♢プロローグ
【──の病気が治って、夢が叶いますように。
たとえどんな未来が待っていても、信じて真っ直ぐに。
振り返らないで。──それだけを願ってる】
私は、油性ペンを握りしめ力強く書いた。
そういえば、人生はいつだって選択の連続だって誰かが言ってた。
朝の『起きる?起きない』から始まって、『夜の寝る?寝ない』で一日が終わる。今日のおやつはアイスクリームにしようか、ドーナツにしようかって選択は楽しい。楽観的でいいから心が踊る。これはあくまで単純な話。
もっと大きな人生の分岐点には、時には頭を抱えてしまうほど悩む選択が存在するし。それは、たったの2択だったり、有象無象の中からこれだ!って思うひとつを選んだり。そうだなー⋯⋯例えば、受験とか就職とか結婚とかかな。私にもそんな未来があったら、これは悩むだろうな。こんな田舎町で生まれて、私は人生を賭けた大それた選択を、まだしたことが無い。あぁ、直近の私で言えば進学がこれに当てはまりそうだ。だけど指定された小学校に通い、そのまま同じ校区内の中学生になり、この町で唯一の普通科高校に進学した。選択なんてしたっけ?そういえばそんな感覚は無かったな。親が当たり前に敷いたレールを歩いていただけだから。迷う余地もないくらい、脇目も振らず真っ直ぐに。
それなのに、唯一自分の意志の選択権が無いものが『生まれる』って事だけ。『死ぬ』は選ぶことが出来ても『生まれる』は選べない。『生まれる』は誰かに望まれる方だから。私で言えば、私の両親の選択の結果、私が存在している。私の意思じゃない。生まれて初めて空気を吸った瞬間に、私の人生最初の選択が始まる。そう、泣く?泣かない。その二択だ。
無機質な真っ白い部屋のカーテンが、ふわりふわりと何度も揺れる。けど、君は無反応だ。このカーテンと同じ、選ぶことも無く自然に身を委ねている。すやすやと眠りながら、時々胸元が小さく膨れる。体は生きる事を選択しているのに、脳は機能を停止してる。
「おーい。早く起きないと、間に合わないよー?」
君の枕元に置かれたノートだけが、風を受けてはらりはらりと次へ進もうとしている。
「ちょっと借りるよ。君の宝物」
ノートを手に取り、最初のページから丁寧に捲った。
これは君が選んだ言葉の連続。激しくて、悲しくて、温かくて、淡くて。言うなれば君の命そのもの。君が全てを賭けて作り上げた最高傑作。だけど最後のページに君が選べなかった空白が残されている。君の夢が途中のまま、選ばれるのを待っている。その答えを綴れるのは君しかいないのに。
「人生って不条理だね」
私はパタリとノートを閉じる。そして、ひとつ息を吐いた。
私がいま選択しようとしていることは、正しいとも、正しくないとも、どちらとも言えない。ただ言えることは、未来の私が振り返って「正しかった!」って思えるるような答えを選択するべきってこと。だって『正しい選択をした人』だけが幸せになるんじゃない。
その選択を、行動して『正しいものにした人』が幸せになるんだ。
「待ってて、私が君の夢を────」
私は、全部正しいものにする。
そうするために、行動するのだ。
ねぇ。
この問いに君だったら、どう答えだんだろう?
『命と引替えに、君が生きれるならどうする?』
──私なら、こうする。君のために、選ぶよ。
♢1
高校2年、初夏。
僕は今、最大の選択を迫られている。
そう、昼休みに繰り広げられる購買部の争奪戦だ。
まさに、その最前線にいる。
いつもは母親が弁当を用意してくれるのだが、今日は小さく折りたたまれた千円札が申し訳なさそうに机に置いてあった。
どうやら寝坊したらしい。
僕はニヤリと笑って、有難く頂戴した。
そのお陰で、僕もようやくこのイベントに参加できたわけだ。
高校に入学して1年経つが、初参戦。勝手が分からず、緊張している。この購買部のパンは美味しいらしい。と小耳には挟んでいた。
しかし、毎日早起きして弁当を用意してくれる母に「今日はパンがいい」なんて言うのは忍びない。今日のイレギュラーは、僕にやっと訪れた果報だ。いつか食べてみたいと密かに思っていたチャンスがようやくきた。
香ばしい小麦の香りが鼻をかすめる。机いっぱいにパンがぎゅうぎゅうと並べられている。
さて、念願のパンだ。どうしよう?
噂によると、中でも人気を博すのは焼きそばパンとあん食。
焼きそばパンはイメージが沸くが、聞きなれないあん食とは、揚げた食パンにあんこを挟んだものだと、今理解した。
要は、しょっぱい系か甘い系か⋯⋯ある意味究極の二択だ。
味を想像すると、自然と口が開いてしまう。
どっちも食べればいいって、そんな単純明快な意見は、少食の僕には無理難題。今、僕の優柔不断な性格が空中を彷徨う右手に全集中している。
焼きそばパンとあん食の間を右手が何往復もするうちに、「早くしろよ!」と、つい後ろからのプレッシャーに負けそうになる。もう神様に委ねよう!と目を瞑って掴んだパン。それを前に突き出し「これください!」と購買のおばちゃんに渡す。「はいよー」と、パンは手際よく袋に入れられた。
波のように押し寄せる生徒の間を縫って、ようやく廊下にたどり着いた僕は意を決して袋をのぞき込む。
さぁ、神様はどっちを選んだんだ?
少し潰れたチョココロネが、袋の奥で寂しそうに転がっていた。
「やってしまった⋯⋯」
僕はいつもこうだ。選択を間違える。
運がないと言ってしまえばそうだし、自分の意思がないとも言える。だからって責任転換はしない。運がないのも意思がないのも、結局は僕が悪い。目を瞑って選ぶって選択をした僕が悪い。
肩を落として教室に戻り、隅の自分の席に静かに座る。
沈んだ気持ちを慰めるように、僕の頭を優しく茅花流しが撫でた。
続々とクラスメイトが教室に戻ってくる。
「見てよ!焼きそばパンもあん食も買えたよ!」
「俺はあん食ふたつ!」
戦利品を掲げながら教室に戻ってくるカースト上位の集団の声が聞こえてきた。自然と彼らの周りに人が集まり、英雄の帰還のようにチヤホヤと持て囃されている。持っているのは、たかがパンなのに。これみよがしに高く掲げられたパンは、なぜか伝説の武器よりも眩しく見えた。たかがパンなのに、だ。
「今日は運が良かったなー!」
確かに昼休み前の授業は自習だったし、僕のクラスはフライング気味に購買を目指した。僕もその集団に紛れて購買部に走った訳だが、こんなチャンスはそうそう無いかもしれない。いや、二度とないだろう。気が弱い僕はあの群衆をかき分けて、我先にパンを取りに行ける勇気なんてある訳が無いんだから。
「美味いっ!」
噂のパンを美味しそうに頬張るクラスメイトが妬ましい。
彼らのことを、いつもは他人だと思って気にもしないくせに、今日に限っては敏感に気になってしょうがない。
あんぐりと空いてしまった口を慌てて閉じ、僕は窓の方に体ごと向いて存在感を消した。
まぁ、いつもの事だ。僕はひとりが好きだから。
寂しいとか、可哀想な奴って思われないか? とか、ずいぶん昔に気にならなくなった。それも僕が選んだこと。こんな性格だからか、友達付き合いも苦手だ。苦手と言うか、友達と関わらなければ余計な心配も、不安も生まれることすらないから、あえて。
小さく「いただきます」と呟いて早々にチョココロネを口に詰め込むと、僕は机の中からノートを引っ張り出す。
パラパラとページを捲り、空白のページで手を止める。筆箱からボールペンを取り出し、不規則にカチカチと鳴らす。
これは僕の誰にも言っていない趣味であり、夢であり、僕自身の形でもある。僕は小説を書くのが好きだ。今は小説には到底及ばない代物。我儘に書いた文字の羅列。この瞬間だけは、僕は素直になれる。僕は将来、それを仕事にしたいと思っていた。もう、諦めたけど。物書きは趣味で十分。夢をみるのも諦めた。
今は日記のように、僕に起こった出来事を短い小説にしてノートに記す。今日のネタは面白い。パン争奪戦の見事なまでの敗北⋯⋯。自虐だけど。待てよ⋯⋯いや、それよりも僕には書かなければいけない事があるじゃないか。あの夜の出来事だ。
あの日、僕は一向に沈まないウキを、ただただぼんやりと見つめていた。日の入りから始めて、もうかれこれ1時間。釣果はゼロ。アタリすらない。
微動だにしないウキは、まるで僕の青春みたいだと自分を揶揄するように笑った。
釣りは田舎暮らしの趣味の代表格。
僕の住んでいる町は、宮崎県の中でも有数の港町。近海カツオの一本釣りは日本一の水揚げ量で有名。だから、釣り場に困ることもないし、ゆったりとした時間に身を任せるのが県民性にも合っているのかもしれない。僕ら子供には娯楽の少ない町だから、ちょうどいい暇つぶしになる。それに相手もいらない。ひとりで楽しめる。
ウキの様子をじっと伺うだけの、この時間も嫌いじゃない。
その時間に、物思いにふけったり妄想する。これが僕の楽しみ。
折りたたみ式のアウトドアチェアに深く腰かけ、灯台の灯りと、傍らに置いたランタンの灯りを頼りに小説の構想を考えたり。 僕は同時にふたつの趣味を楽しめるわけだ。
人と関わることが嫌いってわけじゃない。友情を否定する訳でもない。友情は素晴らしいものだと思う。ただ、僕は、僕だけの平穏な時間と空気を邪魔されるのを嫌っているだけ 。これは僕だけのものだから。我儘な発想だけど、誰にも迷惑をかけてないんだからいいだろう?って、だから友達付き合いを避けている。
ちゃぷちゃぷと壁を打つ水の音が心地いい。生まれた時から身近にある磯の香りも安心する。僕の家からも海が見えるし、漁師だった祖父に連れられて港にはよく遊びに来ていた。
ベタ凪の海面に、鏡に映るように今夜の満月が浮かんでいる。
「綺麗だな⋯⋯」
僕は持っていたペンを、美大生がデッサンで構えるように突き立て、それ越しに海面の月を睨む。僕ならどう書くだろうと眉間に皺を寄せながら。思いつくのは、あの有名な一節。
『あなたといると、月がとても綺麗です』
あぁ、なんて惚れ惚れする表現だろう。かの文豪達は、どうしてこんなにも心を打つ文字を綴れるのか。
──やっぱり僕には才能なんて⋯⋯。
まるで僕の心を神様にでも見透かされたように。
「いてっ⋯⋯」
突然、僕の頭にコツンと硬い衝撃が伝わり、バサッと足元になにか落ちる。見慣れたキャンバスノートだ。僕が小説を書くのに使っているノートと同じ、どこにでもあるノート。
「空から、ノート⋯⋯?」
地面からそれを拾い上げ、何か手がかりはないかとパラパラと捲る。何も書かれていない。表紙にはしっかり折り目がついているのに、ページはどこも真っ白だ。
「何で空から?」
不思議な事は続く。
その時、僕の視界にまるで映画の字幕のように、ある文字が浮かんだ。
『空から降ってきた女の子は、月の中に沈んでいく』
「はっ?なんだこれ」
僕はゴシゴシと目を擦ってみる。
幻覚か?
