クワンと泰地は自然豊かな冒険の中で、恋の始まりを実感し、短くも長い休日を終え大都会バンコクの忙しい生活に戻っていった。泰三はクワンとの出会いによって、タイでの日々の生活に新しい刺激をもたらした。クワンも以前にもまして仕事に明け暮れる毎日だったが、泰三との絆を深めながら、心の自由を感じる日々を送っていた。
週末にはバンコク都内の洒落たカフェや流行のレストランでのデートを楽しみ、ショッピングモールでの買い物など、都会生活を二人で満喫した。しかし、都会での忙しい仕事の毎日や、街の喧騒や人混みに、お互いに疲れを感じるようになっていった。
「どう?仕事は順調?」とクワンはいつもの抹茶ラテを啜りながら訊いた。
「うん、まぁ、忙しいけどそれなりに‥‥‥キミの方は?」
「こちらもプロジェクトが山積みで毎日資料ばかり作ってるわ…‥‥ほんと疲れるわ」
二人はよく、昼休みに職場の近くにあるカフェで、忙しい仕事の悩みやストレスをお互いに話し癒し合っていた。しかし、クワンは田舎の自然の中で泰地と過ごした、楽しかった日々が頭から離れず、そして病状が芳しくない母親の心配もあり、いつも会話の最後には、
「ねぇ、今度いつ乗馬に行く?この週末はどう?」とクワンの方から誘いがすることが多くなった。
あの一件以来、彼女は週末には極力時間を取って、一人で田舎の実家の母親を訪ねることにしていた。もちろん、泰地も誘い、一緒に乗馬を楽しむこともその目的の一つでもあったが、近頃の泰地の方は週末でさえも出勤して、溜まった仕事をこなす日が多くなっていた。
クワンは伝統的なタイ文化を大切にしており、家族との絆や伝統行事を大事にしていた。実家の母親を定期健診に連れて行ったり、親戚の祝い事や友人の結婚式には必ずと言っていいほど帰省していた。
現代の日本社会は核家族化が定着し両親と離れて住み、親類縁者の祝い事などには積極的に参加しなくなってきたが、タイでは今でも家族や親類、友人との絆を重んじる習慣が今でも残っている。
週末を母親と過ごそうとするクワンに誘われるのが、最近の泰地には少し億劫に感じることもあった。休みの日は、日ごろの仕事の疲れを癒し、クワンと二人の時間にしたかった泰地は、彼女とのライフスタイルの価値観の違いを感じるようになった。
ある週末の前に、クワンが母親の定期健診の日に合わせ実家に帰るため、泰地を乗馬に行こうと誘ったが、彼が仕事で行けないと言ったことで少し口論が起きた。
「泰地、あなたとの時間はもちろんのことだけど、家族との時間は大切なのよ。どうしていつも仕事を優先するの?」クワンが不満を漏らした。
「僕も君と君の家族も大切だけど、今のプロジェクトは大事な仕事なんだ、休むわけにはいかない、ごめん……」
泰地が少し疲れた声で答えた。
泰地は異国での任務への責任感と、多忙な仕事のプレッシャーに疲れを感じ始めていた。
家族やプライベートよりも仕事を優先しがちな、日本人の、個人より集団の利益を重視し、自己犠牲を厭わない旧態依然とした文化は、時に海外の人からは異質なものとして見られることもあり、ここタイにおいても日本人の仕事に対する考え方は、あまり歓迎されてはいなかった。しかし、そうした日本人の勤勉さや仕事に対する責任感については、タイ人からは畏敬の念を抱かれているのは確かだが…。
泰地自身もタイ人と働くことによって、日本人の働き方に違和感をもつようになっていた。
仕事仲間の日本人同士が集まり日本語を話し、日本料理を食べ、日本語のテレビやニュースを見る。週末は仕事の付き合いとしてゴルフに行くのがほとんどで、せっかくの海外生活の機会だというのに、日本にいるのと同じ環境でしか生きられない日本人たちに半ば辟易していた。
