俺は、あいつのことが嫌いだった。
あいつも、俺のことを嫌いなはずだ。
でも、もうこの気持ちを抑えることはできない。
どれだけ、あいつに嫌われていようが、俺は、あいつが大好きだ。
☆☆☆
高部恭平が、とある地方都市から東京の高校へと転校してきたのは、2年生の春のことだった。
親がいない恭平は、育ててくれていた祖父母が高齢になっため、たらい回しのようにされた挙げ句、東京の親戚の家に世話になることに落ち着いたのだった。
肩身の狭い思いを何度すればいいのだろう。
自分の境遇を嘆きつつも、東京への憧れを抱いていた恭平は、新しい生活にかすかな希望を見出してもいた。
地方出身ということで、なめられたくない。
あか抜けていないと馬鹿にされたくなくて、東京行きが決まってから、見た目に気を遣うようになった。
今通っている高校で、恭平はスクールカーストの上位にいる。
それなりに整ったビジュアルで、人懐こい性格をしている恭平は、男女問わず友達も多く関係も良好で、この環境を捨てることは非常にもったいないと思うこともある。
しかし、地方では洗練していると言われても、それが東京で通用するかはわからない。
恭平は、周りの人間に受け入れられないことに過剰ともいえる恐怖心を抱いていた。
他人の懐に飛び込むのが得意になったのも、この恐怖心が原動力になっているともいえる。
他人より優位に立つこと、誰にも拒否されないこと、みんなに認められること、恭平を恭平たらしめているのはそんな思いだった。
誰かに愛されたいと願うのは、恭平が置かれた環境のせいだろう。
親戚の家に身を寄せ、諸々の手続きも済ませているうちに、春休みはあっという間に過ぎ去っていった。
新しい学校生活に一抹の不安を覚えていたが、新学期が始まってみれば、不安は杞憂に終わり、恭平は転校してすぐにクラスに馴染んだ。
田舎からやってきたとは思えない洗練されたビジュアルはすぐに女子生徒の人気を獲得し、爽やかな笑顔を振りまけば、男子生徒の心をも掴んだ。
たちまち恭平は学校の人気者となり、男女問わず友人たちを侍らせるようになった。
告白してくる女子も絶えない。
気がつけば、学校でも目立つタイプの生徒が集まるグループの中心的存在になっていた。
恭平は、人知れず安堵の息をついた。
うまくやっていけそうだ。
季節の移ろいとともに、制服を着崩し、ピアスを空け、恭平の見た目はどんどん派手になっていった。
内心では、こんな目立ち方をする予定ではなかったのだが、と思いながらも周りの目に流され恭平は髪を明るい茶色に変えた。
ただ、いわゆる不良というやつではない。
学校には真面目に通い、勉強も疎かにはしない。
派手なのは見た目だけで学生の本分を忘れたわけではないのだ。
ちやほやされ、恋人未満の自称彼女も増えた。
充実した日々を送る恭平には、ちょっとした気がかりがあった。
いや、気に入らないことが、と言ったほうが正しいかもしれない。
長い黒髪で顔のほとんどを覆い、教室の片隅でうつむいて誰とも話さずに1日を過ごす男子生徒、葵玲音という存在が、どうにも恭平の心を波立たせる。
名前だけ見れば女子生徒のようだが、実情はクラスの底辺にいる友達のひとりもいない陰気な男子生徒だった。
葵玲音を見ていると、なぜだか無性にいらいらする。
他人に受け入れてもらうため、必死にあれこれと手を尽くしている恭平の努力を、他者との関わりを自ら断ち切って平気で過ごす彼に、嘲笑われているような感覚に陥るからだ。
もちろん、それが被害妄想であると、一方的な思い込みであるとも気づいてはいる。
いるのだが……。
他者との関わりを放棄しひとりきりで過ごす葵玲音を見ていると、自分の必死さが惨めに思えて仕様がない。
