三体の魔物は息を揃えて飛び上がった。体長の三倍を超える、みごとな大ジャンプだ。
「ウジュルル……ウガアアァァァ!」
目を奪われた瞬間、ポンコツ魔法使いは、与那の背後に回り込んだ。そして力の限り与那の尻を足蹴にした。
「うわ、わ、わっ……!」
よろけて前のめりになると、三体のコボルドがいっせいに襲いかかってきた。
「魔法の範囲に巻き込んだらごめん!」
「ひでえ! 確信犯かよ!」
ポンコツ魔法使いは両手を高々と掲げ、魔法を詠唱した。
――『木々の矢嵐を降らせる魔法!』
すると頭上の木々がざわめいて枝葉をコボルドに向ける。葉が鋭く変形し、豪雨のように魔物に襲いかかった。
「ギャインギャイーン!」
二体のコボルドが攻撃を受けて吹き飛ばされ、尻尾を股の内側に丸めて逃げてゆく。与那は無傷だったが、最後の一体を仕留めることはできなかった。攻撃をかいくぐったコボルドが襲いかかってくる。
「やばっ、倒せてないぞ!」
「はうぁ~ん」
後ろを振り向くとポンコツ魔法使いは魂の抜けた顔でその場に倒れ込む。
これ、一撃で倒せなかったら詰んじゃうパターンじゃん!
そう思った瞬間、魔物の動きがぴたりと止まる。木々のゆらめきも、はたと消えていた。時間が止まっていたのだ。世界の色がグレーを基調としたモノトーンに変貌していた。
な、なにが起きたんだ!?
すると脳内で聞き覚えのある声が響く。
『フハハハハ、さっそくピンチのようだな』
「その声は……ギャンドゥ神!? めっちゃひとごとみたいじゃないっすか!」
『私は感謝されることはあっても恨まれることはない。なぜなら、あのまま放置プレイを続行していたならば、おぬしは確実に死んでいたのだからな』
「どっちにしろ、もうダメっぽいですけど!」
『だが、おぬしには武器がある』
「武器……って?」
『今までの社畜人生、それこそが、武器となるに違いない』
「俺って社畜だったんっすか!? 自覚がないんですけどっ!」
与那の趣味はごまんとある100円の品物をえんえんと並べること。幾何学的に並べた時のあの恍惚感がたまらないのだ。
『そうだ、社畜の自覚がない者こそ最上級の社畜なのだ! まさにおぬしはA5ランクの店員だ!』
「牛肉っすか! でも生涯初の最高ランク、悪い気はしないですけどっ!」
『そんな社畜さを認め、おぬしには100円ショップへのアクセス権を授けよう。スキルはなくとも、100円アイテムと創意工夫で危機を乗り越えてみせよ!』
突然、与那のカーゴパンツの両ポケットがまばゆい光を発する。二筋の光は、天空へ伸び厚い雲を照らし出した。
『今、おぬしのポケットの中は、元の世界の空間と同調している。さあ、かつての文明を応用し、新たな世界の救世主となるのだ!』
「俺が救世主に!?」
『というわけで、まずは知恵を振り絞り、その子供の願いを叶えてみせよ!』
一方的に用件を押し付け、ギャンドゥ神の声は遠ざかる。
「ちょっ、せめてチュートリアルしてくださーい!」
「神は多忙ゆえ割愛する。では、さらばだぁぁぁ!」
ドップラー効果で低くなる声が恨めしい。
その瞬間、周囲の風景が色彩を取り戻し、時間が進み出した。魔物が与那をじろりと睨む。
ちょっと待て、俺、丸腰だぞ? 異世界に来た瞬間、ゲームオーバーなんてありかよ!
けれど神は力を授けると言っていた。もしかしてこのポケットにチート的な力が――?
とにかく犬っぽい魔物の気を引き付けられるものを!
与那はあわててカーゴパンツのポケットに両手を突っ込み、中をまさぐる。すると奥で硬く冷たい円形のなにかが触れた。掴んで引き抜くと出てきたのは――。
こっ、これはっ!
じゃじゃん! 100円ショップ人気のおつまみ、『バルト海いわしのアヒージョ缶詰』!
これが救いとなるのか!?
すかさずプルタブを引いて、その中身をぶちまける。
「これでも喰らえェェェ!」
あたりにオリーブオイルとにんにくの香ばしい香りが広がる。魔物の視線が与那から宙を舞うバルト海いわしへと移りゆく。
「フオオオオォォ! なンだこの香リはァァァ!」
魔物は本能丸出しで飛び上がり、バルト海いわしを華麗に口でキャッチした。
「がぶがぶがぶ……ごっくん! こりゃあ人間の100倍うめぇ!」
与那たちを見向きもせず、鼻をスンスンとしながら落ちたいわしを探し始めた。やみつきになるのは一瞬だった。
やった! 今なら逃げ切れる! 100円おつまみすげえ!!
