泰地とクワンの二人は翌日も朝から乗馬を楽しんだ。
乗馬クラブのオーナーのサンティが、冷やしたココナッツを二つ持って来て、鉈を使って上部を器用に開けてストローを差してくれた。
「今日も暑くなりそうだから、さぁ、冷えたココナッツジュースでも飲んでから行きますか?」
サンティは二人に差し出し、自分はペットボトルのコーラをぐいぐいと喉を鳴らして飲んでいる。
ココナッツジュースはミネラルを豊富で脂肪分もなく、甘酸っぱい透明な椰子の果実の液体で、冷やして飲むと非常に美味しくて、また白身の果実はジュースを飲みながら、スプーンなどで掻き落として一緒に食べると、ちょうど良いおやつにもなる。
東南アジアなどの熱帯地方では、ココナッツやバナナは地域独特の南国気分を演出してくれる食べ物だ。観光でタイを訪れた人なら必ずと言っていいほどこのココナッツジュースを飲んだことがあるだろう。
泰地はこのココナッツジュースが好物で、ココナッツという名の響きだけで南国リゾートの気分に浸ることができたし、果実のジュースだけでなく、アイスクリームや、カノムクロックという、小麦粉にココナッツミルクを混ぜて鉄板で片面だけを焼いた、たこ焼きを半分にしたような甘いお菓子が大好きだった。
泰地とクワンはココナッツジュースを飲み干し、馬装が終わって二人を待っている「シュガー」と「ラテ」にさっと跨ると、クワンが泰地に提案した。
「今日は鉄橋の見えるところまで、ジャングルの獣道を行ってみない?」
泰地は眼をパチパチさせて、
「ジャングル‥‥‥?なんだか冒険だな、行ってみよう、面白そうだね」 とにこりと頷いた。
泰地は前日サンティから、車の通らない森の小径を行けば、映画で有名な泰緬鉄道のクワイ川鉄橋を見渡せる丘まで行けるよ、と教えてもらっていた。泰地はクワンに「ジャングルの獣道?」と大げさに驚いてみせ、クワンの提案に賛成した。ただサンティから、
「行ってもいいけど、途中コブラやサソリやオオトカゲに気をつけるんだよ!」と言われたときは少し驚いた。
サンティは本気で言ったのか、それとも冗談で泰地とクワンを怖がらせようとしたのかは定かではないが、事実、東南アジアの森の中では猛毒のキングコブラや、サソリやワニかと思うくらいのオオトカゲが棲息している。ただ、人を襲うほど凶暴な生き物ではないが、森の中で出くわしたりしたら、馬の方が先に驚いてしまい、落馬の危険は考えられた。
うっそうと木が茂る森は、朝露に濡れてひんやりとしていて、聞いたこともない南国の鳥の声が鳴り響く。二人の馬の常歩の蹄の音が熱帯雨林にこだまする。低い椰子の木や、シダが群生する、まるでジュラシックパークの中を散歩しているようだ。時折、大きな木の蔓が垂れていて、ヘビと見間違え二人は大きな声を上げて笑った。
川岸の駅に到着した日本製のディーゼル機関車に引かれた観光列車が、細く長い汽笛を鳴らすのが風に乗って聞こえてきた。
二人は森を抜けて、鉄橋が見える川の上の小高い丘に出てきた。鬱蒼とした森の奥には、戦時中に使用されていたらしい、C56型蒸気機関車の残骸がひっそりと置き去りにされたように佇んでいる。ところどころ錆びて朽ち果てているが、当時の活躍ぶりが目に浮かぶ。そこは今では流行のトレイルランなどのイベントで使われていて、往年の泰緬鉄道の引き込み線の跡地になっていた。
泰地は背負ったバッグの中からカメラを取りだし、丘から眺める壮大な景色を撮り始めた。二人は馬を降り、大きな岩の上に二人で腰を下ろし、泰地はペットボトルを二本取り出し一本をクワンに差し出し、泰地はグイっと一口飲んで水を手に取って顔を濡らした。クワンは背中の小さなバッグを開けて、ピンク色のハンカチを取り出して自分も額の汗を拭った。
「そういえば、昨日お母さんが作ってくれたおやつがあるの、ここで食べない?」
クワンはバッグの中から小さな包みを取り出した。
クワンは今日もスタイリッシュな英国式の出立で、有名なブランドの白いポロシャツがよく似合う。仕事での服装もブランドの洋服を着たクワンは、まるで雑誌モデルのような乗馬スタイルで、ファッションセンスもさすがに決まっていた。そして泰地は、小さい子供が背負うような、可愛らしいクワンの赤いバッグを指さして言った。
「そのブランドのバッグ、素敵だね‥‥‥?」
クワンは泰地に言われてバッグを少し持ち上げて泰地に見せた。
「ありがとう、お気に入りのバッグなのよ‥‥‥」
その時、一枚の紙片が二人の間にすっと地面に落ちた。
クワンは母を連れて病院に行く際に、自分の携帯電話や充電バッテリーのほかに、母の保健証も一緒にバッグに入れていたのを忘れていて、包みを取り出す時に一緒に出てきたのだ。クワンは不思議そうな顔をして、腰かけていた岩の上に落ちた、色褪せた和紙のような二つに折り畳まれた紙をゆっくりと拾い、破けないように慎重に広げて、
「あれ、これ何かしら?」と声を上げた。
そこには達筆で書かれた日本語と、不格好だが確かにタイ語だと分かる文字が並んでいた。
「これって‥‥‥日本語の手紙?」
泰地は興味深げにクワンが手に持っている“手紙“らしきものを覗き込んだ。クワンはそれを泰地に渡し読んでと頼んだ。
泰地は慎重に受け取り読み始めると、次第に目が釘付けになり手が震えだした。
******
日本の敗戦が決まり、連合国軍の将校たちが、今や捕虜となった日本人兵士たちを狭い貨物車に乗せていく。着の身着のままという兵士がほとんどで、ある者は松葉杖をつき、ある者は担架に乗せられて、かつて日本軍がシンガポールで捕虜となったイギリス兵を運んできた古く錆びこけた貨車に乗せられていく。やがては日本への復員船に乗せられ日本へ帰国することになるだろう。