恭平が血まなこで築いたものを、葵玲音に人差し指で突かれて簡単に崩されてしまいそうな、どこか強迫観念にも似た恐怖心が内面にこびりついて離れないのだ。
──あんなやつ、いなくなればいいのに。
葵玲音から漂う負のオーラに呑み込まれてしまいそうで、1分と彼を見つめることができない。
自分が彼を疎ましく思っているのと同じで、葵玲音も自分のことを嫌っているだろう。
クラスの頂点と底辺。
相容れない存在。
恭平は、なるべく葵玲音を視界に入れないようにして、順風満帆な学生生活を送っていた。
☆☆☆
クラスの中心に君臨している恭平が、葵玲音を良く思っていないことが、仲間内からさざ波のようにクラス中に伝わり、当然の帰結というべきか、葵玲音をいじめる雰囲気が出来上がりつつあった。
小突いたりからかったり、所持品を隠したり壊したりと物理的に、精神的に葵玲音を攻撃したが、彼は一言も声を発さずに、表情も変えることはなかった。
なにもかもを諦め、受け入れている。
それが、孤高の存在を思わせて、恭平はさらに苛ついた。
みんなで仲良くすることに固執するのは弱い者のすること。
誰かと戯れていないと不安になるやつなんて、ただの弱者だと、言外に言われているような気がして、それが恭平の神経を逆なでする。
部活に入っていない恭平は、仲間とともに葵玲音をつけて家を特定し、周りを取り囲んで大声で葵玲音の名前を叫んでやった。
チャイムをめちゃくちゃに鳴らして嫌がらせもした。
それでも、一度家に引っ込んだ葵玲音が出てくることはなかった。
家の塀にスプレーで落書きをしようか、中傷のビラをまいてやろうか、と仲間内で盛り上がりはしたが、実現することはなかった。
自分が損する可能性のあるリスクを負ってまでする嫌がらせとは思えなかったからだ。
葵玲音がいくら鬱陶しくて気に障るやつでも、自分の人生に傷をつけるような一線を超えてまで彼をいじめる気にはなれない。
誰も、日常のちょっとした鬱憤晴らし以上のことは望んでいなかった。
だから、葵玲音は変わりない顔で登校するし、恭平たちは分をわきまえたいじめに終始した。
クラス中から忌避の目を向けられる、王様たる恭平の敵。
葵玲音をかばう人間などいないし、いじめなんてよくないよ、と正義感を振り回すやつもいない。
だから、葵玲音は孤立したし恭平をたしなめる者もまた存在しなかった。
葵玲音は陰鬱にうつむいたまま誰にも目の焦点を合わせず日々を過ごしていた。
☆☆☆
高部恭平には、憧れの人がいる。
ヘアスタイルも髪色も、カラーコンタクトの色も憧れの人を真似たものだ。
恭平が、東京にくることを楽しみにしていたのは、ひとえにその人と会えるかもしれないと密かに期待していたからだ。
田舎にいてはその存在を拝むことは難しいだろう。
けれど、東京にいれば、距離はぐっと近くなり、その姿を見られる可能性はぐんと高くなる。
連休最終日、自室のベッドで寝転がりながらスマホをいじっていた恭平は、SNSの投稿に目を留めると、勢いよく起き上がった。
ぎらぎらと太陽が照らす中、最低限身なりを整えると、恭平は家を飛び出した。
『Reonが撮影している現場に遭遇!』
『Reonが原宿で撮影してる!
尊い!』
複雑な東京の電車を乗り継ぎながら、刻々と情報を伝えるSNSの投稿を随時チェックして、はやる気持ちを抑えつつ、祈るようにスマホを額に当てた。
──どうか、Reonに会えますように。
原宿に到着し、Reonが目撃されたカフェへと向かう。
休日ということもあり、辺りは人でごった返していた。
人波をかき分けて進んでいると、甲高い女性の歓声が聴こえてきた。
Reonがすぐそばにいる!
