緑に囲まれた衛星都市の商店街。その一角にたたずむ100円ショップには、ところせましと陳列棚が並べられている。蛍光灯の光に照らされた商品がさまざまな姿の影を描いていた。
「ふぅ~、これで準備完了!」
開店前の静かな店内で品物を整列しているのは、安井与那。齢十九、高卒2年目でこの100円ショップ「ギャン☆ドゥ」の主力となりえたのは、高校時代、バイト生ながら社畜を超えた鬼畜的な働きっぷりが店長に評価されたためである。まさに、鳴り物入りでの入社であった。
与那の目前に並べられた100円のグラスたちは、陳列棚に黄金比の螺旋を描いている。与那は理路整然とした幾何学的な模様を前にして充足感に酔いしれていた。うまく並べられた日は、一日の仕事を気持ちよく始められる。
開店時間が迫ると、店の最奥にあるフィギュアの前に立ち、2回、手を叩いて頭を下げる。
「今日も一日、店の品物がたくさん売れますよーにっ!」
礼拝は開店前におこなう与那の日課である。願っているのは、100円の品物たちが世の中の役に立つこと。与那の心は、商品ひとつひとつに対する愛情と、それを手に取るお客さんへの感謝の気持ちでいっぱいだった。
フィギュアは、高さは約20センチメートルにも満たないが、顔立ちは威厳に満ち、目は鋭さと慈愛に満ちた光を宿している。筋肉質な体躯を包むローブは風になびくデザイン。頭には「百」という漢字が刻まれた冠が輝いている。
いつから置いてあるのかはわからないが、英雄の姿を模したフィギュアは、ひときわ神々しい存在感を放っている。(ように与那には見える)与那はこのフィギュアは、店の守護神ではないかと勝手に思っていた。
「うぉーい、与那。開店すっぞー!」
らっきょう頭の中年男である店長、宇賀達夫が与那に向かって声を張りあげた。仕事には厳しいが、根は優しいことを与那は重々理解している。
「はーい、今開けまーす!」
与那は店のシャッターに手をかけて勢いよく引き上げた。シャッターが上がる音とともに、差し込む日光が波のように流れ、陳列された品物を照らし出していく。
ひときわ明るく輝いた店内では、日用品から文房具、キッチン用品まで、さまざまな商品が客を迎えていた。商品のひとつひとつが、まるで新しい一日の始まりを祝福するかのように輝いている。
今日は日曜日で、朝から商店街はにぎわっていた。近隣の公園で散策するカップルや家族連れが商店街を通るからだ。100円ショップに吸い込まれていく通行人も多い。飲み物やお菓子をかごにいれた子供たちが楽しそうな足取りでレジに向かう。店には客たちの笑顔と笑い声が広がり、与那は晴れ晴れとした気持ちになった。
「店員さーん、レジお願いしますー」
「あっ、はい、今行きますー」
急いでレジに向かいバーコードリーダーを手に取ると、店の奥で店長が手を振り呼びかけてきた。
「与那ぁー、今日からバイトがひとり、入るからなー」
「へー、100円ショップは経験者ですか?」
「いや、ズブの素人だ。だから丁重に教えてやってくれよー」
「はいー、ブスの素人っすね。了解しましたー」
両手で頭上に丸を描くと、店長は横を向いて手招きをする。「ブスの素人」だなんて店長は口が悪いなぁ、顔よりも手際のよさが重要なのに、と思った与那だったが、棚の陰から姿を現した新入りのバイト生は――意外なことに、アイドル並に若くてかわいらしい女性だった。
たたん、と軽やかな早足で与那に向かってくる。
彼女の長い黒髪は絹のように艶やかで、光を反射して輝いている。愛らしいやわらかな小顔なのに、瞳は大きく、星空を宿したかのように輝いていた。与那と目が合うと、花火が弾けるような笑顔を見せた。
ちょちょ、ちょっと待って! 可愛すぎるぞ! この子、ほんとに俺と同じ店で働くのか!?
与那の胸は奔馬が疾走するがごとく弾んでいた。けれど、彼女のたわわな胸もまた、リズミカルな足取りに合わせて遠慮なしに弾んでいた。デフォルトで艶めかしい姿を目の当たりにした与那は、さっそく脳髄が溶けて耳から溢れ出そうになった。
この子が吐き出した二酸化炭素を吸っちゃったら、脳内ホルモンがドバッと噴き出して卒倒しちゃうってば! 俺の理性よ、どうかこの世界から消えないでくれ!
