「日吉。花室さんはお前に任せた」
 文化祭1週間前の今日。小学校からの腐れ縁の中西透に告げられた言葉が、これだった。中西は今隣のクラスで、文化祭委員をやっている。
「え、花室さんって花室奈子さん?」
「そう」
「どういう意味だ?」
 花室さんとは去年同じクラスだったけど、それ以外には何の繋がりもない。意図が全く分からず聞くと、中西はポケットからスマホを取り出した。
「まぁ、これを見てくれ」
 言いながら中西が再生したのは、昨日行われたステージ発表の練習動画だった。中西のクラスでは、全員でダンスを踊ることになっている。曲は、SNSで流行っている王道アイドルソング。人によって踊りの上手い下手はあるものの、ちゃんと振りは入っているようだし、大きな問題はないように見えた。
「いい感じじゃん」
 俺の言葉に、中西は首をゆっくり横に振った。
「ここからなんだよ、問題は」
 曲の終盤、Cメロに入る前にフォーメーションが変わった。これまでセンターを張っていたダンス部の女子に変わって真ん中に出てきたのは、花室さんだった。
 こ、これはーー。中西の言葉の意味が、ようやく分かった。
「さすがに、表情が無さすぎるだろう!?」
 泣きそうな声で中西は言う。大袈裟だと思いつつ、気持ちは分かる。ピカピカに明るい曲に対して、中心に立つ花室さんはあまりにも無表情すぎた。見ていて違和感を覚えない人はいないだろう、というくらいには。Cメロが終わるとポジションは元に戻ったが、それでも衝撃が拭えない。
 花室さんは普段から表情が無い。元々クールな顔立ちなせいでそう見えると言うのもあるのだろうが、それにしても無表情だ。
「やっぱり無理矢理頼むべきじゃなかったんだよ」
 そう言ってやると中西は、だってさぁ、と引き続き泣きそうな声を出す。
「美人じゃんか、花室さん」
 それはその通りだけど、この件に関してはコイツが悪い。
 元々後列の一番端っこを希望していた花室さんを、一瞬とはいえセンターポジションに立つようにと言い出したのは中西だ。花室さんは断ろうとしていたが、如何せん顔が良い。他の生徒も盛り上がってしまって、やらざるを得ない状況になっていたーーという話は、既に他の友達から聞いていた。
「もうちょっと笑顔で! とか言っても全然変わんないんだよ。すぐ『私が出来てないなら他の子に……』って言うし」
「やっぱ嫌だったんだろ。別の子に変えてあげたらいいじゃん」
 それがさあ、と中西は溜め息をついた。
「岸田が拗ねてんだよ、ダンス部の」
 「岸田」というのは、花室さんが前に出てくるタイミング以外でセンターをやっていた女子だ。花室さんが辞退を申し出る度に、岸田さんは言うのだそうだ。
「皆がCメロは花室さんが良いって言ったんだから頑張んなよ〜〜私は出来ない〜〜」
 説明の最中に挟まれた中西の声真似は似ていなかったが、その様子は容易に目に浮かんだ。同じクラスになったことはないが、目立つ存在で主張が強い、という認識は恐らく学年共通だろう。
「うちのクラス他にダンス部とか踊れる奴いないしさぁ。岸田がそんな状況だからやりたいって言ってくれる人誰もいなくて」
「状況は分かったよ。で、何で俺に任せた、になるわけ?」
「だーってお前、愛想笑いの達人じゃん」
 中西の言葉に、一応上げていた口角がヒクリとした。確かに俺は愛想笑いが上手い。こうして中西と話す時でさえ、無意識に笑顔でいてしまう。もう癖になっているのだ。
 正直言うと、この高校に入れたのも愛想笑いのおかげだと思っている。
 中学の時、この高校への推薦枠を狙っていた同級生がもう一人いた。成績も部活での成果も同じくらいの奴だった。このままじゃ五分五分だ、と察した俺は、それはもう媚びた。担任、教科担任、部活の顧問、見境なく媚びた。元々笑顔を褒められる機会は多かったから、フル活用してやろうと思った。自分が出せる最高の笑顔と媚びスキルを存分に発揮した結果、見事枠を獲得したのだ。
「日吉は心開かせるのも上手そうだしさ。花室さんの笑顔を引き出せるとしたらお前しかいないんだよ」
「そう言われても、あんま喋ったことないし」
「いざ話せば大丈夫だって! ってことで、今日の放課後視聴覚室に花室さん呼び出しといたから」
「はぁ!?」
 これにはさすがに笑顔を保てなかった。
「何だよそれ、勝手すぎるだろ」
「頼む。お前しかいないんだよ。それに……」
 中西はそこで言葉を切った。何だよ、と訊くとニヤリと笑い、再び口を開く。
「推薦の恨み、まだ晴らせてねぇからな」
 そう言われてしまうと、言葉に詰まる。俺と推薦枠を争っていたのは、中西だったのだ。
「ごめんな。放課後、頼むな」
 中西がそう言って教室を出て行ったのとほぼ同時に、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。途方に暮れるとはこのことだ、と自分事ながら思った。

