高虎は限界まで己の背筋を伸ばしていた。感覚が現実に戻ってゆく。背骨のふしがこきりと鳴る。

「そうだ。あれが……」

 真っ直ぐ見やっていたのは、影虎の手にしていた黒き刀だった。どろりとあざやかな血のついた、夜の闇をそのままうつし取ったかのような刀身に、煌々《こうこう》と冴えたしろき月のひかりが、撫でるようにひとすじの淡い小道を作っている。
 間違いない、あの遠い日、父に聞いていた呪われた刀の形状と酷似している。

(あれが『吸血刀』……。まさかこんな形で……、しかも俺の一番大事な人間が、手にしちまったとは……)

 高虎はしばらく唖然と口を開けていた。時の流れの中では一瞬だったかもしれないが、彼にとっては、口の中が乾いたことに気づくまで、それは永遠であった。額から耳までにかけて、ぶわりと汗のしずくが湧き出す。人の血を纏った生身の刀を久しぶりに目にしたことにより、高虎の中で、侍だった頃の本能が無意識によみがえってしまったのだ。

(鎮《しず》め……)

 気を鎮めるため、片手でもう片方の腕のふしを握りしめる。こぶしを強く握っていたため、盛りあがっていた筋肉が、大きく脈を打っているのがわかった。触らなければわからないほどに、自分は緊張していたのだ。
 乾いた吐息を、心の中で漏らす。
 もう一度前を見やる。
 影虎の眸は、真っ直ぐつらぬくように自分を見ていた。眸の水面はうるみ、さらに金色が溶けて濃くなっている。らんらんと釣りあがったまなこは、睨んでいるようにも、泣いているようにも見えた。
 高虎は娘のその表情を見やって、胸が細い糸で締め付けられるような痛みを感じていた。
そして、震える娘を確認して、いつの間にか高虎の瞳もじわりと熱い涙の膜を滲ませていた。

「影虎、苦しめたな」

 かすれた声が、乾いたくちびるから紡がれた。
 はぁはぁと荒い少女の吐息が、空気の中をじわりと生温かな水気をはらみながら漂う。やがてそれはかすれた淡い声へと変わる。

「高虎……」

 ふるえて肩を濡らす黒い少女を、高虎はまばたきもせずに見つめると、ふう、とひとつ息を吐いた。こめかみに汗がすっと流れ、大きな男の顔の輪郭をすべると、高虎は、娘に近づくために、草鞋を履いた足を一歩、土に沈ませた。
 ざらりと濡れた土が、盛りあがる音がする。
 影虎はその音に、金色のひとみの水面を震わせる。そして、なにか恐れを感じて、後ずさった。

「__ああ……、ああ」

 影虎が首を左右に振る。口はうすく開いており、息は絶えず漏れ続けた。
 彼女のかかとに呼応するように、さやかな刀の切先から、ぽとり、ぽとりと血液が雨樋《あまどい》を伝う雫のように落ちてゆき、彼女を覆う雨を汚していった。影虎の震える手は、血とひとしく赤く染まっていた。
 高虎は白銀の眉を寄せる力とひとしく、くちびるを引き結んでいたが、やがてほどくと一拍置いて、影虎をなだめるように言葉を紡いだ。

「影虎……、そいつは吸血刀だ」

「きゅう、けつ、とう……?」

 高虎は静かに己の腰に目をやり、刀の鞘に片手を添えた。

「俺のこの刀。どう見える。普通に見えるだろう。だがお前の両手で持っているそれは違うんだよ。使ってみてどうだった。わかるだろう。それは呪われた刀だ。『吸血刀』。人の生き血を吸って強度を増す。それがそいつの本質だ」

 影虎は固まって高虎を凝視している。

「この世に、その刀は二口ある。春の夜空をうつした湖を、冴えた刀身に染めたような色をした刀、『陽黒切春影《ひこくぎりはるかげ》』。冬の白く青い雪空を、鋭い刀身にうつしたような色をした刀、『月白切冬影《つきしろぎりふゆかげ》』。お前が所有者に選ばれたのは……、『陽黒切春影』のほうだ」
 

 影虎の視界が暗転し、ふたたび暗い景色へ戻る。くちびるにひとつぶの雨がふれ、しずくとなって流れてゆく。そして手に落ち、漆黒の鞘にふれた。
 そっと刀を見下ろす。血塗られた紅に負けじと黒いそのすがた。熱い血を抱いているというのに、湯気すら立たないでいる。ぶうんという音が、心臓の中央で鳴り響き、それが渦を巻いて喉元へとせりあがってゆく。やがて周囲に、己が斬った人々の血のにおいが戻ってくる。においが濃く鼻先をかすめると、影虎は焦点を下にしたまま、震えるくちびるを開いた。

