週明けの館内会議での発表を無事終えた泰地は、一人で大使館内にある職員用の食堂でそそくさと昼食を済ませ、週末にクワンと出会った例のカフェに速足で歩いていった。

 都会のオアシスとはよく言ったもので、灼熱の南国の太陽が照り付け、車の渋滞で息が詰まりそうな通りからカフェのドアを開けて一歩入ると、空調がこれでもかというくらいに効いている。カウンターの前で額の汗を手で拭いながら広い店内を見渡した。店員も一緒に泰地の目の方向を追って指を差した。

 「あちらの席が空いています、ご注文は何にされますか?」

 この界隈では人気のあるカフェだが、席が空いていないと踵を返して帰ってしまう客も多いので、スタッフは客のために空席を探すようにしている。今日は昼食時とあって、幸い少し空席があったのだが、泰地はむしろそこにクワンの姿がなかったことが残念でならない。

 「今日は来ないのかな…」 

 独り言のように呟いて踵を返すとその時、後ろに並んできたクワンとぶつかりそうになった。

 「あ、ごめんなさい!」

 咄嗟に泰地は日本語でそう言って頭を下げた。

  「あら、またあなた!」

  「ああ、すみません、いや、またお会いしましたね」

 と顔を上げて泰地は、偶然ここでまた出会ったような言い方をした。

 「あなたもよく来るのですね、私もこのカフェの雰囲気が好きなのよ」

 そう言ってカウンターへ進みいつもの抹茶ラテを注文した。先ほどの店員が泰地をにやりと見て、先ほどの空席を指差し、ピースサインのように二本上げて、お二人ならあそこです、というように無言でエールを送っているように見える。クワンはこの日一人でやってきた。急ぎの仕事があるのだろうか、抹茶ラテを受け取ると店を出ようとした。

 「よかったらあの席にご一緒しませんか?先日の旅の話もお訊ねしたいので…」

 泰地は何年振りかの女性への誘いの言葉を発した。日本語ではなかなか言えないような台詞も英語にすると意外とストレートに言えたりする。クワンに断られさっさと店を出ていくかと少し不安になった。

 「あなたも旅が好きなんですね、じゃ、あそこに座りましょうか?」 と気さくな調子で返事をした。先ほどの店員は慌てて泰地に向けていたピースサインを下して、「どうぞ」という手振りで案内した。そう言ってクワンは広い店内をすたすたと歩いてテーブルに着いて抹茶ラテをポンと置いて、

 「来月のソンクランの連休に旅行に出かけようと思ってるの‥‥‥」

 「ソンクランかぁ…」 

 タイには4月の中旬にソンクランというタイの暦の正月がある。日本で言う正月三が日にあたり、タイ国民にとっては重要な正月になるのだが、実際タイ人は西暦の1月の新年も祝い、タイには華僑と呼ばれる中国系のタイ人も多く、春節と呼ばれる旧暦の中国正月も祝ってしまう、年に三度の『正月』を体験できるのである。

 故にタイに住んでいると、タイ人からは年に三度の「ハッピーニューイヤー」のお祝いメッセージを受け取ることになる。

 タイの正月のソンクランは日本のゴールデンウィークのような大型連休になり、タイ全土が正月気分に浸り、また『水かけ祭り』として世界的に有名な水を掛け合う一大イベントの期間でもある。元々は新年を家族親戚でお祝いしたり、お寺へ詣で仏像へ水を掛けお清めをしたりする期間であったが、現在では海外のメディアなどでは水の掛け合いをする「水かけ祭り」と紹介されてしまい、海外からの旅行者が集まる通りなどでは、水の掛け合いに大砲のような水鉄砲や水タンクを背負いながら見ず知らずの人に水を撃ちまくる輩もいる。

 クワンは有名ブランドのバッグから例の旅雑誌を取り出して、パラパラとページをめくりながら抹茶ラテのストローを咥えて飲み始めた。泰地は慌てていたので飲み物を注文していなかった。店員がテーブルを通りかかったので慌ててアイスコーヒーを注文した。