自慢じゃないが、読書量は胸を張れるくらい積み上げてきた。毎日欠かさずに文字も綴る。僕の頭が活字に支配されて中毒を起こしてでもいたら、この幻覚は納得がいくが⋯⋯。なんて、流暢に分析をしている場合じゃない。
「いやいや。僕は、疲れてるんだろうな⋯⋯」
答えは、たっぷりと蓄えた目の下のクマが物語っている。
そうだ、最近の僕はろくに寝ていない。
理由は明白だ。先日発表があった『春の小説甲子園』と題打たれたネットの公募の結果を目の当たりにしたばかり。当然、僕もこの公募に作品を送った。会心の作⋯⋯だと思い込んでいた物を。1年もかけて準備した。だけど、所詮は井の中の蛙。小説界隈の大海を知らず。地元から一歩も出たことの無い僕にとって、文学の海は遥かに広大で、真っ暗で底が見えないほどに暗く深い。だから、結果は察しの通り。落選。惨敗もいい所だ。片っ端から最終選考の作品を読み漁って、ひとつ、ふたつしか歳の変わらない受賞者の作品に嫌ってほど格の違いを見せられた。作品を読んだ読者だろうか? 匿名の人物から、心無い感想のDMまで届いた挙句「どうせ僕には才能なんて⋯⋯」と勝手に落ち込むほど。つまり、僕の精神状態は平然を装ってはいるが、内心はボロボロの状態。使い古したTシャツみたいに、目も当てられないくらいダメージを負っている訳だ。
あぁ、こんな幻覚を見るくらい追い詰められてるなら、さっさと帰って寝てしまった方がいい。放っておくと、烏滸がましくも太宰先生みたいに目の前の海に飛び込んでしまいそうだ。飛び込んで大文豪に生まれ変われるなら喜んで飛び込むけど。そんな事はありえない話だから止めておこう。
未だ、視界にチラつく字幕を無視して、僕は海からウキを引き上げた。振り出し竿を丁寧に仕舞い、帰り支度をする僕の足元にまた、今度は見慣れたものが落ちてきた。僕も持っているそれは、うちの高校の生徒手帳だ。拾い上げて確認すると記された名前は【白石朱音】僕と同じクラスの人物らしい。
「白石朱音⋯⋯?」
口に出してみる聞き覚えのある名前。顔は写真を見ても、ごめん思い出せない。教室の中の僕は、黒板を見てるかノートを見てるかの二択。クラスメイトの顔なんていちいち覚えていない。
「何で、白石さんの生徒手帳が⋯⋯?」
訝しげに生徒手帳を見つめながら、僕は首を傾げる。そんな僕の横に、間髪を入れず、次は筆箱、次は水筒、そしてからっぽの鞄が雨みたいに空から降ってくるではないか。もう空を見るのが正直怖い。たぶん次はきっと⋯⋯。
『空から降ってた女の子は、月の中に沈んでいく』
僕の視界に、まだこの字幕は残ったままだからだ。
「まさか⋯⋯ね」
僕はごくりと生唾を飲み、意を決して空を見る。
月夜に照らされたシルエット。
靡く黒い髪は、艶めかしくて。
どこか異様だが、美しい光景だった。
【翼の折れた制服の天使が、空から堕ちてきた。】
そんなフレーズがぴったりの。
白い肌の腕が、儚げに力をなくし、ぐったりとしている。
僕の母の日課、風呂上がりのヨガの最後にしているポーズに似ている。なんて言ったっけ⋯⋯確か亡骸のポーズ?いや、縁起の悪いことを考えるな。たぶん彼女は死んでない!僕は呆気にとられて固まっているけど、いや、今この瞬間も彼女は落下しているのだ。
彼女を助けなきゃ!
「白石さん!」
名前を叫んでみるが反応無し。そして、ものの数秒でバシャーン!と大きな飛沫をあげ、凪に浮かぶ月に彼女は堕ちた。
「うるせぇぞ!魚が逃げるだろうが!」
釣り人のおじさんの怒号が飛ぶ。その声の方が五月蝿いのに。
ぷくぷくと、気泡が歪に揺れる月のシルエットの中心に浮かんでくるが、肝心の彼女本体が浮かんでくる気配は無い。
「人が海に落ちました!きゅ、救急車を!」
僕は精一杯の大声で、釣り人に事態を伝える。
「え!ま、待ってろ!すぐに連絡をする」
おじさんは慌てて携帯電話を取りに戻った。
それから⋯⋯もう選択の余地は無い。飛び込む?救助を待つ?そんな考えてる猶予もなし。確かこの漁港の水深は3メートル。いける。僕は上着だけ脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。海面の月の真ん中まで泳ぎ、海の中を覗き込む。
彼女はゆっくり、静かに沈んでいく途中だった。
僕は大きく息を吸って肺に溜め込み、体をコの字に折る。それから真っ直ぐ彼女に手を伸ばし、ゆっくり大きく海を蹴った。
スーッと沈んでいく。
ぐんぐんと彼女と距離が縮まる。
めいっぱい伸ばした手で彼女の左手首を掴み、今度は全力で月を目指す。服が体にまとわりついて泳ぎにくい。それに月の引力みたいに、底に引きずり込まれるような感覚で体が重い。
あと2メートル。
コポコポと耳に響く水の音に、僕の焦った心音が混ざる。彼女に当たらない様、必死にバタ足を繰り返す。間に合ってくれ!
雲がそっと月を隠したのか、急に暗くなった。
同時にフワッと体も軽くなる。
あと1メートル。
間に合え⋯⋯。僕は最後の力を振り絞って水を蹴り、先に彼女を水面に引っ張りあげた。
「ぷはぁ!」
僕も顔を出す。口の中が塩っ辛い。
「白石さん!白石さん!」
僕は彼女の名前を何度も呼んだ。
「んっ⋯⋯げほっ、こほっ」
「白石さん!?」
彼女は薄らと目を開き、小さく頷く。
「ほら!お前たち、これに掴まれ!!」
釣り人のおじさんから救命浮き輪が投げ込まれた。
「白石さん、ほら、捕まって!」
僕は彼女の傍に浮き輪を引き寄せると、彼女はそれをしっかりと捕まえた。
「もう大丈夫!」
到着した救急車に彼女を乗せ、サイレンの行方を見送ると僕はようやく気が休まった。
これが、あの夜の出来事だ。
整理しなきゃいけない事はたくさんある。
○あの日以来【白石朱音】は学校を休んでいる。
僕が拾った生徒手帳やノートは、未だ返せずに鞄の中にある。
早く返さないと、落ち着かない。
○僕の視界に突如として現れた字幕。
確か『空から降ってきた女の子は、月の中に沈んでいく』だったか⋯⋯。あれは結局なんだったのだろう。あの日以来、字幕は見えないから単なる疲れのせい?それとも幻覚?
その女の子が【白石朱音】だったのはなぜ?
偶然?いや、でも確かに空から落ちてきた。
僕はハッキリとこの目で見たんだ。
どこぞの探偵気取りで、僕はノートにつらつらと書く。
もはや小説では無い。乱雑なメモ書きだ。
「ねぇ、黒川君。ちょっといい?」
集中していた僕が、急な声にビクッと顔を上げてしまったのは仕方がない。思わずペンも床に落としてしまった。
だって、僕がクラスメイトと言葉を交わすことは滅多に無いからだ。声の主は委員長の蛯名雫玖さん。委員長を担うだけあって、いつも明るい性格で人望も厚い。成績優秀、クラスを纏めるのも上手い。絵に描いたような人気者。それに例のパンを美味しそうに頬張っていたグループのひとりだ。僕とは真逆の人物が僕の名前を呼んでいる。蛯名さんは、落ち着いて床に落ちたペンを拾うと、もう一度僕の目を見つめた。
「何か⋯⋯?」
ビビって蚊の鳴くような声で、答えてしまった。蛯名さんに聞こえたかはさておき、次の言葉が返ってきたから良しとしよう。
「黒川君⋯⋯この前、溺れた朱音を助けてくれたんでしょ?」
「えっと、まぁ⋯⋯うん」
そうだよな、傍からすれば『空から降ってきた』じゃなくて、『溺れた』だよな。それよりも目に涙を浮かべ、なんども「ありがとう」を繰り返す蛯名さんに驚いた。なんで知ってるんだろう?当たり前のことをしただけなんだけど。話を聞くと、蛯名さんはどうやら白石さんの友達のようだ。きっと、白石さん本人から事の顛末を聞いたんだろう。それならばと、僕はこのチャンスに気になったことを質問してみた。
「白石さん、学校に来てないみたいだけど?」
「朱音?風邪ひいちゃったみたい。この季節の海はまだ冷たいって!だから大事をとって休み。もう元気そうだけど⋯⋯」
確かにあの日の海は冷たかった。これは納得の理由だ。頷く僕に、蛯名さんは、チャットのトーク画面を見せる。他愛のない会話がつらつらと羅列し、白石さんの【明日は学校に行くね!】の文字で終わっていた。
「ほらね?」
「うん。随分元気そうだ」
明日、学校に来るという事は、あの日以会っていない彼女と再会することになる。元々クラスメイトなんだから再会は変か。だけど、僕からしたら2度目の再会。どんな顔をして会えばいいんだ。
うーん、と考え込む僕の傍らのノートに気がついた蛯名さんが「何書いてるの?」と覗き込んでくる。
「やっ、これはその⋯⋯違う。なんでもない」
バタンとノートを閉じた僕の慌てぶりに、ばつの悪そうな顔をして「見てない!内容は見てないから」と蛯名さんは上擦った声で言った。
「その⋯⋯白石さんが元気ならよかった。気になってたから、教えてくれてありがとう」
「ううん、助けてくれて本当にありがとう。黒川君、あんまり話したこと無かったけどいい奴じゃん!普段は静かなのに、実のその正体は正義のヒーローって感じ。また朱音と3人で話そうね!」
それは地味に悪口なのでは?普段は陰キャなのに実は正義の⋯⋯って普段から陰キャだから傷つきやしないけど。
蛯名さんは小さく手を振り、スクールカーストの最上位に帰って行った。僕の平穏で穏やかで、あの日の凪の様に静かな日々が、少し脅かされた気がした。だって教室の真ん中で蛯名さんが、さっきの話に尾ひれをつけて陽キャたちに話しているんだから。チラチラとこちらを見る視線が、疑惑の感情を纏い痛々しい程に刺さる。
僕は堪らず、教室を飛び出した。
僕が白石さんを助けたって話は、大袈裟な美談になって、明日には学校中に広がってしまうだろう。だってこの田舎、WiFiは遅いくせに噂話は光回線並みのスピードで広まっていくんだ。
最悪だ。
僕のその予感は、ど真ん中に的中した。
学校だけじゃなく、町中に。行く先々で、僕は賞賛を受け続け、対人関係が苦手な僕はさすがに気疲れしてしまった。
家のベッドに倒れ込んで、見慣れた天井を見つめてようやく安堵した。
明日、僕はどんな顔をして白石朱音に会えばいいのか。
教室の中で、僕と白石朱音が対面したら⋯⋯尾ひれの付きまくった噂話のせいで、大歓声も起こりかねない。
そんな注目を受けた事もなければ、ただでさえ目立ちたくもないのに⋯⋯考えただけで失神しそうだ。いっそ、僕が学校を休んでしまえば⋯⋯。だめだ、僕にはひとつ、どうしても彼女と関わらなければいけない案件がある。生徒手帳とノートを返さなければいけない。今になって冷静に考えれば、蛯名さんに渡せばよかったのでは?それなら僕がこれ以上、彼女と関わる必要は無くなったわけだ。
だけど、どうも心に引っかかることがある。
あの字幕を見た後に、その通りの事が現実に起こったこと。偶然にしては、出来すぎている。まさか、僕は未来を予知できるようになったのか?
