翌日の朝、泰三はマリーの店を訪ね、昨日の件を謝りに行った。

 マリーの店は数人の客がいて朝から繁盛していた。そこで泰三を見つけてにこりと笑った。

 「昨日はすまなかった、上官に呼ばれてすっかり遅くなってしまい‥‥‥」 

 マリーは泰地が来なかった理由を訊かなかったが、いつもは律儀で几帳面な泰三を知っていたので、何かほかに特別な理由があったに違いないと少し不安気になったが、平気な顔をして、

「大丈夫ですよ、軍人さんは忙しいから‥‥‥それに朝からお客さんがたくさん来て大繁盛ですよ、はい、これどうぞ」

  マリーはバナナの皮に包みながら、泰三の好きな黒大豆の餡がたっぷり入った大福餅を差し出した。泰三は気まずそうに照れながら「ありがとう「と受け取った。 

 マリーの乗馬は日が経つにつれ上達し、泰三に指導を受けたせいか、その華奢な体系に似合わず速歩から駈歩までできるようになり、騎乗姿勢は均整の取れた美しいフォームだった。厩舎の馬場では、「サクラ」に乗って障害飛越の練習もこなし、華麗に木製の障害バーを飛び越していく。駐屯地内のタイ人の騎兵の数人が練習中のマリーをよく冷やかしていた。

 今では泰地の助手として、泰地が村の外れまで外出する時は馬に乗って一緒に出掛けていた。既に通訳も必要でなくなり、泰三のタイ語も上達していたが、マリーは泰三の意図を上手く汲み取って現地のタイ人とのコミュニケーションを手伝っていた。

 タイ語には声調が五声もあり、日本人には馴染みのない、言葉の声調の違いで全く違う意味になることもある。泰三は読み書きよりも、話すことを優先して覚えてきたので、特に声調による単語の聞き分けや使い分けが非常に上手くなっていた。

 亡くなった通訳のタムからもよく注意された、犬と馬というタイ語はマリーからもしょっちゅう注意された。「犬」と「馬」は英語で書くとどちらも「MA」になる。しかし、「犬」の方は低い音から始まり中音で止まる。一方「馬」は中音から高音へと引き摺るように発音する。特に「馬」の発音が日本人には難しいようで、「馬」を指して「犬」と発音してしまう。それは泰三だけでなく、駐屯地にいる日本人のほとんどが「馬」のことを「犬」と呼んでいた。

 マリーはそんな泰三のおかしなタイ語の癖にも愛らしさを覚えるようになった。

 その日の任務を終了した泰三は、常歩でついてくるマリーに馬上から声を掛けた。

 「私のタイ語はそんなに可笑しいですか?」 泰三はまじめに訊ねたが、顔には笑みが浮かんでいた。

 「多分、村の人は日本人が話すタイ語が分からないのですよ、発音が少しでも違うと全く理解できない人もいれば、普段はこちらの方言で話す人も多いから‥‥‥」 なかなか厳しいことを言う。

 「でも私は佐藤さんのタイ語には慣れていますから‥‥‥」 

マリーは少し泰三を揶揄うように言って静かに呟いた。

 「でも、全部わかるんです‥‥‥」

 「なんだって‥‥‥? まぁ、いいか」 

 泰三は大声で笑い、陽に焼けた顔の、年齢に似つかない口髭の汗を白い開襟シャツの袖で拭った。


 当時の日本の軍人たちは、天皇陛下、国家、そして家族のために命を捧げることを当然の義務と考えていた。しかし、現在では男女平等やフェミニズムの概念が日本社会に広まり、「日本男児たれ」という言葉はあまり耳にすることがなくなり、伝統的な価値観が変貌してきている。

 しかし、泰三はその時代の中に生き、医師としての使命を全うするために戦場に立つ軍人であり、軍医として、どんなに厳しい状況でも「日本男児」としての誇りを持ち、祖国を守るため、自分を厳しく律していたのだ。 

 彼の心の中には、医師としての責任感と、日本男児としての強い意志が常に共存していた。

 しかし、ある一人の女性のことを思う時だけは違った。

 マリーの屈託のない笑顔を見ると、胸の奥がほのかに温かくなってくる。日々戦況が悪化していく中で、マリーは泰三にとって、心に差し込む淡い緩やかな光のような存在だった。彼女との短い会話や、無邪気にほほ笑む姿を見ると、自分の置かれている厳しい現実を和らげてくれる。軍医としての責務を果たしながら、そしてタイという異国にいながら、彼女への気持ちは、一人の男として泰三に芽生えた禁制の恋心なのかもしれない。

