やがて、遠くから汽笛の音が聞こえ始めた。泰三と沢田は顔を見合わせ、期待に胸を膨らませた。
「もうすぐ物資が届くぞ、みんな荷下ろしの準備だ!」
沢田が声を上げ、数人の衛生兵とともに完成間近の鉄橋の建設現場への貨物の引き込み線へ急いだ。沢田たちは貨物列車の停車場に、ニッパ椰子で噴いたテントの下で、大八車を置いて貨物列車の到着を待った。医療物資のほかにも建設資材に食料や水、米なども積まれているのか、小柄なC56機関車はジャングルの間を抜けて、雨で濡れたレールの上を空転しながら黒煙を上げながら勾配を上がってくる。
木々の切れ間から見え隠れする、対空機銃を乗せた貨車の上に、銃を持って空を見上げている兵士が何人もいる。建設資材を載せた貨車にもマレーシアから派遣されてきた鉄道第五連隊の兵士が数人、声高らかに連隊歌を唄っていて、その声は沢田の耳にも届くほど大きかった。
「もう少しだ、頑張ってくれ!」
沢田はまだ貨物列車の見えてこないジャングルの林に向かって叫んだ。
泰三はテントに留まり、再び患者たちの元へと向かおうとしたその時、雷鳴でもない、森の生き物の大合唱でもない、低く唸るような音が曇天の空を覆ってきた。やがてそれが連合国軍の爆撃機のエンジン音であることに気づいた。泰三は顔を上げ、鉄橋の方を見た。
突然、空襲警報が鳴り響き、爆撃機が数機近づいてくるのが見えた。泰三は急いでテントに駆け込み、大声で叫んだ。
「全員、避難だ!すぐに地下壕へ!」
慌てて起き上がろうとする患者たちの身体を衛生兵たちが支え、あるものは担架に乗せて、テント裏に掘ってある地下壕へ一人ずつ連れ出していく。
「急げ!急ぐんだ!さぁ早く!」
泰三は一人の右足を失くした兵士の肩を担いでテントを出ると、貨物列車の停車場がある鉄橋付近へ向かって、二機の米軍爆撃機B24が並んで襲い掛かっていく。
泰三はすぐにテントに戻り、沢田と彼の部下たちが残っていないか確かめた。
「沢田!おい、何処にいるんだ!」
そこへ他の部隊の工兵が泰三に敬礼をし、
「沢田さんは部下を連れて停車場の方へ向かっております!」
工兵はそれだけ言うとすぐに病人を避難させるためその場を去った。
「沢田!‥‥‥」
泰三は、沢田が部下を数名連れて、物資の受け取りに行くと言っていたのを思い出した。
貨物列車の停車場と、完成間近の鉄橋の間には、いくつかの対空気銃の砲座があり、日本の砲兵が既に機体を狙って銃撃を始めていたが、爆撃機の高度が高く当たらない。そして上空を旋回し始め、低空飛行に入り、爆撃機は機銃掃射で砲座を狙って攻撃してきた。
B24爆撃機から放たれた銃弾が乾いた音を立てて泰三の上空を通過していく。砲座にいた数人の兵士が血しぶきと共に吹き飛んでいった。
ランディ軍医もまた、自軍の捕虜たちを避難させるために動いていた。泰三はランディに向かって手を振り、収容所の裏山にある森の中へ逃げるよう合図をした。逃げる途中の捕虜の数人が両手を上げて、見えない自軍の爆撃機に手を振りながら、口笛を吹いて森を駆け上がっていく。恐らく、連合国軍の勝利を確信しているのであろう。
泰三は黙って見ていたが、急いで地下壕に戻り、病人が全員避難したことを確認した。しかし、心の中では沢田たちのことが気がかりだった。爆撃機は停車場と鉄橋の破壊が目的と思われた。
「沢田!逃げろ!今すぐ!‥‥‥」
泰三は声を振り絞り叫んだが、爆撃機の轟音で搔き消された。