彼女は与那の目の前で足を止めると罪深いほどにくびれた腰を曲げ、上目遣いで顔をのぞき込んだ。初対面とは思えないほど、距離が近づいていた。
「お待たせしました、これからよろしくね~♡」
吐息交じりの語尾と警戒心のかけらもない笑顔は、強烈な嵐のごとく与那の理性を吹き飛ばす。もはや店の陳列棚が空中庭園の花壇に脳内変換されていた。
しかし、残された思考で感じ取った違和感は、彼女の態度がまるで気心知れた相手に挨拶しているようで、それは初対面にしては不自然すぎる距離感だということ。刺客のごとき素早さで懐に飛び込む距離の縮め方は、ハニートラップとしか思えないと疑心暗鬼にかられてしまう。
けれど律儀な挨拶は欠かせない。100%の笑顔を忘れては、100円ショップの店員が務まるはずがない。
「よっ、よろしくお願いします。俺、安井与那っていいます」
「やぁだ、与那さん。なに改まっちゃっているのよ~」
彼女は親しげに与那の胸を手のひらで軽くポンと叩く。与那は突然のボディタッチに「ひゃっ!」と声をあげた。
って、なんでこの子、こんなに馴れ馴れしいんだぁぁぁ! うれしすぎるけどぉぉぉ!
人差し指を立て、からかうように与那の頬をぷにぷにと突っつく。与那は触れたしなやかな指先から電気が放たれ、全身が麻痺するような感覚に襲われた。
「さては、わたしとの関係を秘密にする気だな~?」
「は? 高根さんとの関係?」
「まぁ、無理もないわよね。さすがに他人には言えない関係だし」
ちょっ……ちょっと待て! どういうこと!?
彼女いない歴19年どころか、女子との交流すらほとんど経験のない与那にとって、高根さんの言っていることは意味不明の極みだった。だから、他人に言えない関係を築いていたなど、ありえるはずがない。だけど――。
「でもわたし、与那さんのすごいところ、たくさん知っているんだから!」
可愛らしく肩をすくめてペロッと舌を出した仕草に、与那の心臓は天使の放つ矢に突き抜かれた。
もう、ハニートラップでもなんでもいい! 俺、だまし取れるような金は持ってないから、かわりにハートを盗んでくれえええ!
「じゃあ、さっそくレジのやり方を教えてもらえるかなぁ」
「ひゃっ、ひゃいっ! レジはこのバーコードリーダーを右手に構えて」
「敵に向かって撃つんでしょ? ぱぁーん、って軽快に!」
「そんなわけないってば!」
「あはは、冗談だって。でも思い出すわぁ、与那さんの活躍。スリングでゴブリンをばったばったとなぎ倒した時のアレよ」
「はぁ? スリングでゴブリン?」
与那は高根さんの語ることの意味がまるで理解できなかった。話の流れからすればゲームのことに違いない。オンラインゲームか、それともゲームセンターのことだろうか。
けれど記憶の糸を手繰り寄せても、高根さんに繋がる手がかりは皆無だった。こんなに可愛い子との出会いがあれば、記憶に残らないはずはないというのに。
「でもよかった。与那さんと再会できて。100円ショップを探しまくった甲斐があったわぁ。ほんと、見つけるのに苦労したんだから」
「まさか俺のこと、探していたのか?」
「当然でしょ。約束したじゃない」
約束? 俺がこの子と? いったいいつ、どこで?
高根さんの言葉に、与那の心は一瞬止まった。
上目遣いで与那の目を見つめ、顔の前に小指を立てて差し出す高根さん。彼女の瞳は与那への期待が込められているようだ。けれど心当たりがなさすぎる以上、彼女のたくましい妄想のなせるわざとしか考えられなかった。
すると高根さんは与那の曖昧な反応に眉毛を寄せた。彼女の表情には失望と疑念が浮かんでいて、与那は気まずくてしかたなかった。
「ははっ、約束ってなんだっけ……?」
「まさか、あの時のこと忘れちゃったの?」
「あっ、へへっ、まぁ……」
「ひっどーい! わたしとあんな経験をしたのに、忘れちゃうなんて考えられない!」
高根さんはむっとした顔して腕を組み、滑らかな肌の頬をぷうっと膨らませた。けれど、どんなに怒られようが彼女の記憶は脳内のどこにもない。
険悪な雰囲気に包まれたその時――突如、地面が突き上げられるような衝撃に襲われた。
「うわっ、地震だ!」
「きゃあっ!」
強烈な縦揺れの数秒後、店全体が激しく左右に揺さぶられる。あたりの棚から陳列物が崩れ落ちた。店内は一瞬にして混乱の渦に巻き込まれた。
激しい地震に、店の客たちが悲鳴をあげた。真剣な表情を取り戻した与那は、レジのカウンターを飛び出して店の中央スペースに移動し、客に避難の指示をする。
「棚のそばから離れてください! レジ前のスペースで身をかがめて待機を!」
食器が並んでいる陳列棚に手をかけ必死に腕に力を込めるが、激しい横揺れで陳列棚が踊り狂う。ガラスのコップや陶磁器が撒き散らされて破砕音を響かせた。与那にとっては、商品が壊れていくさまは自身の心が砕けるような感覚だった。
くそっ、早く止まってくれ!