逆に泰地はタイ語を学び、タイ人の仕事仲間と積極的にタイ語でコミュニケーションを取るのが楽しくて、そしてタイ料理を好んだ。周りの日本人スタッフからは、「佐藤はタイにはまった、タイ人化してるよな…」などと揶揄われたが、泰地はまったく意に介せず、週末はゴルフよりクワンと過ごし、大好きな乗馬を楽しむことで日々のタイ生活を満喫していた。
そんな泰地にも本国政府からの指示や指令については抗う事もできず、週末を犠牲にしてでも勤めに服することに矛盾を感じるようになってきた。
「また仕事なの?」
クワンは不満げに声を荒げた。
その翌週くらいは泰地も時間を取って、クワンとの自然の中での二人だけの時間を楽しもうと考えていたが、またしても急な仕事の用件で行けなくなったことがあった。次第に二人の間には、些細なことからも摩擦が生じるようになっていった。
「急ぎの仕事の案件が入ったんだ。仕方がないんだ、本当にごめん‥‥‥」
泰地は言い訳がましく謝るしかなかった。
「ほんと、いつも仕事、仕事って、私と一緒に過ごすより仕事が最優先なのね?」
クワンも少しいじけて言い返すが、クワン自身、泰地と出会うまでは仕事に没頭する毎日で、実家の母のことよりも仕事を優先して都会での生活を送ってきた過去がある。実際、今も平日は休む暇もないほど仕事の量が増えたが、せめて週末だけでも仕事と都会を離れ、泰地と二人で自然の中でのんびりと身体を癒したいと思っていた。
そんな中、泰地は本国からの異動の知らせを受け取っていた。彼にとっては昇進のチャンスとなる、欧州の国際医療機関での医療研究チームの一員として選ばれ、長期の出張となることが決まった。これは彼のキャリアにとって重要な機会であったが、泰地自身、嬉しく思う反面、ようやく慣れてきたタイでの生活と、それ以上にクワンと離れて暮らすことになるのが一抹の不安だった。
「クワン、君に話があるんだ。僕、欧州に長期出張することになったんだ‥‥‥」
泰地は、クワンと束の間の時間を過ごす、冷房がよく効いたカフェでアイスコーヒーを一口飲み干して、ぽつりと言った。クワンは泰地の眼を見つめながら、抹茶ラテを持つ手が微かに震えた。
「これは僕のキャリアにとって大きなチャンスなんだ」
泰地は慎重に言葉を選び続けた。
「え?欧州に?どれくらいの期間なの?」
クワンは驚いた表情で聞き返した。
「少なくとも一年は向こうにいることになる‥‥‥」
泰地は答えた。
「え、一年も?…それって、私たちの関係はどうなるの?」クワンは不安そうに尋ねた。
「クワン、一年なんてあっという間さ、それに頻繁に連絡を取り合えばどうってことないさ‥‥‥」
泰地は彼女を励ますように、そして自分さえ納得させるような言い方をしたが、クワンは無言のまま俯いていた。
そして、このミッションがやがて非情な使命となることを二人は知る由もなかった。
数週間後、泰地がタイを離れる日がやってきた。クワンは泰地と空港の出発ロビーで、搭乗前の一時を外国人で賑わう日本食レストランで過ごしていた。
「ついに出発ね‥‥‥淋しくなるわ」と泰地の手を握って小さい声で言った。
「すぐに戻ってくるさ、着いたらメールするから…‥‥」
泰地は力の無い声で言い、クワンの柔らかい白い手を握り返した。
「じゃぁ、一日一回はお互いの顔を見て話すことにしましょ、いいわね?これは命令よ!」
クワンはニコリと敬礼をする仕草をした。