B24爆撃機は、鉄橋の袂の停車場の手前の線路に爆弾を一発落とし、線路は粉々に吹き飛んだ。貨物列車を牽引していた機関車は停車場に倒れこむように地響きを立てて脱線した。
しかし、三両目以降の貨車は線路上に残ったため、沢田が部下たちと共に駆け出し、医療物資だけでも運び出そうと貨車に駆け寄った時、上空を旋回してきた一機が貨物列車めがけて機銃を放ってきた。パン、パンと乾いた音が木製の有蓋車の天井を撃ち抜き、沢田の顔を掠め、続くもう一機が1000ポンド爆弾を脱線して横たわるC56機関車に命中させた。
爆撃機が次々に停車場を攻撃し始めると、爆発音が響き渡り火の手が上がった。沢田は爆風に吹き飛ばされ意識を失った。
「沢田!逃げるんだ、沢田!」
泰三は彼の名を叫びながら停車場の方へ全力で走り出した。
停車場にたどり着いた泰三は、燃え上がる炎と崩れた貨車の瓦礫の間に、意識を失って倒れている沢田を見つけた。
「オイ、沢田!しっかりしろ!」
泰三は沢田が微かに息をしているのに気が付き、彼の身体を抱き起こそうとした。
その瞬間、ヒューと爆弾が投下される音が聞こえたかと思うと大地が揺れ、爆発の衝撃波が耳をつんざいた。泰三は咄嗟に沢田を庇い、爆発の方向に背を向けた。
泰三は背中に猛烈な爆風を受け、焼けるような激しい痛みを感じた。気がつくと泰三は地面に倒れ視界がぼやけていった。
「沢田‥‥‥」 泰三はかすれた声で呟きながら、痛みに耐えて立ち上がろうとするが、力が入らず再び倒れ込んだ。
「俺はここで死ぬのか…‥‥うぅ」
その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえ、泰三は薄れゆく意識の中で音の方向を見た。
そこにはマリーが「サクラ」に乗って、陽炎のように燃え上がる木々の間を抜けて、瓦礫をよけながら泰三の元へ歩いてくる姿があった。
「これは‥‥‥まぼろしなのか‥‥‥」 泰三は眼を閉じて意識を失った。
その日マリーは、大福餅の材料の買い出しに行こうと自宅を出ようとしたら、昼間だというのに、古い木の柱の隙間から、チンチョック(タイ語でヤモリ)が「チッチッチ‥‥‥」と鳴くのが聞こえた。
タイの古くからの迷信で、家を出る前にチンチョックが鳴くと、それが不吉な前兆とされることがある。マリーは、迷信に従いその日は材料の買い出しを止め、日没前に出直そうと自宅に戻った。もしかすると、泰三の身に危険が迫っているのかもしれないと、不穏な気持ちにさらされていた。
玄関に戻ると、壁に掛けてあった泰三の写真が落ちてガラスが割れていた。
駐屯地の厩舎で「フジ」に跨った凛々しい姿の泰三を、部下の兵士にお願いして撮ってもらったものだ。マリーの不穏な気持ちは更に高まり、ヤモリの迷信などそっちのけで、台所にあったもち米を蒸すために使う、綿の蒸し布を数枚繋ぎ合わせ自分の腹に巻いて、駐屯地へ飛び出していった。
駐屯地では若いタイ人の兵士から、泰三の赴任している地域で大規模な連合国軍の爆撃があったと知らされた。彼女は泰三が危険に晒されていると直感し、居ても立ってもいられず厩舎へ走り出した。タイ人の兵士たちがマリーを止めようと慌てて後を追うが、マリーは彼らを振り切って厩舎に繋がれていた「サクラ」に飛び乗った。
「サクラ!急ぐのよ!さぁ」
マリーは「サクラ」にパチッと鞭を当て泰三の元へと駆け出した。