しかし、鉄道建設に携わった日本の首脳部の将校たちは、捕虜虐待などの罪で戦犯として捕らえられ、シンガポールでイギリス軍によるBC級戦犯裁判として裁かれることになった。
泰三は軍医であったこと、そして英語が堪能であったこともあり、今は立場が逆転したとはいえ、連合国軍の捕虜の治療に専念していたランディ軍医の薦めもあり、野戦病院に残された連合国軍の病人の治療に協力することを条件に、シンガポールへの日本軍捕虜収容所行きは暫く見送られることになった。
泰三の胸中は複雑だった。敗戦国の軍医が一人残り、連合国軍の元捕虜たちから罵声や屈辱的な言動を浴びせられ、むしろ日本の軍人らしく自決した方がいいのではないかと思ったこともあったが、泰三には大切な人がいる。そして自分は医者の使命を全うしようと、連合国軍の負傷者や病人の治療に専念していた。
しかし、日に日に連合国側の憲兵が多くやってきて、泰三は行動範囲を規制され、マリーの待つ村まで彼女に会いに行くことは許されなかった。またマリーも幾度か連合国軍の敷地内を訪れても守衛に断られて泰三に会うことはできなかった。
徐々に連合国軍の元捕虜だった病人たちも回復し、本国へ帰国するためバンコクへ移動していった。自国の軍が破壊した鉄道の線路は、タイの連合国を支援する勢力などの協力もあり急速に回復していった。
近いうちに自分もシンガポールへ送られてしまう、そしてそこで捕虜として、戦犯裁判にかけられてしまうかもしれない。そうでなくても日本国への強制送還は免れそうにない。
その前になんとしてもマリーに会いたい、マリーの住む村へ戻らなければならない、そうした思いが泰三の脳裏を横切った。自国の敗戦という屈辱的な事実よりも、愛する人に会えない、会うことも許されない不条理な現実に憤りを覚えた。
ある日、連合国軍の軍医のランディが泰三の元を訪れて話しかけてきた。
「ドクター・サトウ、気の毒だが君もシンガポールへ移送されることになった。君の此処での働きと貢献は私から上層部へ報告し、裁判では無罪になるように取り計らう。そして、日本へ戻り、君の祖国での戦争の被害者たちの治療に当たって欲しい、ただもう此処に留まることはない‥‥‥」
ランディ軍医は泰三の心情を察し、そのことだけを伝え去っていった。泰三は彼に感謝の意を伝えたものの、一方、心が引き裂かれたような衝動を覚えた。泰三の思いは日に日に強くなるばかりだった。ある日、泰三は自らの意志を固め、マリーに手紙を書くことを決意した。彼がマリーに伝えたいことは山ほどあったが、何よりも伝えたかったのは、彼女への愛と別れの言葉だった。
その夜、泰三はマリーの夢を見ていた。
大福餅を持って捕虜収容所の狭い部屋を訪ねてくるマリーの姿、そして「サクラ」に乗ってやってきた彼女は「フジ」を連れて来た。
「さぁ一緒に帰りましょう!約束でしょ?」
泰三は「フジ」の手綱を受け取り跨った。
周囲の木々は薄明かりに包まれ、やがて朝日が差し込み始めた。二人が森を抜けると、目の前には美しい富士山がそびえ立ち、桜の花びらが舞う道が広がっていた。
朝日を浴びたその風景の中、泰三とマリーは「サクラ」と「フジ」に跨りゆっくりと歩き始めた。彼らの描く世界は、愛に国境はない、言葉や文化さえも超えた世界だった。
「泰三さん、私たちの愛は永遠のものよ‥‥‥」とマリーが微笑んで言った。
二人は手を取り合い、桜舞う道をゆっくりと歩き続けた。その姿は、希望と愛の象徴として、朝日の中に溶け込んでいった。
「そうだ、マリー。私たちの愛は永遠に続く、終わることはない…だから」
泰三が続けようとしたとき、突然マリーが桜吹雪と共に消えていなくなった。
「マリー!マリー!何処に行ったんだ!」と見渡すがその声は全く声にならなかった。
気が付くと連合国の若い衛生兵が泰三の肩を揺すって起こしに来ていた。昨夜遅くまで病人の検診を行っていたせいで、気づかぬうちにテント内の竹製の簡易ベッドの上で寝てしまっていたのだ。
「ドクター・サトウ、ランディ軍医が来られました」
と告げ、ランディ軍医に敬礼をして去っていった。
「ドクター・サトウ、残念だが明日の午後、君のシンガポールへ移送が決まりました」
ランディ軍医は静かに言った。
「そうですか、ランディさん、色々とありがとう。あなたには感謝している。最後に一つ頼みを聞いていただきたい」
泰三は胸のポケットから手紙を取り出して、茶封筒に入れランディ軍医に手渡した。
「これをマリーに届けて欲しい‥‥‥最初で最後のお願いだ」
「承知した、必ず今日の午後には届けます。彼女はあなたに会いに何度も此処を訪れました。しかし、これは規律でどうしても叶わなかった。私の力不足だ、申し訳ない‥‥‥」
ランディ軍医はそう言って、マリーに手紙を届けることを約束した。
出発の朝、泰三は薄暗い収容所の中で、マリーの顔を思い浮かべ嗚咽した。この不条理な借別に心が引き裂かれる思いで天を仰いだ。午後になると泰三は他の日本兵や将校の捕虜たちと共に駅へ送られていった。
その頃、マリーはランディから受け取った手紙を握りしめ、涙を流しながら無意識に駐屯地の厩舎へ走り出していた。そこには、タイ人の若い兵士が馬装を終えたばかりの「サクラ」に飛び乗った。持っていた手綱をマリーに取られた兵士はびっくりして、
「おい、何をする!おい、待て!」
兵士は追いかけようとしたが、マリーは握った手綱を大きく左右に振って「サクラ」に強く鞭を入れた。「サクラ」はあっという間に襲歩となり、マリーは長い黒髪を靡かせながら泰三のいる場所へと疾駆のごとく走り出した。自然と溢れ出る涙が風に飛ばされていく。「サクラ」はマリーの気持ちを分かっているかのように懸命に駆けていく。
