日本製のディーゼル機関車に引かれた列車は、ノロノロ運転でバンコクの都会の喧騒の中を抜けようとしていた。踏切がある至る所では、渋滞で前方が詰まってしまって、自動車が線路内で立ち往生してしまうので、列車はその車が踏切を渡りきるまでしばし停車しなければならない。

 日本では考えられないような光景だが、タイでは通勤時間帯にはよくある光景だ。泰地はバンコク発の三等列車に乗って、歩くようなスピードで走る列車の開けっ放しの窓際に座り、バンコクの朝のラッシュ時の忙しく動く人々をぼんやりと眺めていた。

  途中駅の付近の踏切では、通過する列車を無事通過させるため、線路脇の小さな小屋のような詰所から制服を着た男が現れ、笛を持って赤い旗と緑の旗を振りながら、線路上の車を通し、列車を誘導するために緑の旗を振りながら合図を送っていた。タイ国鉄の踏切はなぜか遮断機が片方しかついていないところがほとんどで、列車がギリギリまで近づいているのに、片側の遮断機がないところから、ひっきりなしにバイクや車が横切っていく。

 交通ルールも命の補償もあったもんじゃない、と泰地は半ば呆れ気味に、「ディス・イズ・タイランド‥‥‥」と呆れた声で呟いた。

 列車は都会の喧騒を抜け、徐々に速度を上げていくと、あちこちに緑の広大な田園が広がり、牧草地には牛の群れが草を屠り、水牛が水田で水浴びをしている。畦道には背の高い椰子の木が並ぶように生えていて、バナナの畑が交互に現れる、いかにも東南アジアのイメージ通りの風景が泰地の眼を楽しませた。果てしなく続く田んぼと椰子とバナナの風景に少し飽きてきた泰地は、うとうととし始めた。

 「いいなぁ‥‥‥癒されるなぁ‥‥‥」 

 トントンと肩を叩かれ、ふと目を開けると列車は映画「戦場のかける橋」で有名になった橋の袂のカンチャナブリ駅に停車していた。

 タイの鉄道に乗ると車内アナウンスというはまずない。自分の降りる駅はしっかりと覚えておかないと乗り越してしまう。時々、車掌が車内を歩きながら次の停止駅を大声で客席に向かって知らせてくれることもあるが、この時泰地はまだ自分が降りる駅ではないとわかっていたのだが、何故か車掌が泰地の横に立っていた。

 「おい、あんた、なんか食べるか?」

 タイ国鉄の制服を着た車掌がそんなことを言うので、泰地は夢でも見ているのかと瞬きを何度かして、

 「食べるって、何をですか?」

 車掌は黙って車両の先を指さし、ご飯を食べる仕草をしてにっこりしながら隣の車両へ去って行った。

 途中の駅だがかなり大きくて賑やかな駅だ。そこに大きなバケツを二つ抱え、何故かニューヨーク・ヤンキースの帽子を来た人懐っこそうなおばさんが乗ってきた。

 「よいしょ、よいしょ、あー暑い‥‥‥ふぅ」

 大きなバケツを前の座席に置いて、腰につけたポーチに無造作に入れてあるお金を数えながら、目の前の泰地に向かって、

 「これ、美味しいガイヤーンよ、もち米と一緒に、食べる?」

 おもむろにバケツの中から交互に袋に入ったガイヤーンともち米を取り出し、泰地の前に差し出した。「ガイヤーン(ガイ=鶏 ヤーン=炙り焼き」とはタイの東北料理の代表みたいなもので、鶏肉を炭火で炙り焼いたものを甘辛いタレに漬けて食べる人気の料理だ。さらにもち米と一緒に食べると、タレの辛さが口の中で程よく中和され何とも美味しいのだ。

 ちょうど正午あたりだったので、泰地は条件反射的に受け取って代金を払った。タイの鉄道に乗ると途中の駅で時間合わせなどで長時間停車することがあるので、いわゆる「売り子」たちが車内へ入ってきて、乗客に物品を販売するのだ。弁当や飲み物、ビール、海沿いを走る列車なら水着や浮き輪、山を走る路線なら麦藁帽子などなど、停車中の車内はにわかミニ・ショッピングセンターと化すのである。

 泰地はガイヤーンにもち米を食べながら、そしてシンハビールをクーラーボックスに入れて売りに来た屈強な親父から一缶買った。程なく機関車の汽笛の合図で、売り子たちは慌てて煙のように降りて行き、車内に多くいた観光客も一斉に降りて行った。