 お菓子売りのマリーに日本の大福餅の作り方を教えたことや、通訳のタムの亡きあと、こうして彼女を外出時の助手として乗馬を教えたことも、泰三の素直な心情からのものだった。 

 戦況は日々悪化していき、駐屯地内で勤めるタイ人の中には、日本が戦争に負けると口に出すものまで出てきた。泰三は駐屯地の敷地内で、タイ人と日本人の兵士が殴り合いの喧嘩をしているのをよく目にした。それぞれ互いの上官から引き離されたが、タイの兵士は殴られた口から血を吐いて喚いた。

 「日本なんか、負けちまえ!とっとと俺たちの国から出て行け!」

 罵声を浴びせられた日本人の兵士は、顔を真っ赤にしてまた殴りかかろうとしたが、上官に引き留められ兵舎の外へ連れていかれた。タイ人の方は唇が切れているのか、上官に支えられながら泰三を見たが、泰三は部下の兵士に目配せして、治療してやりなさい、と小さな声で伝えてうつむきながら厩舎へ向かった。

 泰三には鉄道建設現場の前線で、多くの病人や負傷者の治療、手当をするために行かなければならない。戦争に負けるという思いよりも、一人でも多くの命を救うことが泰三の任務だと、自らの命の危険も顧みることはせず、一日も早く現場へ出向かなければならないと、下された命令の移動日は三日後だった。

 厩舎に着くと既にマリーが泰三の馬「フジ」と、マリーが乗る馬の「サクラ」に鞍をつけて待っていた。泰三の少し暗い表情を察したのか、二頭の馬の頸にブラシをかけながら、

 「佐藤さん、今日も「フジ」も「サクラ」もとても元気ですよ、あとは佐藤さんが笑顔になるだけですよ‥‥‥」

 泰三はふと我に返り、マリーに複雑な心境を読まれたのかと焦りが隠せなかった。

 「なんの、なんの、私はいつも元気ですよ、ほら、この通り!」 と二の腕の力こぶを見せて笑った。

 二人はいつものように馬に乗り、村はずれにある集落の井戸水の調査に向かった。雨季が始まり、デング熱やコレラなどの伝染病の患者が増えていると聞き、泰三は井戸水の水質を検査し、村人たちを往診してまわった。幸い地元のタイ人の村の中には伝染病に感染している者はいなかった。
 

 しかし、鉄道建設現場の過酷な環境のジャングルでは、重労働や劣悪な衛生状態のために、西洋人の捕虜たちや、それを指揮する日本人兵士たちにも飢えや伝染病が蔓延し、迅速な医療支援が必要だった。しかし、悪化する戦況の中、一般物資の配給も滞り、ワクチンなどの治療薬の確保も十分ではないだろうと泰三は危惧していた。

 泰三は三日後に前線への異動が決まっており、この駐屯地を離れることになっていることを、まだマリーには告げていなかった。軍部の命令で現地の一般人であるマリーに話してよいのかどうか、泰三は迷っていた。

 「佐藤さん、気分でも悪いのですか?今日は全然喋らないですね…」

 マリーは駐屯地の厩舎へ戻る道中、泰三の後ろを常歩で付いて行きながら、彼の背中に向かって訊ねた。

 「いや、なんでもないです」 と泰三は振り返らずに返答した。

 なにか様子がおかしいと感じたマリーは、自分が何か彼の気に障ることを言ったのか、助手として下手をしてしまったのかと考えてみたが特に思い当たる節はない。それでも少し不安顔になって、

  「佐藤さん、何かあったのですか? もしかして、私のせいで何か…」

 マリーは言葉を濁しながら尋ねた。

 泰三は、手綱を少し引き馬の脚を停め深く息を吐いた。背筋をまっすぐ伸ばし暫く黙っていたが、やがて振り返り、マリーの顔を見つめた。

 「マリーさん、実は…」  泰三は言葉を選びながら続けた。

 「私は三日後に前線へ異動することになりました。あなたには伝えておきたくて……」

 マリーの顔に驚きと困惑の色が浮かんだ。彼女は数秒の間言葉を失っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