「承知いたしました!」と泰地もゆっくりと敬礼をし、二人は声を出して笑った。
出発ゲートの前で泰地はクワンをしっかりと抱きしめ、彼女の細く長い髪に軽くキスをした。
「愛してる…待ってるわ」とクワンが潤んだ目で囁いた。
泰地も「僕も君を愛してる、必ず帰ってくるよ‥‥‥」
そう応えてクワンの手を握り、もう一度短いキスをしてゲートへ歩き出した。彼の後ろ姿が消えていくまで、彼女はずっとその場に立ち尽くしていた。
数週間が過ぎ、泰地からの連絡が途絶え始めた。時差もあって、二人の会話はぎこちなくなり、SNSのメッセージさえも短いもので、文字の会話にさえならない日々が続いた。クワンは孤独と不安に苛まれたが、次第に泰地との距離が遠くなり、心が重く感じるようになった。
「どうしてこんなに遠く感じるのかしら…」
一人残ったオフィスの机に肘をつき独り言のように呟いた。ちょうど帰り支度をしていた同僚のトーイが心配そうに声をかけてきた。
「クワン、大丈夫?最近元気がないみたいだけど……」
クワンは泰地に対する心のモヤモヤを打ち明けた。
「泰地のことが心配なの。遠くにいるし、忙しそうで連絡もあまり取れないから…」
トーイはいつもの剽軽な笑顔を見せて、
「だったら行っちゃいなさいよ、泰地のいるところへ!有給休暇はまだあるんでしょ?」と肩を叩いて励ました。
クワンはその言葉にハッとし、携帯を取り出しすぐに短いメッセージを泰地に送った。
「会いたい…だから会いに行くね」
その夜、彼女は泰地からの返事を待ちながら眠りについたが、朝が来ても返事はなかった。
その頃、泰地は日本政府を代表する医療救援チームの一員として、欧州での任務をスタートさせたが、ある日、本部から域内の紛争地域への派遣を命じられた。彼にとってこの任務は彼の医療従事者としてのキャリアにおいて、大きなチャンスとなる一方で命の危険を伴うことは容易に想像できた。
泰地は悩んだ末、クワンに知らせることを決意した。
「連絡が遅れてごめん、僕は大丈夫だよ、それとね…」
泰地は続けて打とうとしたメッセージを消した。
クワンが心配するのが怖くて、敢えてこの危険な任務のことは伝えたくはなかった。
泰地が派遣された欧州の紛争地域は、世界的な国際紛争に発展しており、連日のように爆撃が繰り返され、緊張感が張り詰めた危険な場所だった。彼と救援チームは昼夜を問わず、砲弾や銃撃で負傷者し救助された地域の一般市民の治療に追われていた。ただ、泰地の救援チームは戦闘地区の前線からは遠く離れていた為、戦禍に巻き込まれることはないと思われていた。
しかし、次から次へと大人から幼い子供、そして前線で重傷を負った兵士が運ばれてくる。汗と血が入り混じった市街地の病院の中で、泰地は医師としての責任感と、命の危険に晒される恐怖との狭間で必死に奮闘していた。
泰地が派遣されて数日後のある日、紛争国間に停戦協定が結ばれ救援活動が一段落し、泰地は負傷者たちの身元確認や病状のリストを作成し終えて、ふと息をついた瞬間、遠くから地響きのような轟音が聞こえた。
次の瞬間、激しい振動と共に大地が揺れ、警報が鳴り響いた。
「爆撃だ!みんな床に伏せろ!」
医療チームの指揮官の叫び声が響くと同時に、周囲の人々はパニックに陥った。停戦協定が結ばれたはずの市街地の病院の前に爆弾が落とされたのだ。続いて音速の戦闘機が轟音と共に過ぎ去った後に、病院の建物の天井が大きな音と建てて、雪崩のように崩れ落ちてきた。突然の爆撃でその場にいた医師や看護師、ベッドにいる負傷者たちも大パニックになった。崩れ落ちたコンクリートの瓦礫に足を挟まれた女性看護師に、泰地は急いで駆け寄った。