マリーの住む村から泰三のいる前線の鉄橋建設の場所までは、当時の軍のジープでさえジャングルの未舗装の悪路を走って一時間はかかる場所だ。しかしマリーと「サクラ」はジャングルの獣道を熟知していた。泰三と二人でよく通った「抜け道」を使い、前線への医療物資を届けたものだ。森の中には大小の美しい滝があり、駐屯地へ帰る途中、良く二人で服を着たまま水浴びをしたものだ。
「この道を行けば三十分で着くはずよ、サクラ!お願い、頑張って!」
マリーは「サクラ」に呼びかけながら泰三のいる前線へと急いだ。泰三のいる前線の方からは大きな爆弾の破裂音や、機銃掃射の乾いた銃撃音がジャングルの中を走るマリーの耳にこだまする。
襲歩で駆ける「サクラ」の蹄の音がジャングルの静寂を切り裂く。マリーは泰三の無事を祈りながら、「サクラ」と共に走りに走った。道中、マリーは何度も泰三との思い出が頭をよぎった。彼がマリーの店に初めて来た日、彼女に大福餅の作り方を教えたこと、そして「フジ」と「サクラ」に乗って村を巡回した数々の日々。
泰三の優しい笑顔と凛々しい出立が、彼女にとっては何よりも大切な存在だった。この胸騒ぎが杞憂に終わって欲しいと願うのみだ。
ジャングルの道が少し広がり、やがて爆撃の音がはっきりと聞こえる丘に出た。丘の下には破壊された木造の橋の梁が川に落ちて白い煙を上げている。「サクラ」の肢体がびっしょりと汗で濡れ、鼻をブルルンと鳴らし息が上がっている、これ以上は走れない。マリーは木々の間から見えるB24爆撃機が爆撃と破壊任務を完遂し、西の空へと消えて行くのを見ていた。
マリーは「サクラ」に乗り丘を降りて、爆撃で破壊された機関車や貨車の破片を慎重に避けながら、停車場の方へ向かった。ニッパ椰子で葺いた屋根がまだ燻っていて、周辺には貨車に積んであった物資であろう木箱が散乱している。数人の兵士が倒れているが泰三は見当たらない、野戦病院の防空壕にいて助かったのだろうか?
僅かな期待を抱いて、マリーは周辺を見渡した。すると「サクラ」が少し頸を上げて、「ヒヒーン!」と仲間を見つけた時に唸る声を鳴らした。
はっとして馬の鼻先に視線を向けたマリーは、ついに彼女は地面に伏し倒れている泰三を見つけた。泰三の脇で沢田が手を上げて「こっちだ!」というように手招きをした。沢田は泰三が庇ったためかすり傷で済んだようだ。
「佐藤軍医!佐藤軍医殿!しっかりしてください!俺のために!俺のために‥‥‥!」
沢田が泣きながら泰三の頬を叩き続け、意識を覚まそうと必死だった。
泰三は頭や背中から血を流していた。腕には赤く血に染まった赤十字の腕章が付いている、布地には毛筆で「佐藤泰三」と書いてあったが、日本語は読めないマリーだが泰三だと確信した。
「サトーさん!サトーさん!」
マリーは馬を降り、泰三のそばに膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。顔が血と泥で黒く染まっている。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「マ、マリー…どうしてここに…?」 泰三は夢から覚めたかのようなかすれた声を漏らした。
彼女は襷のように身体に巻き付けていた綿の蒸し布を外し、包帯のように丸めて手際よく泰三の胸から背中へと巻いていった。背中からの出血がひどく、布がみるみる赤く染まっていく。
「うぅっ……」 泰三が痛みから低く唸った。
「この人を死なせてはいけない‥‥‥!」心の中の声が叫ぶ。
マリーは小さな体で泰三の肩を担いで、起き上がらせようと力を込めた。
