泰地はゲストハウスの受付の女性のところへ行き、今日は何か仮装パーティーがあったのかと尋ねても、彼女は素っ気なく首を振り、何事もなかったかのようにカウンターにある日本語の地図を持ち出して、夕方から賑わいを見せる川沿いのマーケットを指し、自転車で行くことを勧めてくれた。

 泰三はまだ落ち着かない様子だったが、とにかくゲストハウスの前に止めてあった自転車に乗り、まずは市場の探検に出掛けてみようとペダルを踏み出した。周りの景色は列車から降りた時と全く同じで、陽が傾き心地よい風を顔に受けながら、泰地は現実の世界に戻れたことにほっとしてぽつりと呟いた。

 「夢にしてはリアル過ぎたなぁ‥‥‥」

 タイの正月、ソンクランの初日とあって、この小さな町でも目抜き通りへ出ると、沿道では盛大な「水掛け合戦」が始まっていた。家や店先の軒下に大きな水の入った瓶を並べて、水鉄砲のようなもので通り行く人々に手当たり次第に水を掛けていく。バケツに入った水をそのまま頭からぶっかけられている人もいる。水を掛けられた人は怒ることもなく、お返しとばかり水を掛けた人にやり返す。みんなずぶ濡れになっている。

 道路の片側一車線をほぼ塞ぐ形で、町の若者グループだろうか、ピックアップトラックの上に乗って大音量のタイのポップ音楽をかけ、大きな水タンクを積んで、そこから水をぶっ掛け合っている。ほとんどが酒に酔っているのか、荷台の上でバケツで水を被りながら派手に踊っている。狂喜乱舞とはこのことを言うのだ、と泰地は呆気に取られながらも目を細めて見ていた。

 自転車の速度を緩め、その光景を携帯カメラで撮っていく。観光客のような西洋人も交じって水の掛け合いは続いていた。突然、後ろから水の集中砲火を浴びた。

 「冷たい!なんだよ?おーい」

 あっという間にずぶ濡れになった。泰地の横に止まっているピックアップトラックの上から、数人のタイ人の子供たちから「一斉射撃」されたのだ。子供たちは大声で笑いながら泰地を指さして笑っている。

 「お兄さん、ずぶ濡れだ!はははは!」

 これが初めてのソンクランの「洗礼」だな、と泰地は諦めてびしょ濡れになったTシャツの裾を絞ると水が滴り落ちた。

 「やれやれ、これくらいにしてナイトマーケットに行ってみようか‥‥‥」

 泰地は自転車を漕いで、ゲストハウスのスタッフに教えてもらった、町の一番大きなナイトマーケットへ向かった。鉄道の駅から続く、商店やゲストハウスが並ぶ通りの突き当りに、川岸に突き出すようにナイトマーケットの屋根が軒を連ねている。向こう岸には未開のジャングルのような深い緑の森が広がっている。

 泰地は川沿いの大きな木の下に自転車を停め、夕暮れと共に活気づき始めた色とりどりの屋台に吸い込まれていった。

 タイの正月ともあって、マーケットの中はタイの伝統的なゆったりとした音楽が流れ、派手な色彩のアロハシャツを着た地元のタイ人や観光客が買い物を楽しんでいる。特に、外国人観光客向けにはタイの民芸品やシルクの衣類などが人気のようだ。お互いに電卓を叩きながら、客と店主の値引き交渉も面白い。

 常夏のタイならではの色鮮やかな果物を売る屋台、マンゴーやパパイヤ、パイナップルにバナナ、まさに南国度満点の香りが泰地の鼻をくすぐる。中でも目を引いたのはココナッツのジュースの屋台だった。泰地は迷わず注文した。椰子の木からそのまま捥ぎ取った緑の毬のような実を、上部を鉈で割ってストローを刺して飲む。実の中は無色透明の水分で、その甘酸っぱい味が乾いた喉を潤す。

 「ココナッツジュース、最高だよなぁ!」 と店主に親指を上げて「グッド!」のサインを送った。

 ナイトマーケットを歩き回るうちに、外は既に暗くなってまさに「夜市」の雰囲気が気分を盛り上げてくれる。泰地は少しお腹が空いてきたので、食べ物を探して屋台を巡った。東北料理の代表のガイヤーン、豚肉を炭火で炙ったムーヤーン、どれもこれもお腹が鳴るくらい美味しそうだ。香辛料をたっぷり使った、タイ料理の炒め物の煙が鼻を衝いて泰地は何度もくしゃみをした。