「大丈夫、すぐ助けるから!」
声を掛け必死に瓦礫を取り除き始めた。
その時、第二波の爆撃が至近距離で炸裂した。
凄まじい爆風が襲いかかり、泰地の体はまるで映画のスローモーションのように宙を舞った。床に叩きつけられた彼は、体中に鋭い衝撃と激痛を感じた。耳鳴りが止まず、視界はぼやけ、周囲の音は遠のいていく。血が流れる感覚と共に、彼の意識は次第に薄れていった。
倒れた込んだ泰地の脳裏に、突然、クワンの笑顔が浮かんだ。彼女の笑顔、彼女の声、彼女の温もり…それが彼の意識を支えていた。
「クワン…君に会いたい…」
周囲は瓦礫に埋もれた人のうめき声と暗闇が包んでいた。
泰地は朦朧とする意識の中で夢を見ていた。
炎が上がる壊れた建物の前の道を、戦争当時の日本の軍服を着た兵士の隊列が行進してくるのが見えた。銃を肩に構え、日の丸の国旗を翳しながら、“ざっ、ざっ、ざっ”という靴音が泰地の前を通り過ぎていく。そのうちの一人が足を止めて、泰地に歩み寄り襟元をつかんで叫んだ。
「貴様!貴様は生きろ!生きて愛する人の元へ戻るんだ!」
その顔は紛れもない泰地の祖父の泰三のものだった。凛々しい軍服の袖には帝国陸軍の赤十字の腕章が巻かれている。
「お爺ちゃん?泰三お爺ちゃん?あなたですか?!」
泰地は埃で痛む目で身を起こし、しっかりと泰三の顔を見つめ、震えた声で訊ねた。
「上等、上等!愛する人を悲しませるな!」
そう言って泰三は泰地に微笑みかけ、隊列に駆け戻り立ち去って行った。泰地は咄嗟に泰三の後を追おうとして立ち上がろうとしたが、脚に負った傷の痛みで立ち上がれない。
もがき苦しむ泰三の眼の前に現れたのは、立ち込める炎と煙の中に立つ一頭の栗毛の馬だった。
頭上から聞きなれた優しい声が聞こえて来た。泰地は塵にまみれた顔を上げ、
「ど、どうしてここに?」
強い日差しに遮られ顔はよく見えないが、クワンは馬上で愛らしい白い歯を見せて、天使のような微笑で手を差し伸べている。泰地は痛みを堪えてグイっと腕を伸ばし、クワンの手を握り返した。
「さぁ、しっかり掴まって!」
その声に支えられるように、泰地は彼女の手を取ると深い闇の中へと沈んでいった。
気が付くと泰地は医療本部の病院のベッドの上にいた。
泰地はうっすらと眼を開き、窓の外の遠い景色をぼんやりと眺めていた。国連と政府間を通じて停戦協定が再度成立したが、紛争の爪痕があらゆる場所に残され、崩れた建物の残骸が積み重なり、瓦礫の山が街を覆い尽くしている。
泰地らの医療チームがいた市街地の病院は、砂埃と燃え尽きた車両が突っ込んで無残な瓦礫と化していた。遠くでまだ戦闘機のエンジン音が空を切り裂き静寂を破る。その音に怯え、負傷者たちは病院の中で低く呻き声をあげていた。
左手に温かい誰かの手に触れているような気がして、泰地はゆっくりと寝返りをうった。
「あれ、クワン、なんでここにいるの?」
「会いに来るって言ったでしょ!」
クワンは荒い息を吐いてむくれるように言い、握った泰地の手をぎゅっと力を入れた。
「いてて、これ、夢じゃないんだ、本当に来てくれたんだ!」
泰地はクワンからのメッセージを思い出した。連夜の激務で返事をするのをうっかり忘れていたのだ。クワンは泰地が負傷したという知らせを聞いた時点で、既に紛争地域へ向かう飛行機のチケットを運よく手に入れていた。
「私が行かなくちゃ、あなたを一人にはできないわ、大切な人だから…」
クワンは泰地の手を自分の頬にあて、泰地の手のぬくもり感じていた。
