箱根の深き空気の漂う、緑の山の上に、幾重の昼と夜が落ちてかさなり、十年の歳月が過ぎた。
 高虎が畑を鍬《くわ》で耕す音が、小屋の外から聞こえてくる。こぉん、こぉんと間延びに近づいてゆくように大きくなり、最後にひとかけら、高い音が耳の奥で鳴り響くと、本城影虎《ほんじょうかげとら》は深い眠りから覚めた。
 半目を開け、茫《ぼう》としたまなざしで、天井を見つめる。
 夜の間に生まれた、塵《ちり》をふくんだ空気を、朝のしずかな霧が摘んではらんだように、さわやかな湿度が、うすい皮を持つ頬を覆う。けだるい体に、ひんやりとした心地よさがやってくる。
 今日は、すきな朝だった。暗闇に沈んでいた意識が、白いひかりの中に行き渡り、小さな自分も、この世の一部となって動き始める。そこに、夏の暑さがかぶさり、衣からむき出しになった、しろい腕を汗でかすかに湿らせる。
 天井のふるい木枠に、いつかの雨が染みて出来たのだろうか、ところどころ黒が滲《にじ》んでいる。その一つひとつを、後を引く眠気が、からだから去ってゆくまで、見つめ続けていた。
 けぶる闇色のまつげが、花弁のように縁《ふち》を覆っている、白くまるいまぶたの下から、金色のひとみが覗いていた。金木犀が夜にひかりを放っているような色は、初めて彼女に会う者に、ひどく珍しがられた。眸の中には、金茶色の琥珀を散らしたような星が数粒浮いていた。それは当たる朝日の角度によって、違った色合いで深くきらめく。他に珍しげな物もない村人たちにとっては、そのきらめきは貴《たっと》いものとされてもいたし、一部の者には影で気味悪がられていた。影虎はそれに気づいていたが、気づかないふりをしていた。他人の目など、割とどうでもよかったからだ。そんなことを気にしているひまがあったら、走っていたほうがたのしい。

「う~ん……」

 ぽってりと少し下が厚い、桜色のくちびるを引き結び、大きな瞳をぎゅっと閉じる。長いまつげが、彼女の白い頬に影を落とした。布団を鼻先まであげると、くるりとうずくまり、ふたたび眠りに入ろうとする。
 鍬の音が止んだ。ざっ、ざっという足音が、徐々に小屋へと近づいてくるのを、遠い耳で聞いていたが、体は気怠く、動かなかった。勢い良く木製の扉がひらかれる音が、小屋の中に響く。
 はあ、と乾いた溜息を漏れた。高虎だった。

「影虎、起きねえか。もう朝餉《あさげ》の時間を、とっくに越してるぜ。……ったくだらしがねえ」

 低い声が、寝ている影虎のからだの表面を撫でたが、一向に彼女は動く気配を見せない。
 彼女のちいさな体へ、框をあがった高虎の足が近づいてくる。ずしずしと床板を軋《きし》ませるそれは、質量を伴っていた。
 筋肉の重みだ、と影虎はぼんやり感じていた。
 朝の透明な空気の中に、男の汗のにおいが混じってかおる。慣れたそのにおいには、不快感はなかった。
 体の表面をつめたい風が撫でる。寒気を感じ、はっと瞳をひらいて半身を素早く起こすと、皺《しわ》の深い、焦げた肌を持つ精悍《せいかん》な怒り顔が、目と鼻の先にあった。
 顔にまで筋肉が張ってやがる、と影虎は思った。
 いつの間にか、片手で取りあげられた掛け布団が、ちいさな体から剥がされていた。

「うわっ! 何だってんだよ急に。さみいよ~……」
 
己のからだを細い腕で抱きしめ、涙目で高虎を睨み返す。猫のように釣りあがった目の端に、透明な涙が溜まる。

「うるせえ、お前が起きねえからだろうが。寝相もだらしねえし、もっと女らしくしねえか……」

「うるせえっ! いきなり寒い日に、布団引っぺがす奴があるか。このくそじじい!」

 八重歯を見せながら、きゃんきゃんと反抗する影虎の白い頬を、高虎は乾いた大きな手でつねった。
 やわらかな頬は赤子の時から変わっておらず、もちのように伸びる。
 いてえいてえ、と泣きわめく影虎の頭に、高虎の大きな手が覆い被さる。彼女のつややかな黒髪を、あらあらしく、だが慈《いつく》しむように撫でてゆく。
 がしがしと髪をかき乱されたせいで、影虎は驚き、うわっと声をあげながら高虎の大きな手の動きに頭を任せていた。みじかく線の細いやわらかな黒髪が、しろい額や頬、首筋を撫でていった。