良くも悪くも、あの日以来、字幕は見ていない。
もう一度くらい、見てみたいけど⋯⋯。だって小説のネタにはもってこいの体験だ。そんな妄想を膨らませているうちに、いつの間にか僕は深い闇へと落ちていった。
ピピッピピッピピッ──。
規則正しい電子音で、意識の回線が繋がる。久しぶりに熟睡したようだ。寝すぎたせいか、背中も痛い。糊付けされたようにくっついた瞼を、ゆっくりと開く。霞んだ視界の隅に、それは現れた。
『僕は宝物を貰った。忘れられない宝物』
僕はベッドから飛び起きて、洗面所に走った。バシャバシャと冷たい水を顔に浴びせると、タオルでゴシゴシと力強く拭いた。できる限り早く、脳を起こしたかった。それから、もう一度目を開く。
『僕は宝物を貰った。忘れられない宝物』
間違いない。また字幕が現れた。
この前は数分で消えてしまった。
今度は慌てて部屋に戻ると、鞄からノートを引っ張り出す。
『空から降ってた女の子は、月の中に沈んでいく』
『僕は宝物を貰った。忘れられない宝物』
「これで、大丈夫だ」
走り書きの汚い字になってしまったが、僕がノートに書き写すと視界の字幕も消えてしまった。セーフ! 危うく消失するところだった。僕が見た字幕はこれで二つ。
ひとつ目の字幕は現実に起こった。だからきっとふたつ目も。
「宝物⋯⋯なんだろ?僕が貰う?」
期待と不安と、ワクワクとドキドキが、マーブル模様に複雑に混ざりあった心境。徒競走のスタート前? 受験の最初の問題を解く時? いや、過去に味わってきたどれとも違う、僕の知らない感じ。ファンタジー小説の主人公になった気分で、どこかこの非日常的でありえない現象を楽しんでいる僕も存在してる。
「おっはよー!」
白石朱音は、太陽よりも太陽みたいな笑顔を振りまきながら教室に入ってきた。クラスがパッと明るくなる。彼女は文字通り、このクラスの太陽だった。初めてちゃんと見る彼女は、その大きな目をキラキラと輝かせ、笑うとえくぼが小さく頬に浮かんだ。男子生徒は太陽に向く向日葵のように一斉に彼女の方を振り返った。
全く知らなかった。白石朱音はこのクラスの人気者らしい。僕の朝は決まってノートと睨み合っていたから。耳はイヤフォンで塞いでいるし、今日、初めてちゃんと白石朱音の声も聞いた。
よしっ!僕はきちんと姿勢を正し、その時を待つ。
通学途中で何度もシュミレーションを重ねた僕の予想はこうだ。
彼女は教室に入って来て早々に僕の机に寄ってくる。それからお礼を言われるはずだ。僕は務めて平静を装う。自然な流れで生徒手帳とノートを渡す。これで完璧だ。さぁ、来るがいい⋯⋯ってあれ?
「朱音ー!心配したよー」
「そんなに私が恋しかったのかー、よしよし」
高めのポニーテールを揺らしながら、白石朱音は蛯名さんと抱き合っている。そのまま自分の席に着くと友人たちに囲まれて、その姿は見えなくなった。心配する友人たちと話に花を咲かせ、あっという間に笑い声に包まれた。
そもそも、あの状況で僕が助けたって彼女は認識してるのか? 助けて直ぐに救急車に乗ったし、僕達はろくに会話もしてない。僕の方も誰にも名乗ってないわけで。蛯名さんが本人から事の顛末を聞いたとも限らないし⋯⋯。
ハハッ、なんて自意識過剰だ僕は。自分を鼻で笑って、いつもの僕に戻る準備を始めた。
机からノートを取り出す。だけど、もう小説は書かない。趣味程度に書くことはあるだろうけど、本気では書かない。
とりあえず、親の希望である国立大学を目指す。地元の公務員にでもなって、真面目で安定している息子になる。田舎の長男に期待される道を歩く。夢なんて見るだけ馬鹿だ。もう、選択を間違えたくない。優柔不断な性格ともサヨナラだ。
結局、ノートと生徒手帳は帰り際に僕から返した。何か言いたげな彼女とこれ以上関わるのもどうかと、素っ気なく去った。底辺の僕なんかが関わってはいけない。勇気ある撤退だと褒めて欲しい。
いざ、小説を書くことを止めると急に暇になるもんだ。
どれだけ時間を注ぎ込んでいたかと考えると、もったいない気持ちもあるが⋯⋯いっそ時間を巻き戻してはくれないだろうか。小説を書きたいなんて思う前の僕まで。
気がつくと、港に足を運んでしまう。この灯台の下に来てしまう癖もどうにかしないと⋯⋯なんて思いながら、夕焼けに染まる空を見上げる。まだ、あの日の光景が鮮明に浮かぶ。
字幕通りに、空から月に落ちた白石朱音。小説は諦めたが、突如僕の視界に現れた字幕の謎は気になる。僕は、小説ノートを取り出し頭を整理しようとパラパラとノートを捲るがノートには何も書かれていない。まっさらなノートだ。
「待てよ、このノート⋯⋯まさか、嘘だろ⋯⋯?」
サーっと顔から血の気が引くのを感じた。
最初のページに戻ると、今朝書き残した例の字幕の台詞だけが書かれていた。そして、顔だけじゃなく全身から血の気が引くような声が背後から聞こえる。
「空から降ってきた女の子は、月の中に沈んでいく⋯⋯?」
誰かが、まだ幼さの残るふわふわとした声で台詞のように呟いた。振り返った僕の目に、僕のノートを覗き込んで、「ねぇ、これ何かの台詞?」と、太陽みたいな笑顔で白石さんの声が弾む。
「うわぁ!」
僕は急な彼女の登場に慌てて距離をとり、「ち、違う⋯⋯」と首を振った。
「じゃあ、小説とか?」
大きな目を子犬のように潤ませて、白石さんは首を傾げる。
僕の知り得る知識では、到底表現出来ない変な顔をしたはずだ。焦りと、恥ずかしさと、絶望を同時に発表したような。
「黒川君は、小説を書いてるんだよね?」
待ってくれない彼女に、僕は観念して「そうだよ⋯⋯ってか昔は!書いてた」と返す。
「へー⋯⋯昔ねぇ⋯⋯」
彼女は鞄からノートを取り出して、僕の前でパラパラと捲る。
疑心が確信に変わった。僕はやはりノートを間違って返してしまってる。よりによって、小説ノートを。そして、今朝間違えて彼女のノートに字幕のメモを取ってしまった事に気がついた。
「ごめん、読んじゃった!!」
彼女はイタズラな小悪魔みたいに笑みを浮かべる。
「それ返して⋯⋯くれませんか?」
どうやら彼女は聞く耳をもっていないらしい。ふんふんと頷きながら、ノートから目を離さない。パタンと閉じたと思えば「すっごく良かったよ!『潮騒』こう見えて私は読書家なんだよー」と、意気揚々と言う始末。
「とても本読むタイプには見えないけど」
僕の言葉に彼女はムッと頬を膨らませて「人を見かけで判断するなんて失礼な人だ」といい終わった後に、堪えきれず吹き出した。
「ごめん、自分で言ったのに可笑しくて⋯⋯ふふっ」
彼女が言う小説『潮騒』とは僕が例の公募に送った作品だ。そして、呆気なく散ってしまった作品だ。思い出すと、泣きたくなってしまう。今、この話はしたくない。僕は話題を変えたくて「あのさ、こんなところまで何しに?」と彼女に尋ねてみる。
「だって、私の家ここから近いし。帰り道で君を見つけて」
「⋯⋯それで?」
「君を見つけて⋯⋯あっ!そうだ。肝心なことを忘れてた!」
彼女は凄い勢いで頭を下げる。およそ90度。体育で習った最敬礼だ。
「助けてくれてありがとう!お礼が遅くなってごめん」
また勢いよく頭を上げ、彼女のポニーテールがフワッと揺れると、シャンプーの香りだろうか、爽やかなフローラルの香りが漂う。
「別に、あの状況なら誰だって助けるだろ。たまたま僕がいた。それだけだよ」
「おー⋯⋯その発言、イケメンだね」
そう言われて、急に小っ恥ずかしくなる。
「まぁ、無事でよかったよ。助けた甲斐があった」
「じゃぁ、そんな君に私から贈り物を進ぜよう」
得意げな顔で白石さんは鞄を漁る。それから、じゃーん!と自分の口で効果音を付けながら、僕の前に贈り物を差し出した。袋の中を覗き込み「えっ!これって⋯⋯」と、僕は思わずゴクリと喉を鳴らす。
「そう、噂の⋯⋯パンです!」
彼女は小さく拍手なんかをしながら、場を盛り立てた。袋の中に例の焼きそばパンとあん食が袋に入っている。僕がまじまじと袋の中を見ていると「黒川君はあん食の方が好きだと思うよ」と白石さんは言う。僕は食べたこともないのに、その台詞が不思議だった。
「どうして?」
「ふふっ、私は未来が分かるからね!」
彼女は得意げに宣言する。
「それは嘘だね。僕はどっちも食べたことがない」
「食べたらわかるよ!あん食派だってね」
三角形に切られた揚げた食パンに、ぎっしりと詰まったあんこ。それが二つ。とてもひとりじゃ食べ切れそうにない。
「よかったら一緒に食べない?」
僕は白石さんに半分を渡すと、防波堤から足を投げ出して座った。
潮風が心地いい。隣に白石さんも座る。
「いただきます」
僕は思い切りパンに齧り付く。じゅわーっとパンから油が染み出してあんこの甘さが追いかけて広がる。
「うまいっ!」
思わず感想を口に出してしまうほどの味。
「でしょー?」
隣で白石さんは足をパタパタとさせて嬉しそうだ。僕が食べるのを確認すると、小さな口で齧り付いた。僕も夢中になってあっという間に完食してしまった。こっちもどうぞと差し出された焼きそばパンも半分に分け、食べ比べてみたが、予想された通り僕はあん食の方が好きだった。
「白石さんの予想は的中だ。僕はあん食の方が好きだ」
「だから、私は未来がわかるんだってば」
ぽんぽんと僕の肩を叩きながら、白石さんは冗談ぽく笑う。
少し打ち解けた所で、僕は気になっていたことを尋ねた。