「__刀が……、刀が手から離れねえんだ」

 声は、かじかんだ手と同じように、震えて高鳴る。見開いた金色のまなこからあふれた涙が、次からつぎへと大粒となり、雨をうつして落ちてゆく。

「刀が離れねぇんだ! 俺がこの手を止めようとしても! 勝手にひとを斬り続ける!」

「……影虎」

「いくら人を斬っても! いくら刀に血を吸わせても! 止まらねぇんだよ! 高虎! どうすればいいんだ? 俺が死ねば、この刀は止まるのかな?」

 丸いまぶたを閉じると、刀と同じ色をした黒いまつげが震えて影を作る。影虎の手が、ひときわ大きくふるえた。だが握っている刀の鞘は、どれだけ揺られても、ちいさな白い手から剥がれ落ちることはない。それどころか、より強く粘着質に、手の皮にひっついてゆくようだった。
 雨が雪洞の最期のあかりを反射し、そこにさらなる痛みを施すように灯っていった。

 高虎の顔を、横から雨が撫でる。彼の額にこぼれる、いくすじかの白い髪が、はらりとゆれる。重いまぶたを半分閉じると、髪と同じ色をしたまつげすら、彼の前髪とひとしく陽炎のようにゆらめいた。
 高虎はまた一歩、影虎に近づく。雨のしずくが、時を見計ったかのように彼の目元から頬、下くちびるの端をそっと拭うようにふれ、流れて消えていった。

「__影虎」

 高虎は背筋を伸ばす。そして影虎と真っ向から向き合った。
 影虎の先ほど流した涙は、ちいさな鼻から流れた水とあいまって、すでに寒風にさらされ、うすくれないの頬に乾いて張り付いている。
 大粒の雨が、ひとひらの花弁のように彼らのあいだを、するりと落ちてゆく。
 影虎のひとみが、刹那的にかがやいてひかった。
 高虎はそれを見届けると、かすかに首を傾け、月光にあらわになった太い首にすっと右手をやり、切断するように右に引いた。感情を消した顔だった。

「俺の首を斬れ」

「何をっ……!」

 影虎は驚いて目を剥いた。
 高虎のうすく開いたまなこが、凄絶なともしびを浮かべる。

「最初に鞘を抜いたその刀は、ひとを斬り続け、生き血を吸い続けても、暴走が止まることはない。人間のからだの中で、一番太く濃い血液が流れているところに刃をふれさせれば、暴走は終わる」

「だからって……!」

「だから俺の首を斬って、その刀の暴走を止めろ」

 雨に暗く染まった闇の中で、高虎のまなこだけが、白銀にひかっていた。
 周囲を覆う雨だけが、やさしく平等に降り注いでいる。
 やがて目尻に溜まった雨が、まるい頬を流れると、影虎は我に返った。

「……できない……。そんなことは、できない……!」

 高虎をまっすぐに見やりながら、まばたきもせず、顔をふるふると振る。黒
髪が、肩に乗った雨粒を払い、はらはらと地へ落ちる。
 高虎は、動揺する娘の様子をじっと見ていた。
 血まみれの、ちいさなからだ。刀と髪の色で、紅と黒が入り混じっている。鈍い雨のくらやみの中で、浮きあがるように立っている娘の姿は、闇の妖精のようで、可憐《かれん》でありながら、物悲しい。
 その姿を目に焼き付けるようにじっと見つめていたが、やがてまぶたをきつく閉じた。
 脳裏に、幼い頃から今日までの日々が、水底《みなそこ》に沈められた岩の脇目から、泡がふくように浮きあがって、割れて消えてゆく。
 父に厳しく躾けられた幼いころ、夕日を見つめながら顔を腫らせてぼろぼろと泣いて、頬を橙色に染めていたこと。
 明くる日に父の袖から差し出された豆大福を、頬を染めて夢中になって頬張ったこと。
 妻と子と、春に見上げた薄青空を背景にした、降るような満開の桜。京で守護職として正装して、幕府を護っていた日々。
 友の裏切りにあい、さしむけられた刺客に、妻子を斬られて殺された夜。
 家を燃やし、友を斬り、この箱根の山へ逃げてきた。
 そこで出会った温かい人々。喜一や宗助。
 そして影虎。
 胎盤ごと産み捨てられていた赤子を、この血塗られた手で湯に洗い、育てた真夏のような、生命《いのち》ほとばしるあざやかな日々。
 高虎はすっと閉じていたまぶたをひらく。うつるのは、閉じる前と等《ひと》しい、壊された祭りの会場。
 そして血と涙に濡れる刀を持った娘の姿。
 高い鼻にふれる空気は、雨の清らかな粒がまだらに浮いているようで、目に見えない汚れまで、取り払ってくれるように澄んでいた。
 腹の空気をふっと鼻からすべて吐くと、ぬかるんだ地を蹴り、獣のような速度で走っていった。