 放課後。視聴覚室の扉を開くと、花室さんが立っていた。窓から差す日光が彼女の肌の白さをより際立たせていて、思わず見惚れそうになる。それはそれとして、揺るぎない無表情は映像と変わらない。
「ごめん、お待たせ」
 花室さんは首を小さく横に振った。
「俺のこと、覚えてる? 去年同じクラスだった日吉だけど」
 今度は縦にブンブンと振る。小さな声で「覚えてる、覚えてる」とも添えながら。
「で。……なんで今日ここに呼ばれたかとかって、中西から聞いてる?」
 そう聞くと、花室さんの元々下がっていた口角が更に沈んだように見えた。
「私が、笑わないからだよね」
 か細い声で花室さんは言う。そんな風に話されると、胸が痛む。
「まぁ、そうなんだけど……。あのさ、踊るのが苦手だったりする?」
 解決できる術があるなら一刻も早く辿り着きたい。その思いで問いかけた。
「得意ではない、かな」
「そっか。そしたら踊りながら笑うのって難しいよな。一旦笑顔だけの練習してみよっか」
 極力、花室さんを気落ちさせないように。普段以上の笑顔と感じの良さを心掛けながら言った。花室さんが小さく頷いたので、美術室から持ち出した鏡を取り出す。
「じゃあまずはこれ見ながら口角上げてみよう」
 はい、と返事が返ってきた。だが、その割に花室さんの口角はピクリとも動かない。
「えっと、今力入れてる?」
「……入れてる」
 一拍遅れた返事。見た限りでは、「頑張って笑おうとしているけど笑えない」と言うよりは、「全く表情を変える気がない」ように感じられる。
 なぜだ……? なぜこの状況で笑おうとしないんだ。ほぼ喋った事ない奴が自分を笑わせるために呼び出されてるんだぞ。こんな意味わからない会、花室さんだってさっさと終わらせたいだろうに。
「あの、ごめん。力入れてない……よね?」
 何か理由があるなら早めに聞き出したほうがいい。もしそれがどうしようもない事なんだとしたら、早く中西に言って代わりを見つけるべきだろう。
 しかし花室さんは、「……入れてます」と言う。やはり一拍遅れて。
 いや、さすがに嘘だろう。けど、ズバリ指摘することは憚られる。全然仲良くないし。
「じゃあ、もうちょっと口角意識して力入れてみようか」
 はい、と返ってきたものの、状況は変わらない。彼女の口元は一向に無愛想なままだ。
「えっと……やっぱり力入れてないよね?」
 俺の問いかけに、花室さんは答えない。黙って俯いている。
 何なんだ、この女……。段々ムカついてきた。ただ笑えば解決する話なのに、何なんだ。
「あのさ、分かるよ。そもそも花室さんがCメロのセンターなんてやりたくないって言うのは、俺も把握してるし」
「でも、それは……。最初にちゃんと断らなかった私も悪いから」
 そう思ってはいるのか。じゃあ何で、頑なに笑おうとしないのか。俺はこうして話している間も、しっかり笑顔を装着しているのに。まあそれは俺が勝手にやっていることであって、誰かに頼まれたわけでもないんだけど。
「私も、日吉くんみたいに笑顔が素敵だったら良かった」
 ……ん?
 花室さんの言葉に、胸の奥がゾワゾワした。幾度となく経験してきた、不穏な不快さ。
「日吉くんみたいに笑えたら、良かったんだけど……」
 ……は?
「なにそれ」
 思っただけのつもりだったのに、つい口に出していた。
「日吉は良いよな、贔屓してもらえて」とか、「俺もお前みたいな媚びスキル欲しいわ」とか。色んな奴から散々言われてきた。その度に思った。じゃあお前もやったら良いじゃん、と。やろうともしてない奴に、その分譲らなきゃいけないことがあるということも想像出来ない奴に、何も言われたくない。
「別に俺、笑いたくて笑ってるときばっかじゃないけど」
 そこまで言ってしまって、ハッとした。花室さんはさっきまでの無表情のまま、青ざめている。
 やってしまった。こんなんじゃあと1週間で笑顔になってもらうなんて、できるワケがない。
「ごめん。俺、言わなくていいこと言った」
 花室さんは青ざめたまま、黙って首を横に振る。中西は「心を開かせるのが得意そう」なんて言っていたが、とんだ過大評価だ。この役目は俺には重かった。
「俺、中西に他のセンター探せって言っとくよ。無理に笑う必要ないと思うし」
 そう伝えても、花室さんの顔色は変わらない。
「だからもうやめよ! 帰ろう。変なこと言ってごめん、本当に」
 もうダメだ、居心地の悪さに耐えられない。そう思いそそくさと扉の方に向かった。
「あ、あの」
 いざ出て行こうとした瞬間、花室さんが声を発した。
「ごめんなさい、私……」
「いやいやいや! 俺が悪いから!」
 謝られるといたたまれなくなる。いいから早くこの場を去らせてくれ。
「あの、そうじゃなくて、私……」
 話しながら、花室さんの顔の青さがどんどん増していく。
「大丈夫だよ、花室さん。本当に、俺が変にカッとなっちゃただけで……」
「私、笑顔がブスなんです……!」
 −−−−ん?
