幼い頃は結婚がゴールだと信じて疑わなかった。
だってそうでしょう? 大抵の童話は王子様とお姫様が結ばれて終わるのだから。
でも歳を重ねるにつれてそうとも限らないことを知った。いや、正確には知ってしまったと言うべきか。まぁそこは置いといて。
仮に結婚できたとしても、不倫やDV、嫁姑問題など、様々な問題が発生するかもしれない。それ以前の交際期間でさえ、浮気やデートDVなど似たような問題がある。そのせいで関係が悪化することなんてよくある話。もし今が安泰だとしても、環境によって人はいくらでも変わるのだから、この先も大丈夫だなんて保証はどこにもない。
それならば、本当に生涯を共にしたい相手には告白なんてしない方がいいのかもしれない。友達としてなら一定の距離感でずっと一緒にいられる。
相手が家庭をもてば会える回数は格段に減るだろうが、少なくとも先ほど挙げたような不安に駆られることはない。
そんな持論を彼に語ってみせた。
「その答えがこれだろ」
「確かに」
あたしたちの視線の先で、とある男女が肩を寄せあってネオン街を歩いている。
気づかれないように距離を保ちつつ、すかさずスマートフォンのカメラアプリを起動させた。
夜ということもあり画質はあまり良くないが、2人を知っている人たちであればすぐに認識できるレベルだ。流石は文明の利器。役に立つ。
カシャ、カシャと何枚か写真に収めたところで手を止め、撮ったものを確認した。いつも通り人目をはばからずベタっとくっついて歩く2人がバッチリ写っている。気色悪い。
実の父親が若い子にデレデレしている様はいつ見ても寒気がする。しかもこれが両思いだと聞いたときは世も末かと思った。
彼曰くあたしの父親の隣にいる若い女――もとい彼の母親――はいわゆる枯れ専で、学生時代に援交の延長で付き合っていた親子ほど年の離れた人との子が彼らしい。だが彼の父親は妻帯者かつ子持ちだったため、大金を支払う代わりに彼諸共厄介払いされてしまった、と。そこは1ナノメートルぐらい同情する。ちょっと信じ難くて彼に何度か事実確認したら「しつこい」と怒られた。
そして最悪なことにそんな彼の母親の現在の意中の相手があたしの父親だ。
侮蔑を通り越して笑えてくる。一生話のネタにしてやろうか。
「おい、立ち止まったぞ隠れろ」
「んー」
写真を確認するあたしを置いてさっさと隠れていた彼に倣い、電柱の影に身を潜める。
こうしていると幼稚園児のときによく遊んだスパイごっこを思い出すが、今はあのときの高揚感はない。いつの間にかなくなってしまった。
ふと顔を上げれば彼の整った輪郭が視界に映った。念の為に変装として身につけているサングラスのせいで目は良く見えない。夜にわざわざサングラスをする必要性はあまり感じないが、妙に似合っているので放っておいた。
仮に見えたとしても、彼の無機質な瞳がそこにあるだけだ。
高校入学時からそうだった。だから興味を持って話しかけたのだ。「ねー、あたしと付き合わない?」って。
◆
――――ガンッッ
「ちょっといつまで寝てるの!? もう6時くるよ!!?」
勢いよく開けられたドアが壁に激突する音と、頭に響く甲高い母親の声。
あたしの朝は決まって爆音から始まる。
それに適当にこたえながらノロノロと身を起こした。
枕元のスマートフォンに目を向けると時刻は5時58分と表示されていた。それが59分になるのを見ながら充電コードから取り外し、6時にセットされたアラームのスイッチをオフにする。いつもの動作だ。ちゃんと自分でアラームをセットしているから起こさなくていいと中学生のときから何度も伝えているが、その度に「それで起きなかったらどうするの!?」と返され、高校生になった今でも聞く耳を持ってもらえていない。
多分母親は自己ルールに則ってじゃないと動けないのだと思う。
「朝何飲む!?」
「⋯⋯牛乳」
制服に着替えリビングに行くと、一番にそう訊かれた。本当はコーヒーが飲みたいが、あたしにはまだ早いと止められている。
「え? 何!? 聞こえない!」
「牛乳!!」
「朝から大声出さないでよ。聞こえてるから」
母親の耳は少し遠い。特に朝は寝ぼけているのか調子が悪いため、少し声を張らないと聞き取ってもらえない。でも調節を間違えると今日みたいに冷たくあしらわれるので難しい。
朝食くらい自分で用意できるが、あたしがキッチンに入ると邪魔そうな目で見てくるので自然と立ち入らなくなった。
新聞を読みながらコーヒーを啜る父の斜め前に腰をかけ、朝食が出来上がるまでスマートフォンを弄る。いつもの光景だ。そして運ばれてきたバターが塗られただけのトーストと昨日の夕食の残りのポテトサラダを牛乳で流し込み、席を立った。
身支度を整え、スクールバックと弁当を手に足早に玄関へと向かう。
「ハンカチ持った?」
「うん」
「スマホは?」
「持った」
「体操服は?」
「今日体育ない」
途中母親の質問攻撃に遭いながらも足は止めない。
「ちょっとスカート短くしてない? 余計脚が太く見えてるよ!?」
最後の言葉は無視し、玄関に逃げ込むと、そこには父親が車の鍵を持って立っていた。
「今日も乗ってくか?」
「うん、お願い」
家から最寄り駅までは徒歩10分間程度で着くが、楽できるところは楽しておく。これ大事。
父親の提案に乗り、また母親の小言が飛んで来る前に「いってきまーす」と言い残して家を後にした。
定員4名の黒い普通車のドアを開けると、ふわっとフローラルな香りが鼻腔をくすぐった。数年前に父親が車内の匂いが気になると言って置くようになった芳香剤の香りだ。もうすぐ50代に仲間入りする父親には似合わないチョイスということもあり、最初はやや困惑したが、今はもう慣れた。
