喜一は夏祭りの開場に一足先に到着していた。
周囲には、紅に狐の文様が、筆でひといきに塗られた雪洞《ぼんぼり》が、幾重も濃い紫の紐で張り巡らされ、黄色いあかりを灯している。半分まぶたを落とし、それをぼうっと見つめていた。途切れない太く確かな線が、かっこよかった。
林檎飴の爽やかであまいかおりや、焼けた肉の香ばしいにおいが、交互にやってくる。無意識に口の中の唾液が増していた。
自分も人工的な夏の空気に溶けてゆく。
背にどん、という衝撃が走る。質感の同じ、何かがぶつかる音だった。
「__って!」
思わず前のめりになり、片手に持っていた林檎飴を、地に落としそうになる。慌てて足を踏ん張って、体勢を立て直した。
「誰だよ__、ってあんたかよ!!」
「ばぁ~~!」
喜一が振り返ると、両手を顔の横で広げる、宗助のにやけた顔があった。口から出された紅い舌から、酒を飲んできていることがわかった。
喜一はあきれて、溜息をつく。
この男は、どうやらまた髭をそらずにひととき過ごしたらしい。顎にうっすらと灰青色の茂みが出来ている。
村人がほぼ全員参加だっつう祭りなんだから、髭くらい剃って来いよ、と喜一は内心突っ込みを入れていた。
宗助は、喜一の肩を抱いて、その精悍《せいかん》な顔に、自身の髭顔を近付けた。
にんまりと口角をあげた、ひとの悪そうな男の顔がすぐそこまで迫り、喜一はあからさまに嫌な顔をして、片手を突き出し、彼の胸元にあてて「こっちへ来んな」と示した。
「喜一くん、楽しんでる? お、お前も俺とおんなじで、林檎飴を事前に制覇した口かよ」
「制覇した口かよ、じゃねえよ。あんた、その歳で祭りで最初に食うもんが林檎飴かよ!」
宗助の無骨な手には、真っ赤でつやのある林檎飴が握られていた。その浮浪者のような顔と似合わず、飴は小ぶりで大変かわいらしく、ますます彼の不気味さを増していた。
村の子らが見たら怖がらないだろうかと、心配になる。
(思えば、おっさんも歳取ったな……)
宗助に初めて出会った頃のことを思い出す。
当時、宗助は三十だったか。宗助の家を夜中に訪ね、扉を開いた彼に対し、弟子にしてくれと土下座をした子供の頃。あの時は親に将来やりたいことについて話をして、医者になりたいと打ち明けた後だった。お前が医者になんてなれるわけがない、と怒鳴られ、母に平手で殴られ、頬を紅くしながら、その足で宗助の家を訪ねたのだ。口の中は、血の味が染みていた。
初冬の肌寒い暗闇を、心細い思いをしながら、それでも将来の夢を捨てることが出来ず、走り続けた。思い返せば水をふくんだ空気や、泥が混ざった霜のにおいも、肌を包むように、あざやかによみがえってくる。
途中で小石につまずいて、転んで顔を正面から打ち、鼻血を垂らしたが、それを拭う余裕もないほどに、ただ一心に、師としたい男のおもかげを追い続けていた。
宗助は家の灯りを背に受けながら、泣きながら土下座する喜一の背をじっと黙って見つめていた。家の鈍い金の逆光が、ひどくまぶしくて、まぶたをあげることができずにいた。
そうして、どれだけの時が経ったかわからない中、「弟子にしてやる」とぽつりと言われたのだ。
顔をあげると、粉雪がはらりと降ってきていた。
鼻を垂らした喜一に、宗助は口角をあげてしゃがみこみ、「風邪ひくぞ」と、頭をがしがしと撫でてくれたのだ。鼻を啜ると同時に、目の端から涙がこぼれた。それは熱く、冷えてかわいた頬を濡らしていた。
あのてのひらの温かさとやさしさが、未だに残っているような気がして、喜一は自分の頭に何気なく手を置いた。
「喜一、何考えてやがる」
聞き慣れた低い声が、かたわらから響く。
宗助が片腕を胸元に入れて、訝《いぶか》し気《げ》に喜一を見ていた。いつも飄々として摑みどころがない彼にしては珍しく、人を心配するような、毒のない顔をしていた。
その顔を見て、喜一は一瞬安堵したような笑顔を浮かべた。だがその感情に恥ずかしくなる気持ちが、胸の内側から湧きだし、宗助から顔を逸らした。頬の輪郭がほのかに紅く染まり、紺色の闇に、色のついたひかりのすじを浮かべた。
「何だよ。お前」
「うっさい!」
そばかすの浮いた鼻の頭を人差し指で掻くと、宗助が後ろでにやりと不敵な笑いを浮かべた。そして、喜一の油っ毛の無い固い総髪を、大きな手でがしがしと撫でる。結っていた髪がほどけそうになり、慌ててその手を払おうとする。
「うわっ! 何しやがる!」
「お前は一生、俺の背を越すことは出来ねえんだよ。俺から見下ろされる弟子でい続けろ」
「もう一人立ちした医者に向かって、その言い方はねえだろ! 見下すのもいい加減にしろ!」
子供のように顔を紅くして、ぎゃんぎゃんわめく喜一に対し、宗助は満足そうな笑みを浮かべていた。
喜一はただ彼の無骨な手をどけようと、必死な様子を見せていた。
林檎飴は、いつしか喜一と宗助の手から落ち、乾いた夏の地の上に落ちて、追いかけっこをするように跳ねて行ってしまった。
ぼんぼりのあかりと、炎に焼ける葉や材木のにおいが、空気中をただよっている。
紅い林檎飴のゆくえを、周囲に集まっていた浴衣姿の子供たちは、不思議そうに眺めていた。
