「わたし、嘘つくひと嫌いなの」


 きみはいつもそう言って、誰かと繋がることを怖がっていた。人間は嘘をつく生き物だから、わたしは人間を愛せないのかも、ときみが悲しそうに目を伏せたとき、なぜか俺は安心していた。

 彼女との付き合いは長い。中学2年生のときに見た、窓際から2列目の後ろから2番目の席に座る、ピンと伸びたきみの背中をよく覚えている。当時きみの後ろの席だった俺は、きみの背中をよく視線でなぞっていた。

 きみは真面目な学生だった。先生から列ごとに回されるプリントが一枚足りなかったとき、きみは必ず残りの一枚を俺に渡して、足りないプリントをもらうために席を立った。どんなときでも決まりきった当たり前のやさしさは、当時はなんとも思っていなかったのに、今更身に染みてしまう。だけどそのやさしさは、俺だけに特有のやさしさなんかじゃなくて、きっときみは後ろの席が俺じゃなかったとしても、同じように最後の一枚を後ろの席の人に譲って、自分が席を立つのだろうと思うと、ほんの少しだけせつなかった。

 いつだってきみは曲がったことが大嫌いで、深夜2時の赤信号ですら渡るのをためらっている。ファミレスのドリンクバーを回し飲みする狡さとは無縁だろうし、どんなに疲れていても電車の優先席には座らない。それがきみだ。

 きみはやさしさを他人に与えすぎている。だから損をする。高校生になると、気の回るきみはいつも、所属しているグループの複雑な人間関係の中で損ばかりしていた。誰かと誰かの仲を取り持って、ときには八方美人だと言われながらも、きみはずっときみのままだった。俺はそんなきみを、遠くからそっと眺めていた。

 だから、きみがある日の放課後、女子トイレから赤い目をして出てきたときのことは、忘れられない。


「岸田さん、どうしたの」


 ばっちりと目が合ってしまったそのとき、無視をするのも憚られた俺は、きみに声をかけた。きみは赤くなった目をもう一度こすりながら、何度も瞬きを繰り返す。


「浅見くんは、嘘つき?」

「は……?」

「嘘つかないなら、教えてあげる」


 思わず頷いたときから、俺はゆるく、きみに縛られている。

 彼女が目を赤くしていた理由は、今思えば些細なことだったが、学生の時分で考えれば深刻なことだったろうと思う。高校の謎行事・マラソン大会で一緒に走る約束をしていた友人が、直前になって「違う子と走る」と言い出したらしかった。その場では笑って受け流した彼女は、放課後になってからひっそりと、トイレの個室で涙を流していたらしい。


「じゃあ、いっしょにサボっちゃう?」


 そんなふうに誘うと、彼女はゆるく首を振った。


「サボるのは、違うかなって」

「じゃあ、一緒に体調不良になろうよ。そうしたら、サボりじゃなくなるでしょ?」

「なにそれ。いみわかんない」


 ふは、と笑った彼女を裏切りたくない気持ちだけは確かにあった。中学2年の時に毎日眺めていた彼女の背中をよく覚えていたからだった。だから、もし彼女がサボるというのなら本気でいっしょにサボるつもりだったし、彼女が当日までに風邪を引くと言い出したなら、学校帰りにある川に一緒に飛び込もうと思っていた。

 だけど彼女は、俺からの不真面目な誘いには、決して頭を縦に振らなかった。


「わたし、ひとりで走る」

「……平気?」

「平気じゃないけど、平気にする」

「じゃあ、走り切ったらジュース買ったげる」

「ほんと? 嘘つかない?」

「俺は、嘘つかないよ」


 約束だよ、と彼女は俺に念押しをした。

 その会話の数日後に開催されたマラソン大会で彼女の姿を見たのは、夕方になってからだった。ゴール地点で友人と、自販機で買ったスポーツドリンクを片手に喋っていたとき、彼女からスマホにメッセージが来た。今からここに来て、という位置情報とともに。

 俺は友人を置いてきみに会いに行った。きみがいた場所は河川敷だった。きみは学校指定のダサいジャージの裾をまくり上げている。靴を揃えて、足先だけを川辺に浸すきみは、水辺の光がよく似合っていた。