「あのさ⋯⋯聞いてもいいかな?あの日のこと」
「あの日?」
彼女は首をちょこんと横に倒す。
「ほら、白石さんが空から降ってきて、海に落ちた⋯⋯」
「あぁ。⋯⋯真実が知りたいのね」
「うん、そりゃ当事者なわけだし」
彼女はなるほど、と神妙な顔をして何度か頷いた。
「じゃぁ、黒川君にだけ、秘密を教えてあげよう」
「⋯⋯秘密って」
僕はごくりと息を飲んだ。秘密ってなんだろう?彼女は立ち上がると「ついてきて!」と僕を手招き灯台の裏側に回り込んだ。いつもの見慣れた灯台だ。
「知ってる?この灯台ってさ⋯⋯」
真剣な顔付きで、彼女はゆっくりと語り始めた。
「鍵、壊れてるんだよね」
彼女が扉を手前に引くと、ギィーっと音を立てて開いた。
「そしたら登ってみたくなって、上まで」
「⋯⋯何で?」
僕は彼女の言動が心配になる。普通ならこんな足元が覚束無いだろう梯子、登るのを怖くて躊躇する。それに、立ち入り禁止!って赤い文字が目立つように扉に書いてある。子供でも分かる。赤は止まれだ。僕の呆れ顔もお構い無しに、彼女は止まらない。
「月が綺麗だったから、月に近づきたくて。近い方が願いちゃんと届きそうじゃない?それで夢中になってたら足を滑らせたみたい。いやー落ちたのが海でよかったよ」
楽観的過ぎる発言に、僕は少しだけ引いた。
「無鉄砲にも程がある。だいたい立ち入り禁止の灯台に⋯⋯」
「そんな軽蔑の目で見ないでよー」
「いや、理解に苦しんでるだけ」
僕は続けて、冷ややかな目で彼女を見た。
「そうしなきゃいけない理由があったんだよ、黒川君」
「下手したら大怪我したかもしれないのに、それに実際に海に沈んだんだぞ?それほどの理由が?」
「うん、理由は言えないけど、後悔はないよ!」
「呆れた⋯⋯まぁ、その理由も知りたくもないけど」
僕は思わず額に手を当てた。白石さんとは関わらない方が身のためだとも思い始めている。
「ねぇ、それはそうと黒川君は体おかしくない?風邪とかひかなった?」
彼女は少し影のある悲しそうな顔をした。僕は少し不思議だった。そうまで心配されるほど僕は病弱じゃないからだ。小学、中学と皆勤賞を貰ったくらいに。
「僕は、至って健康だよ」
「そう、ならいいんだ。健康が一番!そっか⋯⋯よかった」
彼女はやっぱり太陽みたいに笑う。まるで悪気がないくらいに清々しく。陽キャってこうなのか?その場のノリで行動して、結果オーライなら全てよし!って有り得ないだろ。やっぱり僕と彼女は住む世界が違うようだ。
「って、話をすり替えないでよ。もう灯台には登らないように!」
「なにー?私の心配してくれてるの?」
「また海に飛び込むのは懲り懲りなだけ。君の心配じゃない。僕が風邪をひかないように忠告してるんだ」
「はぁい」
彼女はつまらなそうに返事をする。
「⋯⋯君も心配だから」
「えっ?聞こえなかった、もう一回!」
「⋯⋯だから、君も心配だから」
白石さんと関わらないにしても、クラスメイトが溺れたなんて悲しいニュースは誰だって聞きたくないだろう。クラスメイトとしての心配と言う意味なのに、彼女は満足気にうんうんと頷き、くるりと僕の方を向いた。
「私、白石朱音。あっ、名前は知ってるか。ねぇ、私と友達になろうよ!」
「えっ、は?」
意味がわからない。僕に友達の定義を教えてくれ。君と僕の友達の定義を。僕と友達になって彼女に何のメリットがあると言うのか。いやいや、デメリットしか思いつかない。さっき確信したばかりだ。しかし、彼女は差し出した右手を真っ直ぐ僕に向けたまま、ほら、あの笑顔でこっちを見ている。向日葵みたいな眩しい笑顔で。
「さぁ、黒川君!握手!」
「僕と友達になるなんて選択は間違ってる」
「それは私が決める!私は私の選択に後悔しないよ?」
白石さんは、ぐっと右手をさらに伸ばす。
「いや、僕の気持ちは⋯⋯?」
「黒川君もきっと後悔しないと思うよ。私と友達になってよかったってきっと思う」
その自信はどこから来るのだろう?そうか、彼女にはこれが当たり前なんだろうな。友達になるって、一度話したことがあれば『うちら友達だよね』ってイェーイ! なんて言いながらハイタッチを交わす。SNSの友達だって凄く多いはずだ。定義なんて考える方がおかしい。だってそれは定義とすら仮定することが出来ないくらい薄っぺらいものかもしれないから。僕が思う友達は⋯⋯強く言うが欲しい訳では無い。『あくまで小説で僕が描く友達の定義』と言った方がなんかしっくりくる。その定義で言えば、最も信頼が置けて何でも話せる仲。毎日連絡をやり取りする訳でも無いが、ちゃんと心が繋がっているような関係。綺麗事を言っているかもしれないけど、僕の定義だから否定は受け付けない。
だから、僕と彼女の間には成り立っていない定義なんだけど⋯⋯。
彼女には何を言っても無駄な気がする。現に彼女は僕と握手を交わすまで諦めないだろう。逃げようにも⋯⋯うん、僕の逃げ場は海に飛び込むしかない。だって彼女が堤防の真ん中に立ち塞がってるんだから。仕方ない。彼女の友達の定義なら、精々学校で挨拶を交わす程度だろう。それくらいならやり過ごせそうだし。僕は彼女の右手をそっと握った。
「じゃあ、黒川君。1年間ヨロシクね」
「1年?って、たったの?それだけの友達?」
「言ったでしょ?私は未来が分かるって。3年生は私達、きっと別々のクラスだから」
クラスが離れたら友達も終わるの?僕は益々、彼女の友達の定義がよく分からなくなった。
「あのさ、なんで僕と友達になりたいの?」
彼女は空を仰いで、顎に人差し指を添えて考えるポーズを作った。
「うーん⋯⋯」
考え込んだ彼女に僕はガクッと肩を落とす。考えないと出てこない理由って⋯⋯。
「もちろん、助けてくれたからってのもあるよ!それもあるんだけど、その⋯⋯」
さっきまでの威勢が、沈んでく夕陽みたいに落ちていく。彼女は気まずそうな顔でチラッと僕を見た。
「私、黒川君の書く小説が好きで⋯⋯だから友達になりたいな。なんて思って」
「こんな駄作を?」
「駄作?面白かったよ?」
面白いなら、あの公募でも評価されたはずだ。今の僕には皮肉とも受け取れる。やれやれと、首を横に振る僕の呆れ顔が気に入らなかったのか、彼女は真剣な顔をして僕を真っ直ぐに見つめ静かに口を開いた。
「君の書く小説は凄く美しい。だけど勿体ない。どこか遠慮してる。本当に言いたいこと、伝えたいこと。君の気持ち。我慢してるような⋯⋯『潮騒』が駄作なら、次は君の本当の気持ちを読ませてよ!私は君のこと知りたいって思う。思った!」
急に何を言い出すんだろう、真っ直ぐな言葉に僕はたじろいで何も言い返せない。やっとの事で絞り出した「僕はもう小説は⋯⋯」なんて言葉を遮るように「次回作も、期待してます!」と彼女は力強く言った。
そして、真っ直ぐに僕に刺さる瞳を直視出来なくて。
「ごめん、僕もう帰らないと」
僕は彼女を振り切って自転車に跨り、全速力で漕いだ。
彼女から、いや小説から逃げた。もうあんな思いをするくらいなら書かない方が身の為だからだ。遠くに彼女の声が聞こえる。何を言っているか僕に届かないように全力でペダルに力を込める。彼女の言葉に揺れている気持ちを認めたくなくて。そして、僕の決意が揺るがないように、この微熱を忘れたくて。
小説家になる! なんて夢は諦めたんだ。もし書くことがあっても誰にも見せない。どうせ才能なんてないんだから⋯⋯。なのに、どうして褒めるんだよ。何で僕の心を見透かした様なことを言うんだよ。曲りなりでも、僕の中では最高傑作なんだ。わかってる。わかってるのに。うるさい。僕の自転車のスピードに驚いたムクドリの群れが一斉に羽ばたき、ギャーギャーと騒ぎ立てる。うるさい。ドクンドクンと脈を打つ鼓動がうるさい。ハァハァと頭に響く呼吸がうるさい。カラカラと回る車輪がうるさい。何度も読んで頭に残る、あの公募の優秀賞の好評も。全部、もうぜんぶうるさい。僕は、静かに生きたいだけなのに。額から汗が滲む。ツーっと一筋、頬を滴がなぞった。
【──の病気が治って、夢が叶いますように。
たとえどんな未来が待っていても、信じて真っ直ぐに。
振り返らないで。──それだけを願ってる】
私は、油性ペンを握りしめ力強く書いた。
そういえば、人生はいつだって選択の連続だって誰かが言ってた。
朝の『起きる?起きない』から始まって、『夜の寝る?寝ない』で一日が終わる。今日のおやつはアイスクリームにしようか、ドーナツにしようかって選択は楽しい。楽観的でいいから心が踊る。これはあくまで単純な話。
もっと大きな人生の分岐点には、時には頭を抱えてしまうほど悩む選択が存在するし。それは、たったの2択だったり、有象無象の中からこれだ!って思うひとつを選んだり。そうだなー⋯⋯例えば、受験とか就職とか結婚とかかな。私にもそんな未来があったら、これは悩むだろうな。こんな田舎町で生まれて、私は人生を賭けた大それた選択を、まだしたことが無い。あぁ、直近の私で言えば進学がこれに当てはまりそうだ。だけど指定された小学校に通い、そのまま同じ校区内の中学生になり、この町で唯一の普通科高校に進学した。選択なんてしたっけ?そういえばそんな感覚は無かったな。親が当たり前に敷いたレールを歩いていただけだから。迷う余地もないくらい、脇目も振らず真っ直ぐに。