「……ごめん、えっと?」
「笑顔が、ブスなんです……」
 花室さんは、繰り返す。なんかもう、ちょっと泣きそうにすら見える。
 笑顔が、ブス? 目の前の花室さんを改めて見つめてみる。いやいやいや。そんなワケがない。脳内で彼女が笑っている様子を思い浮かべてみる。間違いなく可愛い。
 いや、待て。そんなことを勝手に考えた自分の気持ち悪さにハッとした。あくまで、あくまで一般論だから……。
「そんなことは、ないでしょ」
「あるの。あるんです……」
 まあ、いるよな、こういう子。自分のことやたらブスブス言う子って、割と見る。花室さんがそれをやってしまうと、嫌味にしかならない気がするけど。
「えっと、それが笑わない理由?」
「……うん。しょうもないって思うかもしれないけど、本当に、本当にブスなの」
 絶対、そんなことはないだろう。彼女の言う通り、しょうもない、と心から思ってしまった。こんな美人にそんなこと言われても、バカバカしいとしか思えない。
「じゃあ笑ってみてよ」
 俺の言葉に、花室さんの表情が凍った。でも、大丈夫。絶対可愛いから、俺もきっと心からの「ブスじゃないよ」が言える。それで彼女にも自信を持ってもらって、クラスの人たちにも褒めてもらえば、ステージで笑顔を見せる勇気も出るのではないか。
「絶っっっ対に、イヤ……」
 ここまで聞いたこともない明瞭な発音で、花室さんは言い放った。
「でもほら、今俺しかいないし。ていうか俺、正直あんまり美人とかブスとか分かんなくて。友達がクラスの誰々が可愛いーとか言ってるのもピンと来ないんだよね。だから一旦、俺に見せてみない? リハビリみたいな感じで」
 後半はほぼ嘘だった。さっきから花室さんの顔を見ては美人だなー、と思ってしまっている。
「…………うーん……」
 あっ、ちょっと揺れてる? 全然嘘だったのに揺れてる。こうなったらもう押すしかない。
「ていうかもはや、芸能人とクラスの子とかの違いもあんま分かんないんだよね。芸能人の方がちょっと化粧濃いのかな? とかは思うけど、そんなに違うかなー? って」
「……分かった。じゃあ、見てもらっても良いかな…」
 きた! テキトー言ってみるもんだ。
 あとはもうみんなで褒めて解決だ。良かった。これで中西にも申し訳が立つ。
「じゃあ……本当に、ブスだけど……」
 そう言って花室さんは俯いた。そしてパッと顔を上げた。
「−−−−−−−」
 それは、間違いなく笑顔だった。初めて見る花室さんの笑顔だった。大丈夫だよ、と言いたい。ブスじゃないよ、と。けど、口が動かない。声が出せない。
 ブスとかじゃない。ブスとか、そんな問題ではない。花室さんの笑顔は、こちらが想像するそれとはかけ離れていた。無表情の花室さんにつくべき効果音が「シャラン」「サラサラ」とかだとすると、「ドカーン!」「ガシャーン!」みたいな……。
「やっぱり、ブスだよね……」
 俺が黙っていたせいか、花室さんは表情を戻し、泣きそうな声で話し出した。
 大丈夫、大丈夫。言いたいのに、言葉を発せなかった。

 あの後、花室さんはこれまでのことを話してくれた。
 幼稚園の頃笑う度に怖がりな同級生を泣かせてしまっていたこと、小学生の時には少しでも口角を上げるとクラスメイトが走って逃げていったこと。そしてあまり笑わなくなった中学時代に片思いしていた男子から好きだと言われて、思わず微笑んだ瞬間に「やっぱり取り消させて!」と懇願されたこと……。
 それらを嘘だろうと思うことは、もうできなかった。それほどまでに花室さんの笑顔は、破壊力がすごかった。良くは無い方の意味で。
 彼女には悪いことをした。抱えている苦悩を理解しようともせずに、向けられた言葉に勝手にカッとなって。
 だから償いたい。俺の愛想笑いは伊達じゃない。元々の平凡な顔立ちから考えれば、だいぶ良い笑顔を作れている自信がある。
「俺が花室さんの笑顔をプロデュースするよ」
 帰り際、そう伝えてしまった。もう後戻りは出来ない。残り6日間で、花室さんの笑顔を最高のものにしてみせる。