泰地は言葉が出なくて、愛おしいクワンの顔をただずっと見つめ続けた。
「ありがとうクワン、そしてお爺ちゃん、ありがとう‥‥‥」
(続く)
週末にはバンコク都内の洒落たカフェや流行のレストランでのデートを楽しみ、ショッピングモールでの買い物など、都会生活を二人で満喫した。しかし、都会での忙しい仕事の毎日や、街の喧騒や人混みに、お互いに疲れを感じるようになっていった。
「どう?仕事は順調?」とクワンはいつもの抹茶ラテを啜りながら訊いた。
「うん、まぁ、忙しいけどそれなりに‥‥‥キミの方は?」
「こちらもプロジェクトが山積みで毎日資料ばかり作ってるわ…‥‥ほんと疲れるわ」
二人はよく、昼休みに職場の近くにあるカフェで、忙しい仕事の悩みやストレスをお互いに話し癒し合っていた。しかし、クワンは田舎の自然の中で泰地と過ごした、楽しかった日々が頭から離れず、そして病状が芳しくない母親の心配もあり、いつも会話の最後には、
「ねぇ、今度いつ乗馬に行く?この週末はどう?」とクワンの方から誘いがすることが多くなった。
あの一件以来、彼女は週末には極力時間を取って、一人で田舎の実家の母親を訪ねることにしていた。もちろん、泰地も誘い、一緒に乗馬を楽しむこともその目的の一つでもあったが、近頃の泰地の方は週末でさえも出勤して、溜まった仕事をこなす日が多くなっていた。
クワンは伝統的なタイ文化を大切にしており、家族との絆や伝統行事を大事にしていた。実家の母親を定期健診に連れて行ったり、親戚の祝い事や友人の結婚式には必ずと言っていいほど帰省していた。
現代の日本社会は核家族化が定着し両親と離れて住み、親類縁者の祝い事などには積極的に参加しなくなってきたが、タイでは今でも家族や親類、友人との絆を重んじる習慣が今でも残っている。
週末を母親と過ごそうとするクワンに誘われるのが、最近の泰地には少し億劫に感じることもあった。休みの日は、日ごろの仕事の疲れを癒し、クワンと二人の時間にしたかった泰地は、彼女とのライフスタイルの価値観の違いを感じるようになった。
ある週末の前に、クワンが母親の定期健診の日に合わせ実家に帰るため、泰地を乗馬に行こうと誘ったが、彼が仕事で行けないと言ったことで少し口論が起きた。
「泰地、あなたとの時間はもちろんのことだけど、家族との時間は大切なのよ。どうしていつも仕事を優先するの?」クワンが不満を漏らした。
「僕も君と君の家族も大切だけど、今のプロジェクトは大事な仕事なんだ、休むわけにはいかない、ごめん……」
泰地が少し疲れた声で答えた。
泰地は異国での任務への責任感と、多忙な仕事のプレッシャーに疲れを感じ始めていた。
家族やプライベートよりも仕事を優先しがちな、日本人の、個人より集団の利益を重視し、自己犠牲を厭わない旧態依然とした文化は、時に海外の人からは異質なものとして見られることもあり、ここタイにおいても日本人の仕事に対する考え方は、あまり歓迎されてはいなかった。しかし、そうした日本人の勤勉さや仕事に対する責任感については、タイ人からは畏敬の念を抱かれているのは確かだが…。
泰地自身もタイ人と働くことによって、日本人の働き方に違和感をもつようになっていた。
仕事仲間の日本人同士が集まり日本語を話し、日本料理を食べ、日本語のテレビやニュースを見る。週末は仕事の付き合いとしてゴルフに行くのがほとんどで、せっかくの海外生活の機会だというのに、日本にいるのと同じ環境でしか生きられない日本人たちに半ば辟易していた。