「すまない、もう大丈夫だ‥‥‥ありがとう」
泰三は痛みを堪え声を絞り出した。
ふらふらと立ち上がった泰三は、マリーに支えられて「サクラ」へ近づき、馬体に額をつけて、「よしよし、お前もよくやった」と頸筋を叩いた。マリーは貨車から落ちて転がっていた物資の木箱を踏み台にして、泰三の右足をぐいと押して「サクラ」の鞍に跨らせた。泰三は鞍の前橋に伏すようにして「サクラ」の鬣を掴んだ。そしてマリーも勢いよく「サクラ」に飛び乗って泰三の後ろに座り、手綱を束ね片手で持って泰三を支えた。
彼女は馬上から沢田に声をかけ、他に負傷した仲間の衛生兵を安全な場所へ移動するよう伝え、泰地を乗せて爆撃を逃れた野戦病院へ向かって駆け出した。
「サクラ!私の大切な人よ!」
マリーは早口のタイ語で「サクラ」に向かって叫び馬の腹をポンと蹴った。泰三は「サクラ」に伏したまま鬣を掴んだまま、
「マリー‥‥‥君も‥‥‥私の大切な人なんだ」
泰三の消え入りそうな声はマリーには聞こえなかった。
沢田が血だらけの腕を上げて、彼らに向かっていつまでも敬礼を続けていた。
その年の六月に連合国軍の二度目の爆撃に襲われ、修復中の鉄橋は遂に破壊された。ビルマ国境へと続く最大の難所での突貫工事は絶望的になっていた。連合国の捕虜たちも強制作業から解放され、捕虜収容所では捕虜たちが声高らかに英国国歌を歌っていた。日本の敗戦が間近だということを知らせていたのだろう。
そして、八月六日に広島、そして九日には長崎に原子爆弾が投下され、ついに十五日に大日本帝国大本営はポツダム宣言を受託し無条件降伏を発表した。
泰三が運ばれた野戦病院では、連合国軍の司令部からやってきた士官や兵士が慌ただしく出入りするようになった。病院内にいた日本の兵士たちは、治療が完治していなくても無理やりトラックに乗せられ、捕虜として日本軍が建設した鉄道を利用しバンコクへ移送され、バンコクの港から輸送船でフィリピンのマニラある連合国司令本部の日本軍捕虜収容所へ送られていった。
また軍部の将校たちの中には、日本の敗戦が決定的となり、鉄橋の建設も失敗に終わったことから、自決を図る者も少なくはなかった。神棚を祀った小屋の前で、軍刀を用い自らの腹を切り裂く者、ジャングルの中へ入り、手りゅう弾で自決する者、短銃で頭を撃ち抜く者、ある者は「天皇陛下、万歳!」と叫びながら死んでいった。
泰三は、連合国軍の捕虜として拘束され重傷を負いながらも、連合国軍の軍医ランディ医師によって、適切な治療を受けることができた。ランディ軍医とは、敵味方関係なく医師として治療法についてお互い相談をしていた間柄で、敗戦が決まった後でも彼は泰三に充分な治療を施していた。
「佐藤軍医、あなた達日本軍はもう負けたのです、戦争は終わりました。しかし、あなたは医者です。医者として暫くここに留まり、捕虜の‥‥‥いや、我々の中にいる病人を一人でも多く救っていってください」
泰三は野戦病院の竹で作った簡易ベッドに横たわりながら、ランディ軍医の話を聞いていた。泰三は医師であるため、連合国軍の病人の兵士の治療に協力してほしい、そして数日後にはフィリピンの連合国司令本部で、負傷した日本兵の健康管理や病気の治療にもあたってほしいとのことだった。
時折、外で銃声や手りゅう弾が破裂する音がする。自決を図る日本の軍人だろう、今や戦勝国の野戦病院となった、湿った藁葺き屋根の天井を見つめながら、これから直面するであろう自分の人生の大きな岐路を予感し、泰三ため息をつくのだった‥‥‥