それなのに、唯一自分の意志の選択権が無いものが『生まれる』って事だけ。『死ぬ』は選ぶことが出来ても『生まれる』は選べない。『生まれる』は誰かに望まれる方だから。私で言えば、私の両親の選択の結果、私が存在している。私の意思じゃない。生まれて初めて空気を吸った瞬間に、私の人生最初の選択が始まる。そう、泣く?泣かない。その二択だ。
無機質な真っ白い部屋のカーテンが、ふわりふわりと何度も揺れる。けど、君は無反応だ。このカーテンと同じ、選ぶことも無く自然に身を委ねている。すやすやと眠りながら、時々胸元が小さく膨れる。体は生きる事を選択しているのに、脳は機能を停止してる。
「おーい。早く起きないと、間に合わないよー?」
君の枕元に置かれたノートだけが、風を受けてはらりはらりと次へ進もうとしている。
「ちょっと借りるよ。君の宝物」
ノートを手に取り、最初のページから丁寧に捲った。
これは君が選んだ言葉の連続。激しくて、悲しくて、温かくて、淡くて。言うなれば君の命そのもの。君が全てを賭けて作り上げた最高傑作。だけど最後のページに君が選べなかった空白が残されている。君の夢が途中のまま、選ばれるのを待っている。その答えを綴れるのは君しかいないのに。
「人生って不条理だね」
私はパタリとノートを閉じる。そして、ひとつ息を吐いた。
私がいま選択しようとしていることは、正しいとも、正しくないとも、どちらとも言えない。ただ言えることは、未来の私が振り返って「正しかった!」って思えるるような答えを選択するべきってこと。だって『正しい選択をした人』だけが幸せになるんじゃない。
その選択を、行動して『正しいものにした人』が幸せになるんだ。
「待ってて、私が君の夢を────」
私は、全部正しいものにする。
そうするために、行動するのだ。
ねぇ。
この問いに君だったら、どう答えだんだろう?
『命と引替えに、君が生きれるならどうする?』
──私なら、こうする。君のために、選ぶよ。
♢1
高校2年、初夏。
僕は今、最大の選択を迫られている。
そう、昼休みに繰り広げられる購買部の争奪戦だ。
まさに、その最前線にいる。
いつもは母親が弁当を用意してくれるのだが、今日は小さく折りたたまれた千円札が申し訳なさそうに机に置いてあった。
どうやら寝坊したらしい。
僕はニヤリと笑って、有難く頂戴した。
そのお陰で、僕もようやくこのイベントに参加できたわけだ。
高校に入学して1年経つが、初参戦。勝手が分からず、緊張している。この購買部のパンは美味しいらしい。と小耳には挟んでいた。
しかし、毎日早起きして弁当を用意してくれる母に「今日はパンがいい」なんて言うのは忍びない。今日のイレギュラーは、僕にやっと訪れた果報だ。いつか食べてみたいと密かに思っていたチャンスがようやくきた。
香ばしい小麦の香りが鼻をかすめる。机いっぱいにパンがぎゅうぎゅうと並べられている。
さて、念願のパンだ。どうしよう?
噂によると、中でも人気を博すのは焼きそばパンとあん食。
焼きそばパンはイメージが沸くが、聞きなれないあん食とは、揚げた食パンにあんこを挟んだものだと、今理解した。
要は、しょっぱい系か甘い系か⋯⋯ある意味究極の二択だ。
味を想像すると、自然と口が開いてしまう。
どっちも食べればいいって、そんな単純明快な意見は、少食の僕には無理難題。今、僕の優柔不断な性格が空中を彷徨う右手に全集中している。
焼きそばパンとあん食の間を右手が何往復もするうちに、「早くしろよ!」と、つい後ろからのプレッシャーに負けそうになる。もう神様に委ねよう!と目を瞑って掴んだパン。それを前に突き出し「これください!」と購買のおばちゃんに渡す。「はいよー」と、パンは手際よく袋に入れられた。
波のように押し寄せる生徒の間を縫って、ようやく廊下にたどり着いた僕は意を決して袋をのぞき込む。
さぁ、神様はどっちを選んだんだ?
少し潰れたチョココロネが、袋の奥で寂しそうに転がっていた。
「やってしまった⋯⋯」
僕はいつもこうだ。選択を間違える。
運がないと言ってしまえばそうだし、自分の意思がないとも言える。だからって責任転換はしない。運がないのも意思がないのも、結局は僕が悪い。目を瞑って選ぶって選択をした僕が悪い。
肩を落として教室に戻り、隅の自分の席に静かに座る。
沈んだ気持ちを慰めるように、僕の頭を優しく茅花流しが撫でた。
続々とクラスメイトが教室に戻ってくる。
「見てよ!焼きそばパンもあん食も買えたよ!」
「俺はあん食ふたつ!」
戦利品を掲げながら教室に戻ってくるカースト上位の集団の声が聞こえてきた。自然と彼らの周りに人が集まり、英雄の帰還のようにチヤホヤと持て囃されている。持っているのは、たかがパンなのに。これみよがしに高く掲げられたパンは、なぜか伝説の武器よりも眩しく見えた。たかがパンなのに、だ。
「今日は運が良かったなー!」
確かに昼休み前の授業は自習だったし、僕のクラスはフライング気味に購買を目指した。僕もその集団に紛れて購買部に走った訳だが、こんなチャンスはそうそう無いかもしれない。いや、二度とないだろう。気が弱い僕はあの群衆をかき分けて、我先にパンを取りに行ける勇気なんてある訳が無いんだから。
「美味いっ!」
噂のパンを美味しそうに頬張るクラスメイトが妬ましい。
彼らのことを、いつもは他人だと思って気にもしないくせに、今日に限っては敏感に気になってしょうがない。
あんぐりと空いてしまった口を慌てて閉じ、僕は窓の方に体ごと向いて存在感を消した。
まぁ、いつもの事だ。僕はひとりが好きだから。
寂しいとか、可哀想な奴って思われないか? とか、ずいぶん昔に気にならなくなった。それも僕が選んだこと。こんな性格だからか、友達付き合いも苦手だ。苦手と言うか、友達と関わらなければ余計な心配も、不安も生まれることすらないから、あえて。
小さく「いただきます」と呟いて早々にチョココロネを口に詰め込むと、僕は机の中からノートを引っ張り出す。
パラパラとページを捲り、空白のページで手を止める。筆箱からボールペンを取り出し、不規則にカチカチと鳴らす。
これは僕の誰にも言っていない趣味であり、夢であり、僕自身の形でもある。僕は小説を書くのが好きだ。今は小説には到底及ばない代物。我儘に書いた文字の羅列。この瞬間だけは、僕は素直になれる。僕は将来、それを仕事にしたいと思っていた。もう、諦めたけど。物書きは趣味で十分。夢をみるのも諦めた。
今は日記のように、僕に起こった出来事を短い小説にしてノートに記す。今日のネタは面白い。パン争奪戦の見事なまでの敗北⋯⋯。自虐だけど。待てよ⋯⋯いや、それよりも僕には書かなければいけない事があるじゃないか。あの夜の出来事だ。
あの日、僕は一向に沈まないウキを、ただただぼんやりと見つめていた。日の入りから始めて、もうかれこれ1時間。釣果はゼロ。アタリすらない。
微動だにしないウキは、まるで僕の青春みたいだと自分を揶揄するように笑った。
釣りは田舎暮らしの趣味の代表格。
僕の住んでいる町は、宮崎県の中でも有数の港町。近海カツオの一本釣りは日本一の水揚げ量で有名。だから、釣り場に困ることもないし、ゆったりとした時間に身を任せるのが県民性にも合っているのかもしれない。僕ら子供には娯楽の少ない町だから、ちょうどいい暇つぶしになる。それに相手もいらない。ひとりで楽しめる。
ウキの様子をじっと伺うだけの、この時間も嫌いじゃない。
その時間に、物思いにふけったり妄想する。これが僕の楽しみ。
折りたたみ式のアウトドアチェアに深く腰かけ、灯台の灯りと、傍らに置いたランタンの灯りを頼りに小説の構想を考えたり。 僕は同時にふたつの趣味を楽しめるわけだ。
人と関わることが嫌いってわけじゃない。友情を否定する訳でもない。友情は素晴らしいものだと思う。ただ、僕は、僕だけの平穏な時間と空気を邪魔されるのを嫌っているだけ 。これは僕だけのものだから。我儘な発想だけど、誰にも迷惑をかけてないんだからいいだろう?って、だから友達付き合いを避けている。
ちゃぷちゃぷと壁を打つ水の音が心地いい。生まれた時から身近にある磯の香りも安心する。僕の家からも海が見えるし、漁師だった祖父に連れられて港にはよく遊びに来ていた。
ベタ凪の海面に、鏡に映るように今夜の満月が浮かんでいる。
「綺麗だな⋯⋯」
僕は持っていたペンを、美大生がデッサンで構えるように突き立て、それ越しに海面の月を睨む。僕ならどう書くだろうと眉間に皺を寄せながら。思いつくのは、あの有名な一節。
『あなたといると、月がとても綺麗です』
あぁ、なんて惚れ惚れする表現だろう。かの文豪達は、どうしてこんなにも心を打つ文字を綴れるのか。
──やっぱり僕には才能なんて⋯⋯。
まるで僕の心を神様にでも見透かされたように。
「いてっ⋯⋯」
突然、僕の頭にコツンと硬い衝撃が伝わり、バサッと足元になにか落ちる。見慣れたキャンバスノートだ。僕が小説を書くのに使っているノートと同じ、どこにでもあるノート。
「空から、ノート⋯⋯?」
地面からそれを拾い上げ、何か手がかりはないかとパラパラと捲る。何も書かれていない。表紙にはしっかり折り目がついているのに、ページはどこも真っ白だ。
「何で空から?」
不思議な事は続く。
その時、僕の視界にまるで映画の字幕のように、ある文字が浮かんだ。
『空から降ってきた女の子は、月の中に沈んでいく』
「はっ?なんだこれ」
僕はゴシゴシと目を擦ってみる。
幻覚か?