背もたれが少し斜めっている助手席に腰を下ろし、しばし車に揺られたあと、人がごった返した電車にも揺られ、睡眠欲と疲労感がごちゃ混ぜになった頭で2年3組の教室に入ると、いつメンが「おはよー!」と駆け寄ってきた。それに「はよー」と欠伸を堪えつつ応える。
「聞ーてよ! 昨日彼氏が電話でさぁ」
「あー、分かった分かった。課題写しながら聞くから見せて」
「えっまたやってきてないの!?」
「そのくせうちらより成績いいのムカつくわ〜」
「まぁあたしは要領いいからね」
えへ、とおどけると彼女らも「も〜仕方ないなぁ」と笑顔になる。それからあたしの席に移動して、友達の彼氏の話が再開された。
いつも共に行動しているのはあたしを含め4人。ちょうど父親の車にピタリとおさまる人数だ。あたしを除き好きな人や彼氏がいるメンバーで構成されているから話題の中心は常に恋バナだ。彼氏と夢の国に行っただの自分以外にも仲がいい女子がいて不安だの好きな人と目が合っただの、毎日代わり映えのしない話が繰り返されている。まぁ好きな人も彼氏も存在せず何も提供出来るネタがないあたしは聞き役に徹してるんだけど。
彼氏自慢が終わったかと思えば、今度は絶賛片思い中の子が照れながらも好きな人とのエピソードを語り始めた。それをBGMに課題を進めていると、流れであたしに話が飛んできた。
「――ってことがあったんだけどどう思う!?」
えっ知らねーーーーーー。
正直あたしは人の恋路とか全然興味がない。
でもそんなことバカ素直に言えるはずもなく。
「えー、それ絶対あんたのこと意識してんじゃん!」
その子が一番欲しがっている言葉を適当に紡ぐ。そうすれば「やっぱりそう思うよね!?」と笑顔が返ってくるから。
結局恋バナなんてたいていは共感してほしいだけのものだ。だからあたしが似たような言葉を何回使おうが指摘されることはない。
今相手のことがどんなに好きだろうと高校生の恋愛が真の意味で成就することなんて夢にまた夢。それを分かっているからこその軽薄さ。所詮彼女らにとって恋愛は人生の色どりの一部に過ぎないのだろう。
人の話を聞きながらそんなことを考えるあたしはだいぶ拗らせている。誰かとなにかあったわけでもないのにね。そもそも恋愛にそこまで重きを置いてるわけじゃないし。
気を取り直してテキストのページを捲ろうとしたそのとき、教室の中心でドッと笑いが起こった。
見ると、一軍男子たちが何やら騒いでいる。
「あの男子たちマジでうるさいよね」
「ねっ。ほんとそれ」
「朝からよくやるわ〜」
口ではそう言いつつ、彼女らもクラスメイトも皆あの男子たちを意識している。
理由は単純。全員顔が整っているからだ。そんなわけで彼氏や好きな人の有無にかかわらず、皆一様に彼らに一目置いている。
かく言うあたしもあの中に一人だけ気になっている男子がいる。もちろんあくまで人として、だ。
――あ、やっぱり今日もだ。
盛り上がる男子たちの真ん中で1人、俯瞰したように頬杖をついて時折ツッコミを入れている。
周りと動とするならば彼は静。朝か夜かで表すなら圧倒的に夜。ノリがいいわけでも運動部に所属しているわけでもないが、何故かいつも輪の中心にいる――柴崎千愛。それが彼の名だ。あたしとは一年生のときからクラスが同じ且つ「柴崎」と「鈴村」で出席番号が前後ということもあり、何かと意識の端にいた。とはいえ会話らしい会話はしたことがない。授業中の話し合いなんて普通近くの席の同性とするし、時々話し合いのペアを決めてくる先生もいるけどそれも隣の席の人とだし。だから記憶の中の彼は、あたしに背を向けて授業を受ける姿が大幅を占めている。
でもそれ以上に時折見える無機質な瞳が印象的で、何故か目で追ってしまう。
きっとこのことを友達に言ったら恋だと言われるだろう。だから言わない。これは絶対に恋じゃないから。
これは単なる興味だ。なんでそんな瞳をしてるんだろうっていう。あと、テンションが高いわけでもないのになんで一軍男子の中心にいられるのかも、絶対にモテないわけないのに彼女がいない理由も気になる。
でもその答えを聞ける日はきっとこないはずだ。彼とあたしに接点なんてないから。
そう、今日の朝までは思っていた。
放課後、先生と二者面談するために指定された教室に行こうとしたが、まだ少し早いということで、残りの待ち時間を教室で潰そうとしたときのこと。ドアを開けると、そこに彼がいた。
頬杖をついてスマートフォンを弄る彼は、高校生離れしたアンニュイな雰囲気を纏っている。
きっと彼も面談の順番待ちをしているのだろう。周りに他の気配はなし。これはもしや彼に話しかけるチャンスなんじゃ⋯⋯? そう思い立ち、ほんの少しばかりのユーモアとともに一歩踏み出した。
あたしの気配に気づき顔を上げた彼と目が合う。その無機質な瞳に向けてにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ねー、あたしと付き合わない?」
あたしのまさかの発言に、彼は目を見開いたあと「――――は?」と一言だけ低くこぼした。
それに追随するように彼の前に立つ。
「彼女いないんじゃ居心地悪くない?」
「別にそんなことねーけど」
彼は何言ってんだこいつと言わんばかりの目であたしを見てくる。へぇ、こういう目もするんだ。なるほど。
「ま、冗談さておき」
「冗談だったんかい」
「あっごめん。期待した?」
「してねーよ」
意外とノリいいなこの人。
だから輪の中心にいられるのか。納得納得。
「まーまーここじゃなんだし、面談終わったらカフェでも行かない?」
「行かない」
「えっ」
そんな⋯⋯!と大袈裟に落ち込んでみたけれど、彼は揺さぶられてくれなかった。
でも、1回断られただけでせっかくのチャンスを諦めるあたしでもなかった。
「やった勝った」
「何にだよ」