恭平の胸は高鳴った。
どれだけ会いたいと願っただろう。
憧れてやまなかった神のような存在が、今、手の届く場所にいる。
もし、本人をこの瞳に映すことができたら、今まで味わった苦い思いも恵まれなかった境遇も、報われるに違いない。
絶対誰にも言えないことだが、恭平はReonに時代遅れのファンレターを送ったことがある。
ReonはSNSで自ら発信をしないので、自分の有り余る想いを伝えるには、古風な手段に頼るしかなかったのだ。
もし、自分が綴ったこの文章が、自分が書いた文字が、Reonの瞳に映ったなら……、そう考えると、想像しただけで悶えてしまいそうになる。
気持ち悪いファンでいいから、思いの丈を綴って、少しでも興味を引きたい、心の片隅にでも留まることができたら、これ以上の幸せはないとすら思っていた。
こんな話、学校でしたら、即オタク認定されて、手に入れた地位を失うだろう。
だから、Reonにまつわるあれこれは、心の中だけに留めておくと決めている。
クラスの王様であるために。
歓声が上がり、中学生くらいの女の子たちが、興奮してぴょんぴょんと飛び跳ねている。
恭平は、彼女たちを強引にかき分けて声の中心へと迫っていく。
周囲の人が不愉快そうに自分を見ているが、もうそんなことどうでもいい。
人波が途切れ、視界が開けた。
クラシックなカフェから、ひとりの青年が出てくる。
周りを関係者に囲まれ、すらりと伸びた脚でゆっくりと歩き出す。
「Reon!
かっこいい!」
「Reon、こっち見て!」
一斉にスマホが掲げられ、撮影会が始まった。
恭平は、Reonから目を離すことができず、スマホで撮影することもできず、ただただ歩いていく彼を目で追った。
やっと会えた……。
眼の前に現れたReonを、棒立ちになりながら、忘れまいと目に焼き付ける。
まるでスローモーションのように目と鼻の距離を、Reonが歩いていく。
非日常の経験。
夢にまで見た光景。
──美しい。
ライトも当たっていないのに、まるでReonの内側から発光しているようだ。
眩しい。
「Reon、Reon!」
気づくと恭平は、人目もはばからずに叫んでいた。
手を伸ばす。
握手を求めたつもりだったが、Reonは恭平を一瞥すると、冷たい視線を送ったあと立ち止まりもせずに去っていった。
──ぞくぞくする。
あれが、Reon。
恭平がイメージしていたReonそのもの。
間近で見ると、顔がマッチ棒の先端のように小さい。
くっきりとした眉と、切れ長の澄んだ瞳。
まつ毛が長く、高い鼻梁と整った唇が小さな顔にこれ以上ないほど完璧におさまっている。
──奇跡だ。
眼力に圧倒され、恭平は息をすることも忘れていた。
さらりと流れる黒髪のReonを、ふらふらと恭平は追いかける。
甲高い歓声は意識の外となり、人混みから一歩抜け出した恭平は、カフェをあとにして道端に停車していたワンボックスカーに乗り込んでいくReonの姿を見届け、気がつけば車を追って走り出していた。
こんな滑稽で愚かな行動をとらせるほど、恭平はReonを欲していた。
間もなく息が切れて、走り去る車を見送ることになるだろう、と沸騰した頭の一部が冷静に考えを弾き出すが、脚は一向に止まらない。
限界がくるまで追いかけよう。
気が済むまで。
引き離されて車が遠くに去っていく──そう思っていたのだが。
恭平の体力が限界を迎える前、2、3分しか走行していない位置で停車する。
人混みから距離を取った、それだけのように見えた。
恭平のようにストーカーじみた行動を取るファンはひとりもいない。
恭平が走って追ってきていることなどReon側は気づいていないのかもしれない。
軽く弾んだ呼吸を整えていると、ワンボックスカーのドアがすうっと開き、ひとりの男性が降りてきた。
「!」
整えたはずの呼吸がまた止まる。
サングラスをかけ、黒のリュックを片手に持ったReonだった。
車内になにごとか声をかけると、Reonが歩き出す。
付き従うスタッフはいない。
──嘘だろ、変装もせず、警備もつかずに、たったひとりで歩いて移動するのかよ。
Reonが?あのReonが?