現実世界の料理の神秘にほだされたコボルドは、もはやただの野良犬にしか見えない。与那は失神したポンコツ魔法使いを抱きかかえてその場から全速力で逃げ去った。
引き離せれば匂いで尾行されることはないはず。なぜなら、あの強烈なアヒージョのにおいは魔物の嗅覚を麻痺させるほどなのだから。
与那の視界には、厚い雲に覆われた空が飛び込んできた。雲の隙間からわずかに差し込む光が、異世界の空気の冷たさを和らげているように感じられた。
身を起こして周囲を確かめると、そこは清流の川の岸辺で、地面はまるで隕石が衝突したかのように凹み、周囲には砂利が飛び散っていた。与那はそのくぼみの中央に横たわっていた。
強烈な衝撃があったようだが、与那の体に異変はない。神の言葉を思い出す。
――とにかく死に物狂いで頑張れ!
あれは夢だったのか? 夢であってほしい。俺は店に戻って、あの可愛い子とふたりでお仕事ライフをエンジョイしたいんだぁぁぁ!
心の中で叫び願うが、どう見てもここはかつて住んでいた街の雰囲気ではない。周囲の景色は見慣れないもので、異世界に転移させられた現実を突きつけられた。
まじで異世界に来ちまったのかよぉぉぉー!
川の上流から冷たい風が吹いてくるのを感じた。さらに草をかき分ける音がして、何者かが近くの草むらの中から飛び出してきた。
おっ、異世界人間第一号、発見!
目深に麦わら帽子をかぶり、質素な革造りのケープコートを纏う、中学生くらいに見える小柄な子供だった。顔隠しのせいで性別はわからない。たびたび背後を振り返りながら駆けてくる。
住人がいるのなら救いを求めることができるかもしれない。そう思ったところで子供は与那に気づき、急ターンしてこちらに向かってきた。
「おいっ、そこの人間、頼みがある!」
小鳥が鳴くような甲高い声をしている。やはり子供のようだ。与那の目の前で足を止め、息を切らせながら見上げる。目が合った。
与那をのぞく瞳は、晴れやかな空を吸い込んだかのような、きれいなセレストブルーをしていた。その瞳には切迫感と必死さが宿っていた。
「あいつらを引きつけてほしい!」
「はぁ? あいつらって?」
「追われているんだ!」
その子供は振り返って走ってきた方向を指さす。事態が把握できずに戸惑ったが、この子供を見捨てることなんてできない。
すると、草むらから見たことのない姿をしたいきものが飛び出してきた。二本足で走る、大きな犬のようないきものだ。しかも剣を手にし、雑な作りの服をまとっている。魔物と呼ぶにふさわしい、いかつい姿。それも三体だ。
「ひいいっ! あいつら、いったいなんなんだよ!」
「知らないの? コボルドだって!」
まさに異世界! さっそく絶体絶命のピンチ! 殺気立った目に睨まれ、背中が凍りついて身動きが取れなくなった。
「ウジュルウジュル、腹へっタ。……ハーネス様は言ったネ。逃げ出した奴は捉えテ喰ってもイイと」
ヨダレを垂らし、舌舐めずりをしながらじりじりと迫ってくる。
「言っとくけど俺、ノースキルだぞ!」
「そんなわけないでしょ、でなきゃこの森の深層部まで来られるわけがないじゃない!」
「そんなこと言われても知らないよ。気づいたらここにいたんだから」
「押し問答してる場合じゃないでしょ! とにかく相手を引きつけて。そうすれば魔法一撃で片づけるから!」
「おおっ!? 魔法が使えるのかよ!」
『魔法』というキーワードに、異世界感を覚える与那であった。
「でもなんで俺が囮にっ!?」
「魔法を放つと気を失っちゃうんだってば! だから、一発で倒さないとぉぉぉ!」
「おまえ、ポンコツ魔法使いかよぉぉぉ!」
「好きでそうなったわけじゃないってばぁぁぁ!」
すると、三体の魔物は息を揃えて飛び上がった。体長の三倍を超える、みごとな大ジャンプだ。
「ウジュルル……ウガアアァァァ!」
目を奪われた瞬間、ポンコツ魔法使いは、与那の背後に回り込んだ。そして力の限り与那の尻を足蹴にした。
「うわ、わ、わっ……!」
よろけて前のめりになると、三体のコボルドがいっせいに襲いかかってきた。
「魔法の範囲に巻き込んだらごめん!」
「ひでえ! 確信犯かよ!」
ポンコツ魔法使いは両手を高々と掲げ、魔法を詠唱した。
――『木々の矢嵐を降らせる魔法!』
すると頭上の木々がざわめいて枝葉をコボルドに向ける。葉が鋭く変形し、豪雨のように魔物に襲いかかった。
「ギャインギャイーン!」
二体のコボルドが攻撃を受けて吹き飛ばされ、尻尾を股の内側に丸めて逃げてゆく。与那は無傷だったが、最後の一体を仕留めることはできなかった。攻撃をかいくぐったコボルドが襲いかかってくる。
「やばっ、倒せてないぞ!」
「はうぁ~ん」
後ろを振り向くとポンコツ魔法使いは魂の抜けた顔でその場に倒れ込む。
これ、一撃で倒せなかったら詰んじゃうパターンじゃん!