自慢じゃないが、読書量は胸を張れるくらい積み上げてきた。毎日欠かさずに文字も綴る。僕の頭が活字に支配されて中毒を起こしてでもいたら、この幻覚は納得がいくが⋯⋯。なんて、流暢に分析をしている場合じゃない。
「いやいや。僕は、疲れてるんだろうな⋯⋯」
答えは、たっぷりと蓄えた目の下のクマが物語っている。
そうだ、最近の僕はろくに寝ていない。
理由は明白だ。先日発表があった『春の小説甲子園』と題打たれたネットの公募の結果を目の当たりにしたばかり。当然、僕もこの公募に作品を送った。会心の作⋯⋯だと思い込んでいた物を。1年もかけて準備した。だけど、所詮は井の中の蛙。小説界隈の大海を知らず。地元から一歩も出たことの無い僕にとって、文学の海は遥かに広大で、真っ暗で底が見えないほどに暗く深い。だから、結果は察しの通り。落選。惨敗もいい所だ。片っ端から最終選考の作品を読み漁って、ひとつ、ふたつしか歳の変わらない受賞者の作品に嫌ってほど格の違いを見せられた。作品を読んだ読者だろうか? 匿名の人物から、心無い感想のDMまで届いた挙句「どうせ僕には才能なんて⋯⋯」と勝手に落ち込むほど。つまり、僕の精神状態は平然を装ってはいるが、内心はボロボロの状態。使い古したTシャツみたいに、目も当てられないくらいダメージを負っている訳だ。
あぁ、こんな幻覚を見るくらい追い詰められてるなら、さっさと帰って寝てしまった方がいい。放っておくと、烏滸がましくも太宰先生みたいに目の前の海に飛び込んでしまいそうだ。飛び込んで大文豪に生まれ変われるなら喜んで飛び込むけど。そんな事はありえない話だから止めておこう。
未だ、視界にチラつく字幕を無視して、僕は海からウキを引き上げた。振り出し竿を丁寧に仕舞い、帰り支度をする僕の足元にまた、今度は見慣れたものが落ちてきた。僕も持っているそれは、うちの高校の生徒手帳だ。拾い上げて確認すると記された名前は【白石朱音】僕と同じクラスの人物らしい。
「白石朱音⋯⋯?」
口に出してみる聞き覚えのある名前。顔は写真を見ても、ごめん思い出せない。教室の中の僕は、黒板を見てるかノートを見てるかの二択。クラスメイトの顔なんていちいち覚えていない。
「何で、白石さんの生徒手帳が⋯⋯?」
訝しげに生徒手帳を見つめながら、僕は首を傾げる。そんな僕の横に、間髪を入れず、次は筆箱、次は水筒、そしてからっぽの鞄が雨みたいに空から降ってくるではないか。もう空を見るのが正直怖い。たぶん次はきっと⋯⋯。
『空から降ってた女の子は、月の中に沈んでいく』
僕の視界に、まだこの字幕は残ったままだからだ。
「まさか⋯⋯ね」
僕はごくりと生唾を飲み、意を決して空を見る。
月夜に照らされたシルエット。
靡く黒い髪は、艶めかしくて。
どこか異様だが、美しい光景だった。
【翼の折れた制服の天使が、空から堕ちてきた。】
そんなフレーズがぴったりの。
白い肌の腕が、儚げに力をなくし、ぐったりとしている。
僕の母の日課、風呂上がりのヨガの最後にしているポーズに似ている。なんて言ったっけ⋯⋯確か亡骸のポーズ?いや、縁起の悪いことを考えるな。たぶん彼女は死んでない!僕は呆気にとられて固まっているけど、いや、今この瞬間も彼女は落下しているのだ。
彼女を助けなきゃ!
「白石さん!」
名前を叫んでみるが反応無し。そして、ものの数秒でバシャーン!と大きな飛沫をあげ、凪に浮かぶ月に彼女は堕ちた。
「うるせぇぞ!魚が逃げるだろうが!」
釣り人のおじさんの怒号が飛ぶ。その声の方が五月蝿いのに。
ぷくぷくと、気泡が歪に揺れる月のシルエットの中心に浮かんでくるが、肝心の彼女本体が浮かんでくる気配は無い。
「人が海に落ちました!きゅ、救急車を!」
僕は精一杯の大声で、釣り人に事態を伝える。
「え!ま、待ってろ!すぐに連絡をする」
おじさんは慌てて携帯電話を取りに戻った。
それから⋯⋯もう選択の余地は無い。飛び込む?救助を待つ?そんな考えてる猶予もなし。確かこの漁港の水深は3メートル。いける。僕は上着だけ脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。海面の月の真ん中まで泳ぎ、海の中を覗き込む。
彼女はゆっくり、静かに沈んでいく途中だった。
僕は大きく息を吸って肺に溜め込み、体をコの字に折る。それから真っ直ぐ彼女に手を伸ばし、ゆっくり大きく海を蹴った。
スーッと沈んでいく。
ぐんぐんと彼女と距離が縮まる。
めいっぱい伸ばした手で彼女の左手首を掴み、今度は全力で月を目指す。服が体にまとわりついて泳ぎにくい。それに月の引力みたいに、底に引きずり込まれるような感覚で体が重い。
あと2メートル。
コポコポと耳に響く水の音に、僕の焦った心音が混ざる。彼女に当たらない様、必死にバタ足を繰り返す。間に合ってくれ!
雲がそっと月を隠したのか、急に暗くなった。
同時にフワッと体も軽くなる。
あと1メートル。
間に合え⋯⋯。僕は最後の力を振り絞って水を蹴り、先に彼女を水面に引っ張りあげた。
「ぷはぁ!」
僕も顔を出す。口の中が塩っ辛い。
「白石さん!白石さん!」
僕は彼女の名前を何度も呼んだ。
「んっ⋯⋯げほっ、こほっ」
「白石さん!?」
彼女は薄らと目を開き、小さく頷く。
「ほら!お前たち、これに掴まれ!!」
釣り人のおじさんから救命浮き輪が投げ込まれた。
「白石さん、ほら、捕まって!」
僕は彼女の傍に浮き輪を引き寄せると、彼女はそれをしっかりと捕まえた。
「もう大丈夫!」
到着した救急車に彼女を乗せ、サイレンの行方を見送ると僕はようやく気が休まった。
これが、あの夜の出来事だ。
整理しなきゃいけない事はたくさんある。
○あの日以来【白石朱音】は学校を休んでいる。
僕が拾った生徒手帳やノートは、未だ返せずに鞄の中にある。
早く返さないと、落ち着かない。
○僕の視界に突如として現れた字幕。
確か『空から降ってきた女の子は、月の中に沈んでいく』だったか⋯⋯。あれは結局なんだったのだろう。あの日以来、字幕は見えないから単なる疲れのせい?それとも幻覚?
その女の子が【白石朱音】だったのはなぜ?
偶然?いや、でも確かに空から落ちてきた。
僕はハッキリとこの目で見たんだ。
どこぞの探偵気取りで、僕はノートにつらつらと書く。
もはや小説では無い。乱雑なメモ書きだ。
「ねぇ、黒川君。ちょっといい?」
集中していた僕が、急な声にビクッと顔を上げてしまったのは仕方がない。思わずペンも床に落としてしまった。
だって、僕がクラスメイトと言葉を交わすことは滅多に無いからだ。声の主は委員長の蛯名雫玖さん。委員長を担うだけあって、いつも明るい性格で人望も厚い。成績優秀、クラスを纏めるのも上手い。絵に描いたような人気者。それに例のパンを美味しそうに頬張っていたグループのひとりだ。僕とは真逆の人物が僕の名前を呼んでいる。蛯名さんは、落ち着いて床に落ちたペンを拾うと、もう一度僕の目を見つめた。
「何か⋯⋯?」
ビビって蚊の鳴くような声で、答えてしまった。蛯名さんに聞こえたかはさておき、次の言葉が返ってきたから良しとしよう。
「黒川君⋯⋯この前、溺れた朱音を助けてくれたんでしょ?」
「えっと、まぁ⋯⋯うん」
そうだよな、傍からすれば『空から降ってきた』じゃなくて、『溺れた』だよな。それよりも目に涙を浮かべ、なんども「ありがとう」を繰り返す蛯名さんに驚いた。なんで知ってるんだろう?当たり前のことをしただけなんだけど。話を聞くと、蛯名さんはどうやら白石さんの友達のようだ。きっと、白石さん本人から事の顛末を聞いたんだろう。それならばと、僕はこのチャンスに気になったことを質問してみた。
「白石さん、学校に来てないみたいだけど?」
「朱音?風邪ひいちゃったみたい。この季節の海はまだ冷たいって!だから大事をとって休み。もう元気そうだけど⋯⋯」
確かにあの日の海は冷たかった。これは納得の理由だ。頷く僕に、蛯名さんは、チャットのトーク画面を見せる。他愛のない会話がつらつらと羅列し、白石さんの【明日は学校に行くね!】の文字で終わっていた。
「ほらね?」
「うん。随分元気そうだ」
明日、学校に来るという事は、あの日以会っていない彼女と再会することになる。元々クラスメイトなんだから再会は変か。だけど、僕からしたら2度目の再会。どんな顔をして会えばいいんだ。
うーん、と考え込む僕の傍らのノートに気がついた蛯名さんが「何書いてるの?」と覗き込んでくる。
「やっ、これはその⋯⋯違う。なんでもない」
バタンとノートを閉じた僕の慌てぶりに、ばつの悪そうな顔をして「見てない!内容は見てないから」と蛯名さんは上擦った声で言った。
「その⋯⋯白石さんが元気ならよかった。気になってたから、教えてくれてありがとう」
「ううん、助けてくれて本当にありがとう。黒川君、あんまり話したこと無かったけどいい奴じゃん!普段は静かなのに、実のその正体は正義のヒーローって感じ。また朱音と3人で話そうね!」
それは地味に悪口なのでは?普段は陰キャなのに実は正義の⋯⋯って普段から陰キャだから傷つきやしないけど。
蛯名さんは小さく手を振り、スクールカーストの最上位に帰って行った。僕の平穏で穏やかで、あの日の凪の様に静かな日々が、少し脅かされた気がした。だって教室の真ん中で蛯名さんが、さっきの話に尾ひれをつけて陽キャたちに話しているんだから。チラチラとこちらを見る視線が、疑惑の感情を纏い痛々しい程に刺さる。
僕は堪らず、教室を飛び出した。
僕が白石さんを助けたって話は、大袈裟な美談になって、明日には学校中に広がってしまうだろう。だってこの田舎、WiFiは遅いくせに噂話は光回線並みのスピードで広まっていくんだ。
最悪だ。
僕のその予感は、ど真ん中に的中した。
学校だけじゃなく、町中に。行く先々で、僕は賞賛を受け続け、対人関係が苦手な僕はさすがに気疲れしてしまった。
家のベッドに倒れ込んで、見慣れた天井を見つめてようやく安堵した。
明日、僕はどんな顔をして白石朱音に会えばいいのか。
教室の中で、僕と白石朱音が対面したら⋯⋯尾ひれの付きまくった噂話のせいで、大歓声も起こりかねない。
そんな注目を受けた事もなければ、ただでさえ目立ちたくもないのに⋯⋯考えただけで失神しそうだ。いっそ、僕が学校を休んでしまえば⋯⋯。だめだ、僕にはひとつ、どうしても彼女と関わらなければいけない案件がある。生徒手帳とノートを返さなければいけない。今になって冷静に考えれば、蛯名さんに渡せばよかったのでは?それなら僕がこれ以上、彼女と関わる必要は無くなったわけだ。
だけど、どうも心に引っかかることがある。
あの字幕を見た後に、その通りの事が現実に起こったこと。偶然にしては、出来すぎている。まさか、僕は未来を予知できるようになったのか?