颯爽と歩くとReonは、公園の公衆トイレに吸い込まれていった。
不審がられないように、間をおいて恭平もトイレに入る。
3つある個室のうち、1ヶ所だけ使用中になっていた。
他に人影はない。
一旦トイレを出て、Reonが出てくるまでトイレの入り口が見える位置で待機した。
本当に自分はストーカーだなあと苦笑いが零れる。
待つこと数十分。
ずいぶん長いな、と覗いて様子を伺おうと首を伸ばしかけた瞬間、ドアを開閉する音が聞こえて、さっと恭平は身を隠す。
黒いリュックをぱんぱんにして出てきた人物を見て、恭平はぽかんと口を開けた。
「あ……おい……?」
重い前髪で顔を覆い、うつむいて歩きながらトイレから出てきたのは、葵玲音だった。
葵玲音が周りも気にせずに歩き去っていくのを確認し、恭平はトイレへ飛び込んだ。
ばたんばたんとドアを開閉して、Reonがどこにもいないのを確かめて、とぼとぼと歩く葵玲音を追う。
葵玲音は真っ直ぐ駅を目指すと電車に乗り、恭平も馴染みがある最寄り駅に着くと、歩いて移動を始めた。
だんだん見慣れた景色が近づいてくる。
高校に行くのに使う道だ。
そして、葵玲音が真っ直ぐ自宅に入っていく。
恭平が仲間と悪ノリをして取り囲んだあの家に。
ぱたん、と音をさせてドアが閉まり葵玲音が消えてからも、しばらく恭平は動けなかった。
Reonが、葵玲音?
──まさか、有り得ない。
きっとなにかの見間違いだ。
そうに違いない。
だって、葵玲音だぜ?
自分がいじめていた、根暗で陰気な、あの。
恭平の口から乾いた笑いが漏れる。
今見たものは、幻覚だ。
恭平は狐につままれた心地でしきりに首を傾げながらも家路についた。
☆☆☆
恭平がReonという存在を知ったのは祖父母の家に世話になっていたころに、田舎の書店で彼が表紙を飾る雑誌を目にしたのがきっかけだった。
一目見て、恭平はReonに憧れを抱いた。
整った顔立ちはもちろんだが、周りを射殺さんばかりの冷たい表情で睨むような表情のReonに孤高のカリスマ性を感じて、惹き込まれてしまったのだ。
同性である自分がReonに好意を抱いたことは誰にも言えない秘密となった。
他人からの目ばかり気にしている恭平は、馴れ合いを一切拒絶しているような雰囲気を醸し出すReonに自分にはない人間としての芯の強さのようなものを感じて尊敬の念を抱いた。
それからは、Reonが専属モデルをつとめるメンズ雑誌を欠かさず買い、神秘のヴェールに隠されているReonのことを調べてみたが、プロフィールでわかったことは、自分と同い年のモデルであるということだけだった。
同い年にも関わらず、Reonは大人びて色気があって、さらに社会に媚びていなかった。
周りの人間にどう思われるかばかり気にして外見に過剰なまでにこだわりがある恭平は、Reonの生き方に感銘を受けたが、自分が同じようには生きられないこともわかっていた。
誰だって、いびつなものより整ったものを美しいと思うだろう。
だから、恭平は自分の外見を磨くことに余念がない。
全ては自分の未来への投資でもあった。
Reonのようになりたくて、でもなれないけれど、Reonに近づけるような人生を送ることを目標に生きてきた。
──それが、今、轟音を立てて崩れようとしている。
Reonの正体が葵玲音だなどと、たちの悪い冗談みたいな真実が恭平に突き付けられている。
☆☆☆
登校した高校には、当たり前のように机に額が触れるぎりぎりまでうつむいた葵玲音の姿があった。
恭平の友人が面白くなさそうに彼を小突いている。
長い黒髪でその表情は見えない。