「浅見くん、わたし、ちゃんと走ったよ」


 きみは泣きそうな顔でこちらを振り返った。俺は来る途中で買ったサイダーの缶をきみに渡す。


「これ、約束の」

「わあ、ほんとに買ってくれたんだ」

「嘘つきは嫌いなんでしょ」

「わたしに嫌われたくないの?」

「嫌われるよりは、好かれてる方がいいかも」


 ぷし、ときみは川の中でサイダーの缶を開ける。変な格好。


「でも、わたしね、世の中の人のこと、うっすらと嫌いかも」

「どうして?」

「みんな、嘘つきだから」


 ごく、ごく、と彼女の喉がかすかに動く。


「わたしね、もう、嫌になっちゃった。人間って、ずっと誠実ではいられないのかな。わたしね、わたしと、浅見くん以外のひとが、ちょっとだけ嫌いなの」

「俺は例外?」

「嘘つかないって、言ってくれたじゃん。だから、浅見くんは誠実でいてね」


 じゃあ、そうしてあげる。きみの前だけでも、俺はきみにとっての誠実でいてあげる。

 きみは俺に誠実でいるように求めた。俺は俺なりに誠実でいようと努力をした。




 きみが損をしがちな役回りにいることは高校の時からずっと変わらない。変わらないまま、きみと俺は年齢を重ねた。きみは大学に入ってからも、あまり親しくない他人からよくノートのコピーをねだられていたし、アルバイトのシフトも代わってばかりいたし、相変わらず車通りの少ない夜の赤信号に立ち止まっていた。

 彼女はたまに俺を誘って、歩こう、と言った。そういう時は大体、きみに悩みごとや嫌なことがあったときだった。ほんの一瞬だけ悲しい顔をするために、きみは俺を呼ぶ。


「わたしね、大学院に行こうかなって思ってるの」

「へえ。なんか研究すんの?」

「子どもの被援助要請についての研究。わたし、助けてって言うのが苦手な子どもだったから、そういう子どもが減ると良いなって思って」

「今も、苦手?」

「んー、ほんのちょっとだけ」


 きみは時たま、高校のときとまったく変わらぬ表情をする。きみがトイレの前で、そして川辺で浮かべていた、かなしそうな顔。きみはその顔をたまに見せに来てくれた。俺は、ぽつりぽつりと話をする彼女の隣で、何かを知ったつもりになって相槌を打っていた。本当は、大学生になったノリで未成年飲酒をしたこともあるし、付き合ってない女性とのセックスだって知っていた。だけど、彼女の隣では誠実なフリをした。それが彼女への誠実だと思っていた。


「助けてって言えないのって、理由とかある?」

「わかんない。わかんないけど、言えないの。それを知るために、研究するんだよ」

「……今も、みんなのこと嫌い?」

「みんなのことが、うっすらと嫌いなのは変わらないけど、自分のことはもっと嫌い」


 年に数回、きみに呼び出されて夜の道を散歩するのが好きだった。実家暮らしだったきみと夜に川辺を散歩する時間にはほんのちょっぴり罪悪感があって、だけどその感情すらいとおしかった。だが、そんなささやかな時間は、俺が就職して、きみが大学院に進学した頃から、ぽつりぽつりと頻度が減って、いつしかなくなってしまった。





 きみの名前を久しぶりに見たのは、最後に会った大学4年生の終わりから7年も経った冬のことだった。懐かしく感じて、きみに連絡をした。電話番号は変わっていなかった。


「浅見くんは、変わらないね」


 少しだけ大人っぽくなったきみは、キャメルのマフラーに顔を埋めていた。黒いコートを着て、ヒールのついたブーツを履くきみは、防寒とお洒落の狭間で揺れ動く、ばかな少女みたいだ。