日が沈みかけ青紫色に霞んだ空の下で、とっくに散った桜の花びらをレッドカーペット代わりにして歩くあたしと、その半歩後ろを着いてくる彼。
結局あの後あたしが粘りに粘り、折衷案として一緒に帰るところになったのだ。彼は疲れたのか少しぐったりしている。
そんな彼をからかいながら、飲食店が多く並ぶ通りに差し掛かったとき。
「あーーー」
とある男女が目に止まった。
「何、どーした」
いきなり声を上げたあたしの顔を彼の綺麗な顔が覗き込む。でも今はそれどころじゃない。
カップルのようにひっついて歩く2人の男側。どう見たって知った顔だ。見間違えのはずがない。だって――――。
「あれ、父親」
あたしの父親だから。今日あたしを駅まで送ってくれた、あの。
でも目の前の父親の顔に今朝の面影はない。
あんな父親、知らない。
あんな幸せそうな顔なんて、見た記憶がない。
まだ薄暗いから嫌でもはっきりと見えてしまう。
「そうか、奇遇だな。その片割れは俺の母親だ」
驚くあたしを他所に、彼は平然と言ってのけた。
「え、まじ?」
「大マジ」
信じがたくて、もう一度目の前の男女に目を向ける。
「⋯⋯あんたのお母さん若すぎない?」
「最初に聞くのそこじゃないだろ。⋯⋯母さんは俺を15歳のときに産んだからな」
「じゅっ⋯⋯ご!?」
「援交しててその中で1番好きだった人の子だってさ。子供にこんな話する時点で倫理観バグってるだろ」
「ち、違う次元の人だぁ⋯⋯」
流石に「今日初めて話した相手にそんなヘビーなことをカミングアウトするあんたの倫理観もなかなかバグってるよ」とは言えず、代わりに気の抜けた声が出た。
これ以上言えばいいのか分からず、ただ2人を見ていると、不意にあたしの父親が、柴崎の母親の頬に唇を当てた。
「うわっ」
途端湧いてきたのは強烈な吐き気。その場で嘔吐きそうになったが、それでも焦点はあの2人に合ったままだ。
「親のああいうとこ見たくなかったなー」
「それは誰でも同じだろ」
「まぁそれはそう」
「⋯⋯」
「⋯⋯」
それからどちらともなく、2人が通ったのとは別の道を歩き始めた。
会話はない。お互いなんて言えばいいのか分からないからだ。でも頭は思っていたよりも冷静だった。
――数年前に急に置かれるようになった、父親に似合わない芳香剤。斜めっている助手席。あと、会話らしい会話をしない両親。
点と点が繋がっていく度に、頭が冴えていく。
駅の灯りが見えてきたところで、彼は控えめに口を開いた。
「なぁ」
「ん?」
「不倫調査しね?」
静かな雲夜の下で、彼の声だけがあたしの鼓膜を揺らした。
あたしにはそれが、たった一つの救いに思えた。
◆
あの日からあたし達は毎日欠かさず2人を尾行しては写真を撮り、証拠を集めている。
彼の瞳はずっと無機質なままだ。それが彼の母親への諦めからきていると、あたしはもう知っている。彼が幼い頃から彼の母親は恋人を中心に生活してきたらしい。いつだって彼のことは二の次。彼にとってそれは当たり前のことだったが、気づかぬうちに傷ついていたのだと、母親が不倫している場面を──幸せそうな母親の顔を見て、自覚してしまった。それでも今更どうしようもないから。全部諦めたフリをして、あたしの隣にいる。
7月の夜はじんわりと湿っていて服が肌に張り付きそうだ。
服をパタパタさせながら再び歩き始めた2人の後をつけていると、よからぬことが頭をよぎった。
「このままあたしたち、家族になるのかな」
「笑えねー冗談言うなよ」
何気なく零した呟きに、彼は心底嫌そうな声で返した。
彼の母親は未だ未婚。
あたしの両親は絶賛不仲。なんせ一昨日の夜、たまたま目を覚ましたら両親が喧嘩していたのだから。あたしが気づかなかっただけで、両親の仲はとっくの昔に終わっていたのかもしれない。少なくとも離婚しても「あ、やっぱそうなった?」と返しそうな状態だ。
ぶっちゃけ生活に困らなければ、両親が離婚しようがしまいがどうでもいい。
むしろさっさと離婚してもらった方が形容しがたいドロドロとした気持ち悪さが薄れるはずだ。
ただ、離婚したら目の前を歩く2人は確実に再婚するだろう。昨夜父親のスマートフォンに『早く一緒になりたいね♡』と言うメッセージが妖美な女性のアイコンから送られてきていたのを見た。きも。
そうなってしまったら、あたしには母親に着いていくという逃げ道があるが、彼の場合あたしの父親と実母の3人暮らしという地獄のような日々を送ることになる。更に血が半分しか繋がらない兄弟が産まれでもしたら⋯⋯想像しただけでもおぞましい。
だからなんとしてでも2人の再婚だけは阻止しなければならない。
「これ、俺らが先に籍入れたらどーなんだろ」
「あー⋯⋯」
さすがに娘の結婚相手が自身の不倫相手の息子と分かった上で、わざわざ自分たちも再婚したいとは言い出さないだろうし、それ以前に自分たちが不倫していることを全力で隠すはずだ。
既に不倫という形で裏切られているくせに、こういうときだけ父親ならきっとこうするだろうと信じているあたしは、傍から見れば酷く滑稽だろう。
だけどちょっとくらいあたしたちに都合のいい考え方してもバチ当たらないよね。
「うん。いい案かも」
「じゃあ高校卒業したらするか」
「えー、成人したらでいいじゃん」
「お前なぁ⋯⋯」
もう少し現実見ろよと小言を言われるが、今に始まったことじゃないし、第一結婚の話自体現実味がない。
それでもあえてそこには触れず、話を続けた。
「でも浮気だけはしないでね。したら末代まで呪うから。あたし以外と寝るのもダメ」
くるっと彼の方を振り返り、挑発するように笑う。
「それでもいいなら一緒にいて」
彼は少し目を見開いたあと、「当たり前だろ」と伏し目がちに言った。
彼もあたしも、本当は気づいてる。