 こちらに迫るように走りくる父の姿。くらやみを背景に、いつも共に過ごして隣で見やっているものより、大きかった。
 影虎は白銀の狼に、真っ向から狙いを定められているように感じ、からだにびりびりとしたものが走り、動くことができなくなった。固まったゆびさきにすら、血がめぐり、感覚が戻っていくようで。
 金色のまなこが揺れる。
 気づいたときには、血が斜めにばらりと降りそそいだ。刹那的な土砂降りが起きたようだった。
 はっと視線を上向けると、薄暗い影が彼女の面《おもて》を染めている。

「……高、虎……」

 ぼたぼたと鮮血が落ちる先を見やれば、刀、『春影』の刃が、高虎の太い首すじを喉仏の中央まで、すぱりと斬っていた。
 高虎はくちびるを引き結び、くぐもったような声を発すると、自分よりも低い位置にいる影虎を見下ろした。彼の引き結んだくちびるから、首から流れるものと同じ、あざやかな紅色が、時を置いてぽとぽとと落ちてくる。
 影虎は、夏の月に逆光となった高虎を、うすくくちびるを開けたまま見つめていた。やがてその白い頬に、桜の花弁のようにひとひら雨がふれ、ふたたび時が動き出す。

「高虎……っ!」

 ごぷり、と咳き込むように大きな音を立てて、高虎の口から血の泡が、沸騰するお湯のようにこぼれ出した。
 彼の首から生み出された血の雨が降り注ぐ。
 __熱い。火の粉のようだった。熱い、あつい。
 影虎が手首をかすかに動かすと、高虎は背中から地へと倒れた。どさりと重いものが落ちる鈍い音がした。
 動いた彼と呼応して、首から刃が剥がれ落ちてゆく。
 張った水面をてのひらで叩いたように、大量の血が左へ跳ねる。どくどくと高虎の広い背中から滲む血が、黒い地を染めてゆく。

「高虎っ……。たかとらっ……!」

 父の首はぱっくりと何かが裂けたような刀傷を持ち、紅いさらさらとした鮮血が、大地を清水《しみず》のように濡らし続けている。
 影虎がまなこと口を閉じることもできず、ぽろぽろ大きい涙の粒を、その乾きゆく顔に落とし続けた。
 高虎の顔に降るつめたい雨を、その熱が溶かしてゆく。
 影虎はそっと、高虎の片手を両手で抱くように持ちあげ、くちびるの先に当てた。

「高虎……」

 まぶたを伏せると、熱いしずくが、頬をいくつもすべり落ちてゆく。黒髪の間からのぞいた赤い耳に、ひとつぶの雨がふれたとき、くぐもった男の声が聞こえた。

「やりやがったな……。ついに高虎のじじいまで」

 呆然としたまま、顔をあげ、声のしたほうを見やる。
 宗助がふるえて屈んでいた。
 彼の両腕には、血まみれの喜一が抱かれていた。雨に濡れた青い月のひかりを受けて、青白く浮きあがっているようだった。
 周囲を見渡せば、自分が斬った遺体たちから、未だあざやかな紅色と血の匂いが、かすみのように漂っている。
 そのどす黒いかおりで、己が今まで何をしてきたのかを、一瞬で思い返した。

「あ……、ああ……」 

 冷えた空気が、雨と共に、乾いてふるえるくちびるを汚し、入り込む。
 宗助の額からひとすじ、紅茶色の前髪がこぼれ、風にゆれる。伏せていた上体をかっと起こす。
 影虎は目を瞠った。
 いつもやさしく朗らかな、春に飲む甘酒のようなおもむきを持っていた宗助が、目つきだけでひとを殺せるようなほど眼光を鋭くひからせ、影虎を睨んでいる。眸の中に、埋み火が燃えていた。彼の背後からひときわ強い風が吹き、浴衣の裾をはためかせて広げた。

