昼が終わり、くらい紺色があたりを覆った。どこを見渡しても空気中に鈍いあかりが浮いている気がして、星が近く感じた。昼の間、からだを覆っていた暑さが、足元まで沈み込んだような夏の夜は好きだったが、今宵《こよい》は昨日より、いくぶんか湿り気が強い気がする。ゆびさきを立て、空気を割くように泳がすと、ほてりとちいさく水が浮く。纏った着慣れない浴衣も、肌に張り付く感覚がして、首筋と衣の合間をざわつかせた。

「ひゃ~。なんだか落ち着かねえ……。やっぱ変なんじゃねえかな。脱ぎてぇ」

 影虎は、落ち着きなく、己の姿を見下ろしていた。胸元にあわせた両手は、ぎゅっと握りしめられ、より白く変化している。
 影虎の背に回り、膝だちして深紅の帯を結っていた女性は、たのしげに微笑んでいた。

「そんなことないよ。とっても似合ってる。影虎ちゃん、やっぱり肌が白いから、黒が似合うねえ」

 真っすぐに立たされた影虎は、いつもの麻の着物ではなく、黒に紅《あか》い彼岸花《ひがんばな》の模様が散らされた、やわらかな質感の浴衣を着せられていた。夏のくらやみに火の粉を放ったような柄だと思った。
 両腕を平行に横に伸ばし、くるりと一回転する。先のそろっていないわずかに跳ねた黒き髪と、袖がふわりと舞った。

「おばさん、本当に変じゃない?」

 不安そうに視線だけを女性に向ける。

「変じゃないよ。とってもかわいい」

 着つけてくれたのは近所に住む、中年の女性であった。名を紀里《きさと》という。つむじの辺りで髪をゆるい団子にまとめている。そこからこぼれる髪には、白いものがいくつか混じっていた。向日葵《ひまわり》を霞《かす》ませたような色の着物が、彼女の内側から放たれるあたたかさと、よく合っている。

「夏祭りに出るのなんて、初めてだからさ。これでいいのかなって緊張しちゃって」

 影虎は頬をうっすらと朱に染めた。そう、この姿をいつも馬鹿遊びをしている村の子らにも見られるのだ。そう思うと、なんと言われるのか気が気ではない。

(絶対あいつら、馬鹿にしてくるんだろうな……)

 紀里から視線を逸らし、くちびるを噛む。村の悪餓鬼共《わるがきども》幾人かの顔が、脳裏に浮かんでは消えていった。そして、その最後には、喜一の顔が浮かんだ。

(喜一にも、見られるんだ……)

 腰に結んだ帯を、片手でぎゅっと握りしめた。うすい布を重ねて結ったその紅い帯は、白い手に摑まれると、重なりがずれ、浴衣の黒と混ざったようになる。額にうっすらと汗をかいていることに、影虎は気づいていなかった。

「影虎ちゃん、顔赤いけど大丈夫?」 

 紀里が心配して下から覗き込んでいることに気付き、はっとして仰《の》け反る。裸足の足が、古い畳の上で交互に跳ねる。

「な、なんでもねえ。大丈夫だよ!」

 頬と額に熱を持ち、目の前で手を振る影虎に、紀里はかるく首を傾げた。 

「そう、ならいいんだけど」

 影虎の帯にかけていた手を離すと、その細い腰を叩く。

「さあ出来た。じゃあ、夏祭り、楽しんどいでな」

 影虎は足を弾むように、上げたり下げたりすると、紀里に向かって満面の笑顔を向けた。

「ん、ありがと! おばさん」

 てのひらで太もものあたりを浴衣ごしに軽くはたき、颯爽と戸を開けて外に飛び出した。
 夏の夕暮れは、昼の熱さを未《いま》だに残し、むわりとした湿気があった。だが、その中にひとしずくの雨のつめたさを宿していた。
 影虎のやわらかな頬に、その空気が、膜を張るようにふれた。そっとゆびさきで、頬を上から下へとたどる。熱いとも寒いとも、何とも言えない微妙な温度だ。夏だというのに不思議だ。何故かその温度は、心を不安にさせた。

(……夏祭りの場に行けば、村の皆がいる。早く皆のところに行きてぇ)

 ひとりだから不安になっているのだと、自分に言い聞かせた。そして、下駄を履くと、地を蹴り、弾みをつけて駆けて行った。からん、ころんと小君良い音がついてくる。
 陽が落ちかけ、木々が黒い影へと変わってゆく。どこかで蝉の鳴き声が聞こえる。日暮《ひぐらし》であろうか。そちらに刹那、気を取られかけたが、頭を振って前を向く。
 風がひんやりとつめたくて心地が良かった。今日は夏の中でも過ごしやすく、良い日だ。
 子犬のような息遣いで、はずみながら田と木々の間にある小道を駆けてゆく。
 影虎の頬はほのかに紅潮していた。

(夏祭りに行ける。いつも家のそばの木の上に登って、遠くで舞い散る花火を眺めているだけだったのに、俺も参加していいんだ。参加できるんだ……!)