「もうすぐ物資が届くぞ、みんな荷下ろしの準備だ!」
沢田が声を上げ、数人の衛生兵とともに完成間近の鉄橋の建設現場への貨物の引き込み線へ急いだ。沢田たちは貨物列車の停車場に、ニッパ椰子で噴いたテントの下で、大八車を置いて貨物列車の到着を待った。医療物資のほかにも建設資材に食料や水、米なども積まれているのか、小柄なC56機関車はジャングルの間を抜けて、雨で濡れたレールの上を空転しながら黒煙を上げながら勾配を上がってくる。
木々の切れ間から見え隠れする、対空機銃を乗せた貨車の上に、銃を持って空を見上げている兵士が何人もいる。建設資材を載せた貨車にもマレーシアから派遣されてきた鉄道第五連隊の兵士が数人、声高らかに連隊歌を唄っていて、その声は沢田の耳にも届くほど大きかった。
「もう少しだ、頑張ってくれ!」
沢田はまだ貨物列車の見えてこないジャングルの林に向かって叫んだ。
泰三はテントに留まり、再び患者たちの元へと向かおうとしたその時、雷鳴でもない、森の生き物の大合唱でもない、低く唸るような音が曇天の空を覆ってきた。やがてそれが連合国軍の爆撃機のエンジン音であることに気づいた。泰三は顔を上げ、鉄橋の方を見た。
突然、空襲警報が鳴り響き、爆撃機が数機近づいてくるのが見えた。泰三は急いでテントに駆け込み、大声で叫んだ。
「全員、避難だ!すぐに地下壕へ!」
慌てて起き上がろうとする患者たちの身体を衛生兵たちが支え、あるものは担架に乗せて、テント裏に掘ってある地下壕へ一人ずつ連れ出していく。
「急げ!急ぐんだ!さぁ早く!」
泰三は一人の右足を失くした兵士の肩を担いでテントを出ると、貨物列車の停車場がある鉄橋付近へ向かって、二機の米軍爆撃機B24が並んで襲い掛かっていく。
泰三はすぐにテントに戻り、沢田と彼の部下たちが残っていないか確かめた。
「沢田!おい、何処にいるんだ!」
そこへ他の部隊の工兵が泰三に敬礼をし、
「沢田さんは部下を連れて停車場の方へ向かっております!」
工兵はそれだけ言うとすぐに病人を避難させるためその場を去った。
「沢田!‥‥‥」
泰三は、沢田が部下を数名連れて、物資の受け取りに行くと言っていたのを思い出した。
貨物列車の停車場と、完成間近の鉄橋の間には、いくつかの対空気銃の砲座があり、日本の砲兵が既に機体を狙って銃撃を始めていたが、爆撃機の高度が高く当たらない。そして上空を旋回し始め、低空飛行に入り、爆撃機は機銃掃射で砲座を狙って攻撃してきた。
B24爆撃機から放たれた銃弾が乾いた音を立てて泰三の上空を通過していく。砲座にいた数人の兵士が血しぶきと共に吹き飛んでいった。
ランディ軍医もまた、自軍の捕虜たちを避難させるために動いていた。泰三はランディに向かって手を振り、収容所の裏山にある森の中へ逃げるよう合図をした。逃げる途中の捕虜の数人が両手を上げて、見えない自軍の爆撃機に手を振りながら、口笛を吹いて森を駆け上がっていく。恐らく、連合国軍の勝利を確信しているのであろう。
泰三は黙って見ていたが、急いで地下壕に戻り、病人が全員避難したことを確認した。しかし、心の中では沢田たちのことが気がかりだった。爆撃機は停車場と鉄橋の破壊が目的と思われた。
「沢田!逃げろ!今すぐ!‥‥‥」
泰三は声を振り絞り叫んだが、爆撃機の轟音で搔き消された。
B24爆撃機は、鉄橋の袂の停車場の手前の線路に爆弾を一発落とし、線路は粉々に吹き飛んだ。貨物列車を牽引していた機関車は停車場に倒れこむように地響きを立てて脱線した。