泰三は連合国軍が臨時に立てたニッパ椰子で葺いた駅舎で、シンガポール行きの貨物列車の到着を茫然と眺めていた。
“マリーは手紙を読んでくれただろうか、最後に一言だけでも交わしたい、会いたい‥‥‥”
泰三はアメリカ人の憲兵の一人に施され、他の日本人の軍人と共に一両の天井のない、以前は鉄橋建設用の木材を運んでいた貨物車に乗せられるとすぐに列車は動き出した。マリーと会えない口惜しさで張り裂けそうになる泰三の胸を、イギリス製の蒸気機関車の甲高く細い汽笛が突き刺した。
列車がゆっくりと走り出したその時、線路沿いのサトウキビ畑の向こうからマリーが馬に乗って駆けてくるのが見えた。泰三は驚きと喜びの中で手を大きく振って叫んだ。
「マリー!ここだ!私はここだ!」
マリーはサトウキビ畑を一直線に横切り、線路と平行に走ってきた。「サクラ」もテンションが上がっているのか、ブルルと鼻を鳴らしながら懸命に列車に追いつこうと、線路脇の砂利道を駆けてくる。泰三は貨車から身を乗り出し手を伸ばす。二人の手は一瞬だけ触れ合い、すぐに離れた。
「サトーさん、やっと会えたわ、手を離さないで!私を連れて行って!」
マリーは、今にも列車に飛び移りそうなくらいに、その華奢な身体を鐙に預けた。
その瞬間、泰三はマリーの手をしっかりと掴んで、彼女の手を握り締めたまま彼女に向かって叫んだ。
「私たちは必ずまた会える!待っていてほしい!」
マリーもこの永遠の別れの瞬間を悟ったのか、二人の握る手が次第に離れていく。前方に鉄橋が見え、「サクラ」は徐々にスピードを落としていった。
掴んだ手を放した瞬間、泰三はマリーの瞳に涙が光るのを見た。マリーの叫び声が風に乗って響き渡る。
「サトー!サトー!愛しています!サトー!」
マリーは遠ざかる泰三を見つめ続けた。
*****
親愛なるマリーへ、
この手紙が君の手元に届く頃には、我は既に此処を去りしやもしれぬ。君に直接会いて伝えたき事、数多くありしも、それ叶わぬ今、せめてこの手紙にて君に伝えむと思ふ。
初めて君に出会ひし日より、我が心は君に囚われたり。戦場にて君の笑顔を想ひ浮かべるたび、苦しみも和らぎたる。君の優しさと強さに惹かれしこと、感謝してやまぬ。
されど、軍人としての我には祖国日本を護る使命あり。国家を優先せざるを得ぬ身として、君との未来を約束し得ぬ現実を受け入れざるを得ず、心苦しきこと限りなし。君を愛する心変わらぬものの、その愛が君を傷つけることを避けたく存ずる。
君の未来が輝かしきものであることを、心より願ひたし。いつの日にか、平和な世界にて再び相見えん。そのときには、我が祖国日本にて馬上より富士と桜を二人で愛で、君の作りし上等な大福餅を共に味わひたし。
いずれの日にか、国や民族、言葉を越えた自由なる恋愛ができる時代にならんことを願う。君を永遠に忘れざることを誓ひ至す。以下に再度、大福餅の作り方を記しておくので忘れるべからず。
ผมรักคุณตลอดไปครับ…
佐藤泰三
*****
「佐藤泰三‥‥‥僕のお爺さんの名前だ!」 と泰地は叫んだ。
「ええっ?あなたのお爺さん?一体どういうこと?」 クワンが驚いて泰地を見た。
「僕にも分からない…‥‥『親愛なるマリーへ』 なんだこれ?」 泰地が首を傾げた。
「ちょっと待って!マリーというのは私のお婆さんの名前よ!」 クワンは興奮気味に続ける。
「ということは、あなたのお爺さんが私のお婆さんへこの手紙を書いたってこと? それを私の母が保険証に挟んで大切に持っていたってことなの?どうなってるの?」
「これ、僕のお爺さんのラブレターだよ、君のお婆さんにあてたラブレターだよ‥‥‥」
「それと‥‥‥」 泰地は更に続けた。
「大福餅のことが書いてある、そうだ、君のお母さんが作っていたあの大福餅、作り方は僕のお爺さんが伝えたんだよ‥‥‥」
泰地は落ち着いた口調で続けた。
「ここに、「上等な大福餅」って書いてある、あのスイカ畑のおじさんが言ってた「上等」、日本の軍人が教えたって、僕のお爺さんじゃないのか?」
「でも今こうして君にも僕にも両親がいて、君はタイで生まれ、僕は日本で生まれた。ということは僕のお爺さんと君のお婆さんは残念ながら結ばれることはなかったんだよ」
泰地が手紙の内容を訳して聞かせると、クワンは眼に涙を溜めていた。
「最後のところ、ほら!」
クワンが最後の一行を指さした。そこには泰三がたどたどしいタイ語で書いたと思わる一文があった。
「マリー、君を永遠に愛す」 クワンは声出してその一行を読んだ。
「当時、二人は愛し合っていたのね……でもなぜ、なぜ一緒にならなかったのかしら?」
「「ならなかった」のではなく、「なれなかった」、じゃないかな?」 泰地は何かを悟ったかのように言った。
泰地は手紙をもう一度読み返した。
丘の下に見える、観光客が写真を撮り楽しそうに歩く鉄橋を暫く眺めながら静かに言った。
「この手紙、二人の愛の証だね……」
「そうね……でも戦争が二人を引き裂いたってこと?」とクワンは目を潤ませながら答えた。
二人の間にはしばらくの沈黙が流れた。遠くに観光客を乗せた、バンコクからの特別列車が鉄橋の袂の駅に停車したのが見えた。
「でもお母さん、この手紙をずっと持っていたなんて思いも寄らなかったわ」
我に返ったようにクワンが言った。
二枚目の手紙には大福餅の作り方が日本語で詳しく書かれていたが、よく見るとその下に鉛筆で書いたような薄い文字のタイ語が添えてある。恐らく、マリーがあとからその文にタイ語で書き加えたのだろう。それをマリーが娘であるクワンの母に教え、大事に取っておくようにと渡したのだろうか?