こんなのただの傷の舐め合いだって。
成人したり高校を卒業したりしたからといってすぐに結婚できるわけないし、不倫の証拠集めをしたところであたしたちに出来ることはない。
なぜなら、子どもが不倫した実の親や不倫相手を訴えて慰謝料を請求することは至極困難で、原則不可能だから。
そもそも未成年者は親などの法定代理人に代わってもらわないと民事裁判の起こすことが出来ない。
そうなるとあたしの母親に頼るしかないが、きっと母親は訴訟を起こさないだろう。そんな度胸もお金もないし世間体も気にするだろうから、きっと熟年離婚だとか何とか周りには言って荒波を立てずに終わらせるはずだ。家では自己ルールに則って生きているが、外では周りの目を気にする内弁慶な人だから。
そこまで分かっていてもあたしたちはそれを口にしない。いや、できない。
あたしたちはきっと臆病で、こうすることでしか自分を保てないのだ。
こうしているときだけは、自分は独りじゃないんだって思えるから。
同じ傷をもつ人が隣にいるんだって実感できるから。
――ねぇお父さん、なんで不倫なんかしたの。
目の前の父親にそっと語りかけてみる。けれど気づかれるはずもなく、父親は相変わらず隣の女を愛おしそうに見つめている。
お父さんは知らないだろうね。
あの日以来お父さんの車に乗らなくなった理由も、目を合わせなくなった理由も、今までなんの関心もなかった有名人の不倫スキャンダルに敏感に反応するようになったことも、恋愛小説が読めなくなったことも、友達の恋バナを聞くだけで2人の姿が脳裏に浮かんで上手く笑えなくなったことも、全部、全部、全部。
あたしが直接何かされたわけじゃないけど、お父さんの不倫が発覚したあの日、あたしの中の何かが確かに壊されたんだよ。
お母さんのルールに縛られる生活が息苦しかったのは分かる。
でも、これは違うだろ。
柴崎とあたしの心の傷は裁判でお金に替えることも出来なければ、こんなに傷ついたのだと見せつけることも出来ない。
それならば一体、あたしたちが感じた苦みはどこへ向かうのだろう。
ずっと留めておかなければならないのだろうか。
分からない。
分からないからあたしたちは今日もなんのためにもならない不倫調査を行っている。
もうどうしようも出来ないならさ、せめて、生ぬるい夢だけでも見させてよ。
「ねー柴崎。結婚するなら千愛って呼んだ方がいい?」
「好きにしたら」
「じゃあ千愛。千愛ー⋯⋯。やっぱそれいいわ。違和感しかない。柴崎って呼ぶ。あ、でも名前の方がいいかも。チアってカタカナ表記で」
「さっきから情緒どーした。それとなんで」
言ってることが無茶苦茶なあたしを訝しむ彼。残念だけどあたしのこの支離滅裂さは今に始まったことじゃないんだよ、と心の中でことわりを入れながら答える。
「千の愛で『千愛』とか今言っても皮肉にしか聞こえないなぁって」
「悪かったなそんな名前で」
「いや別に謝らんでも」
「謝ってねーよ」
今日も今日とて彼のツッコミの精度は通常運転だ。そのことに安堵しつつ疑問を投げかける。
「それで、名前で呼んでいーい?」
「好きにしろって言ったろ」
「確かに」
では試しに呼んでみようとしたが、いざ口に出そうとするとなんだか気恥ずかった。
「⋯⋯チア」
「何?」
「チアもあたしのこと名前で呼んで」
「スミレ」
彼は動じることなくあたしの名前を口にした。
「え、今、カタカナで⋯⋯」
「純粋な恋で『純恋』もとんだ皮肉だろ。お前そういうの信じてねーし。⋯⋯何その顔。照れてんの?」
「く、苦しゅうない」
「いつの時代だよ」
そんなふざけた会話をしていると、タッチパネルを操作して部屋を選び終えた2人が建物の中へと吸い込まれて行った。
「⋯⋯寄ってく?」
冗談まじりに彼がその建物を指さした。
見るからに胡散臭い見た目。誰が使ったかも分からないベッドの上で自分を曝け出すなんて、あたしにはできない。
「や」
「だよな」
そうは言ったものの、成人したら夫婦になるのだ。ちょっとぐらいはいいだろうと冗談半分で手を繋いでみた。彼は少し肩を揺らしたが拒まなかった。
繋いだ手は思いのほか馴染んであたしの身体の一部になったみたいだ。親同士の仲がいいのだからあたしたちの相性がいいのは当然と言えば当然か。
それから思考が別のところに飛んだ。
あたしたちが成人になる日――彼の誕生日に籍を入れるのだとしたら、誕生日が結婚記念日になるということだ。そう思うと何だかロマンティックな気がする。こんなメルヘンチックな発想は未だに浮世離れをしている彼の母親を連想させた。
そういえば昔、人は自分の親――女子の場合なら父親、男子の場合なら母親――と似た人を好きになると聞いたことがある。あぁなんという皮肉。
嫌なことを気づいたなぁ、と欠けた月を見ながら思う。
あたしも将来、あの2人みたいになるのだろうか。それは嫌だな。
というか今のあたしたちは傍から見れば高校生カップルも同然だろう。放課後に手を繋いで帰っているなんて青春感満載だ。
でもあたしは彼と恋愛したくない。あんなゴールの見えない迷宮に入るなんてまっぴらごめんだ。
それならば今すぐにでもこの手を離すべきなのだろう。
でも、この傷を共有できるのは彼しかいないから。
このまま、ただ、手を繋いでいたい。
そう、思ってしまった。
◆
今日もあたしたちの時間は一定の速度で流れていく。
きっと放課後になれば教室に残ったりファミレスに行ったりして時間を潰し、定刻になれば不倫調査に行くだろう。
あたしたちの関係も相変わらず。
ただ、一つだけ変わったのは――。
「っえ」
「何」
「いや、チアから繋いでくるの珍しーなって」
「いいだろ別に」
「そだね」
手を繋ぐようになったこと。
ふと空を見上げれば、瞑色の中で一番星が、ゆらゆらと揺らめいていた。