しかし、三両目以降の貨車は線路上に残ったため、沢田が部下たちと共に駆け出し、医療物資だけでも運び出そうと貨車に駆け寄った時、上空を旋回してきた一機が貨物列車めがけて機銃を放ってきた。パン、パンと乾いた音が木製の有蓋車の天井を撃ち抜き、沢田の顔を掠め、続くもう一機が1000ポンド爆弾を脱線して横たわるC56機関車に命中させた。
爆撃機が次々に停車場を攻撃し始めると、爆発音が響き渡り火の手が上がった。沢田は爆風に吹き飛ばされ意識を失った。
「沢田!逃げるんだ、沢田!」
泰三は彼の名を叫びながら停車場の方へ全力で走り出した。
停車場にたどり着いた泰三は、燃え上がる炎と崩れた貨車の瓦礫の間に、意識を失って倒れている沢田を見つけた。
「オイ、沢田!しっかりしろ!」
泰三は沢田が微かに息をしているのに気が付き、彼の身体を抱き起こそうとした。
その瞬間、ヒューと爆弾が投下される音が聞こえたかと思うと大地が揺れ、爆発の衝撃波が耳をつんざいた。泰三は咄嗟に沢田を庇い、爆発の方向に背を向けた。
泰三は背中に猛烈な爆風を受け、焼けるような激しい痛みを感じた。気がつくと泰三は地面に倒れ視界がぼやけていった。
「沢田‥‥‥」 泰三はかすれた声で呟きながら、痛みに耐えて立ち上がろうとするが、力が入らず再び倒れ込んだ。
「俺はここで死ぬのか…‥‥うぅ」
その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえ、泰三は薄れゆく意識の中で音の方向を見た。
そこにはマリーが「サクラ」に乗って、陽炎のように燃え上がる木々の間を抜けて、瓦礫をよけながら泰三の元へ歩いてくる姿があった。
「これは‥‥‥まぼろしなのか‥‥‥」 泰三は眼を閉じて意識を失った。
その日マリーは、大福餅の材料の買い出しに行こうと自宅を出ようとしたら、昼間だというのに、古い木の柱の隙間から、チンチョック(タイ語でヤモリ)が「チッチッチ‥‥‥」と鳴くのが聞こえた。
タイの古くからの迷信で、家を出る前にチンチョックが鳴くと、それが不吉な前兆とされることがある。マリーは、迷信に従いその日は材料の買い出しを止め、日没前に出直そうと自宅に戻った。もしかすると、泰三の身に危険が迫っているのかもしれないと、不穏な気持ちにさらされていた。
玄関に戻ると、壁に掛けてあった泰三の写真が落ちてガラスが割れていた。
駐屯地の厩舎で「フジ」に跨った凛々しい姿の泰三を、部下の兵士にお願いして撮ってもらったものだ。マリーの不穏な気持ちは更に高まり、ヤモリの迷信などそっちのけで、台所にあったもち米を蒸すために使う、綿の蒸し布を数枚繋ぎ合わせ自分の腹に巻いて、駐屯地へ飛び出していった。
駐屯地では若いタイ人の兵士から、泰三の赴任している地域で大規模な連合国軍の爆撃があったと知らされた。彼女は泰三が危険に晒されていると直感し、居ても立ってもいられず厩舎へ走り出した。タイ人の兵士たちがマリーを止めようと慌てて後を追うが、マリーは彼らを振り切って厩舎に繋がれていた「サクラ」に飛び乗った。
「サクラ!急ぐのよ!さぁ」
マリーは「サクラ」にパチッと鞭を当て泰三の元へと駆け出した。