高卒後、100円ショップで勤務していた与那だったが、仕事の最中に地震が起きるなんて初めての経験だ。ひとつひとつは安い品物だけど、ぜんぶ大切な売り物なのだ。
「与那さん、わたしも手伝う!」
追いかけてきた高根さんが与那の隣に並び陳列棚に手をかけた。
「高根さんも避難して。女の子に怪我はさせられないよ!」
「なに言っているのよ。ここで引き下がるなんてできないわ。一緒に戦った仲じゃない!」
「はぁっ!? 戦ったって、どこで誰と?」
高根さんの言うことはあまりにも意味不明だが、その真剣な表情はけっして冗談ではないことを物語っていた。
「まだとぼけるの? それと、他人行儀に苗字で呼ばないで。ちゃんとファーストネームで呼んでよ!」
「って、高根さんのファーストネームなんだっけ!?」
与那はなぜ、自分が高根さんの世界の住人として市民権を得ているのかさっぱりだ。
「ひっど! そこまで忘れっぽい人だと思わなかったわ。わたしの名前は――」
言いかけた瞬間、与那の背後から巨大な影が迫ってきた。気づいて振り返ると――壁に固定されていた巨大な陳列棚が外れて倒れ、ふたりを飲み込もうとしていた。
「あぶないっ!」
与那はすかさず高根さんを突き飛ばした。
「きゃあっ!」
高根さんがよろけて転び、影から逃れた瞬間、与那の後頭部に激しい衝撃が走った。脳が揺さぶられ、視界が暗転する。痛みが全身を駆け巡り、意識が容赦なく闇に飲み込まれてゆく。
閉ざされてゆく視界の中で、与那の脳裏に不思議な声が響く。
『安井与那よ、おぬしのような真摯な若者を、みすみす失うわけにはいかない。その命、私が預かるとしよう――』
「ふぅ~、これで準備完了!」
開店前の静かな店内で品物を整列しているのは、安井与那。齢十九、高卒2年目でこの100円ショップ「ギャン☆ドゥ」の主力となりえたのは、高校時代、バイト生ながら社畜を超えた鬼畜的な働きっぷりが店長に評価されたためである。まさに、鳴り物入りでの入社であった。
与那の目前に並べられた100円のグラスたちは、陳列棚に黄金比の螺旋を描いている。与那は理路整然とした幾何学的な模様を前にして充足感に酔いしれていた。うまく並べられた日は、一日の仕事を気持ちよく始められる。
開店時間が迫ると、店の最奥にあるフィギュアの前に立ち、2回、手を叩いて頭を下げる。
「今日も一日、店の品物がたくさん売れますよーにっ!」
礼拝は開店前におこなう与那の日課である。願っているのは、100円の品物たちが世の中の役に立つこと。与那の心は、商品ひとつひとつに対する愛情と、それを手に取るお客さんへの感謝の気持ちでいっぱいだった。
フィギュアは、高さは約20センチメートルにも満たないが、顔立ちは威厳に満ち、目は鋭さと慈愛に満ちた光を宿している。筋肉質な体躯を包むローブは風になびくデザイン。頭には「百」という漢字が刻まれた冠が輝いている。
いつから置いてあるのかはわからないが、英雄の姿を模したフィギュアは、ひときわ神々しい存在感を放っている。(ように与那には見える)与那はこのフィギュアは、店の守護神ではないかと勝手に思っていた。
「うぉーい、与那。開店すっぞー!」
らっきょう頭の中年男である店長、宇賀達夫が与那に向かって声を張りあげた。仕事には厳しいが、根は優しいことを与那は重々理解している。
「はーい、今開けまーす!」
与那は店のシャッターに手をかけて勢いよく引き上げた。シャッターが上がる音とともに、差し込む日光が波のように流れ、陳列された品物を照らし出していく。
ひときわ明るく輝いた店内では、日用品から文房具、キッチン用品まで、さまざまな商品が客を迎えていた。商品のひとつひとつが、まるで新しい一日の始まりを祝福するかのように輝いている。