あまつさえ、葵玲音にReonの面影を見出すなど、広大な砂場から砂金を見つけるより困難といえた。
ちらちらと葵玲音の様子をうかがいながらも、決して声はかけない。
今の恭平の立場はクラスの王様。
王様が軽々に最底辺に話しかけたりしたら、変な誤解をクラスに与えかねない。
葵玲音の同類にはなりたくなかった。
1日を上の空で過ごすと、友人からのカラオケの誘いをやんわりと断って、恭平は校舎を飛び出した。
すぐに徒歩で通学する葵玲音に追いつくことができた。
「葵!」
初めて葵玲音の名前を恭平が叫ぶと、コンクリートの歩道で、葵玲音がびくんと肩を震わせた。
ゆっくりと彼が振り向くが、言葉は一言も発しない。
前髪の向こうの表情は一切うかがえないが、鋭い視線で警戒しながら恭平を見ていることが伝わって、恭平は緊張に喉を鳴らした。
葵玲音にしてみれば、恭平は自分をいじめる憎き相手のはずだ。
今まで酷い扱いをしてきたのに、葵玲音は恭平が話し出すのを待っているようだ。
「あの、さ……。
変なこと訊くけど、お前、Reonじゃないよな?」
葵玲音は答えない。
そういえば、葵玲音の声を聞いたことは一度もない。
学校でも、口を開いたことはただの一度もないはずだ。
普通の神経のやつが、そんなことできるだろうか。
もし葵玲音がReonであることを認めたら、恭平はショックで立ち直れない気がする。
ふ、と葵玲音がなにも言うことなく踵を返すと歩きだしてしまった。
「待てよ、葵!
なあ、どうなんだ?
お前、Reonなのか?
違うよな?」
知りたくない事実のはずなのに、知りたくてたまらない。
恭平は追いすがったが、早足で歩く葵玲音は一言も喋らないまま、とうとう自宅に着いてしまい恭平に一度も目を合わせず、2階建ての家に入って、ご丁寧に鍵まで閉める音を住宅街に響かせた。
恭平は、呆然として葵玲音の家を見上げた。
それでも、恭平は諦めなかった。
翌日から毎日、学校から帰宅するまでの距離を葵玲音につきまとい、ひたすらコミュニケーションを取ろうとつとめた。
王様のプライドをかなぐり捨てて、葵玲音を振り向かせようと声をかけ続けた。
葵玲音は徹底的に恭平を無視し、猫背気味にうつむいて歩き続けるのみで、なんの反応もみせない。
いつしか、恭平の頭の中は葵玲音のことでいっぱいになった。
葵玲音がReonなのか、まだわからないが、考え方が、葵玲音を振り向かせたいということに変化してきていた。
夏休みが近づいてきたある日、いつものように葵玲音の一歩後ろを歩き、話しかけていた恭平を、葵玲音が突然振り返った。
「いい加減にしろよ、しつこいんだよ」
葵玲音の苛立ちを含んだ口調に、恭平はぽかんと口を開けた。
初めて聞く葵玲音の声。
若干高めの、よく通る声だった。
──こいつ、喋れるんだ。
「葵……お前、Reonなのか?」
恭平の言葉に、葵玲音は顔を覆う黒髪をかき上げた。
あらわになるのは、Reonそのものの顔立ち。
自分の身体が、震えていることに、遅れて恭平は気づいた。
「そうだよ、Reonだ。
だから、どうした?」
とっさに恭平は、葵玲音の手を握った。
「好きなんだ、お前のことが!」
葵玲音は美しい顔を歪めると、忌々しげに恭平を見つめる。
「おれのこと、いじめていたくせに、よくそんなこと言えるよな」
「それは、悪かったと思ってる。
申し訳ない」
頭を下げる恭平に、葵玲音が舌打ちを落とす。
「そんなに好きなら、おれのために死んでみせろよ」
葵玲音が苦いものを噛み潰したような表情になって吐き捨てた。
「……は?」
中途半端な姿勢のまま顔を上げた恭平は葵玲音の台詞に凍りつく。