 列車はカンチャナブリ駅を出るとすぐにクウェー河鉄橋を渡った。そして川に沿って岩壁すれすれに木を組んで造られた「タムクラセー桟道橋」を岩山に張り付くように、歩くような速さでそろりそろりと走る。列車のレールが軋む音が恐ろしく甲高く響き、右側の窓から手を伸ばすと確実に岩に当たるだろう。

 ここはかつて、第二次世界大戦中に旧日本軍がタイとミャンマーを結ぶために建設したもので、多くの戦争捕虜や労働者が過酷な条件下で働かされた結果、多数の犠牲者を出した。彼らの苦難を思うと現在のこの平和な風景が嘘のように思えた。泰地はカメラを取り出し、泰緬鉄道の悲惨な歴史について思いを馳せながら、眼下に広がるクウェー河の景色を写真に収めた。

  静けさを取り戻した車内はまた同じような、延々と続く平坦な緑とサトウキビとトウモロコシ畑が続く景色を車窓に映しながら、車両の「カシャン、カシャン」という軽いリズムが泰地には心地良かった。

 列車が目的地の駅に到着すると、自然豊かな観光地とあって、さすがに駅前は賑やかだった。改札もなく切符を回収する駅員も居ないのはタイ鉄道らしいところで、古い駅舎を一歩出たところで「サーム・ロー(サーム=3・ロー=車輪)」と呼ばれる三輪自転車タクシーが数台並んでいる。

 サーム・ローは自転車の後部が人力車のように客席になっていて、日よけか雨除けの幌がついている。座席は小柄なタイ人ならば二人は余裕で乗れそうだが、屈強な男なら一人しか乗れないだろうが、体重次第で運転手の脚力次第ってことになる。東南アジアの国でも呼び名は違うが、現在でも現役で庶民の脚となっている三輪車タクシーなのだ。

 バンコクのような都会ではもう少なくなってしまい、エンジン付きの三輪タクシーの「トゥクトゥク」が活躍しているが、こういう地方の田舎町でエンジンのない、昔ながらの人力タクシーというのも泰地には新鮮に映った。

 駅前に並んだサーム・ロー運転手のタイ人が、駅舎から出てくる乗客を待ち構えていたかのように、

 「おーい、お兄さん、こっちだ、こっち、乗っていけよ!」 手当たり次第に声をかけてくる。

泰地に向かってそのうちの一人が、

 「おい、あんた日本人だろ?鉄橋、鉄橋」 

と先ほど通過してきた有名なクウェー河鉄橋まで連れて行こうとする強者運転手もいた。

 泰地はいちいち返答するのが面倒くさいので、事前に予約していた、駅前の大きな通りの向かいにあるゲストハウスへ歩き始めた。

 ゲストハウスの狭いロビーには、同じ列車から降りて来たであろう数名の外国人の宿泊客がいて、色んな言語が飛び交っている。しかしゲストハウスの受付のタイ人の女性は、タイ語訛りのブロークン英語で、てきぱきとチェックインを済ませていく。外国人の旅行者の扱いには慣れているのだろう、受付カウンターの板の上に貼られたゲストハウスの案内をすらすらと英語で説明していく。

 泰地がチェックインすると、彼女はこれまたブロークンだが泰地には日本語で話してきた。

 「あなた、日本人ね、これホテル案内です‥‥」 

 泰地は彼女がなぜ自分を見て日本人だと分かったのか、少し驚いたが、それだけこの地を訪れる日本人観光客が多いのだろうと合点がいった。彼女は泰地のパスポートを預かりコピーを取って丁寧に手渡しながら、

 「私、日本大好きです、まだ行ったことない、行きたいです‥‥‥日本人、かっこいい」 と言った。

 「そ、そうなんですか、ありがとうございます。日本はいい国です、是非訪れてくださいね‥‥‥」

 泰地は彼女の一言が嬉しくて誇らしかった。しかし、周囲の外国人には、二人の日本語の僅かな会話が分かるわけでもなく一人で照れ笑いした。

 近年の日本ブームでタイ人の中でも日本へ旅行に行く人が増えた。一昔前なら、日本と言えば日本ブランドの自動車、家電、寿司などの日本料理などが日本のイメージで、高品質だが高価な盤石な人気があった。ただ、物質的な日本という人気は根強かったが、タイ人には日本人は勤勉で、真面目で、恥ずかしがり屋とみられているので、目立たない「日本人」や「日本文化」への関心はタイ人には薄かった。