マリーの住む村から泰三のいる前線の鉄橋建設の場所までは、当時の軍のジープでさえジャングルの未舗装の悪路を走って一時間はかかる場所だ。しかしマリーと「サクラ」はジャングルの獣道を熟知していた。泰三と二人でよく通った「抜け道」を使い、前線への医療物資を届けたものだ。森の中には大小の美しい滝があり、駐屯地へ帰る途中、良く二人で服を着たまま水浴びをしたものだ。
「この道を行けば三十分で着くはずよ、サクラ!お願い、頑張って!」
マリーは「サクラ」に呼びかけながら泰三のいる前線へと急いだ。泰三のいる前線の方からは大きな爆弾の破裂音や、機銃掃射の乾いた銃撃音がジャングルの中を走るマリーの耳にこだまする。
襲歩で駆ける「サクラ」の蹄の音がジャングルの静寂を切り裂く。マリーは泰三の無事を祈りながら、「サクラ」と共に走りに走った。道中、マリーは何度も泰三との思い出が頭をよぎった。彼がマリーの店に初めて来た日、彼女に大福餅の作り方を教えたこと、そして「フジ」と「サクラ」に乗って村を巡回した数々の日々。
泰三の優しい笑顔と凛々しい出立が、彼女にとっては何よりも大切な存在だった。この胸騒ぎが杞憂に終わって欲しいと願うのみだ。
ジャングルの道が少し広がり、やがて爆撃の音がはっきりと聞こえる丘に出た。丘の下には破壊された木造の橋の梁が川に落ちて白い煙を上げている。「サクラ」の肢体がびっしょりと汗で濡れ、鼻をブルルンと鳴らし息が上がっている、これ以上は走れない。マリーは木々の間から見えるB24爆撃機が爆撃と破壊任務を完遂し、西の空へと消えて行くのを見ていた。
マリーは「サクラ」に乗り丘を降りて、爆撃で破壊された機関車や貨車の破片を慎重に避けながら、停車場の方へ向かった。ニッパ椰子で葺いた屋根がまだ燻っていて、周辺には貨車に積んであった物資であろう木箱が散乱している。数人の兵士が倒れているが泰三は見当たらない、野戦病院の防空壕にいて助かったのだろうか?
僅かな期待を抱いて、マリーは周辺を見渡した。すると「サクラ」が少し頸を上げて、「ヒヒーン!」と仲間を見つけた時に唸る声を鳴らした。
はっとして馬の鼻先に視線を向けたマリーは、ついに彼女は地面に伏し倒れている泰三を見つけた。泰三の脇で沢田が手を上げて「こっちだ!」というように手招きをした。沢田は泰三が庇ったためかすり傷で済んだようだ。
「佐藤軍医!佐藤軍医殿!しっかりしてください!俺のために!俺のために‥‥‥!」
沢田が泣きながら泰三の頬を叩き続け、意識を覚まそうと必死だった。
泰三は頭や背中から血を流していた。腕には赤く血に染まった赤十字の腕章が付いている、布地には毛筆で「佐藤泰三」と書いてあったが、日本語は読めないマリーだが泰三だと確信した。
「サトーさん!サトーさん!」
マリーは馬を降り、泰三のそばに膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。顔が血と泥で黒く染まっている。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「マ、マリー…どうしてここに…?」 泰三は夢から覚めたかのようなかすれた声を漏らした。
彼女は襷のように身体に巻き付けていた綿の蒸し布を外し、包帯のように丸めて手際よく泰三の胸から背中へと巻いていった。背中からの出血がひどく、布がみるみる赤く染まっていく。
「うぅっ……」 泰三が痛みから低く唸った。
「この人を死なせてはいけない‥‥‥!」心の中の声が叫ぶ。
マリーは小さな体で泰三の肩を担いで、起き上がらせようと力を込めた。
「すまない、もう大丈夫だ‥‥‥ありがとう」