クワンは泰三が書いた大福餅の作り方を、マリーが書き加えたタイ語をなぞりながら一行ずつ読んでいった。
「これなら私でも作れるわ、小さい頃に母がよくおやつに「日本の大福餅」と言って作ってくれたのは、この大福餅の作り方を母は知っていたんだわ‥‥‥」
あの夜、クワンの母をベッドに寝かし、自分は「佐藤泰地」と名乗った時に、「さとう、さとう…」と呟いたのを思いだした。彼女は娘が働くバンコクから、タイの正月のソンクランの休暇に実家に戻ってくることを知って、大福餅を作って娘に食べさせてあげようと準備していたのだ。そこへ『佐藤泰地』という、日本人の青年から命を救ってもらい、そこで『佐藤』という名前を聞いて、あの『佐藤泰三』の孫ではないかと感じたのかもしれない。なぜなら、今でもクワンの自宅玄関の壁に掛けてある、にっこり微笑むマリー婆さんと並んで写っている写真の中の凛々しく、そして優しい笑みを浮かべた日本人が、この『佐藤泰地』にそっくりだったからだ。
クワンは今更ながら不思議な感動を覚え、バッグから取り出した包みを開いて、
「そういえば、これ‥‥‥その大福餅なの。お母さん、おやつに持っていきなさいってくれたの。私がバンコクへ出てからも一人で作って市場で売ってたのよね、心臓が悪くなってからはあまり作らなくなったけど、多分、私のお婆さんとあなたのお爺さんのことを思って作り続けていたのかしら……」
そう言って包みから大福餅を一つ摘んで口に放り込むと、
「中に黒豆の餡が入ってる!甘くて美味しいわ‥‥‥」
クワンは目を丸くして言い、包みを泰地に差し出した。
「きっとそうだよ‥‥‥」
泰地はそう言って、自分もその大福餅を一つ手に取った。中には緑豆の漉し餡が入っていた。緑豆は日本人には馴染みが薄く、小豆や大豆と違い、タイやアジアの甘いスイーツに使われる豆の種類で、ほんのり甘く、ややナッツのような風味が人気だ。泰地は口いっぱいに頬張って、
「美味い、最高!あ、いや、「上等」だよ!」と声を上げた。
二人は残りの大福餅も全部平らげてしまったが、泰地は遠くに観光列車が駅に到着したのを静かに眺めていた。
「そろそろ帰りましょうか、雨雲が近づいて来たわ……」
クワンはそう言って、どんよりと曇り始めた空を見上げた。
「そうだね、急いで戻ろう、またスコールが来そうだね‥‥‥」
俄かに上空に雨雲が発生したかた思うと、生ぬるい湿気を含んだ強い風が吹いてきて、周りの樹々を揺らし始めた。二人はお互いの馬に跨って、鉄橋を見下ろせる丘から少し早めの常歩で降り始めた。
「こっちの沢を行けば近道だから‥‥‥」と言ってクワンは馬の頸を丘の斜面へ向けた瞬間、突然、激しい雷鳴が轟いた。閃光が空を裂き、雷が近くの樹に落ちた。
地響きのような落雷に驚いた「ラテ」は前肢を高く上げて嘶き、クワンはしっかりと手綱を握ったが、馬が激しく動揺し、制御が利かなくなった。瞬く間に大粒の雨が木々の葉を叩き始め、滝のような雨水が山道に流れ落ちる。雷が落ちた大きな木の幹が燻って白い煙を上げていた。
先ほどまでの快晴の空が、俄かに地獄のような鉛色に変わり、雷鳴が続く豪雨に変わり、クワンの馬はますます興奮し、足を滑らせ斜面を数メートル滑り落ちていき、クワン自身もバランスを崩し、「ラテ」と一緒に大きな木の幹に引っかかり止まった。その時クワンの左足が「ラテ」の胴体と斜面の間に挟まり身動きが取れない。
「クワン、大丈夫か!」泰地が叫んだ。
クワンは恐怖で声も出せず、小さなうめき声を上げている。このまま斜面を滑り落ちれば崖から馬もろとも川へ落下してしまう。
「クワン、手を伸ばして!」泰地が斜面を一歩一歩慎重に下りながら、手を差し伸べた。
クワンは必死に泰地の手を掴もうとしたが、濁流のように流れてくる雨水で足場が滑りやすく、また「ラテ」が起き上がろうとして脚をばたつかせて暴れ続け、クワンに手が届かない。
「大丈夫、僕がいるから…絶対に大丈夫!」泰地の声が彼女の耳に届き、クワンは再び手を伸ばした。
ついに、泰地が彼女の手をしっかりと掴んだ。「ラテ」は木の幹に脚を突っ張り立ち上がり、斜面に肢をとられながらも怪我もなく斜面を駆け上がっていった。
クワンは泰地の手を掴んだまま、ほっとしたのか、幹にもたれたまま動けなかった。
「ありがとう、泰地。本当に怖かった……」クワンが震える声で言った。
泰地の手をしっかりと握りしめている。
「無事でよかった‥‥‥」
また大きな雷鳴が響いた。
「泰地……」クワンは小さな声で彼の名前を呼んだ。
二人の荒い息が降り続く雨音を打ち消していく。
「私から言うわ、泰地、あなたが好き‥‥‥」クワンは心臓が早鐘のように鳴るのを覚えた。
彼女は泰地の腕に飛び込んだ。雨に濡れた彼女の白いポロシャツから彼女の温もりが伝わってきた。
泰地は何も言わず、クワンを背中から片腕で抱き寄せながら、そしてキスをした。
二人の心臓の鼓動が雨音に吸い込まれていき、二人は互いの存在を確かめ合うようにしばらくそのままでいた。
豪雨と雷鳴の轟音は次第に遠雷へと変わり、二人の頭上の木の葉から雨の雫が静かに落ちてくる。長い口づけを交わした二人は、葉陰から青空が顔を覗かせ始めたのを見上げ、声を出して笑った。雫で濡れたクワンの顔を見て泰地は、
「何を泣いてるんだよ、さぁ、起き上がって‥‥‥」
クワンの手を握り直しぐいと引き上げ斜面を登った。
「泣いてなんかないわよ、それに、全然ロマンチックじゃない!」
彼女は口を尖らせ、泥まみれの手を泰地の頬で拭いて笑った。
「そういうことなの、泰三爺ちゃん‥‥‥」
泰地は、鉄橋を渡り終え、徐々に速度を上げて走っていく列車を眺め独り言のように呟いた。
「さぁ、牧場に戻ろう、サンティさんが心配してるはずだ」