今日は日曜日で、朝から商店街はにぎわっていた。近隣の公園で散策するカップルや家族連れが商店街を通るからだ。100円ショップに吸い込まれていく通行人も多い。飲み物やお菓子をかごにいれた子供たちが楽しそうな足取りでレジに向かう。店には客たちの笑顔と笑い声が広がり、与那は晴れ晴れとした気持ちになった。
「店員さーん、レジお願いしますー」
「あっ、はい、今行きますー」
急いでレジに向かいバーコードリーダーを手に取ると、店の奥で店長が手を振り呼びかけてきた。
「与那ぁー、今日からバイトがひとり、入るからなー」
「へー、100円ショップは経験者ですか?」
「いや、ズブの素人だ。だから丁重に教えてやってくれよー」
「はいー、ブスの素人っすね。了解しましたー」
両手で頭上に丸を描くと、店長は横を向いて手招きをする。「ブスの素人」だなんて店長は口が悪いなぁ、顔よりも手際のよさが重要なのに、と思った与那だったが、棚の陰から姿を現した新入りのバイト生は――意外なことに、アイドル並に若くてかわいらしい女性だった。
たたん、と軽やかな早足で与那に向かってくる。
彼女の長い黒髪は絹のように艶やかで、光を反射して輝いている。愛らしいやわらかな小顔なのに、瞳は大きく、星空を宿したかのように輝いていた。与那と目が合うと、花火が弾けるような笑顔を見せた。
ちょちょ、ちょっと待って! 可愛すぎるぞ! この子、ほんとに俺と同じ店で働くのか!?
与那の胸は奔馬が疾走するがごとく弾んでいた。けれど、彼女のたわわな胸もまた、リズミカルな足取りに合わせて遠慮なしに弾んでいた。デフォルトで艶めかしい姿を目の当たりにした与那は、さっそく脳髄が溶けて耳から溢れ出そうになった。
この子が吐き出した二酸化炭素を吸っちゃったら、脳内ホルモンがドバッと噴き出して卒倒しちゃうってば! 俺の理性よ、どうかこの世界から消えないでくれ!
彼女は与那の目の前で足を止めると罪深いほどにくびれた腰を曲げ、上目遣いで顔をのぞき込んだ。初対面とは思えないほど、距離が近づいていた。
「お待たせしました、これからよろしくね~♡」
吐息交じりの語尾と警戒心のかけらもない笑顔は、強烈な嵐のごとく与那の理性を吹き飛ばす。もはや店の陳列棚が空中庭園の花壇に脳内変換されていた。
しかし、残された思考で感じ取った違和感は、彼女の態度がまるで気心知れた相手に挨拶しているようで、それは初対面にしては不自然すぎる距離感だということ。刺客のごとき素早さで懐に飛び込む距離の縮め方は、ハニートラップとしか思えないと疑心暗鬼にかられてしまう。
けれど律儀な挨拶は欠かせない。100%の笑顔を忘れては、100円ショップの店員が務まるはずがない。
「よっ、よろしくお願いします。俺、安井与那っていいます」
「やぁだ、与那さん。なに改まっちゃっているのよ~」
彼女は親しげに与那の胸を手のひらで軽くポンと叩く。与那は突然のボディタッチに「ひゃっ!」と声をあげた。
って、なんでこの子、こんなに馴れ馴れしいんだぁぁぁ! うれしすぎるけどぉぉぉ!
人差し指を立て、からかうように与那の頬をぷにぷにと突っつく。与那は触れたしなやかな指先から電気が放たれ、全身が麻痺するような感覚に襲われた。
「さては、わたしとの関係を秘密にする気だな~?」
「は? 高根さんとの関係?」
「まぁ、無理もないわよね。さすがに他人には言えない関係だし」
ちょっ……ちょっと待て! どういうこと!?
彼女いない歴19年どころか、女子との交流すらほとんど経験のない与那にとって、高根さんの言っていることは意味不明の極みだった。だから、他人に言えない関係を築いていたなど、ありえるはずがない。だけど――。
「でもわたし、与那さんのすごいところ、たくさん知っているんだから!」
可愛らしく肩をすくめてペロッと舌を出した仕草に、与那の心臓は天使の放つ矢に突き抜かれた。
もう、ハニートラップでもなんでもいい! 俺、だまし取れるような金は持ってないから、かわりにハートを盗んでくれえええ!