良くも悪くも、あの日以来、字幕は見ていない。
もう一度くらい、見てみたいけど⋯⋯。だって小説のネタにはもってこいの体験だ。そんな妄想を膨らませているうちに、いつの間にか僕は深い闇へと落ちていった。
ピピッピピッピピッ──。
規則正しい電子音で、意識の回線が繋がる。久しぶりに熟睡したようだ。寝すぎたせいか、背中も痛い。糊付けされたようにくっついた瞼を、ゆっくりと開く。霞んだ視界の隅に、それは現れた。
『僕は宝物を貰った。忘れられない宝物』
僕はベッドから飛び起きて、洗面所に走った。バシャバシャと冷たい水を顔に浴びせると、タオルでゴシゴシと力強く拭いた。できる限り早く、脳を起こしたかった。それから、もう一度目を開く。
『僕は宝物を貰った。忘れられない宝物』
間違いない。また字幕が現れた。
この前は数分で消えてしまった。
今度は慌てて部屋に戻ると、鞄からノートを引っ張り出す。
『空から降ってた女の子は、月の中に沈んでいく』
『僕は宝物を貰った。忘れられない宝物』
「これで、大丈夫だ」
走り書きの汚い字になってしまったが、僕がノートに書き写すと視界の字幕も消えてしまった。セーフ! 危うく消失するところだった。僕が見た字幕はこれで二つ。
ひとつ目の字幕は現実に起こった。だからきっとふたつ目も。
「宝物⋯⋯なんだろ?僕が貰う?」
期待と不安と、ワクワクとドキドキが、マーブル模様に複雑に混ざりあった心境。徒競走のスタート前? 受験の最初の問題を解く時? いや、過去に味わってきたどれとも違う、僕の知らない感じ。ファンタジー小説の主人公になった気分で、どこかこの非日常的でありえない現象を楽しんでいる僕も存在してる。
「おっはよー!」
白石朱音は、太陽よりも太陽みたいな笑顔を振りまきながら教室に入ってきた。クラスがパッと明るくなる。彼女は文字通り、このクラスの太陽だった。初めてちゃんと見る彼女は、その大きな目をキラキラと輝かせ、笑うとえくぼが小さく頬に浮かんだ。男子生徒は太陽に向く向日葵のように一斉に彼女の方を振り返った。
全く知らなかった。白石朱音はこのクラスの人気者らしい。僕の朝は決まってノートと睨み合っていたから。耳はイヤフォンで塞いでいるし、今日、初めてちゃんと白石朱音の声も聞いた。
よしっ!僕はきちんと姿勢を正し、その時を待つ。
通学途中で何度もシュミレーションを重ねた僕の予想はこうだ。
彼女は教室に入って来て早々に僕の机に寄ってくる。それからお礼を言われるはずだ。僕は務めて平静を装う。自然な流れで生徒手帳とノートを渡す。これで完璧だ。さぁ、来るがいい⋯⋯ってあれ?
「朱音ー!心配したよー」
「そんなに私が恋しかったのかー、よしよし」
高めのポニーテールを揺らしながら、白石朱音は蛯名さんと抱き合っている。そのまま自分の席に着くと友人たちに囲まれて、その姿は見えなくなった。心配する友人たちと話に花を咲かせ、あっという間に笑い声に包まれた。
そもそも、あの状況で僕が助けたって彼女は認識してるのか? 助けて直ぐに救急車に乗ったし、僕達はろくに会話もしてない。僕の方も誰にも名乗ってないわけで。蛯名さんが本人から事の顛末を聞いたとも限らないし⋯⋯。
ハハッ、なんて自意識過剰だ僕は。自分を鼻で笑って、いつもの僕に戻る準備を始めた。
机からノートを取り出す。だけど、もう小説は書かない。趣味程度に書くことはあるだろうけど、本気では書かない。
とりあえず、親の希望である国立大学を目指す。地元の公務員にでもなって、真面目で安定している息子になる。田舎の長男に期待される道を歩く。夢なんて見るだけ馬鹿だ。もう、選択を間違えたくない。優柔不断な性格ともサヨナラだ。
結局、ノートと生徒手帳は帰り際に僕から返した。何か言いたげな彼女とこれ以上関わるのもどうかと、素っ気なく去った。底辺の僕なんかが関わってはいけない。勇気ある撤退だと褒めて欲しい。
いざ、小説を書くことを止めると急に暇になるもんだ。
どれだけ時間を注ぎ込んでいたかと考えると、もったいない気持ちもあるが⋯⋯いっそ時間を巻き戻してはくれないだろうか。小説を書きたいなんて思う前の僕まで。
気がつくと、港に足を運んでしまう。この灯台の下に来てしまう癖もどうにかしないと⋯⋯なんて思いながら、夕焼けに染まる空を見上げる。まだ、あの日の光景が鮮明に浮かぶ。
字幕通りに、空から月に落ちた白石朱音。小説は諦めたが、突如僕の視界に現れた字幕の謎は気になる。僕は、小説ノートを取り出し頭を整理しようとパラパラとノートを捲るがノートには何も書かれていない。まっさらなノートだ。
「待てよ、このノート⋯⋯まさか、嘘だろ⋯⋯?」
サーっと顔から血の気が引くのを感じた。
最初のページに戻ると、今朝書き残した例の字幕の台詞だけが書かれていた。そして、顔だけじゃなく全身から血の気が引くような声が背後から聞こえる。
「空から降ってきた女の子は、月の中に沈んでいく⋯⋯?」
誰かが、まだ幼さの残るふわふわとした声で台詞のように呟いた。振り返った僕の目に、僕のノートを覗き込んで、「ねぇ、これ何かの台詞?」と、太陽みたいな笑顔で白石さんの声が弾む。
「うわぁ!」
僕は急な彼女の登場に慌てて距離をとり、「ち、違う⋯⋯」と首を振った。
「じゃあ、小説とか?」
大きな目を子犬のように潤ませて、白石さんは首を傾げる。
僕の知り得る知識では、到底表現出来ない変な顔をしたはずだ。焦りと、恥ずかしさと、絶望を同時に発表したような。
「黒川君は、小説を書いてるんだよね?」
待ってくれない彼女に、僕は観念して「そうだよ⋯⋯ってか昔は!書いてた」と返す。
「へー⋯⋯昔ねぇ⋯⋯」
彼女は鞄からノートを取り出して、僕の前でパラパラと捲る。
疑心が確信に変わった。僕はやはりノートを間違って返してしまってる。よりによって、小説ノートを。そして、今朝間違えて彼女のノートに字幕のメモを取ってしまった事に気がついた。
「ごめん、読んじゃった!!」
彼女はイタズラな小悪魔みたいに笑みを浮かべる。
「それ返して⋯⋯くれませんか?」
どうやら彼女は聞く耳をもっていないらしい。ふんふんと頷きながら、ノートから目を離さない。パタンと閉じたと思えば「すっごく良かったよ!『潮騒』こう見えて私は読書家なんだよー」と、意気揚々と言う始末。
「とても本読むタイプには見えないけど」
僕の言葉に彼女はムッと頬を膨らませて「人を見かけで判断するなんて失礼な人だ」といい終わった後に、堪えきれず吹き出した。
「ごめん、自分で言ったのに可笑しくて⋯⋯ふふっ」
彼女が言う小説『潮騒』とは僕が例の公募に送った作品だ。そして、呆気なく散ってしまった作品だ。思い出すと、泣きたくなってしまう。今、この話はしたくない。僕は話題を変えたくて「あのさ、こんなところまで何しに?」と彼女に尋ねてみる。
「だって、私の家ここから近いし。帰り道で君を見つけて」
「⋯⋯それで?」
「君を見つけて⋯⋯あっ!そうだ。肝心なことを忘れてた!」
彼女は凄い勢いで頭を下げる。およそ90度。体育で習った最敬礼だ。
「助けてくれてありがとう!お礼が遅くなってごめん」
また勢いよく頭を上げ、彼女のポニーテールがフワッと揺れると、シャンプーの香りだろうか、爽やかなフローラルの香りが漂う。
「別に、あの状況なら誰だって助けるだろ。たまたま僕がいた。それだけだよ」
「おー⋯⋯その発言、イケメンだね」
そう言われて、急に小っ恥ずかしくなる。
「まぁ、無事でよかったよ。助けた甲斐があった」
「じゃぁ、そんな君に私から贈り物を進ぜよう」
得意げな顔で白石さんは鞄を漁る。それから、じゃーん!と自分の口で効果音を付けながら、僕の前に贈り物を差し出した。袋の中を覗き込み「えっ!これって⋯⋯」と、僕は思わずゴクリと喉を鳴らす。
「そう、噂の⋯⋯パンです!」
彼女は小さく拍手なんかをしながら、場を盛り立てた。袋の中に例の焼きそばパンとあん食が袋に入っている。僕がまじまじと袋の中を見ていると「黒川君はあん食の方が好きだと思うよ」と白石さんは言う。僕は食べたこともないのに、その台詞が不思議だった。
「どうして?」
「ふふっ、私は未来が分かるからね!」
彼女は得意げに宣言する。
「それは嘘だね。僕はどっちも食べたことがない」
「食べたらわかるよ!あん食派だってね」
三角形に切られた揚げた食パンに、ぎっしりと詰まったあんこ。それが二つ。とてもひとりじゃ食べ切れそうにない。
「よかったら一緒に食べない?」
僕は白石さんに半分を渡すと、防波堤から足を投げ出して座った。
潮風が心地いい。隣に白石さんも座る。
「いただきます」
僕は思い切りパンに齧り付く。じゅわーっとパンから油が染み出してあんこの甘さが追いかけて広がる。