 しかし、近年では日本への渡航査証が一部免除になり、タイ人の日本旅行ブームが起きて、日本を訪れたタイ人たちがSNSを通じて、日本の景色の良さや、日本人の親切さ、本場の日本料理や日本文化に触れて、感銘を受けたことなど、若者を中心に日本ブームが広がってきた。この彼女もそうしたSNSを見聞きして、日本に憧れを抱いた一人なのだろう。

 部屋の鍵を受け取って、続けて彼女に自転車のレンタルを申し込んだ。彼女はすぐに係に指示をして自転車の鍵を泰地に渡した。

 「ハヴァ・ナイス・デー!」 と彼女は満面の笑顔で小さく手を振ってくれた。

 部屋と自転車の鍵を受け取った泰地は、一旦荷物を降ろそうと部屋に向かった。通路から木の階段を少し上がったところに部屋の入口がある。部屋はタイの伝統的な高床式のデザインになっている。気候や文化、生活様式に適応するための独特のスタイルだ。床下は吹き抜けになっていて、大きな木製の窓が開放感を感じさせる。高級リゾートの部屋でもなく殺風景だが、古い写真で見たタイの伝統家屋に入ったかのように、ヒンヤリとした板張りの床が心地よく、泰地は部屋のクーラーをつけずに天井扇を回してベッドに大の字に寝転がった。


 泰地は不思議な夢を見ていた。借りた自転車の鍵と携帯を握ったまま、ベッドの上で鉄道の旅疲れか、うとうとしてしまったようだ。

 誰かが部屋をノックするので、目を擦りながらドアを開けるとそこには、戦争中の日本の軍人のような軍服を着た若い兵士が二人立っていた。泰地はなぜこんな格好をした日本人の人がいるのだろう?といぶかし気に、色褪せた開襟シャツに軍帽を被っている二人を交互に見た。そのうちの一人が敬礼をし、

 「佐藤軍医殿でありますか?お迎えに参ったであります、こちらへ!」と言った。

 泰地は恐らくゲストハウスに宿泊している客に向けての歓迎仮装パーティーか何かと思い、

 「はぁ‥‥‥僕、佐藤ですが、え?何か始まるのですか?」 ととぼけた声で訊いた。

 するともう一人の兵士がまた敬礼をして、

 「上官殿がお呼びであります!緊急事態であります、さぁ!」 

と何故か昔の日本の兵隊のような話し方をするので、泰地は少し可笑しくなって、

 「あのぉ、ひょっとして戦争ごっことかのお誘いですか?」 

と頓珍漢なことを訊いたが、内心ロビーで面白いことでもやっているのかなと思い、その二人の兵士が履いた擦り切れた軍靴できりっと踵を返し歩き出したのにつられて、自分もドアを閉めて二人の後についていった。

 泰地は自分の目の前の異様な光景に戸惑った。彼はゲストハウスから歩いてすぐの駅に到着したはずだったが、そこはまるで時代が遡ったかのような場所だった。

 「佐藤軍医殿」と呼ばれた泰地は、兵士の恰好をした二人に揶揄われたのかと思いたかったが、その景色はあまりにもリアルだった。舗装されていたはずの通りは赤土の砂利道で、椰子の葉で編まれた日よけの下にいる兵士たちや、駅には蒸気を吐き出す日本の蒸気機関車のC56型機関車が停車しており、あたりはまるで映画のセットのように見えたが、どこにもカメラやスタッフの姿はなかった。

 「ここは一体どこなんだ……」 と泰地は再び呟いた。

彼は茫然と立ち尽くしていたが、やがて二人の兵士に案内されて、駅の待合所のような日よけの下に座っている軍服姿の男の前に案内された。

 「佐藤軍医殿をお連れしました!」 兵士たちは敬礼をし、その場を離れた。

 軍服姿の男はゆっくりと泰地を見上げ、その鋭い目にはどこか懐かしさが混じっていた。

 「佐藤軍医、よく来てくれた。私たちの部隊が君の助けを必要としているのだ」

 泰地はその言葉にさらに驚いて、

 「えぇ……ここは一体どこですか?これは何かの映画の撮影でしょうか?」

 軍服の男は顔を歪め泰地を睨んだ。肩章の三つの星が付いているのは軍部の上層部の人物に違いない。泰地は小さい頃から戦争映画好きの父、泰男の影響で映画のシーンで見たことある。