逆に泰地はタイ語を学び、タイ人の仕事仲間と積極的にタイ語でコミュニケーションを取るのが楽しくて、そしてタイ料理を好んだ。周りの日本人スタッフからは、「佐藤はタイにはまった、タイ人化してるよな…」などと揶揄われたが、泰地はまったく意に介せず、週末はゴルフよりクワンと過ごし、大好きな乗馬を楽しむことで日々のタイ生活を満喫していた。
そんな泰地にも本国政府からの指示や指令については抗う事もできず、週末を犠牲にしてでも勤めに服することに矛盾を感じるようになってきた。
「また仕事なの?」
クワンは不満げに声を荒げた。
その翌週くらいは泰地も時間を取って、クワンとの自然の中での二人だけの時間を楽しもうと考えていたが、またしても急な仕事の用件で行けなくなったことがあった。次第に二人の間には、些細なことからも摩擦が生じるようになっていった。
「急ぎの仕事の案件が入ったんだ。仕方がないんだ、本当にごめん‥‥‥」
泰地は言い訳がましく謝るしかなかった。
「ほんと、いつも仕事、仕事って、私と一緒に過ごすより仕事が最優先なのね?」
クワンも少しいじけて言い返すが、クワン自身、泰地と出会うまでは仕事に没頭する毎日で、実家の母のことよりも仕事を優先して都会での生活を送ってきた過去がある。実際、今も平日は休む暇もないほど仕事の量が増えたが、せめて週末だけでも仕事と都会を離れ、泰地と二人で自然の中でのんびりと身体を癒したいと思っていた。
そんな中、泰地は本国からの異動の知らせを受け取っていた。彼にとっては昇進のチャンスとなる、欧州の国際医療機関での医療研究チームの一員として選ばれ、長期の出張となることが決まった。これは彼のキャリアにとって重要な機会であったが、泰地自身、嬉しく思う反面、ようやく慣れてきたタイでの生活と、それ以上にクワンと離れて暮らすことになるのが一抹の不安だった。
「クワン、君に話があるんだ。僕、欧州に長期出張することになったんだ‥‥‥」
泰地は、クワンと束の間の時間を過ごす、冷房がよく効いたカフェでアイスコーヒーを一口飲み干して、ぽつりと言った。クワンは泰地の眼を見つめながら、抹茶ラテを持つ手が微かに震えた。
「これは僕のキャリアにとって大きなチャンスなんだ」
泰地は慎重に言葉を選び続けた。
「え?欧州に?どれくらいの期間なの?」
クワンは驚いた表情で聞き返した。
「少なくとも一年は向こうにいることになる‥‥‥」
泰地は答えた。
「え、一年も?…それって、私たちの関係はどうなるの?」クワンは不安そうに尋ねた。
「クワン、一年なんてあっという間さ、それに頻繁に連絡を取り合えばどうってことないさ‥‥‥」
泰地は彼女を励ますように、そして自分さえ納得させるような言い方をしたが、クワンは無言のまま俯いていた。
そして、このミッションがやがて非情な使命となることを二人は知る由もなかった。
数週間後、泰地がタイを離れる日がやってきた。クワンは泰地と空港の出発ロビーで、搭乗前の一時を外国人で賑わう日本食レストランで過ごしていた。
「ついに出発ね‥‥‥淋しくなるわ」と泰地の手を握って小さい声で言った。
「すぐに戻ってくるさ、着いたらメールするから…‥‥」
泰地は力の無い声で言い、クワンの柔らかい白い手を握り返した。
「じゃぁ、一日一回はお互いの顔を見て話すことにしましょ、いいわね?これは命令よ!」
クワンはニコリと敬礼をする仕草をした。
「承知いたしました!」と泰地もゆっくりと敬礼をし、二人は声を出して笑った。
出発ゲートの前で泰地はクワンをしっかりと抱きしめ、彼女の細く長い髪に軽くキスをした。