〈了〉
だってそうでしょう? 大抵の童話は王子様とお姫様が結ばれて終わるのだから。
でも歳を重ねるにつれてそうとも限らないことを知った。いや、正確には知ってしまったと言うべきか。まぁそこは置いといて。
仮に結婚できたとしても、不倫やDV、嫁姑問題など、様々な問題が発生するかもしれない。それ以前の交際期間でさえ、浮気やデートDVなど似たような問題がある。そのせいで関係が悪化することなんてよくある話。もし今が安泰だとしても、環境によって人はいくらでも変わるのだから、この先も大丈夫だなんて保証はどこにもない。
それならば、本当に生涯を共にしたい相手には告白なんてしない方がいいのかもしれない。友達としてなら一定の距離感でずっと一緒にいられる。
相手が家庭をもてば会える回数は格段に減るだろうが、少なくとも先ほど挙げたような不安に駆られることはない。
そんな持論を彼に語ってみせた。
「その答えがこれだろ」
「確かに」
あたしたちの視線の先で、とある男女が肩を寄せあってネオン街を歩いている。
気づかれないように距離を保ちつつ、すかさずスマートフォンのカメラアプリを起動させた。
夜ということもあり画質はあまり良くないが、2人を知っている人たちであればすぐに認識できるレベルだ。流石は文明の利器。役に立つ。
カシャ、カシャと何枚か写真に収めたところで手を止め、撮ったものを確認した。いつも通り人目をはばからずベタっとくっついて歩く2人がバッチリ写っている。気色悪い。
実の父親が若い子にデレデレしている様はいつ見ても寒気がする。しかもこれが両思いだと聞いたときは世も末かと思った。
彼曰くあたしの父親の隣にいる若い女――もとい彼の母親――はいわゆる枯れ専で、学生時代に援交の延長で付き合っていた親子ほど年の離れた人との子が彼らしい。だが彼の父親は妻帯者かつ子持ちだったため、大金を支払う代わりに彼諸共厄介払いされてしまった、と。そこは1ナノメートルぐらい同情する。ちょっと信じ難くて彼に何度か事実確認したら「しつこい」と怒られた。
そして最悪なことにそんな彼の母親の現在の意中の相手があたしの父親だ。
侮蔑を通り越して笑えてくる。一生話のネタにしてやろうか。
「おい、立ち止まったぞ隠れろ」
「んー」
写真を確認するあたしを置いてさっさと隠れていた彼に倣い、電柱の影に身を潜める。
こうしていると幼稚園児のときによく遊んだスパイごっこを思い出すが、今はあのときの高揚感はない。いつの間にかなくなってしまった。
ふと顔を上げれば彼の整った輪郭が視界に映った。念の為に変装として身につけているサングラスのせいで目は良く見えない。夜にわざわざサングラスをする必要性はあまり感じないが、妙に似合っているので放っておいた。
仮に見えたとしても、彼の無機質な瞳がそこにあるだけだ。
高校入学時からそうだった。だから興味を持って話しかけたのだ。「ねー、あたしと付き合わない?」って。
◆
――――ガンッッ
「ちょっといつまで寝てるの!? もう6時くるよ!!?」
勢いよく開けられたドアが壁に激突する音と、頭に響く甲高い母親の声。
あたしの朝は決まって爆音から始まる。
それに適当にこたえながらノロノロと身を起こした。
枕元のスマートフォンに目を向けると時刻は5時58分と表示されていた。それが59分になるのを見ながら充電コードから取り外し、6時にセットされたアラームのスイッチをオフにする。いつもの動作だ。ちゃんと自分でアラームをセットしているから起こさなくていいと中学生のときから何度も伝えているが、その度に「それで起きなかったらどうするの!?」と返され、高校生になった今でも聞く耳を持ってもらえていない。
多分母親は自己ルールに則ってじゃないと動けないのだと思う。
「朝何飲む!?」
「⋯⋯牛乳」
制服に着替えリビングに行くと、一番にそう訊かれた。本当はコーヒーが飲みたいが、あたしにはまだ早いと止められている。
「え? 何!? 聞こえない!」
「牛乳!!」
「朝から大声出さないでよ。聞こえてるから」
母親の耳は少し遠い。特に朝は寝ぼけているのか調子が悪いため、少し声を張らないと聞き取ってもらえない。でも調節を間違えると今日みたいに冷たくあしらわれるので難しい。
朝食くらい自分で用意できるが、あたしがキッチンに入ると邪魔そうな目で見てくるので自然と立ち入らなくなった。
新聞を読みながらコーヒーを啜る父の斜め前に腰をかけ、朝食が出来上がるまでスマートフォンを弄る。いつもの光景だ。そして運ばれてきたバターが塗られただけのトーストと昨日の夕食の残りのポテトサラダを牛乳で流し込み、席を立った。
身支度を整え、スクールバックと弁当を手に足早に玄関へと向かう。
「ハンカチ持った?」
「うん」
「スマホは?」
「持った」
「体操服は?」
「今日体育ない」
途中母親の質問攻撃に遭いながらも足は止めない。
「ちょっとスカート短くしてない? 余計脚が太く見えてるよ!?」
最後の言葉は無視し、玄関に逃げ込むと、そこには父親が車の鍵を持って立っていた。
「今日も乗ってくか?」
「うん、お願い」
家から最寄り駅までは徒歩10分間程度で着くが、楽できるところは楽しておく。これ大事。
父親の提案に乗り、また母親の小言が飛んで来る前に「いってきまーす」と言い残して家を後にした。
定員4名の黒い普通車のドアを開けると、ふわっとフローラルな香りが鼻腔をくすぐった。数年前に父親が車内の匂いが気になると言って置くようになった芳香剤の香りだ。もうすぐ50代に仲間入りする父親には似合わないチョイスということもあり、最初はやや困惑したが、今はもう慣れた。