 どの屋台に腰を下ろそうかとあれこれ見て廻っていると、何とも言えない懐かしい香りが漂ってきた。ほのかに焼けた餅米の香りだ。泰地は南国タイに来て、日本の夏の夜店を歩いているような錯覚を覚えた。

「まさか、餅を焼いているのかな‥‥‥?」

 泰地は餅の香りを辿って歩いて行くと、一軒の屋台で小さな鉄板の上で餅を焼いて売っているではないか!泰地は、えっ?と声を上げた。屋台の上の看板には日本の国旗や富士山が描かれ、「大福餅―美味しい日本の味」とタイ語で書いてあり、中身の餡は黒豆や緑豆、タロイモ、クリームにイチゴやドリアンなどのタイならではの味が揃っている。焼餅の香ばしいお米の香りが日本の故郷の夜店を想い出す。

 すぐ近くで不安そうな表情で携帯電話を見つめていた店主の女性が、泰地に気づいて慌てて戻ってきた。

 「すみません、お待たせしました、大福餅はいかがですか?」 と努めて笑みを作り言った。 

 泰地は、日本にいるときは大好物だった「大福餅」がタイで売られていることに驚いたのと、少しの懐かしさが込み上げてきて、衝動的に看板の写真を指さし注文した。 

 彼女はバナナの葉で包んだ大福餅を、「はい、どうぞ」と泰地に差し出した。

 泰地は受け取りながら、 

 「ところで、どうして日本の大福餅をここで売っているのですか?」

 泰地は率直な質問をしてみた。すると彼女は早口だが訛りのないタイ語で応えた。

 「この焼餅屋は私の姉から頼まれてやっているんです。姉は、母が戦時中に日本の軍人さんに教えてもらったとかで、週末や休みの日だけこのマーケットに売りに来ます。地元の人も観光客にも人気でいつも売り切れるんですよ‥‥‥ああ、そう、日本人の観光客の人たちも「美味しい、美味しい」と言って買ってくれます。でも姉もいつまでやれるかねぇ、あまり身体も丈夫じゃないし‥‥‥」

 「そうなんですか、でもいつまでも売り続けてくださいよ、本当に美味しいです。日本の故郷を思い出します。戦時中に日本の軍人さんから教えてもらったのですか、いいですね、まさに「国際交流だ」‥‥‥」

 泰地は平和な日本に生まれて、もちろん戦争のことは何も知らない。国際交流だなんて当時はそういう言葉さえなかったのかもしれない。でもこうしてタイの人が日本の味を伝承してくれていることに泰地は嬉しくなった。

 「どんな軍人さんだったのか、気になりますね」

 「さぁ、私も姉もまだ小さかったので、何も覚えていないんですが‥‥‥」

 二人は穏やかな笑みを浮かべながら、泰地は「また買いに来ますね」と言って、彼女は「ありがとうございます!」と日本語で返した。

ナイトマーケットでのひとときを楽しんだ後、泰地はゲストハウスへ帰ろうと自転車に跨った。

 「さぁ、明日は乗馬だ、楽しみだな‥‥‥」 

 泰地は明日のクワンとの乗馬を楽しみにして、宿に戻ろうと自転車を漕ぎ始めた。

 泰地が自転車を漕ぎ始めてすぐに、マーケットの方から一人の女性が飛び出してきて、なにやら大声で叫んでいる。泰地は自転車を漕ぐのを止めて、その女性の方を見ると、彼女はさっき大福餅を買った屋台の女性だ。

 「どなたか、お医者さんはいませんか!お医者さんはいませんか!」

 泰地は一体何事かと、彼女が今度はタイ語の地方の訛りで叫んでいるのでよく聞き取れない。すると彼女がマーケットにいる観光客の外国人に向かって英語で大声で叫んだ。

 「ドクター、プリーズ!プリーズ、ドクター!」

 「ドクター???」 

 泰地は咄嗟に自転車を降りて、マーケットの前にある鉄道の線路脇に乗り捨て、彼女の元へ走った。気が動転しているのか、彼女は携帯電話を片手に、傍まで近寄ってきた泰地の両腕をぎゅっと掴んで、