「うまいっ!」
思わず感想を口に出してしまうほどの味。
「でしょー?」
隣で白石さんは足をパタパタとさせて嬉しそうだ。僕が食べるのを確認すると、小さな口で齧り付いた。僕も夢中になってあっという間に完食してしまった。こっちもどうぞと差し出された焼きそばパンも半分に分け、食べ比べてみたが、予想された通り僕はあん食の方が好きだった。
「白石さんの予想は的中だ。僕はあん食の方が好きだ」
「だから、私は未来がわかるんだってば」
ぽんぽんと僕の肩を叩きながら、白石さんは冗談ぽく笑う。
少し打ち解けた所で、僕は気になっていたことを尋ねた。
「あのさ⋯⋯聞いてもいいかな?あの日のこと」
「あの日?」
彼女は首をちょこんと横に倒す。
「ほら、白石さんが空から降ってきて、海に落ちた⋯⋯」
「あぁ。⋯⋯真実が知りたいのね」
「うん、そりゃ当事者なわけだし」
彼女はなるほど、と神妙な顔をして何度か頷いた。
「じゃぁ、黒川君にだけ、秘密を教えてあげよう」
「⋯⋯秘密って」
僕はごくりと息を飲んだ。秘密ってなんだろう?彼女は立ち上がると「ついてきて!」と僕を手招き灯台の裏側に回り込んだ。いつもの見慣れた灯台だ。
「知ってる?この灯台ってさ⋯⋯」
真剣な顔付きで、彼女はゆっくりと語り始めた。
「鍵、壊れてるんだよね」
彼女が扉を手前に引くと、ギィーっと音を立てて開いた。
「そしたら登ってみたくなって、上まで」
「⋯⋯何で?」
僕は彼女の言動が心配になる。普通ならこんな足元が覚束無いだろう梯子、登るのを怖くて躊躇する。それに、立ち入り禁止!って赤い文字が目立つように扉に書いてある。子供でも分かる。赤は止まれだ。僕の呆れ顔もお構い無しに、彼女は止まらない。
「月が綺麗だったから、月に近づきたくて。近い方が願いちゃんと届きそうじゃない?それで夢中になってたら足を滑らせたみたい。いやー落ちたのが海でよかったよ」
楽観的過ぎる発言に、僕は少しだけ引いた。
「無鉄砲にも程がある。だいたい立ち入り禁止の灯台に⋯⋯」
「そんな軽蔑の目で見ないでよー」
「いや、理解に苦しんでるだけ」
僕は続けて、冷ややかな目で彼女を見た。
「そうしなきゃいけない理由があったんだよ、黒川君」
「下手したら大怪我したかもしれないのに、それに実際に海に沈んだんだぞ?それほどの理由が?」
「うん、理由は言えないけど、後悔はないよ!」
「呆れた⋯⋯まぁ、その理由も知りたくもないけど」
僕は思わず額に手を当てた。白石さんとは関わらない方が身のためだとも思い始めている。
「ねぇ、それはそうと黒川君は体おかしくない?風邪とかひかなった?」
彼女は少し影のある悲しそうな顔をした。僕は少し不思議だった。そうまで心配されるほど僕は病弱じゃないからだ。小学、中学と皆勤賞を貰ったくらいに。
「僕は、至って健康だよ」
「そう、ならいいんだ。健康が一番!そっか⋯⋯よかった」
彼女はやっぱり太陽みたいに笑う。まるで悪気がないくらいに清々しく。陽キャってこうなのか?その場のノリで行動して、結果オーライなら全てよし!って有り得ないだろ。やっぱり僕と彼女は住む世界が違うようだ。
「って、話をすり替えないでよ。もう灯台には登らないように!」
「なにー?私の心配してくれてるの?」
「また海に飛び込むのは懲り懲りなだけ。君の心配じゃない。僕が風邪をひかないように忠告してるんだ」
「はぁい」
彼女はつまらなそうに返事をする。
「⋯⋯君も心配だから」
「えっ?聞こえなかった、もう一回!」
「⋯⋯だから、君も心配だから」
白石さんと関わらないにしても、クラスメイトが溺れたなんて悲しいニュースは誰だって聞きたくないだろう。クラスメイトとしての心配と言う意味なのに、彼女は満足気にうんうんと頷き、くるりと僕の方を向いた。
「私、白石朱音。あっ、名前は知ってるか。ねぇ、私と友達になろうよ!」
「えっ、は?」
意味がわからない。僕に友達の定義を教えてくれ。君と僕の友達の定義を。僕と友達になって彼女に何のメリットがあると言うのか。いやいや、デメリットしか思いつかない。さっき確信したばかりだ。しかし、彼女は差し出した右手を真っ直ぐ僕に向けたまま、ほら、あの笑顔でこっちを見ている。向日葵みたいな眩しい笑顔で。
「さぁ、黒川君!握手!」
「僕と友達になるなんて選択は間違ってる」
「それは私が決める!私は私の選択に後悔しないよ?」
白石さんは、ぐっと右手をさらに伸ばす。
「いや、僕の気持ちは⋯⋯?」
「黒川君もきっと後悔しないと思うよ。私と友達になってよかったってきっと思う」
その自信はどこから来るのだろう?そうか、彼女にはこれが当たり前なんだろうな。友達になるって、一度話したことがあれば『うちら友達だよね』ってイェーイ! なんて言いながらハイタッチを交わす。SNSの友達だって凄く多いはずだ。定義なんて考える方がおかしい。だってそれは定義とすら仮定することが出来ないくらい薄っぺらいものかもしれないから。僕が思う友達は⋯⋯強く言うが欲しい訳では無い。『あくまで小説で僕が描く友達の定義』と言った方がなんかしっくりくる。その定義で言えば、最も信頼が置けて何でも話せる仲。毎日連絡をやり取りする訳でも無いが、ちゃんと心が繋がっているような関係。綺麗事を言っているかもしれないけど、僕の定義だから否定は受け付けない。
だから、僕と彼女の間には成り立っていない定義なんだけど⋯⋯。
彼女には何を言っても無駄な気がする。現に彼女は僕と握手を交わすまで諦めないだろう。逃げようにも⋯⋯うん、僕の逃げ場は海に飛び込むしかない。だって彼女が堤防の真ん中に立ち塞がってるんだから。仕方ない。彼女の友達の定義なら、精々学校で挨拶を交わす程度だろう。それくらいならやり過ごせそうだし。僕は彼女の右手をそっと握った。
「じゃあ、黒川君。1年間ヨロシクね」
「1年?って、たったの?それだけの友達?」
「言ったでしょ?私は未来が分かるって。3年生は私達、きっと別々のクラスだから」
クラスが離れたら友達も終わるの?僕は益々、彼女の友達の定義がよく分からなくなった。
「あのさ、なんで僕と友達になりたいの?」
彼女は空を仰いで、顎に人差し指を添えて考えるポーズを作った。
「うーん⋯⋯」
考え込んだ彼女に僕はガクッと肩を落とす。考えないと出てこない理由って⋯⋯。
「もちろん、助けてくれたからってのもあるよ!それもあるんだけど、その⋯⋯」
さっきまでの威勢が、沈んでく夕陽みたいに落ちていく。彼女は気まずそうな顔でチラッと僕を見た。
「私、黒川君の書く小説が好きで⋯⋯だから友達になりたいな。なんて思って」
「こんな駄作を?」
「駄作?面白かったよ?」
面白いなら、あの公募でも評価されたはずだ。今の僕には皮肉とも受け取れる。やれやれと、首を横に振る僕の呆れ顔が気に入らなかったのか、彼女は真剣な顔をして僕を真っ直ぐに見つめ静かに口を開いた。
「君の書く小説は凄く美しい。だけど勿体ない。どこか遠慮してる。本当に言いたいこと、伝えたいこと。君の気持ち。我慢してるような⋯⋯『潮騒』が駄作なら、次は君の本当の気持ちを読ませてよ!私は君のこと知りたいって思う。思った!」
急に何を言い出すんだろう、真っ直ぐな言葉に僕はたじろいで何も言い返せない。やっとの事で絞り出した「僕はもう小説は⋯⋯」なんて言葉を遮るように「次回作も、期待してます!」と彼女は力強く言った。
そして、真っ直ぐに僕に刺さる瞳を直視出来なくて。
「ごめん、僕もう帰らないと」
僕は彼女を振り切って自転車に跨り、全速力で漕いだ。
彼女から、いや小説から逃げた。もうあんな思いをするくらいなら書かない方が身の為だからだ。遠くに彼女の声が聞こえる。何を言っているか僕に届かないように全力でペダルに力を込める。彼女の言葉に揺れている気持ちを認めたくなくて。そして、僕の決意が揺るがないように、この微熱を忘れたくて。
小説家になる! なんて夢は諦めたんだ。もし書くことがあっても誰にも見せない。どうせ才能なんてないんだから⋯⋯。なのに、どうして褒めるんだよ。何で僕の心を見透かした様なことを言うんだよ。曲りなりでも、僕の中では最高傑作なんだ。わかってる。わかってるのに。うるさい。僕の自転車のスピードに驚いたムクドリの群れが一斉に羽ばたき、ギャーギャーと騒ぎ立てる。うるさい。ドクンドクンと脈を打つ鼓動がうるさい。ハァハァと頭に響く呼吸がうるさい。カラカラと回る車輪がうるさい。何度も読んで頭に残る、あの公募の優秀賞の好評も。全部、もうぜんぶうるさい。僕は、静かに生きたいだけなのに。額から汗が滲む。ツーっと一筋、頬を滴がなぞった。