背もたれが少し斜めっている助手席に腰を下ろし、しばし車に揺られたあと、人がごった返した電車にも揺られ、睡眠欲と疲労感がごちゃ混ぜになった頭で2年3組の教室に入ると、いつメンが「おはよー!」と駆け寄ってきた。それに「はよー」と欠伸を堪えつつ応える。
「聞ーてよ! 昨日彼氏が電話でさぁ」
「あー、分かった分かった。課題写しながら聞くから見せて」
「えっまたやってきてないの!?」
「そのくせうちらより成績いいのムカつくわ〜」
「まぁあたしは要領いいからね」
えへ、とおどけると彼女らも「も〜仕方ないなぁ」と笑顔になる。それからあたしの席に移動して、友達の彼氏の話が再開された。
いつも共に行動しているのはあたしを含め4人。ちょうど父親の車にピタリとおさまる人数だ。あたしを除き好きな人や彼氏がいるメンバーで構成されているから話題の中心は常に恋バナだ。彼氏と夢の国に行っただの自分以外にも仲がいい女子がいて不安だの好きな人と目が合っただの、毎日代わり映えのしない話が繰り返されている。まぁ好きな人も彼氏も存在せず何も提供出来るネタがないあたしは聞き役に徹してるんだけど。
彼氏自慢が終わったかと思えば、今度は絶賛片思い中の子が照れながらも好きな人とのエピソードを語り始めた。それをBGMに課題を進めていると、流れであたしに話が飛んできた。
「――ってことがあったんだけどどう思う!?」
えっ知らねーーーーーー。
正直あたしは人の恋路とか全然興味がない。
でもそんなことバカ素直に言えるはずもなく。
「えー、それ絶対あんたのこと意識してんじゃん!」
その子が一番欲しがっている言葉を適当に紡ぐ。そうすれば「やっぱりそう思うよね!?」と笑顔が返ってくるから。
結局恋バナなんてたいていは共感してほしいだけのものだ。だからあたしが似たような言葉を何回使おうが指摘されることはない。
今相手のことがどんなに好きだろうと高校生の恋愛が真の意味で成就することなんて夢にまた夢。それを分かっているからこその軽薄さ。所詮彼女らにとって恋愛は人生の色どりの一部に過ぎないのだろう。
人の話を聞きながらそんなことを考えるあたしはだいぶ拗らせている。誰かとなにかあったわけでもないのにね。そもそも恋愛にそこまで重きを置いてるわけじゃないし。
気を取り直してテキストのページを捲ろうとしたそのとき、教室の中心でドッと笑いが起こった。
見ると、一軍男子たちが何やら騒いでいる。
「あの男子たちマジでうるさいよね」
「ねっ。ほんとそれ」
「朝からよくやるわ〜」
口ではそう言いつつ、彼女らもクラスメイトも皆あの男子たちを意識している。
理由は単純。全員顔が整っているからだ。そんなわけで彼氏や好きな人の有無にかかわらず、皆一様に彼らに一目置いている。
かく言うあたしもあの中に一人だけ気になっている男子がいる。もちろんあくまで人として、だ。
――あ、やっぱり今日もだ。
盛り上がる男子たちの真ん中で1人、俯瞰したように頬杖をついて時折ツッコミを入れている。
周りと動とするならば彼は静。朝か夜かで表すなら圧倒的に夜。ノリがいいわけでも運動部に所属しているわけでもないが、何故かいつも輪の中心にいる――柴崎千愛。それが彼の名だ。あたしとは一年生のときからクラスが同じ且つ「柴崎」と「鈴村」で出席番号が前後ということもあり、何かと意識の端にいた。とはいえ会話らしい会話はしたことがない。授業中の話し合いなんて普通近くの席の同性とするし、時々話し合いのペアを決めてくる先生もいるけどそれも隣の席の人とだし。だから記憶の中の彼は、あたしに背を向けて授業を受ける姿が大幅を占めている。
でもそれ以上に時折見える無機質な瞳が印象的で、何故か目で追ってしまう。
きっとこのことを友達に言ったら恋だと言われるだろう。だから言わない。これは絶対に恋じゃないから。
これは単なる興味だ。なんでそんな瞳をしてるんだろうっていう。あと、テンションが高いわけでもないのになんで一軍男子の中心にいられるのかも、絶対にモテないわけないのに彼女がいない理由も気になる。
でもその答えを聞ける日はきっとこないはずだ。彼とあたしに接点なんてないから。
そう、今日の朝までは思っていた。
放課後、先生と二者面談するために指定された教室に行こうとしたが、まだ少し早いということで、残りの待ち時間を教室で潰そうとしたときのこと。ドアを開けると、そこに彼がいた。
頬杖をついてスマートフォンを弄る彼は、高校生離れしたアンニュイな雰囲気を纏っている。
きっと彼も面談の順番待ちをしているのだろう。周りに他の気配はなし。これはもしや彼に話しかけるチャンスなんじゃ⋯⋯? そう思い立ち、ほんの少しばかりのユーモアとともに一歩踏み出した。
あたしの気配に気づき顔を上げた彼と目が合う。その無機質な瞳に向けてにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ねー、あたしと付き合わない?」
あたしのまさかの発言に、彼は目を見開いたあと「――――は?」と一言だけ低くこぼした。
それに追随するように彼の前に立つ。
「彼女いないんじゃ居心地悪くない?」
「別にそんなことねーけど」
彼は何言ってんだこいつと言わんばかりの目であたしを見てくる。へぇ、こういう目もするんだ。なるほど。
「ま、冗談さておき」
「冗談だったんかい」
「あっごめん。期待した?」
「してねーよ」
意外とノリいいなこの人。
だから輪の中心にいられるのか。納得納得。
「まーまーここじゃなんだし、面談終わったらカフェでも行かない?」
「行かない」
「えっ」
そんな⋯⋯!と大袈裟に落ち込んでみたけれど、彼は揺さぶられてくれなかった。
でも、1回断られただけでせっかくのチャンスを諦めるあたしでもなかった。
「やった勝った」
「何にだよ」