 「前線…それは危険な場所ですよね? どうして…どうしてそんな場所へ行くのですか?」

 泰三はマリーが驚いた様子だったので、なんとか和まそうと微笑みを浮かべながら、穏やかな口調で答えた。

 「前線と言っても、私の任務は軍医として病人の治療です。軍の命令だからしょうがないのです‥‥‥」

 泰三は土手の上を走るC56型蒸気機関車が、その「ポニー」という愛称の通り、まるでポニーが駈ける三拍子のリズムのようなドラフト音を鳴らし、線路に白い蒸気を吐き終点の前線基地へと物資を運んでいくのを見て言った。

 「あの貨物列車をビルマに通してインドまで武器や糧を運ぶのです。日本軍の無謀な戦略と思いますが、そこで伝染病に罹った患者や、負傷者を治療するのが私の任務なのです。行くしかないのです‥‥‥」 

 泰三の決意は固い、というより、行かなければならない軍人としての責務だろう、そう感じ取ったマリーだったが、心の中では泰三が危険な場所に行くこと、そして最悪の結末が待ち受けているのではないかという不安が沸き上がっていた。

 「佐藤さん、どうか気をつけてください。そして、必ず無事に戻ってきてください」

 彼女は少し震えた声で、真剣な眼差しで泰三を見つめていた。

 泰三は静かに深く頷いた。

 「約束します、必ず戻ります。そして、その時にはまた此処で一緒に仕事ができることを楽しみにしています」

 泰三がそう言って人差し指をピンと立てた。

 「それから……此処を発つ前にマリーの作った『大福餅』を食べていきたいな‥‥‥」

   マリーの頬を大粒の涙が伝って落ちていく。

 『故郷の味だ』と言って褒めてくれた、その『大福餅』を食べていきたい、もしかして泰三は死を覚悟して、故郷に想いを馳せているのではないかとマリーは悲しみが込み上げてきた。二度と戻ってこないのではないかという不安が彼女の胸を締め付けた。

 前線への出発の朝、駐屯地の入口でマリーが見送りに来ていた。彼女は泰三に小さな包みを手渡した。

 「これは…?」 泰三は尋ねた。

 「特製の大福餅です。あちらについたらこれを食べて、元気を出してください‥‥‥」

 マリーは微笑みながら言った。泰三はマリーの言葉を最後まで聞かないうちに、バナナの皮で丁寧に包んであった包みを剥がし、中にあった「特性」の大福餅を一つ頬張った。

 「美味い!これは本当に上等だ!中身はなんだ?」 むしゃむしゃと口を動かしながら泰三が訊ねた。

 「うふふ、それはいつもの緑豆餡にドリアンとアヒルの卵を混ぜて作った特製餡ですよ‥‥‥」

 マリーはいたずらな笑みを浮かべ答えた。

 「ドリアン?おお、上等だ、上等!」 泰三はその場であっという間に平らげてしまった。

 ドリアンは『果物の王様』と言われるくらい美味で、主に東南アジアで採れる果物だ。その独特の香りについては賛否両論あるが、泰三は初めて食べた時から、その美味しさの虜になり、強烈な香りには何の抵抗もなかった。

 今でもタイへの観光客の中には、ドリアンの匂いに卒倒されて毛嫌いしてしまう人もいるが、『果物の王様』と言われる所以はやはりその強烈な香りに隠された最高級な旨味に尽きる。東南アジアのスイーツの一つで、呼び名は違えども「ドリアン饅頭」と呼ばれ、いわゆる饅頭の中身にドリアンと緑豆、そしてアヒルの塩卵を煮詰めた餡が入っている、日本茶にも合いそうな逸品なのだ。 

 包みの中には「特性」大福餅が六つもあった。泰三は包みを両手で持ち上げ、感謝を込めてマリーに向かって合掌ワイをし、その包みを背嚢にしまった。

 衛生兵が数名、泰三に歩み寄り敬礼をした。

 「佐藤軍医殿、出発の時間であります!」 

 錆びて朽ち果てそうな日本軍のジープが、今にも止まりそうなエンジン音を鳴らしながら、泰三を待っていた。駐屯地にあるだけの食糧や治療薬や器具類を、ジープの荷台に積めるだけ積んでいる。

 別れの時が迫り、二人は無言のまま見つめ合った。

 「必ず戻ります……」 泰三は最後に強く言い聞かせるように言い敬礼をした。

 マリーは涙を堪えながらも微笑んで頷いた。

 「佐藤さん、マリーはあなたを待っています‥‥‥」 そのあとの言葉をぐっと心に閉じ込めた‥‥‥