 タイへ赴任してからずっと仕事に明け暮れてしまい、タイ人の友達の一人もいなかった泰地だが、まるでクワンとは以前からの友人との会話のように、旅雑誌を見ながら色んな場所について語り合った。

 「その旅雑誌に載っているカンチャナブリのことをお訊ねしたくて…」

 泰地はカンチャナブリという場所が少し気になっていた。

 「ああ、ここですね…」 

 クワンは泰地の言葉を遮るように写真のページを開けて、今度はゆっくりと泰地に向けて見せて、まるで観光ガイドのような口調で詳しく説明を始めた。それもそのはずでカンチャナブリはクワンの生まれ故郷で、実家の両親に会うために毎年ソンクランの時期には帰省しているとのことだった。

 「この辺りにはいくつかキャンプ場があって、近くの滝で泳いだり、川でラフティングやカヌーを楽しめるのよ。それに奇岩の山が多く、景色が素晴らしいの」

 説明を聞きながら、写真とクワンの顔を交互に眺めながら、泰地は一枚の写真に目が留まった。

 「鉄道が岩肌を走っていますね、有名なアルヒル桟道橋ですか、いい写真ですね」

 泰地は大の鉄道ファンなのだ。大人になってからも飛行機よりも鉄道の旅を選ぶほどで、学生時代の卒業旅行ではオーストラリア横断鉄道に乗って、東海岸の首都シドニーから西海岸の都市パースまで、三泊四日を列車に乗って旅をするくらい鉄道への憧れが強い。

 「アルヒル桟道橋」といえば、クウェー河の支流に沿って岩壁すれすれに造られた、全長300メートルほどの木造の橋のことだ。第二次世界大戦末期に造られた泰緬鉄道の一部で現在ではカンチャナブリ随一の観光名所となっていて、鉄道ファンや旅好きの撮影スポットとなっている。タイにいる間に一度は乗車してみたいと思っていた。

 「泰緬鉄道と言って、古い映画の舞台になった鉄橋があって、ミャンマーの方に続いているの。途中には滝があったり、トレッキングや川沿いにキャンプ場があるのよ」

 それだけ言って鉄道にはあまり興味のなかったクワンはまた次の写真を見せた。

 「ここで馬に乗るのよ!」 

 人間の背丈ほどのサトウキビ畑が広がる広い場所で、岩肌が剝き出しになった小高い山に囲まれた、まるで西部劇に出てきそうな景色を馬に乗って駈けているタイ人の男女のモデルの写真を見せた。

 「キミ、馬に乗れるんだ?」

 興味津々な顔つきで泰地はクワンに尋ねた。

 「乗れるわよ、あなたは?」

 クワンのテンポのいい問いに泰地は少し怯んだが、息を整えながら自分も乗馬は好きだと答えた。旅の話が馬の話に発展していき、お互い馬が好きで乗馬が趣味という共通の話題で盛り上がって来た時、

 「じゃぁ、話は早いね。いつ行きますか?」

 泰地の心がまるで商店街の福引の一等賞の鐘のように鳴り響き、運ばれてきたアイスコーヒーを半分ほど一息で飲んでしまった。クワンが本気なのか冗談なのか分からず、即答ができず返答に戸惑っていると、

 「じゃぁ、現地で落ち合いましょう、LINEを交換しましょうよ」

 そう言ってクワンは携帯をいじりながら、現地の乗馬クラブの位置を送ってきた。「初めまして」というタイ語で書かれた馬のイラストも一緒に送ってきた。現地で落ち合う日はソンクラン祭りの連休の初日であった。

 商談成立とばかりにっこり笑ったクワンは仕事に戻ると言い、すっくと席を立って、愛らしい八重歯を見せて少し微笑みながら店を出て行った。泰地はなんだか心が拍子を打つように感じ、ほとんど氷しか残っていないアイスコーヒーを一気に飲み干して仕事に戻ろうと店を出た。昼間の太陽がいつの間にか姿を消して、どす黒い雲が都会の汚れた空をさらに暗くして雷鳴が遠くで響いた‥‥‥