日が沈みかけ青紫色に霞んだ空の下で、とっくに散った桜の花びらをレッドカーペット代わりにして歩くあたしと、その半歩後ろを着いてくる彼。
結局あの後あたしが粘りに粘り、折衷案として一緒に帰るところになったのだ。彼は疲れたのか少しぐったりしている。
そんな彼をからかいながら、飲食店が多く並ぶ通りに差し掛かったとき。
「あーーー」
とある男女が目に止まった。
「何、どーした」
いきなり声を上げたあたしの顔を彼の綺麗な顔が覗き込む。でも今はそれどころじゃない。
カップルのようにひっついて歩く2人の男側。どう見たって知った顔だ。見間違えのはずがない。だって――――。
「あれ、父親」
あたしの父親だから。今日あたしを駅まで送ってくれた、あの。
でも目の前の父親の顔に今朝の面影はない。
あんな父親、知らない。
あんな幸せそうな顔なんて、見た記憶がない。
まだ薄暗いから嫌でもはっきりと見えてしまう。
「そうか、奇遇だな。その片割れは俺の母親だ」
驚くあたしを他所に、彼は平然と言ってのけた。
「え、まじ?」
「大マジ」
信じがたくて、もう一度目の前の男女に目を向ける。
「⋯⋯あんたのお母さん若すぎない?」
「最初に聞くのそこじゃないだろ。⋯⋯母さんは俺を15歳のときに産んだからな」
「じゅっ⋯⋯ご!?」
「援交しててその中で1番好きだった人の子だってさ。子供にこんな話する時点で倫理観バグってるだろ」
「ち、違う次元の人だぁ⋯⋯」
流石に「今日初めて話した相手にそんなヘビーなことをカミングアウトするあんたの倫理観もなかなかバグってるよ」とは言えず、代わりに気の抜けた声が出た。
これ以上言えばいいのか分からず、ただ2人を見ていると、不意にあたしの父親が、柴崎の母親の頬に唇を当てた。
「うわっ」
途端湧いてきたのは強烈な吐き気。その場で嘔吐きそうになったが、それでも焦点はあの2人に合ったままだ。
「親のああいうとこ見たくなかったなー」
「それは誰でも同じだろ」
「まぁそれはそう」
「⋯⋯」
「⋯⋯」
それからどちらともなく、2人が通ったのとは別の道を歩き始めた。
会話はない。お互いなんて言えばいいのか分からないからだ。でも頭は思っていたよりも冷静だった。
――数年前に急に置かれるようになった、父親に似合わない芳香剤。斜めっている助手席。あと、会話らしい会話をしない両親。
点と点が繋がっていく度に、頭が冴えていく。
駅の灯りが見えてきたところで、彼は控えめに口を開いた。
「なぁ」
「ん?」
「不倫調査しね?」
静かな雲夜の下で、彼の声だけがあたしの鼓膜を揺らした。
あたしにはそれが、たった一つの救いに思えた。
◆
あの日からあたし達は毎日欠かさず2人を尾行しては写真を撮り、証拠を集めている。
彼の瞳はずっと無機質なままだ。それが彼の母親への諦めからきていると、あたしはもう知っている。彼が幼い頃から彼の母親は恋人を中心に生活してきたらしい。いつだって彼のことは二の次。彼にとってそれは当たり前のことだったが、気づかぬうちに傷ついていたのだと、母親が不倫している場面を──幸せそうな母親の顔を見て、自覚してしまった。それでも今更どうしようもないから。全部諦めたフリをして、あたしの隣にいる。
7月の夜はじんわりと湿っていて服が肌に張り付きそうだ。
服をパタパタさせながら再び歩き始めた2人の後をつけていると、よからぬことが頭をよぎった。
「このままあたしたち、家族になるのかな」
「笑えねー冗談言うなよ」
何気なく零した呟きに、彼は心底嫌そうな声で返した。
彼の母親は未だ未婚。
あたしの両親は絶賛不仲。なんせ一昨日の夜、たまたま目を覚ましたら両親が喧嘩していたのだから。あたしが気づかなかっただけで、両親の仲はとっくの昔に終わっていたのかもしれない。少なくとも離婚しても「あ、やっぱそうなった?」と返しそうな状態だ。
ぶっちゃけ生活に困らなければ、両親が離婚しようがしまいがどうでもいい。
むしろさっさと離婚してもらった方が形容しがたいドロドロとした気持ち悪さが薄れるはずだ。
ただ、離婚したら目の前を歩く2人は確実に再婚するだろう。昨夜父親のスマートフォンに『早く一緒になりたいね♡』と言うメッセージが妖美な女性のアイコンから送られてきていたのを見た。きも。
そうなってしまったら、あたしには母親に着いていくという逃げ道があるが、彼の場合あたしの父親と実母の3人暮らしという地獄のような日々を送ることになる。更に血が半分しか繋がらない兄弟が産まれでもしたら⋯⋯想像しただけでもおぞましい。
だからなんとしてでも2人の再婚だけは阻止しなければならない。
「これ、俺らが先に籍入れたらどーなんだろ」
「あー⋯⋯」
さすがに娘の結婚相手が自身の不倫相手の息子と分かった上で、わざわざ自分たちも再婚したいとは言い出さないだろうし、それ以前に自分たちが不倫していることを全力で隠すはずだ。
既に不倫という形で裏切られているくせに、こういうときだけ父親ならきっとこうするだろうと信じているあたしは、傍から見れば酷く滑稽だろう。
だけどちょっとくらいあたしたちに都合のいい考え方してもバチ当たらないよね。
「うん。いい案かも」
「じゃあ高校卒業したらするか」
「えー、成人したらでいいじゃん」
「お前なぁ⋯⋯」
もう少し現実見ろよと小言を言われるが、今に始まったことじゃないし、第一結婚の話自体現実味がない。
それでもあえてそこには触れず、話を続けた。
「でも浮気だけはしないでね。したら末代まで呪うから。あたし以外と寝るのもダメ」
くるっと彼の方を振り返り、挑発するように笑う。
「それでもいいなら一緒にいて」
彼は少し目を見開いたあと、「当たり前だろ」と伏し目がちに言った。
彼もあたしも、本当は気づいてる。
こんなのただの傷の舐め合いだって。