「そうね、来た道を戻りましょう、近道はもうぬかるんで危険だわ」
二人は馬に跨り、昨日通ったスイカ畑が見渡せる丘の上に出ると、まるで橋のように綺麗な虹が弧を描いていた。
「虹だね‥‥‥」
「ほんと、綺麗‥‥‥」
二人は無言のまま、馬上で手を取り合ってその神秘的な光景に暫し見とれていた……
乗馬クラブのオーナーのサンティが、冷やしたココナッツを二つ持って来て、鉈を使って上部を器用に開けてストローを差してくれた。
「今日も暑くなりそうだから、さぁ、冷えたココナッツジュースでも飲んでから行きますか?」
サンティは二人に差し出し、自分はペットボトルのコーラをぐいぐいと喉を鳴らして飲んでいる。
ココナッツジュースはミネラルを豊富で脂肪分もなく、甘酸っぱい透明な椰子の果実の液体で、冷やして飲むと非常に美味しくて、また白身の果実はジュースを飲みながら、スプーンなどで掻き落として一緒に食べると、ちょうど良いおやつにもなる。
東南アジアなどの熱帯地方では、ココナッツやバナナは地域独特の南国気分を演出してくれる食べ物だ。観光でタイを訪れた人なら必ずと言っていいほどこのココナッツジュースを飲んだことがあるだろう。
泰地はこのココナッツジュースが好物で、ココナッツという名の響きだけで南国リゾートの気分に浸ることができたし、果実のジュースだけでなく、アイスクリームや、カノムクロックという、小麦粉にココナッツミルクを混ぜて鉄板で片面だけを焼いた、たこ焼きを半分にしたような甘いお菓子が大好きだった。
泰地とクワンはココナッツジュースを飲み干し、馬装が終わって二人を待っている「シュガー」と「ラテ」にさっと跨ると、クワンが泰地に提案した。
「今日は鉄橋の見えるところまで、ジャングルの獣道を行ってみない?」
泰地は眼をパチパチさせて、
「ジャングル‥‥‥?なんだか冒険だな、行ってみよう、面白そうだね」 とにこりと頷いた。
泰地は前日サンティから、車の通らない森の小径を行けば、映画で有名な泰緬鉄道のクワイ川鉄橋を見渡せる丘まで行けるよ、と教えてもらっていた。泰地はクワンに「ジャングルの獣道?」と大げさに驚いてみせ、クワンの提案に賛成した。ただサンティから、
「行ってもいいけど、途中コブラやサソリやオオトカゲに気をつけるんだよ!」と言われたときは少し驚いた。
サンティは本気で言ったのか、それとも冗談で泰地とクワンを怖がらせようとしたのかは定かではないが、事実、東南アジアの森の中では猛毒のキングコブラや、サソリやワニかと思うくらいのオオトカゲが棲息している。ただ、人を襲うほど凶暴な生き物ではないが、森の中で出くわしたりしたら、馬の方が先に驚いてしまい、落馬の危険は考えられた。
うっそうと木が茂る森は、朝露に濡れてひんやりとしていて、聞いたこともない南国の鳥の声が鳴り響く。二人の馬の常歩の蹄の音が熱帯雨林にこだまする。低い椰子の木や、シダが群生する、まるでジュラシックパークの中を散歩しているようだ。時折、大きな木の蔓が垂れていて、ヘビと見間違え二人は大きな声を上げて笑った。
川岸の駅に到着した日本製のディーゼル機関車に引かれた観光列車が、細く長い汽笛を鳴らすのが風に乗って聞こえてきた。
二人は森を抜けて、鉄橋が見える川の上の小高い丘に出てきた。鬱蒼とした森の奥には、戦時中に使用されていたらしい、C56型蒸気機関車の残骸がひっそりと置き去りにされたように佇んでいる。ところどころ錆びて朽ち果てているが、当時の活躍ぶりが目に浮かぶ。そこは今では流行のトレイルランなどのイベントで使われていて、往年の泰緬鉄道の引き込み線の跡地になっていた。
泰地は背負ったバッグの中からカメラを取りだし、丘から眺める壮大な景色を撮り始めた。二人は馬を降り、大きな岩の上に二人で腰を下ろし、泰地はペットボトルを二本取り出し一本をクワンに差し出し、泰地はグイっと一口飲んで水を手に取って顔を濡らした。クワンは背中の小さなバッグを開けて、ピンク色のハンカチを取り出して自分も額の汗を拭った。
「そういえば、昨日お母さんが作ってくれたおやつがあるの、ここで食べない?」
クワンはバッグの中から小さな包みを取り出した。
クワンは今日もスタイリッシュな英国式の出立で、有名なブランドの白いポロシャツがよく似合う。仕事での服装もブランドの洋服を着たクワンは、まるで雑誌モデルのような乗馬スタイルで、ファッションセンスもさすがに決まっていた。そして泰地は、小さい子供が背負うような、可愛らしいクワンの赤いバッグを指さして言った。
「そのブランドのバッグ、素敵だね‥‥‥?」
クワンは泰地に言われてバッグを少し持ち上げて泰地に見せた。
「ありがとう、お気に入りのバッグなのよ‥‥‥」
その時、一枚の紙片が二人の間にすっと地面に落ちた。
クワンは母を連れて病院に行く際に、自分の携帯電話や充電バッテリーのほかに、母の保健証も一緒にバッグに入れていたのを忘れていて、包みを取り出す時に一緒に出てきたのだ。クワンは不思議そうな顔をして、腰かけていた岩の上に落ちた、色褪せた和紙のような二つに折り畳まれた紙をゆっくりと拾い、破けないように慎重に広げて、
「あれ、これ何かしら?」と声を上げた。
そこには達筆で書かれた日本語と、不格好だが確かにタイ語だと分かる文字が並んでいた。
「これって‥‥‥日本語の手紙?」
泰地は興味深げにクワンが手に持っている“手紙“らしきものを覗き込んだ。クワンはそれを泰地に渡し読んでと頼んだ。
泰地は慎重に受け取り読み始めると、次第に目が釘付けになり手が震えだした。
******
日本の敗戦が決まり、連合国軍の将校たちが、今や捕虜となった日本人兵士たちを狭い貨物車に乗せていく。着の身着のままという兵士がほとんどで、ある者は松葉杖をつき、ある者は担架に乗せられて、かつて日本軍がシンガポールで捕虜となったイギリス兵を運んできた古く錆びこけた貨車に乗せられていく。やがては日本への復員船に乗せられ日本へ帰国することになるだろう。