 昼餉《ひるげ》の時刻を少し過ぎた頃、高虎と影虎の住む、ふるびた小屋から、ぱあんという威勢の良い音が響いた。
 乾いて煤《すす》けた木の壁を通り過ぎ、夏の湿った空気をふるわせる。
 そばに生《は》えていた、百日紅《さるすべり》の木に止まっていた烏《からす》が一羽、驚いて飛び立ち、紺碧《こんぺき》の空に黒い粒となって消えてゆく。
 森に囲まれた山奥で暮らしている為、その音を聴いたのは動植物だけであった。
 小屋の中、戸の近くで、影虎と高虎は向かい合っていた。
 高虎は仁王立ちで腕を組み、自分の腰の高さほどしかない影虎を、両の目に鈍いともしびを浮かべて睨んでいた。 
 影虎の白い頬は、先ほど高虎に平手で打たれたせいで、徐々に紅《あか》く染まってゆく。だが影虎は、大きなひとみの端に涙を溜め、まばたきもせず高虎を睨み返していた。金色のひとみは、なみだの膜で濡れ、陽《ひ》をはらんだ朝露のように、きらきらとしたかがやきをみせている。
 大きな敵に威嚇してくる子猫のようだと高虎は思った。なんだか可笑しくなり、笑いをこぼしそうになってしまったが、気持ちを冷静に保ち、鼻からかすみのような息を吐く。
 下唇を上唇で湿らし、うめくような低い声を発する。

「てめえ、まーた村の餓鬼共《がきども》と、喧嘩してきやがったのか」

「うるせえ! あいつらが女は剣士になれねえって言うからだ! 俺は村の誰よりも強えってことを証明してやったんだ」

 噛みつくように言い返す影虎に、高虎は眉をひそめ、あきれ顔になる。

(十年前に赤ん坊だったこいつを拾ってから、男手ひとつで、何とか女らしく育てようと試《こころ》みてきたが、一向に女らしくならねえどころか、口調まで俺そっくりになりやがった!)

 高虎は頭を掻き、瞳を閉じると大きなため息をついた。
 黒髪が一本も無くなり、真っ白になった髪は、小屋の窓から漏れる陽のひかりで銀の光沢をうつ。まつげや眉も真っ白で、筋肉質なその身体や、健康的に焦げた色をした肌とあいまって、冬の雪山のようであった。
 重いまぶたを開け、影虎をみつめると、大きな両手で彼女の頬を包んだ。
 熱く、やわらかな頬から、彼女がまだ幼い女の子であることが感じ取れる。
 影虎はふいの高虎の行為に、一瞬体をふるわせた。少し冷えていた頬に、熱が染みてゆくのがわかる。気持ち良いはずだが、彼女はわざと彼を睨むような視線を送る。強がりなのだ。

「嫁入り前の娘が、顔に傷こさえるんじゃねえ」

「高虎……」

 乾いた無骨な手で、撫でるように影虎の頬をつねる。
 影虎は寄せていた眉間の皺をとき、瞳をふるわせる。
 大きなひとみの中に映る、老けた己の姿を見て、高虎は物悲しくなった。何とかこの娘《こ》が嫁に行くまでは、生きていなくてはならない。いとしい想いが、胸にあふれる。
 影虎の背から、戸が叩かれる音がしたのを聞き、高虎は、さっと彼女の頬から手を離すと、彼女を框にあがらせ、入り口に向かい、戸に手をかけた。

「誰だ」

「ちわー! 影虎いる?」

 訪問者が誰だかわからなかったので、ちいさな体を身構えていた影虎は、その通った声を聴き、ぱっとあかるい笑顔になった。体の緊張がふわりと羽で撫でられたように溶けている。

「喜一だ!」

 高虎は戸を片手で開けた。
 立っていたのは、村医者の喜一だった。長年、宗助の助手を勤めていた彼は、昨年宗助から独立し、村医者として働いていた。若く、あかるいその存在は、病で滅入ってしまった患者や年寄りに活気を与えていた。今では喜一の背丈は、宗助や高虎の背を越してしまっている。黒い十徳《じっとく》を着、その上に、うなじの辺りでひとつにまとめた髪が垂れていた。