成人したり高校を卒業したりしたからといってすぐに結婚できるわけないし、不倫の証拠集めをしたところであたしたちに出来ることはない。
なぜなら、子どもが不倫した実の親や不倫相手を訴えて慰謝料を請求することは至極困難で、原則不可能だから。
そもそも未成年者は親などの法定代理人に代わってもらわないと民事裁判の起こすことが出来ない。
そうなるとあたしの母親に頼るしかないが、きっと母親は訴訟を起こさないだろう。そんな度胸もお金もないし世間体も気にするだろうから、きっと熟年離婚だとか何とか周りには言って荒波を立てずに終わらせるはずだ。家では自己ルールに則って生きているが、外では周りの目を気にする内弁慶な人だから。
そこまで分かっていてもあたしたちはそれを口にしない。いや、できない。
あたしたちはきっと臆病で、こうすることでしか自分を保てないのだ。
こうしているときだけは、自分は独りじゃないんだって思えるから。
同じ傷をもつ人が隣にいるんだって実感できるから。
――ねぇお父さん、なんで不倫なんかしたの。
目の前の父親にそっと語りかけてみる。けれど気づかれるはずもなく、父親は相変わらず隣の女を愛おしそうに見つめている。
お父さんは知らないだろうね。
あの日以来お父さんの車に乗らなくなった理由も、目を合わせなくなった理由も、今までなんの関心もなかった有名人の不倫スキャンダルに敏感に反応するようになったことも、恋愛小説が読めなくなったことも、友達の恋バナを聞くだけで2人の姿が脳裏に浮かんで上手く笑えなくなったことも、全部、全部、全部。
あたしが直接何かされたわけじゃないけど、お父さんの不倫が発覚したあの日、あたしの中の何かが確かに壊されたんだよ。
お母さんのルールに縛られる生活が息苦しかったのは分かる。
でも、これは違うだろ。
柴崎とあたしの心の傷は裁判でお金に替えることも出来なければ、こんなに傷ついたのだと見せつけることも出来ない。
それならば一体、あたしたちが感じた苦みはどこへ向かうのだろう。
ずっと留めておかなければならないのだろうか。
分からない。
分からないからあたしたちは今日もなんのためにもならない不倫調査を行っている。
もうどうしようも出来ないならさ、せめて、生ぬるい夢だけでも見させてよ。
「ねー柴崎。結婚するなら千愛って呼んだ方がいい?」
「好きにしたら」
「じゃあ千愛。千愛ー⋯⋯。やっぱそれいいわ。違和感しかない。柴崎って呼ぶ。あ、でも名前の方がいいかも。チアってカタカナ表記で」
「さっきから情緒どーした。それとなんで」
言ってることが無茶苦茶なあたしを訝しむ彼。残念だけどあたしのこの支離滅裂さは今に始まったことじゃないんだよ、と心の中でことわりを入れながら答える。
「千の愛で『千愛』とか今言っても皮肉にしか聞こえないなぁって」
「悪かったなそんな名前で」
「いや別に謝らんでも」
「謝ってねーよ」
今日も今日とて彼のツッコミの精度は通常運転だ。そのことに安堵しつつ疑問を投げかける。
「それで、名前で呼んでいーい?」
「好きにしろって言ったろ」
「確かに」
では試しに呼んでみようとしたが、いざ口に出そうとするとなんだか気恥ずかった。
「⋯⋯チア」
「何?」
「チアもあたしのこと名前で呼んで」
「スミレ」
彼は動じることなくあたしの名前を口にした。
「え、今、カタカナで⋯⋯」
「純粋な恋で『純恋』もとんだ皮肉だろ。お前そういうの信じてねーし。⋯⋯何その顔。照れてんの?」
「く、苦しゅうない」
「いつの時代だよ」
そんなふざけた会話をしていると、タッチパネルを操作して部屋を選び終えた2人が建物の中へと吸い込まれて行った。
「⋯⋯寄ってく?」
冗談まじりに彼がその建物を指さした。
見るからに胡散臭い見た目。誰が使ったかも分からないベッドの上で自分を曝け出すなんて、あたしにはできない。
「や」
「だよな」
そうは言ったものの、成人したら夫婦になるのだ。ちょっとぐらいはいいだろうと冗談半分で手を繋いでみた。彼は少し肩を揺らしたが拒まなかった。
繋いだ手は思いのほか馴染んであたしの身体の一部になったみたいだ。親同士の仲がいいのだからあたしたちの相性がいいのは当然と言えば当然か。
それから思考が別のところに飛んだ。
あたしたちが成人になる日――彼の誕生日に籍を入れるのだとしたら、誕生日が結婚記念日になるということだ。そう思うと何だかロマンティックな気がする。こんなメルヘンチックな発想は未だに浮世離れをしている彼の母親を連想させた。
そういえば昔、人は自分の親――女子の場合なら父親、男子の場合なら母親――と似た人を好きになると聞いたことがある。あぁなんという皮肉。
嫌なことを気づいたなぁ、と欠けた月を見ながら思う。
あたしも将来、あの2人みたいになるのだろうか。それは嫌だな。
というか今のあたしたちは傍から見れば高校生カップルも同然だろう。放課後に手を繋いで帰っているなんて青春感満載だ。
でもあたしは彼と恋愛したくない。あんなゴールの見えない迷宮に入るなんてまっぴらごめんだ。
それならば今すぐにでもこの手を離すべきなのだろう。
でも、この傷を共有できるのは彼しかいないから。
このまま、ただ、手を繋いでいたい。
そう、思ってしまった。
◆
今日もあたしたちの時間は一定の速度で流れていく。
きっと放課後になれば教室に残ったりファミレスに行ったりして時間を潰し、定刻になれば不倫調査に行くだろう。
あたしたちの関係も相変わらず。
ただ、一つだけ変わったのは――。
「っえ」
「何」
「いや、チアから繋いでくるの珍しーなって」
「いいだろ別に」
「そだね」
手を繋ぐようになったこと。
ふと空を見上げれば、瞑色の中で一番星が、ゆらゆらと揺らめいていた。
〈了〉