「じゃあ、さっそくレジのやり方を教えてもらえるかなぁ」
「ひゃっ、ひゃいっ! レジはこのバーコードリーダーを右手に構えて」
「敵に向かって撃つんでしょ? ぱぁーん、って軽快に!」
「そんなわけないってば!」
「あはは、冗談だって。でも思い出すわぁ、与那さんの活躍。スリングでゴブリンをばったばったとなぎ倒した時のアレよ」
「はぁ? スリングでゴブリン?」
与那は高根さんの語ることの意味がまるで理解できなかった。話の流れからすればゲームのことに違いない。オンラインゲームか、それともゲームセンターのことだろうか。
けれど記憶の糸を手繰り寄せても、高根さんに繋がる手がかりは皆無だった。こんなに可愛い子との出会いがあれば、記憶に残らないはずはないというのに。
「でもよかった。与那さんと再会できて。100円ショップを探しまくった甲斐があったわぁ。ほんと、見つけるのに苦労したんだから」
「まさか俺のこと、探していたのか?」
「当然でしょ。約束したじゃない」
約束? 俺がこの子と? いったいいつ、どこで?
高根さんの言葉に、与那の心は一瞬止まった。
上目遣いで与那の目を見つめ、顔の前に小指を立てて差し出す高根さん。彼女の瞳は与那への期待が込められているようだ。けれど心当たりがなさすぎる以上、彼女のたくましい妄想のなせるわざとしか考えられなかった。
すると高根さんは与那の曖昧な反応に眉毛を寄せた。彼女の表情には失望と疑念が浮かんでいて、与那は気まずくてしかたなかった。
「ははっ、約束ってなんだっけ……?」
「まさか、あの時のこと忘れちゃったの?」
「あっ、へへっ、まぁ……」
「ひっどーい! わたしとあんな経験をしたのに、忘れちゃうなんて考えられない!」
高根さんはむっとした顔して腕を組み、滑らかな肌の頬をぷうっと膨らませた。けれど、どんなに怒られようが彼女の記憶は脳内のどこにもない。
険悪な雰囲気に包まれたその時――突如、地面が突き上げられるような衝撃に襲われた。
「うわっ、地震だ!」
「きゃあっ!」
強烈な縦揺れの数秒後、店全体が激しく左右に揺さぶられる。あたりの棚から陳列物が崩れ落ちた。店内は一瞬にして混乱の渦に巻き込まれた。
激しい地震に、店の客たちが悲鳴をあげた。真剣な表情を取り戻した与那は、レジのカウンターを飛び出して店の中央スペースに移動し、客に避難の指示をする。
「棚のそばから離れてください! レジ前のスペースで身をかがめて待機を!」
食器が並んでいる陳列棚に手をかけ必死に腕に力を込めるが、激しい横揺れで陳列棚が踊り狂う。ガラスのコップや陶磁器が撒き散らされて破砕音を響かせた。与那にとっては、商品が壊れていくさまは自身の心が砕けるような感覚だった。
くそっ、早く止まってくれ!
高卒後、100円ショップで勤務していた与那だったが、仕事の最中に地震が起きるなんて初めての経験だ。ひとつひとつは安い品物だけど、ぜんぶ大切な売り物なのだ。
「与那さん、わたしも手伝う!」
追いかけてきた高根さんが与那の隣に並び陳列棚に手をかけた。
「高根さんも避難して。女の子に怪我はさせられないよ!」
「なに言っているのよ。ここで引き下がるなんてできないわ。一緒に戦った仲じゃない!」
「はぁっ!? 戦ったって、どこで誰と?」
高根さんの言うことはあまりにも意味不明だが、その真剣な表情はけっして冗談ではないことを物語っていた。
「まだとぼけるの? それと、他人行儀に苗字で呼ばないで。ちゃんとファーストネームで呼んでよ!」
「って、高根さんのファーストネームなんだっけ!?」
与那はなぜ、自分が高根さんの世界の住人として市民権を得ているのかさっぱりだ。
「ひっど! そこまで忘れっぽい人だと思わなかったわ。わたしの名前は――」
言いかけた瞬間、与那の背後から巨大な影が迫ってきた。気づいて振り返ると――壁に固定されていた巨大な陳列棚が外れて倒れ、ふたりを飲み込もうとしていた。
「あぶないっ!」
与那はすかさず高根さんを突き飛ばした。
「きゃあっ!」
高根さんがよろけて転び、影から逃れた瞬間、与那の後頭部に激しい衝撃が走った。脳が揺さぶられ、視界が暗転する。痛みが全身を駆け巡り、意識が容赦なく闇に飲み込まれてゆく。
閉ざされてゆく視界の中で、与那の脳裏に不思議な声が響く。
『安井与那よ、おぬしのような真摯な若者を、みすみす失うわけにはいかない。その命、私が預かるとしよう――』