 「ドクター!ドクター、プリーズ!」 と彼女の眼に涙が浮かべ、しゃがみこんで何度も懇願する。 

 泰地はまず彼女を落ち着かせようと、彼女の手を取り、

 「イッツ・オーケー、アイ・アム・ア・ドクター、私は医者です!」

とゆっくりと言って彼女を落ち着かせた。我に返った彼女は少しほっとした表情になり泰地を見上げた。

 「さっき、大福餅を買ってくれた日本人のお客さん?あなた、お医者さんですか? ああ、よかった‥‥‥私はレックです、姉が、姉が大変なんです!」 

と言ってまた携帯電話の相手に訛りの強いタイ語で何か叫んでいる。恐らく医者が見つかったというようなことを話しているのだろう。レックは続けて、

 「姉が自宅で倒れているんです、早く‥‥‥」

 また涙声になってその後の言葉が理解できない。泰地は大きく息を吸い、

 「じゃ、今からあなたの姉さんの家に行きましょう、あなたの家まで案内してください、さぁ!」 

 泰地は線路脇に乗り捨てた自転車を押しながら、レックと一緒に走り出した。走りながらレックは、ここ数日はソンクランの休みで、町にある小さな病院でも医師は休暇を取っており、専門医は不在でどうしていいか分からない、と言った。しかし、泰地はレックの姉の病状がどうなのかまだ見当が付かなかった。しかし、今ここでレックの頼みを断るわけにはいかないし、医師としての使命感から、とにかくレックの家に急ごうと息を切らせながらも町の狭い通りを走りに走った。

 町はずれの三叉路を曲がったところにレックの姉の自宅があった。自宅の裏は田んぼか畑だろうか、暗闇の中で蛙の鳴き声と虫の鳴き声しか聞こえない。家の敷地では姉が飼っているのだろうか、バーンケーウというタイ土着の、日本の柴犬を少しずんぐりとさせたような白地に茶の斑のある犬が、よそ者の進入を拒むかのように興奮して吠えまくっている。泰地は一瞬怯んで後ずさりしたが、レックが犬をなだめて、

「さぁ、こっちです」 と泰地を家の中へと導いた。

 部屋にはマリサが一人でレックの姉を見守っていた。マリサは携帯で誰かと話していたようだが、泰地の姿を見て電話を切り、すぐにレックの姉の症状を泰地に説明しだした。レックは走り疲れて息が切れて、玄関でしゃがみこんでしまった。

 「あなた、お医者さんですか?日本人ですか?早くおばさんを助けてください、お願いします!」

 マリサは初めて見る日本人の泰地に、質問と依頼を同時に言ってしまったことに戸惑ったが、

 「とにかく、お願いします、お願いします!」と連呼した。

 泰地は早速、レックの姉の病状を診た。意識が朦朧として呼吸が乱れて胸の辺りを抑えて、顔が苦痛にあえいで動かない。恐らく心筋梗塞だろう。

 泰地の専門は小児科の感染症の専門だったが、大学の専門課程で何度か心肺蘇生法の訓練をしたことがあった。人命救助の一環として大事な応急処置なのでしっかりと習得していたのだが、まさかこういう状況で実践になるとは夢にも思っていなかった。

 レックの姉は声をかけても反応がなかった。泰地はすぐに胸骨圧迫を始めた。レックを呼び、マリサの助けで姉を床に仰向けに寝かせた。泰地は手のひら重ね姉の胸部におき、体重を乗せて何度か速く押し続けた。

 「おばさん、頑張って!おばさん、おばさん!」 泰地の押す手に力が入り、息が荒くなっている。

 「戻ってきて!戻れ!戻れ!」 そして何度か人口呼吸を繰り返した。

 泰地の額に汗が噴き出して、息が切れそうになった時、

 「うぅ‥‥‥」とレックの姉は小さなうめき声を上げて意識を取り戻した。

 「ああ、よかった!ふぅ‥‥‥」と大きく息をして安堵の表情を浮かべた。

 「ああ、あなたはどなたですか?」 と彼女は短く息を吸いながら泰地の顔を見つめた。

 「私は佐藤と申します、佐藤泰地です。バンコクにある日本大使館の医師です。市場であなたの妹さんに声を掛けられてここに来ました。息を戻されて安心しました。あとは、掛かり付けの病院で診てもらいましょう」 

 泰地は穏やかにゆっくりと話した。

 「そうですか、本当にありがとう、命を助けてもらいました…‥‥サ、‥‥‥サトー?」

 レックの姉は大きく息を吸い込んで深呼吸をして、そのまますやすやと眠ってしまった……