そう思った瞬間、魔物の動きがぴたりと止まる。木々のゆらめきも、はたと消えていた。時間が止まっていたのだ。世界の色がグレーを基調としたモノトーンに変貌していた。
な、なにが起きたんだ!?
すると脳内で聞き覚えのある声が響く。
『フハハハハ、さっそくピンチのようだな』
「その声は……ギャンドゥ神!? めっちゃひとごとみたいじゃないっすか!」
『私は感謝されることはあっても恨まれることはない。なぜなら、あのまま放置プレイを続行していたならば、おぬしは確実に死んでいたのだからな』
「どっちにしろ、もうダメっぽいですけど!」
『だが、おぬしには武器がある』
「武器……って?」
『今までの社畜人生、それこそが、武器となるに違いない』
「俺って社畜だったんっすか!? 自覚がないんですけどっ!」
与那の趣味はごまんとある100円の品物をえんえんと並べること。幾何学的に並べた時のあの恍惚感がたまらないのだ。
『そうだ、社畜の自覚がない者こそ最上級の社畜なのだ! まさにおぬしはA5ランクの店員だ!』
「牛肉っすか! でも生涯初の最高ランク、悪い気はしないですけどっ!」
『そんな社畜さを認め、おぬしには100円ショップへのアクセス権を授けよう。スキルはなくとも、100円アイテムと創意工夫で危機を乗り越えてみせよ!』
突然、与那のカーゴパンツの両ポケットがまばゆい光を発する。二筋の光は、天空へ伸び厚い雲を照らし出した。
『今、おぬしのポケットの中は、元の世界の空間と同調している。さあ、かつての文明を応用し、新たな世界の救世主となるのだ!』
「俺が救世主に!?」
『というわけで、まずは知恵を振り絞り、その子供の願いを叶えてみせよ!』
一方的に用件を押し付け、ギャンドゥ神の声は遠ざかる。
「ちょっ、せめてチュートリアルしてくださーい!」
「神は多忙ゆえ割愛する。では、さらばだぁぁぁ!」
ドップラー効果で低くなる声が恨めしい。
その瞬間、周囲の風景が色彩を取り戻し、時間が進み出した。魔物が与那をじろりと睨む。
ちょっと待て、俺、丸腰だぞ? 異世界に来た瞬間、ゲームオーバーなんてありかよ!
けれど神は力を授けると言っていた。もしかしてこのポケットにチート的な力が――?
とにかく犬っぽい魔物の気を引き付けられるものを!
与那はあわててカーゴパンツのポケットに両手を突っ込み、中をまさぐる。すると奥で硬く冷たい円形のなにかが触れた。掴んで引き抜くと出てきたのは――。
こっ、これはっ!
じゃじゃん! 100円ショップ人気のおつまみ、『バルト海いわしのアヒージョ缶詰』!
これが救いとなるのか!?
すかさずプルタブを引いて、その中身をぶちまける。
「これでも喰らえェェェ!」
あたりにオリーブオイルとにんにくの香ばしい香りが広がる。魔物の視線が与那から宙を舞うバルト海いわしへと移りゆく。
「フオオオオォォ! なンだこの香リはァァァ!」
魔物は本能丸出しで飛び上がり、バルト海いわしを華麗に口でキャッチした。
「がぶがぶがぶ……ごっくん! こりゃあ人間の100倍うめぇ!」
与那たちを見向きもせず、鼻をスンスンとしながら落ちたいわしを探し始めた。やみつきになるのは一瞬だった。
やった! 今なら逃げ切れる! 100円おつまみすげえ!!
現実世界の料理の神秘にほだされたコボルドは、もはやただの野良犬にしか見えない。与那は失神したポンコツ魔法使いを抱きかかえてその場から全速力で逃げ去った。
引き離せれば匂いで尾行されることはないはず。なぜなら、あの強烈なアヒージョのにおいは魔物の嗅覚を麻痺させるほどなのだから。