「愛してる…待ってるわ」とクワンが潤んだ目で囁いた。
泰地も「僕も君を愛してる、必ず帰ってくるよ‥‥‥」
そう応えてクワンの手を握り、もう一度短いキスをしてゲートへ歩き出した。彼の後ろ姿が消えていくまで、彼女はずっとその場に立ち尽くしていた。
数週間が過ぎ、泰地からの連絡が途絶え始めた。時差もあって、二人の会話はぎこちなくなり、SNSのメッセージさえも短いもので、文字の会話にさえならない日々が続いた。クワンは孤独と不安に苛まれたが、次第に泰地との距離が遠くなり、心が重く感じるようになった。
「どうしてこんなに遠く感じるのかしら…」
一人残ったオフィスの机に肘をつき独り言のように呟いた。ちょうど帰り支度をしていた同僚のトーイが心配そうに声をかけてきた。
「クワン、大丈夫?最近元気がないみたいだけど……」
クワンは泰地に対する心のモヤモヤを打ち明けた。
「泰地のことが心配なの。遠くにいるし、忙しそうで連絡もあまり取れないから…」
トーイはいつもの剽軽な笑顔を見せて、
「だったら行っちゃいなさいよ、泰地のいるところへ!有給休暇はまだあるんでしょ?」と肩を叩いて励ました。
クワンはその言葉にハッとし、携帯を取り出しすぐに短いメッセージを泰地に送った。
「会いたい…だから会いに行くね」
その夜、彼女は泰地からの返事を待ちながら眠りについたが、朝が来ても返事はなかった。
その頃、泰地は日本政府を代表する医療救援チームの一員として、欧州での任務をスタートさせたが、ある日、本部から域内の紛争地域への派遣を命じられた。彼にとってこの任務は彼の医療従事者としてのキャリアにおいて、大きなチャンスとなる一方で命の危険を伴うことは容易に想像できた。
泰地は悩んだ末、クワンに知らせることを決意した。
「連絡が遅れてごめん、僕は大丈夫だよ、それとね…」
泰地は続けて打とうとしたメッセージを消した。
クワンが心配するのが怖くて、敢えてこの危険な任務のことは伝えたくはなかった。
泰地が派遣された欧州の紛争地域は、世界的な国際紛争に発展しており、連日のように爆撃が繰り返され、緊張感が張り詰めた危険な場所だった。彼と救援チームは昼夜を問わず、砲弾や銃撃で負傷者し救助された地域の一般市民の治療に追われていた。ただ、泰地の救援チームは戦闘地区の前線からは遠く離れていた為、戦禍に巻き込まれることはないと思われていた。
しかし、次から次へと大人から幼い子供、そして前線で重傷を負った兵士が運ばれてくる。汗と血が入り混じった市街地の病院の中で、泰地は医師としての責任感と、命の危険に晒される恐怖との狭間で必死に奮闘していた。
泰地が派遣されて数日後のある日、紛争国間に停戦協定が結ばれ救援活動が一段落し、泰地は負傷者たちの身元確認や病状のリストを作成し終えて、ふと息をついた瞬間、遠くから地響きのような轟音が聞こえた。
次の瞬間、激しい振動と共に大地が揺れ、警報が鳴り響いた。
「爆撃だ!みんな床に伏せろ!」
医療チームの指揮官の叫び声が響くと同時に、周囲の人々はパニックに陥った。停戦協定が結ばれたはずの市街地の病院の前に爆弾が落とされたのだ。続いて音速の戦闘機が轟音と共に過ぎ去った後に、病院の建物の天井が大きな音と建てて、雪崩のように崩れ落ちてきた。突然の爆撃でその場にいた医師や看護師、ベッドにいる負傷者たちも大パニックになった。崩れ落ちたコンクリートの瓦礫に足を挟まれた女性看護師に、泰地は急いで駆け寄った。
「大丈夫、すぐ助けるから!」
声を掛け必死に瓦礫を取り除き始めた。