「……どうせ、お前だっておれの見た目にしか興味ないんだろ。
誰かに必要とされたい、愛されたい、自己肯定感を満たしたい、そう思ってモデルを始めて、おれを持ち上げてくれる人間は確かに増えた。
けど、ファンが増えれば増えるほど、心は空虚になっていく。
ちやほやしてくるやつらが求めているのは外見だけで、おれの内面を必要としてくれる、孤独を埋めてくれる人間は現れなかった。
だから、期待することをやめた」
恭平は唸るように言葉を捻り出した。
「……誰にも期待してないから、学校でも誰とも話さないってことか?」
「そうだ。
友情だの愛だの恋だの、おれはそんなもの信じない」
「俺が、お前のこと好きだっていうのも?」
「信じない」
頑なな葵玲音に、恭平は髪をかきむしりたくなる。
「……死んだら、俺がお前のために死んだら信じてくれるのか?」
葵玲音は鼻で嗤った。
「そうだな、できるならやってみろよ」
恭平はしばし考え込んだあと、無造作にスクールバッグに手を突っ込み、カッターを取り出した。
「好きだ、葵。
俺の気持ち、受け取れ」
すると恭平は、なんの躊躇いも見せず、カッターの刃を首筋にあてがい、皮膚を切り裂こうとした。
葵玲音が目を見開き、咄嗟に恭平の手首を掴む。
恭平の首筋から、真っ赤な鮮血が一筋流れ落ちた。
傷はそう深くない。
だが、掴んだ恭平の手首には、血管を切り裂くに充分な力が加わっていた。
止めなければ、本当に首の血管を自ら切っていたかもしれない。
──本気だ。
こいつは、おれのために命をかけようとしている。
なんの躊躇いもなく。
「……は、ははっ……」
恭平の血で指を汚しながら、葵玲音は気がつけば笑っていた。
葵玲音の乾いた笑い声を聞いて、今度は恭平が目を見開いた。
傷口の痛みも忘れて、恭平は初めて聞く葵玲音の笑い声に、ただただ信じられないものを見た心地で立ち尽くしていた。
──Reonが、葵玲音が笑っている。
傷口を押さえた恭平の瞳に映る葵玲音の顔は、Reonそのものだった。
憧れ続けたReonと、自分が疎ましく思っていた葵玲音の姿が重なる。
葵玲音も、誰かを求めた孤独な男だった。
自分と、同じの。
笑い続けながら、葵玲音が心底おかしそうに言った。
「お前、マジかよ、ストーカーのうえに命までおれに差し出すなんて、バカじゃねえの?きもっ」
そう言いつつも、笑いは止まらない。
葵玲音自身も、なんで笑ったのかわからない。
笑ったことなど、数えるほどしかないのに。
恭平は、狂気じみて笑い続ける葵玲音に見惚れていた。
しばらく笑い続けると、葵玲音はふと真顔になり、「傷口、手当てしないとな」そう言って、自分のバッグから絆創膏を取り出した。
「傷は浅いな、すぐ塞がるだろ」
葵玲音の温かい指が、恭平の首筋を這い、絆創膏を丁寧な手つきで貼っていく。
恭平は吐息が熱くなるのを感じた。
すぐそばに、Reonがいる。
緊張を気取られたくなくて、わざとぶっきらぼうな口調で言ってしまう。
「絆創膏なんか、持ち歩いてるのか」
「……変なことか?」
「別に。
なんか女子みたいだな思ってさ。
で、さっきの話は?」
「さっきの話?」
「俺が死んだら好きだって信じてくれるって話」
葵玲音がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お前、死んでないだろ」
葵玲音に見惚れながらも、恭平は口を尖らせる。
「怪我したんだ、死んだも同然だろ」
「なんだよ、それ。
本当、きもいな、お前」
「信じてくれるのか、くれないのか?」
葵玲音は想像もできないような優しい声音で言った。
「信じてやるよ、仕方ないからな」