しかし、鉄道建設に携わった日本の首脳部の将校たちは、捕虜虐待などの罪で戦犯として捕らえられ、シンガポールでイギリス軍によるBC級戦犯裁判として裁かれることになった。
泰三は軍医であったこと、そして英語が堪能であったこともあり、今は立場が逆転したとはいえ、連合国軍の捕虜の治療に専念していたランディ軍医の薦めもあり、野戦病院に残された連合国軍の病人の治療に協力することを条件に、シンガポールへの日本軍捕虜収容所行きは暫く見送られることになった。
泰三の胸中は複雑だった。敗戦国の軍医が一人残り、連合国軍の元捕虜たちから罵声や屈辱的な言動を浴びせられ、むしろ日本の軍人らしく自決した方がいいのではないかと思ったこともあったが、泰三には大切な人がいる。そして自分は医者の使命を全うしようと、連合国軍の負傷者や病人の治療に専念していた。
しかし、日に日に連合国側の憲兵が多くやってきて、泰三は行動範囲を規制され、マリーの待つ村まで彼女に会いに行くことは許されなかった。またマリーも幾度か連合国軍の敷地内を訪れても守衛に断られて泰三に会うことはできなかった。
徐々に連合国軍の元捕虜だった病人たちも回復し、本国へ帰国するためバンコクへ移動していった。自国の軍が破壊した鉄道の線路は、タイの連合国を支援する勢力などの協力もあり急速に回復していった。
近いうちに自分もシンガポールへ送られてしまう、そしてそこで捕虜として、戦犯裁判にかけられてしまうかもしれない。そうでなくても日本国への強制送還は免れそうにない。
その前になんとしてもマリーに会いたい、マリーの住む村へ戻らなければならない、そうした思いが泰三の脳裏を横切った。自国の敗戦という屈辱的な事実よりも、愛する人に会えない、会うことも許されない不条理な現実に憤りを覚えた。
ある日、連合国軍の軍医のランディが泰三の元を訪れて話しかけてきた。
「ドクター・サトウ、気の毒だが君もシンガポールへ移送されることになった。君の此処での働きと貢献は私から上層部へ報告し、裁判では無罪になるように取り計らう。そして、日本へ戻り、君の祖国での戦争の被害者たちの治療に当たって欲しい、ただもう此処に留まることはない‥‥‥」
ランディ軍医は泰三の心情を察し、そのことだけを伝え去っていった。泰三は彼に感謝の意を伝えたものの、一方、心が引き裂かれたような衝動を覚えた。泰三の思いは日に日に強くなるばかりだった。ある日、泰三は自らの意志を固め、マリーに手紙を書くことを決意した。彼がマリーに伝えたいことは山ほどあったが、何よりも伝えたかったのは、彼女への愛と別れの言葉だった。
その夜、泰三はマリーの夢を見ていた。
大福餅を持って捕虜収容所の狭い部屋を訪ねてくるマリーの姿、そして「サクラ」に乗ってやってきた彼女は「フジ」を連れて来た。
「さぁ一緒に帰りましょう!約束でしょ?」
泰三は「フジ」の手綱を受け取り跨った。
周囲の木々は薄明かりに包まれ、やがて朝日が差し込み始めた。二人が森を抜けると、目の前には美しい富士山がそびえ立ち、桜の花びらが舞う道が広がっていた。
朝日を浴びたその風景の中、泰三とマリーは「サクラ」と「フジ」に跨りゆっくりと歩き始めた。彼らの描く世界は、愛に国境はない、言葉や文化さえも超えた世界だった。
「泰三さん、私たちの愛は永遠のものよ‥‥‥」とマリーが微笑んで言った。
二人は手を取り合い、桜舞う道をゆっくりと歩き続けた。その姿は、希望と愛の象徴として、朝日の中に溶け込んでいった。
「そうだ、マリー。私たちの愛は永遠に続く、終わることはない…だから」
泰三が続けようとしたとき、突然マリーが桜吹雪と共に消えていなくなった。
「マリー!マリー!何処に行ったんだ!」と見渡すがその声は全く声にならなかった。
気が付くと連合国の若い衛生兵が泰三の肩を揺すって起こしに来ていた。昨夜遅くまで病人の検診を行っていたせいで、気づかぬうちにテント内の竹製の簡易ベッドの上で寝てしまっていたのだ。
「ドクター・サトウ、ランディ軍医が来られました」
と告げ、ランディ軍医に敬礼をして去っていった。
「ドクター・サトウ、残念だが明日の午後、君のシンガポールへ移送が決まりました」
ランディ軍医は静かに言った。
「そうですか、ランディさん、色々とありがとう。あなたには感謝している。最後に一つ頼みを聞いていただきたい」
泰三は胸のポケットから手紙を取り出して、茶封筒に入れランディ軍医に手渡した。
「これをマリーに届けて欲しい‥‥‥最初で最後のお願いだ」
「承知した、必ず今日の午後には届けます。彼女はあなたに会いに何度も此処を訪れました。しかし、これは規律でどうしても叶わなかった。私の力不足だ、申し訳ない‥‥‥」
ランディ軍医はそう言って、マリーに手紙を届けることを約束した。
出発の朝、泰三は薄暗い収容所の中で、マリーの顔を思い浮かべ嗚咽した。この不条理な借別に心が引き裂かれる思いで天を仰いだ。午後になると泰三は他の日本兵や将校の捕虜たちと共に駅へ送られていった。
その頃、マリーはランディから受け取った手紙を握りしめ、涙を流しながら無意識に駐屯地の厩舎へ走り出していた。そこには、タイ人の若い兵士が馬装を終えたばかりの「サクラ」に飛び乗った。持っていた手綱をマリーに取られた兵士はびっくりして、
「おい、何をする!おい、待て!」
兵士は追いかけようとしたが、マリーは握った手綱を大きく左右に振って「サクラ」に強く鞭を入れた。「サクラ」はあっという間に襲歩となり、マリーは長い黒髪を靡かせながら泰三のいる場所へと疾駆のごとく走り出した。自然と溢れ出る涙が風に飛ばされていく。「サクラ」はマリーの気持ちを分かっているかのように懸命に駆けていく。