 「君は何を言っておるのか! 我々は現在、この南方戦線で苦境に立たされている。君はここで多くの兵士たちを救うために派遣されたのだ」

 泰地は信じられない思いでその言葉を聞いた。彼はいつの間にかタイムトリップをして、戦争の真只中にいるのだろうか。しかし、現実の耳と身体に伝わる感覚はどこまでもリアルだった。

 「佐藤軍医、時間がない。すぐに前線に赴き彼らの治療を始めなければならない。ここに来た理由を考える暇はない。私たちには君の医師としての協力が必要だ‥‥‥」

 泰地はその言葉にうなずくしかなかった。自分がなぜここにいるのか、どうしてこんな状況に陥ったのかは分からないが、今は前線にいる病人たちを助けることを必要とされているのだ。

 泰地は衛生兵から渡された、革製の赤十字章が縫いこまれた軍医携帯嚢を右肩から左脇に吊下げ、帯革で腰に固定した。同時に泰地が今着ている服が軍服であることに気づいた。先ほどまで、アメリカの有名スポーツブランドのTシャツに短パン、サンダルを履いていたはずだったが、何故か深緑色の軍服を着て、白い開襟シャツに騎兵の長靴を履いている。

 泰地は用意された軍用ジープに乗り込むと、車はガタガタと音を立てながら赤土の泥道を走り出した。

 「これは絶対に夢だ……」 

 泰地は自分にそう言い聞かせたが、周囲はまるで現実世界のように乾いた空気が肌に当たる。ジープが進む道端には兵士たちが忙しなく動き回り、げっそりと痩せた生気のない西洋人や日本人の兵隊、タイ人の労働者と思わしき病人たちが担架で運ばれている光景が広がっていた。

 「佐藤軍医殿、到着であります」 

運転していた兵士が声をかけ、ジープは小さな野戦病院の前で止まった。周囲には仮設のテントや簡易的な手術台が並んでおり、多くの病人が身体のあちこちに包帯を巻いて治療を待っていた。泰地はジープから降り、深呼吸をして気を引き締めた。

 「何が何だが分からないけど、やるしかない……」 

 野戦病院の外にまでテントが並べられて、泰地はその一つに入った。そこはまさに地獄絵のように、負傷者たちの苦痛の叫びが響き渡り、噎せ返るような腐臭が立ち込めていた。何度も自分に「これは夢だ」と言い聞かせたが、すべてがあまりに生々しい。恐らく近くに建設中の鉄橋が連合軍に爆撃されたのであろう、ほとんどが日本の兵士だった。頭から血を流す者、眼帯を巻いて地面に横たわる者、脚を切断している者、見るに堪えない情景だ。

 泰地はまた敷地の奥にあるテントを覗いた。そこには更なる惨状が目に飛び込んできた。連合国軍の捕虜たちであろう、西洋人たちが竹で作られた筵に寝かされている。誰もが全身の骨が剥き出しになったように痩せこけ、眼球だけが大きく宙を見つめている。

 ジャングルの中での熱帯の過酷な気候と劣悪な労働環境のために、熱帯特有の風土病である、マラリアやコレラの伝染病に感染している。泰地は携帯嚢の中身を確認したが、これらの伝染病を防ぎ治療する薬も術も持ち合わせていないことに絶望感を感じた。

 突然、強烈な閃光が視界を覆った。その瞬間、耳をつんざくような爆発音が響き渡り、泰地の身体は宙に浮いたかのように感じた。近くで空襲警報のようなサイレンがけたたましく鳴り響いている。そして、次の瞬間、彼は自分のベッドの上にいた。汗びっしょりで目を覚まし、激しく息を切らしている。部屋の静けさと心地よい布団の感触が、ここが現実であることを思い出させた。

 「夢だったのか……ふぅ」 


 額の汗を拭いながら呟いた。夢の中で感じた使命感と恐怖がまだ心に残っていたが、それが現実でなかったことにほっとする自分がいた。手に持ったまま眠ってしまったのだろう、手の中の携帯電話のバイブレーションが震えている。クワンからだった。

 「もう着きましたか?長旅お疲れさまでした‥‥‥明日、楽しみにしています」 

と短いメッセージだった。

 不思議な夢を見たせいか、頭がまだぼぉーっとしている。ずいぶんと長い夢のような気がしたが、窓の外はまだ明るい。泰地はこの不思議な夢の記憶が消えないだろうかと冷たいシャワーを浴びに行った……