「……お前がやったんだ。影虎。ここにいるやつら、みぃんなお前が殺したんだからな……!」

「うぅ……、うぅ……!」

 首をふるふると振る。食いしばった口から、よだれが垂れて顎を伝う。
 確かに血にまみれ、刀をふるう黒い少女は、悪鬼のようであった。
 己の手をそっと顔の前まで持ちあげる。どろりと溶けたあざやかな血液と重なり、その向こうにうすぼんやりと見えるのは、半分裂かれた父の首と、先ほどかさぶたが剥がれるように手から落ちた、陽黒切春影の刀だけであった。地の上に、黒い刃がくっきりと浮かんで存在を放っている。

「責任取れるのか! お前が奪った命の責任、どうやって取るつもりなんだ!?」

 宗助は喜一を抱き抱えながら少しずつ立ちあがり、影虎を見下ろしながら怒鳴り続けていた。ひとが変わったようだった。宗助の形相《ぎょうそう》が、徐々に血の色に染まり、ぼやけて見えていった。
 いつの間にか正座をしていて、上体を前のめりにしていた影虎は、ふっと上体を起こし、あたりを見回す。
 赤を噴出した遺体が、間隔を置いて幾人も倒れている。まるで、地にまばらに咲いた彼岸花のように。
__これほど大勢の人間を殺してしまったのか。
 宗助がさらに何事か影虎に向かって叫び、糸がふつりと切れたように、背を向けて腰を落とした。
 かたわらに横たわっていた、喜一の遺体を抱いて、なみだを流しながら去ってゆく。

「喜一……ごめんな。ごめんな……」

 喜一の遺体は、うすく目を開け、引きずられるように宗助の腕に抱かれていた。
 雨の中、わずかに生き残っていた焚き木の炎を通り過ぎると、漆黒の空気の中に溶けて消えていった。
 影虎はふたたび己のふとももに目をやった。いつの間にか、高虎が彼女の太ももを枕にして眠っていた。
 一陣の風が吹く。それは血と雨をはらんで、彼女の金色のひとみにうつり、怖いほどにきらきらと煌めいていた。
 影虎ははっと目を見開いたまま、闇夜へ、くらりと落ちていった。そのまま彼女は血の中へはたりと倒れ、気を失った。涙と血に濡れたまつげを、灰青色の雨が、はらはらと撫でてゆく。
 
 その後、高虎の遺体を、ちいさな体のすべての力を用いて、夏祭の会場から引きずり、影虎はふたりの家へと戻った。
 顔は虚《うつろ》で、どこをどう辿って家路につけたのかすら、ぼろぼろになったからだは覚えていない。ただ雨の粒子が、空気中に浮いたようなしんと冷えた温度と、踏み締めるたびに、足にまとわりつく湿った黒い土の感触だけが残っていた。
 小窓から入る、夕方の陽を受け、うすきいろに染まるわずかなほこり。
 それが完全につめたく、硬くなった高虎の遺体にふわり、ふわりと降りてゆく。
 高虎の首は重みに耐えきれず、五体から離れてしまった。
 今影虎は、高虎の五体の上に、彼の離れた首を置き、かたわらで正座をして見つめていた。
 まぶたは半分伏せ、感情の感じ取れない顔をしていた。金色のひとみは、夕日をうつして、まだらに紅や黄のひかりを、ぱらぱらと宿しており、そこばかりは、熱い火の粉が燃えているようだった。
 高虎の目は半分開いており、灰青色のひとみに、夕日が覆うようにひらひらとおりていた。
 影虎は彼の目の前で手を泳がせるように、彼のまぶたを閉じさせた。
 冷たい氷のように硬くなった肉体《からだ》。白銀のまつげだけは、やわらかだった。
 両手で、高虎の頬を挟むと、そっと持ちあげ、彼の額に、己の額をこつりとつけた。
 そしてまぶたを閉じる。右目からすっと涙が、頬を伝って落ちてゆく。彼女の頬をなめる夕日は金色で、なみだも量をともない、金色のしずくとなって床を濡らしていった。

 ふたりで過ごした家の裏庭の、やわらかく湿った土を掘り、その中に高虎の五体と首を、仰向けに寝かせるように埋めた。しわ枯れた大きな両手を、彼の胸元で重ね、白い山百合の花を、幾つか供えるように置いた。
 土を被せる前、高虎の顔をそっと見つめた。
 長い時を感じる肌。
 彼と過ごした日々が、年輪のように頭の中を凪いで、あらいで、舞い降りて去ってゆく。
 土をかける。
 高虎の青褪めた肉体が、黒く塗りつぶされてゆくたび、彼女の金色のひとみから、透明な涙があふれていった。
 ぬぐうこともしなかった。