泰三は連合国軍が臨時に立てたニッパ椰子で葺いた駅舎で、シンガポール行きの貨物列車の到着を茫然と眺めていた。
“マリーは手紙を読んでくれただろうか、最後に一言だけでも交わしたい、会いたい‥‥‥”
泰三はアメリカ人の憲兵の一人に施され、他の日本人の軍人と共に一両の天井のない、以前は鉄橋建設用の木材を運んでいた貨物車に乗せられるとすぐに列車は動き出した。マリーと会えない口惜しさで張り裂けそうになる泰三の胸を、イギリス製の蒸気機関車の甲高く細い汽笛が突き刺した。
列車がゆっくりと走り出したその時、線路沿いのサトウキビ畑の向こうからマリーが馬に乗って駆けてくるのが見えた。泰三は驚きと喜びの中で手を大きく振って叫んだ。
「マリー!ここだ!私はここだ!」
マリーはサトウキビ畑を一直線に横切り、線路と平行に走ってきた。「サクラ」もテンションが上がっているのか、ブルルと鼻を鳴らしながら懸命に列車に追いつこうと、線路脇の砂利道を駆けてくる。泰三は貨車から身を乗り出し手を伸ばす。二人の手は一瞬だけ触れ合い、すぐに離れた。
「サトーさん、やっと会えたわ、手を離さないで!私を連れて行って!」
マリーは、今にも列車に飛び移りそうなくらいに、その華奢な身体を鐙に預けた。
その瞬間、泰三はマリーの手をしっかりと掴んで、彼女の手を握り締めたまま彼女に向かって叫んだ。
「私たちは必ずまた会える!待っていてほしい!」
マリーもこの永遠の別れの瞬間を悟ったのか、二人の握る手が次第に離れていく。前方に鉄橋が見え、「サクラ」は徐々にスピードを落としていった。
掴んだ手を放した瞬間、泰三はマリーの瞳に涙が光るのを見た。マリーの叫び声が風に乗って響き渡る。
「サトー!サトー!愛しています!サトー!」
マリーは遠ざかる泰三を見つめ続けた。
*****
親愛なるマリーへ、
この手紙が君の手元に届く頃には、我は既に此処を去りしやもしれぬ。君に直接会いて伝えたき事、数多くありしも、それ叶わぬ今、せめてこの手紙にて君に伝えむと思ふ。
初めて君に出会ひし日より、我が心は君に囚われたり。戦場にて君の笑顔を想ひ浮かべるたび、苦しみも和らぎたる。君の優しさと強さに惹かれしこと、感謝してやまぬ。
されど、軍人としての我には祖国日本を護る使命あり。国家を優先せざるを得ぬ身として、君との未来を約束し得ぬ現実を受け入れざるを得ず、心苦しきこと限りなし。君を愛する心変わらぬものの、その愛が君を傷つけることを避けたく存ずる。
君の未来が輝かしきものであることを、心より願ひたし。いつの日にか、平和な世界にて再び相見えん。そのときには、我が祖国日本にて馬上より富士と桜を二人で愛で、君の作りし上等な大福餅を共に味わひたし。
いずれの日にか、国や民族、言葉を越えた自由なる恋愛ができる時代にならんことを願う。君を永遠に忘れざることを誓ひ至す。以下に再度、大福餅の作り方を記しておくので忘れるべからず。
ผมรักคุณตลอดไปครับ…
佐藤泰三
*****
「佐藤泰三‥‥‥僕のお爺さんの名前だ!」 と泰地は叫んだ。
「ええっ?あなたのお爺さん?一体どういうこと?」 クワンが驚いて泰地を見た。
「僕にも分からない…‥‥『親愛なるマリーへ』 なんだこれ?」 泰地が首を傾げた。
「ちょっと待って!マリーというのは私のお婆さんの名前よ!」 クワンは興奮気味に続ける。
「ということは、あなたのお爺さんが私のお婆さんへこの手紙を書いたってこと? それを私の母が保険証に挟んで大切に持っていたってことなの?どうなってるの?」
「これ、僕のお爺さんのラブレターだよ、君のお婆さんにあてたラブレターだよ‥‥‥」
「それと‥‥‥」 泰地は更に続けた。
「大福餅のことが書いてある、そうだ、君のお母さんが作っていたあの大福餅、作り方は僕のお爺さんが伝えたんだよ‥‥‥」
泰地は落ち着いた口調で続けた。
「ここに、「上等な大福餅」って書いてある、あのスイカ畑のおじさんが言ってた「上等」、日本の軍人が教えたって、僕のお爺さんじゃないのか?」
「でも今こうして君にも僕にも両親がいて、君はタイで生まれ、僕は日本で生まれた。ということは僕のお爺さんと君のお婆さんは残念ながら結ばれることはなかったんだよ」
泰地が手紙の内容を訳して聞かせると、クワンは眼に涙を溜めていた。
「最後のところ、ほら!」
クワンが最後の一行を指さした。そこには泰三がたどたどしいタイ語で書いたと思わる一文があった。
「マリー、君を永遠に愛す」 クワンは声出してその一行を読んだ。
「当時、二人は愛し合っていたのね……でもなぜ、なぜ一緒にならなかったのかしら?」
「「ならなかった」のではなく、「なれなかった」、じゃないかな?」 泰地は何かを悟ったかのように言った。
泰地は手紙をもう一度読み返した。
丘の下に見える、観光客が写真を撮り楽しそうに歩く鉄橋を暫く眺めながら静かに言った。
「この手紙、二人の愛の証だね……」
「そうね……でも戦争が二人を引き裂いたってこと?」とクワンは目を潤ませながら答えた。
二人の間にはしばらくの沈黙が流れた。遠くに観光客を乗せた、バンコクからの特別列車が鉄橋の袂の駅に停車したのが見えた。
「でもお母さん、この手紙をずっと持っていたなんて思いも寄らなかったわ」
我に返ったようにクワンが言った。
二枚目の手紙には大福餅の作り方が日本語で詳しく書かれていたが、よく見るとその下に鉛筆で書いたような薄い文字のタイ語が添えてある。恐らく、マリーがあとからその文にタイ語で書き加えたのだろう。それをマリーが娘であるクワンの母に教え、大事に取っておくようにと渡したのだろうか?