周囲には、紅に狐の文様が、筆でひといきに塗られた雪洞《ぼんぼり》が、幾重も濃い紫の紐で張り巡らされ、黄色いあかりを灯している。半分まぶたを落とし、それをぼうっと見つめていた。途切れない太く確かな線が、かっこよかった。
林檎飴の爽やかであまいかおりや、焼けた肉の香ばしいにおいが、交互にやってくる。無意識に口の中の唾液が増していた。
自分も人工的な夏の空気に溶けてゆく。
背にどん、という衝撃が走る。質感の同じ、何かがぶつかる音だった。
「__って!」
思わず前のめりになり、片手に持っていた林檎飴を、地に落としそうになる。慌てて足を踏ん張って、体勢を立て直した。
「誰だよ__、ってあんたかよ!!」
「ばぁ~~!」
喜一が振り返ると、両手を顔の横で広げる、宗助のにやけた顔があった。口から出された紅い舌から、酒を飲んできていることがわかった。
喜一はあきれて、溜息をつく。
この男は、どうやらまた髭をそらずにひととき過ごしたらしい。顎にうっすらと灰青色の茂みが出来ている。
村人がほぼ全員参加だっつう祭りなんだから、髭くらい剃って来いよ、と喜一は内心突っ込みを入れていた。
宗助は、喜一の肩を抱いて、その精悍《せいかん》な顔に、自身の髭顔を近付けた。
にんまりと口角をあげた、ひとの悪そうな男の顔がすぐそこまで迫り、喜一はあからさまに嫌な顔をして、片手を突き出し、彼の胸元にあてて「こっちへ来んな」と示した。
「喜一くん、楽しんでる? お、お前も俺とおんなじで、林檎飴を事前に制覇した口かよ」
「制覇した口かよ、じゃねえよ。あんた、その歳で祭りで最初に食うもんが林檎飴かよ!」
宗助の無骨な手には、真っ赤でつやのある林檎飴が握られていた。その浮浪者のような顔と似合わず、飴は小ぶりで大変かわいらしく、ますます彼の不気味さを増していた。
村の子らが見たら怖がらないだろうかと、心配になる。
(思えば、おっさんも歳取ったな……)
宗助に初めて出会った頃のことを思い出す。
当時、宗助は三十だったか。宗助の家を夜中に訪ね、扉を開いた彼に対し、弟子にしてくれと土下座をした子供の頃。あの時は親に将来やりたいことについて話をして、医者になりたいと打ち明けた後だった。お前が医者になんてなれるわけがない、と怒鳴られ、母に平手で殴られ、頬を紅くしながら、その足で宗助の家を訪ねたのだ。口の中は、血の味が染みていた。
初冬の肌寒い暗闇を、心細い思いをしながら、それでも将来の夢を捨てることが出来ず、走り続けた。思い返せば水をふくんだ空気や、泥が混ざった霜のにおいも、肌を包むように、あざやかによみがえってくる。
途中で小石につまずいて、転んで顔を正面から打ち、鼻血を垂らしたが、それを拭う余裕もないほどに、ただ一心に、師としたい男のおもかげを追い続けていた。
宗助は家の灯りを背に受けながら、泣きながら土下座する喜一の背をじっと黙って見つめていた。家の鈍い金の逆光が、ひどくまぶしくて、まぶたをあげることができずにいた。
そうして、どれだけの時が経ったかわからない中、「弟子にしてやる」とぽつりと言われたのだ。
顔をあげると、粉雪がはらりと降ってきていた。
鼻を垂らした喜一に、宗助は口角をあげてしゃがみこみ、「風邪ひくぞ」と、頭をがしがしと撫でてくれたのだ。鼻を啜ると同時に、目の端から涙がこぼれた。それは熱く、冷えてかわいた頬を濡らしていた。
あのてのひらの温かさとやさしさが、未だに残っているような気がして、喜一は自分の頭に何気なく手を置いた。
「喜一、何考えてやがる」
聞き慣れた低い声が、かたわらから響く。
宗助が片腕を胸元に入れて、訝《いぶか》し気《げ》に喜一を見ていた。いつも飄々として摑みどころがない彼にしては珍しく、人を心配するような、毒のない顔をしていた。
その顔を見て、喜一は一瞬安堵したような笑顔を浮かべた。だがその感情に恥ずかしくなる気持ちが、胸の内側から湧きだし、宗助から顔を逸らした。頬の輪郭がほのかに紅く染まり、紺色の闇に、色のついたひかりのすじを浮かべた。
「何だよ。お前」
「うっさい!」
そばかすの浮いた鼻の頭を人差し指で掻くと、宗助が後ろでにやりと不敵な笑いを浮かべた。そして、喜一の油っ毛の無い固い総髪を、大きな手でがしがしと撫でる。結っていた髪がほどけそうになり、慌ててその手を払おうとする。
「うわっ! 何しやがる!」
「お前は一生、俺の背を越すことは出来ねえんだよ。俺から見下ろされる弟子でい続けろ」
「もう一人立ちした医者に向かって、その言い方はねえだろ! 見下すのもいい加減にしろ!」
子供のように顔を紅くして、ぎゃんぎゃんわめく喜一に対し、宗助は満足そうな笑みを浮かべていた。
喜一はただ彼の無骨な手をどけようと、必死な様子を見せていた。
林檎飴は、いつしか喜一と宗助の手から落ち、乾いた夏の地の上に落ちて、追いかけっこをするように跳ねて行ってしまった。
ぼんぼりのあかりと、炎に焼ける葉や材木のにおいが、空気中をただよっている。
紅い林檎飴のゆくえを、周囲に集まっていた浴衣姿の子供たちは、不思議そうに眺めていた。