泰三は痛みを堪え声を絞り出した。
ふらふらと立ち上がった泰三は、マリーに支えられて「サクラ」へ近づき、馬体に額をつけて、「よしよし、お前もよくやった」と頸筋を叩いた。マリーは貨車から落ちて転がっていた物資の木箱を踏み台にして、泰三の右足をぐいと押して「サクラ」の鞍に跨らせた。泰三は鞍の前橋に伏すようにして「サクラ」の鬣を掴んだ。そしてマリーも勢いよく「サクラ」に飛び乗って泰三の後ろに座り、手綱を束ね片手で持って泰三を支えた。
彼女は馬上から沢田に声をかけ、他に負傷した仲間の衛生兵を安全な場所へ移動するよう伝え、泰地を乗せて爆撃を逃れた野戦病院へ向かって駆け出した。
「サクラ!私の大切な人よ!」
マリーは早口のタイ語で「サクラ」に向かって叫び馬の腹をポンと蹴った。泰三は「サクラ」に伏したまま鬣を掴んだまま、
「マリー‥‥‥君も‥‥‥私の大切な人なんだ」
泰三の消え入りそうな声はマリーには聞こえなかった。
沢田が血だらけの腕を上げて、彼らに向かっていつまでも敬礼を続けていた。
その年の六月に連合国軍の二度目の爆撃に襲われ、修復中の鉄橋は遂に破壊された。ビルマ国境へと続く最大の難所での突貫工事は絶望的になっていた。連合国の捕虜たちも強制作業から解放され、捕虜収容所では捕虜たちが声高らかに英国国歌を歌っていた。日本の敗戦が間近だということを知らせていたのだろう。
そして、八月六日に広島、そして九日には長崎に原子爆弾が投下され、ついに十五日に大日本帝国大本営はポツダム宣言を受託し無条件降伏を発表した。
泰三が運ばれた野戦病院では、連合国軍の司令部からやってきた士官や兵士が慌ただしく出入りするようになった。病院内にいた日本の兵士たちは、治療が完治していなくても無理やりトラックに乗せられ、捕虜として日本軍が建設した鉄道を利用しバンコクへ移送され、バンコクの港から輸送船でフィリピンのマニラある連合国司令本部の日本軍捕虜収容所へ送られていった。
また軍部の将校たちの中には、日本の敗戦が決定的となり、鉄橋の建設も失敗に終わったことから、自決を図る者も少なくはなかった。神棚を祀った小屋の前で、軍刀を用い自らの腹を切り裂く者、ジャングルの中へ入り、手りゅう弾で自決する者、短銃で頭を撃ち抜く者、ある者は「天皇陛下、万歳!」と叫びながら死んでいった。
泰三は、連合国軍の捕虜として拘束され重傷を負いながらも、連合国軍の軍医ランディ医師によって、適切な治療を受けることができた。ランディ軍医とは、敵味方関係なく医師として治療法についてお互い相談をしていた間柄で、敗戦が決まった後でも彼は泰三に充分な治療を施していた。
「佐藤軍医、あなた達日本軍はもう負けたのです、戦争は終わりました。しかし、あなたは医者です。医者として暫くここに留まり、捕虜の‥‥‥いや、我々の中にいる病人を一人でも多く救っていってください」
泰三は野戦病院の竹で作った簡易ベッドに横たわりながら、ランディ軍医の話を聞いていた。泰三は医師であるため、連合国軍の病人の兵士の治療に協力してほしい、そして数日後にはフィリピンの連合国司令本部で、負傷した日本兵の健康管理や病気の治療にもあたってほしいとのことだった。
時折、外で銃声や手りゅう弾が破裂する音がする。自決を図る日本の軍人だろう、今や戦勝国の野戦病院となった、湿った藁葺き屋根の天井を見つめながら、これから直面するであろう自分の人生の大きな岐路を予感し、泰三ため息をつくのだった‥‥‥