クワンは泰三が書いた大福餅の作り方を、マリーが書き加えたタイ語をなぞりながら一行ずつ読んでいった。
「これなら私でも作れるわ、小さい頃に母がよくおやつに「日本の大福餅」と言って作ってくれたのは、この大福餅の作り方を母は知っていたんだわ‥‥‥」
あの夜、クワンの母をベッドに寝かし、自分は「佐藤泰地」と名乗った時に、「さとう、さとう…」と呟いたのを思いだした。彼女は娘が働くバンコクから、タイの正月のソンクランの休暇に実家に戻ってくることを知って、大福餅を作って娘に食べさせてあげようと準備していたのだ。そこへ『佐藤泰地』という、日本人の青年から命を救ってもらい、そこで『佐藤』という名前を聞いて、あの『佐藤泰三』の孫ではないかと感じたのかもしれない。なぜなら、今でもクワンの自宅玄関の壁に掛けてある、にっこり微笑むマリー婆さんと並んで写っている写真の中の凛々しく、そして優しい笑みを浮かべた日本人が、この『佐藤泰地』にそっくりだったからだ。
クワンは今更ながら不思議な感動を覚え、バッグから取り出した包みを開いて、
「そういえば、これ‥‥‥その大福餅なの。お母さん、おやつに持っていきなさいってくれたの。私がバンコクへ出てからも一人で作って市場で売ってたのよね、心臓が悪くなってからはあまり作らなくなったけど、多分、私のお婆さんとあなたのお爺さんのことを思って作り続けていたのかしら……」
そう言って包みから大福餅を一つ摘んで口に放り込むと、
「中に黒豆の餡が入ってる!甘くて美味しいわ‥‥‥」
クワンは目を丸くして言い、包みを泰地に差し出した。
「きっとそうだよ‥‥‥」
泰地はそう言って、自分もその大福餅を一つ手に取った。中には緑豆の漉し餡が入っていた。緑豆は日本人には馴染みが薄く、小豆や大豆と違い、タイやアジアの甘いスイーツに使われる豆の種類で、ほんのり甘く、ややナッツのような風味が人気だ。泰地は口いっぱいに頬張って、
「美味い、最高!あ、いや、「上等」だよ!」と声を上げた。
二人は残りの大福餅も全部平らげてしまったが、泰地は遠くに観光列車が駅に到着したのを静かに眺めていた。
「そろそろ帰りましょうか、雨雲が近づいて来たわ……」
クワンはそう言って、どんよりと曇り始めた空を見上げた。
「そうだね、急いで戻ろう、またスコールが来そうだね‥‥‥」
俄かに上空に雨雲が発生したかた思うと、生ぬるい湿気を含んだ強い風が吹いてきて、周りの樹々を揺らし始めた。二人はお互いの馬に跨って、鉄橋を見下ろせる丘から少し早めの常歩で降り始めた。
「こっちの沢を行けば近道だから‥‥‥」と言ってクワンは馬の頸を丘の斜面へ向けた瞬間、突然、激しい雷鳴が轟いた。閃光が空を裂き、雷が近くの樹に落ちた。
地響きのような落雷に驚いた「ラテ」は前肢を高く上げて嘶き、クワンはしっかりと手綱を握ったが、馬が激しく動揺し、制御が利かなくなった。瞬く間に大粒の雨が木々の葉を叩き始め、滝のような雨水が山道に流れ落ちる。雷が落ちた大きな木の幹が燻って白い煙を上げていた。
先ほどまでの快晴の空が、俄かに地獄のような鉛色に変わり、雷鳴が続く豪雨に変わり、クワンの馬はますます興奮し、足を滑らせ斜面を数メートル滑り落ちていき、クワン自身もバランスを崩し、「ラテ」と一緒に大きな木の幹に引っかかり止まった。その時クワンの左足が「ラテ」の胴体と斜面の間に挟まり身動きが取れない。
「クワン、大丈夫か!」泰地が叫んだ。
クワンは恐怖で声も出せず、小さなうめき声を上げている。このまま斜面を滑り落ちれば崖から馬もろとも川へ落下してしまう。
「クワン、手を伸ばして!」泰地が斜面を一歩一歩慎重に下りながら、手を差し伸べた。
クワンは必死に泰地の手を掴もうとしたが、濁流のように流れてくる雨水で足場が滑りやすく、また「ラテ」が起き上がろうとして脚をばたつかせて暴れ続け、クワンに手が届かない。
「大丈夫、僕がいるから…絶対に大丈夫!」泰地の声が彼女の耳に届き、クワンは再び手を伸ばした。
ついに、泰地が彼女の手をしっかりと掴んだ。「ラテ」は木の幹に脚を突っ張り立ち上がり、斜面に肢をとられながらも怪我もなく斜面を駆け上がっていった。
クワンは泰地の手を掴んだまま、ほっとしたのか、幹にもたれたまま動けなかった。
「ありがとう、泰地。本当に怖かった……」クワンが震える声で言った。
泰地の手をしっかりと握りしめている。
「無事でよかった‥‥‥」
また大きな雷鳴が響いた。
「泰地……」クワンは小さな声で彼の名前を呼んだ。
二人の荒い息が降り続く雨音を打ち消していく。
「私から言うわ、泰地、あなたが好き‥‥‥」クワンは心臓が早鐘のように鳴るのを覚えた。
彼女は泰地の腕に飛び込んだ。雨に濡れた彼女の白いポロシャツから彼女の温もりが伝わってきた。
泰地は何も言わず、クワンを背中から片腕で抱き寄せながら、そしてキスをした。
二人の心臓の鼓動が雨音に吸い込まれていき、二人は互いの存在を確かめ合うようにしばらくそのままでいた。
豪雨と雷鳴の轟音は次第に遠雷へと変わり、二人の頭上の木の葉から雨の雫が静かに落ちてくる。長い口づけを交わした二人は、葉陰から青空が顔を覗かせ始めたのを見上げ、声を出して笑った。雫で濡れたクワンの顔を見て泰地は、
「何を泣いてるんだよ、さぁ、起き上がって‥‥‥」
クワンの手を握り直しぐいと引き上げ斜面を登った。
「泣いてなんかないわよ、それに、全然ロマンチックじゃない!」
彼女は口を尖らせ、泥まみれの手を泰地の頬で拭いて笑った。
「そういうことなの、泰三爺ちゃん‥‥‥」
泰地は、鉄橋を渡り終え、徐々に速度を上げて走っていく列車を眺め独り言のように呟いた。
「さぁ、牧場に戻ろう、サンティさんが心配してるはずだ」
「そうね、来た道を戻りましょう、近道はもうぬかるんで危険だわ」
二人は馬に跨り、昨日通ったスイカ畑が見渡せる丘の上に出ると、まるで橋のように綺麗な虹が弧を描いていた。
「虹だね‥‥‥」
「ほんと、綺麗‥‥‥」
二人は無言のまま、馬上で手を取り合ってその神秘的な光景に暫し見とれていた……