「てめえは何の用だ」

 眉を寄せ、喜一をにらむ高虎に対し、宗助は歯を見せてわらった。

「今日の夜、村で夏祭りがあるだろ? 影虎も来ねえかなって、誘いに来たんだよね」

 それを聞いた影虎は、高虎の背から顔を出す。長くするとからまるといって面倒くさがり、高虎に頼んで肩の上あたりで切ってしまった、不揃いな黒髪がゆれた。

「夏祭りなんか行かねえよ。無駄金取られるだけだし。そんなとこ行ってるより、俺は高虎と家で仕事してたほうがましだ」

「はあ? 今年は来いよ! ……お前、可愛いんだからさ。浴衣姿くらいみせろよな」

「何言ってんだこの馬鹿……!」

 影虎は頬を真っ赤に染めて喜一をにらんだ。
 喜一はそれを見て、にこにことわらう。そして懐《ふところ》から紫の包みを出すと、高虎の手を摑み、上向かせ、手のひらにぽんと乗せた。
 麻で出来たそれは、高虎の乾いた手に馴染んだ。

「高虎のじいさん、今日の薬これね。ちゃんと飲めよな」

 せつなげな笑顔で喜一は高虎を見た。彼と出会った日から、さらに年老いてしまった自分を、気遣っているのだろう。喜一は既に、医者の顔であった。

(こいつから、こんなことを言われるとはな……)

 高虎は喜一から貰った薬を懐にしまい、代わりに銭を出して彼に渡した。

「ありがとよ」

「ああ」

 喜一は銭を懐にしまうと、ふたりに背を向けたが、出て行こうとした時に、振り返って影虎に向かって手をひらひらと振った。

「じゃあな。影虎! 夏祭りでお前と踊るの、楽しみにしてるわ」

「は?」

 目を見開く影虎に対し、いしし、言いながらはにかみ、喜一は出て行った。

「あの野郎~。馬鹿にしやがって……」

 小さなこぶしを握りしめ、ふるふると震えながら、影虎は喜一が去ってゆくのを睨んでいた。彼女の髪から出た耳は、真っ赤に染まっている。

(喜一の野郎。女の扱いが、宗助に似てきやがった……)

 目を細めて喜一のちいさくなってゆく背を眺める。風に煽られ、ぱたぱたと彼の着ている黒の十徳の裾が舞いあがる。飄々とした雰囲気が、昔の宗助にそっくりになっていた。
 長い間一緒にいると、似たような雰囲気になるというのは確かにうなずける。自分と影虎も同じように共に暮らす中で、気質が似るようになった。それは、影虎が高虎の口調を真似て、男のように育ってしまったことにも繋がっていた。
 高虎は懐《ふところ》から銭を出すと、影虎の腕を取り、その白いてのひらに乗せた。

「ほい」

「え……?」

 影虎は目をまるくしながら、ぽかんとして手のひらを見つめている。

「今年はお前も夏祭り行ってこい」

「えっ……いいの?」

 乗せられた銭は、輪郭が飴色にきらめいていた。
 その鈍いひかりをじっと見つめた後、影虎は顔をあげ、高虎を見上げてくる。そのひとみは、期待に満ちみちて。
 きらきらとした金色の瞳に見つめられ続けていると、なんだかこちらが気恥ずかしくなり、高虎は目を逸らした。ひとさし指で、こめかみを掻く。

「いつも家の手伝いばっかさせてたからな……今日は俺も行く」

「ほんと!? 高虎!」

 ぱあっとあかるい笑顔になり、影虎はさらに瞳のかがやきを増した。高虎の腰に飛びつく。
 反動で高虎はよろけてしまった。

「うわっ、落ち着け、馬鹿!」

 腕が宙を掻き、床に尻をつきそうになるのをなんとか影虎の肩を抱くことで保った。端から見ればよろこび合って、抱きしめ合っている祖父と孫である。
 自分の胸に顔を埋《うず》め、けらけらと子猫のような白い八重歯を見せながら笑う娘の姿を見下ろしながら、高虎はやさしい笑みを浮かべた。漢字(かんじ)漢字(かんじ)