その時、第二波の爆撃が至近距離で炸裂した。
凄まじい爆風が襲いかかり、泰地の体はまるで映画のスローモーションのように宙を舞った。床に叩きつけられた彼は、体中に鋭い衝撃と激痛を感じた。耳鳴りが止まず、視界はぼやけ、周囲の音は遠のいていく。血が流れる感覚と共に、彼の意識は次第に薄れていった。
倒れた込んだ泰地の脳裏に、突然、クワンの笑顔が浮かんだ。彼女の笑顔、彼女の声、彼女の温もり…それが彼の意識を支えていた。
「クワン…君に会いたい…」
周囲は瓦礫に埋もれた人のうめき声と暗闇が包んでいた。
泰地は朦朧とする意識の中で夢を見ていた。
炎が上がる壊れた建物の前の道を、戦争当時の日本の軍服を着た兵士の隊列が行進してくるのが見えた。銃を肩に構え、日の丸の国旗を翳しながら、“ざっ、ざっ、ざっ”という靴音が泰地の前を通り過ぎていく。そのうちの一人が足を止めて、泰地に歩み寄り襟元をつかんで叫んだ。
「貴様!貴様は生きろ!生きて愛する人の元へ戻るんだ!」
その顔は紛れもない泰地の祖父の泰三のものだった。凛々しい軍服の袖には帝国陸軍の赤十字の腕章が巻かれている。
「お爺ちゃん?泰三お爺ちゃん?あなたですか?!」
泰地は埃で痛む目で身を起こし、しっかりと泰三の顔を見つめ、震えた声で訊ねた。
「上等、上等!愛する人を悲しませるな!」
そう言って泰三は泰地に微笑みかけ、隊列に駆け戻り立ち去って行った。泰地は咄嗟に泰三の後を追おうとして立ち上がろうとしたが、脚に負った傷の痛みで立ち上がれない。
もがき苦しむ泰三の眼の前に現れたのは、立ち込める炎と煙の中に立つ一頭の栗毛の馬だった。
頭上から聞きなれた優しい声が聞こえて来た。泰地は塵にまみれた顔を上げ、
「ど、どうしてここに?」
強い日差しに遮られ顔はよく見えないが、クワンは馬上で愛らしい白い歯を見せて、天使のような微笑で手を差し伸べている。泰地は痛みを堪えてグイっと腕を伸ばし、クワンの手を握り返した。
「さぁ、しっかり掴まって!」
その声に支えられるように、泰地は彼女の手を取ると深い闇の中へと沈んでいった。
気が付くと泰地は医療本部の病院のベッドの上にいた。
泰地はうっすらと眼を開き、窓の外の遠い景色をぼんやりと眺めていた。国連と政府間を通じて停戦協定が再度成立したが、紛争の爪痕があらゆる場所に残され、崩れた建物の残骸が積み重なり、瓦礫の山が街を覆い尽くしている。
泰地らの医療チームがいた市街地の病院は、砂埃と燃え尽きた車両が突っ込んで無残な瓦礫と化していた。遠くでまだ戦闘機のエンジン音が空を切り裂き静寂を破る。その音に怯え、負傷者たちは病院の中で低く呻き声をあげていた。
左手に温かい誰かの手に触れているような気がして、泰地はゆっくりと寝返りをうった。
「あれ、クワン、なんでここにいるの?」
「会いに来るって言ったでしょ!」
クワンは荒い息を吐いてむくれるように言い、握った泰地の手をぎゅっと力を入れた。
「いてて、これ、夢じゃないんだ、本当に来てくれたんだ!」
泰地はクワンからのメッセージを思い出した。連夜の激務で返事をするのをうっかり忘れていたのだ。クワンは泰地が負傷したという知らせを聞いた時点で、既に紛争地域へ向かう飛行機のチケットを運よく手に入れていた。
「私が行かなくちゃ、あなたを一人にはできないわ、大切な人だから…」
クワンは泰地の手を自分の頬にあて、泰地の手のぬくもり感じていた。
泰地は言葉が出なくて、愛おしいクワンの顔をただずっと見つめ続けた。
「ありがとうクワン、そしてお爺ちゃん、ありがとう‥‥‥」
(続く)