「変わるところもあるよ。だって、高校生だったのに、今は社会人だ」

「わたしもね、社会人になったよ」


 午後9時。二人で赤信号に足止めをされる。車は全く通っていなかった。きみは厚手の手袋している。どこに行くかは決めていなかった。


「岸田さんは、変わったよね」

「……わたし?」

「うん。変わったんだと思うよ」

「なんで、急にそんなこと言うの」


 赤信号が青に変わり、歩き出す。彼女が遅れてついてきた。深夜2時の赤信号を渡れないきみ。嘘をつく人間が嫌いなきみ。誰かが困っていたら必ず立ち止まるきみ。助けてって言えない誰かを想って研究をしたきみ。

 だけど、きみは変わってしまった。

 俺はためらいながら口を開く。久しぶりに彼女に連絡したきっかけは、ほんの些細なニュースだった。


「ニュースで見てしまった。きみ、研究不正したんだって?」


 隣を見なくても、彼女が悲しそうな顔をしていることだけはわかった。だけど、その元凶が自分であるということを信じたくなくて、あえてきみの顔を見なかった。


「学会誌に投稿した論文、データの流用をしてたって」

「……ごめんね」


 きみは横断歩道の真ん中で立ち止まった。数歩先で振り返る。そこでやっと、彼女の顔を見た。彼女は泣いていた。


「誠実でいられなくて、ごめんね。変わってしまってごめんね」

「……ねえ、教えてよ。岸田さんは昔から、巻き込まれ体質だったじゃん。今回のも、そういう」

「違うの」


 ぴしゃりと言い放ったきみは、横断歩道の白線を見つめている。


「結果がね、でなかったの。博士課程を出るには査読付き論文が2本必要でね、だけどわたし、ぜったいに3年で卒業しないといけなかったから、ほら、お金がないから、だから、だから、時間もなくて、追い込まれてて、どうしても、いい結果が出なくて、だから、データもらって、サンプル増やしたら、有意になるかなって、だめなの知ってたけど、どうしてもそれを示さないといけなかったから、誰にも相談できなくて、それで、くるしくて、どうしようもなくて、だから」


 口早に言い訳を重ねる彼女は、あのときと同じように目を真っ赤にしていた。淡く輝いた川辺で見た記憶が、ほろほろと星屑のようにこぼれ落ちていく。

 大学院に行ったきみが精神を壊したということを、風の噂で知っていた。修士課程の間は良かったが、博士課程に進んだきみの心は、アカハラ体質の教授と、全然結果が出ないデータを前にして、ぽっきりと折れた。

 きみは誰にも頼れぬまま、データの流用をした。結果を出さないと卒業できなかったから。追い込まれて追い込まれて、どうしようもなくなって、きみはやってはいけないことをしてしまった。

 きみに言われて、俺はきみの前だけでも誠実になろうと努力した。きみは、正しさの才能を持っていたから、きみに似合うように、深夜の赤信号を渡らずに我慢した。だけどきみは、自らの手で、正しさの才能を捨てた。健やかな心と一緒に。


「浅見くん、嫌いにならないで」

「ならないから平気だよ」


 なんて、俺は嘘つきだ。おれはほんのちょっとだけ、きみのことを軽蔑している。

 本当は、頼られたかった。助けてって、俺だけに言ってほしかった。そうしたら俺は、なにをしてでもきみの、真っ直ぐなきみの心を守ってあげようと尽力したはずだった。なのに俺は、何もしなかった。きみに連絡すらしなかった。きみが連絡してこないなら、きっと大丈夫なんだろうって思っていた。だけど、違かった。きみは本当につらいとき、助けてって言えない子だったから。

 不器用なきみは、いつも損をする。だからあのとき、一緒にサボろうって言ったのに。

 横断歩道の真ん中で立っているきみに、遠くから自動車のライトが近づいてくる。信号は赤になっていた。俺はきみの手を引く。二人で残りの横断歩道を渡る。

 彼女が信号無視の大罪を犯したのは、きっとこれが初めてだった。大丈夫。間違っているのは、俺たち以外のすべてだよって、そう言おうと思って、やめた。正しさを捨て切れない彼女から、正しさを奪うのは俺でありたかった。だけど俺には、赤信号を渡らせるのが精一杯で、それよりも深い悪にきみを引きずることはできなかった。俺もきみの正しさに毒されていた。


ただしくないこと end.