 ゆれる腕で、こぶしを握りしめる。いつも家で真面目に手伝いをして過ごした夜が、嘘のように、華やかな気持ちになっていた。しあわせや楽しいって、こういう気持ちのことを言うのだろう。
 高虎の手伝いをするのは嫌いではなかったが、心のどこかでは夏祭りへのあこがれがあった。
 抑えていた気持ちが弾け飛ぶ。風を切って走っていると、いつの間にか歯を見せてわらっていた。
 彼女の周囲にあるものが夕陽に撫でられ、赤や金に水面をきらめかせる。あるのは永遠に平行に広がっていきそうに見える田んぼと、さやさやと生い茂る葉を擦らせてさわぐ木々と、その上で暮らす鳥や小動物だけであったが、それでも身の内から沸きあがるよろこびを、とどめることが出来なかった。放っておけば、口から命のかがやきが溢れ出してしまいそうだ。
 木の枝に、朱の紐で結ばれた雪洞のあかりが灯っている。もうすぐ夏祭りの開場に到着する印だった。
 よろこびは一層増した。嬉しくてたまらず、誰もいないというのに、わらいが止まらない。ちいさな体は、早く夏祭りの会場にたどり着きたくて、うずうずとしていた。肌が泡立つ。交互に動かしていた腕も、心なしか、かろやかに浮きあがっていた。

「かぁ~っ。夏祭りかぁ。皆どんな浴衣着てきてるんだろうなぁ。いつも他の奴らから聞かされてた、『林檎飴』っつう食い物も気になるし、盆踊りで皆と踊るの、絶対たのしいだろうな〜……ああ〜! 早く参加してぇっ」

 濃い桃色の舌先をくちびるから出すと、上唇を舐める。口の中が唾液でいっぱいになる。なぜかそれは、ほのかにあまみを伴っている気がした。
 その時であった。
 交互に動かしていた足をまた一歩、前へと踏み出そうとした刹那、影虎の目の端に、黒い影が映った。その影は、実態をもっていた。
 驚いて動きを止める。視界がかすかにゆれ、眸の膜が一瞬、にぶい金色にきらめく。
 すねに汗が流れる。ひやりとつめたかった。
 恐るおそる体の向きを変え、右に広がる木々を振り返る。
 影虎の真横に、木々が小道から半円を描いて、ちいさくぽっかりと空間ができている。

「何だここ……」

 恐るおそる、その空間に右足を置く。湿った黒い土の感触とかおりが、むわりと漂った。水が溶けて染み込んでいる。そして、円の端まで歩くと、足元に何かが転がっていることに気付いた。紅い鼻緒を付けた黒い下駄の先に、こつんと当たったそれは、細長く硬い。
 夜目の良い影虎には、しゃがんで瞳を近付けなくとも、それが何か理解《わか》った。

「刀だ……」

 落ちていたのは、漆黒の刀であった。

「柄頭《つかがしら》も、柄も、鍔《つば》も、鯉口《こいぐち》も、鞘《さや》も、全部真っ黒だ。こんな刀、見たことも、聞いたこともねえ」

 かすかに興奮した面持ちで、ぱっとしゃがむと片手でその鞘を撫でた。なめらかで、肌触りが良い。いつか見た、雨上がりの烏の濡れ羽を彷彿とさせる黒。
 金色の瞳の中に、重なるようにその黒き刀がくっきりと映る。夜の海に浮かぶ、月のきいろい道ができる。
 まじまじと見つめ、目が離せなかった。いつの間にか、まばたきすることすら忘れて。
 もう片方の手を、そっと鞘の上に重ねてみる。両手で触れるかふれないかの距離で左右に撫でると、さらにその感触は、吸いつくようにてのひらに伝わった。

「すげぇ……」

 思わず喉の奥から、かすれた感嘆の声を漏らす。
 脳裏には、いつか見た侍の腰刀、そしていつの日か押し入れで見た、高虎の刀が、靄《もや》のように浮かんで重なっていた。
 影虎は刀の柄と鞘の下に、ちいさな手をそっと差し入れると、ひとみを震わせた。
 黒き鞘は、月光を受けると、青い星が散るように、きらきらとさやかにひかる。そのひかりが、影虎の金のひとみに反射する。きよらかな泉で洗い清められたかのようなその姿は、春の夜空にこぼされた銀河に似ていた。
 背をまるめて刀を抱きしめる。自然と口角があがっていた。閉じたまぶたの端からは、よろこびの涙がかすかに滲んで、まつげの間に夜露のように宿る。わなわなと腕の節々から、力が込みあげてくる。全身の血が湧き立っている。ゆびさきが熱い。

「ようやく会えた……。俺の刀。こいつを俺の刀にする。黒くて綺麗でかっこいい。……今日からこいつが、俺の相棒だ!」


 あかるいが、どこか尖った声をあげる影虎の背後に、差し迫る人影の存在を知るのは、闇色に染まった木々のみであった。さわさわと黒く染まった葉がゆれる音すら、今の彼女には聞こえていない。