佐藤泰男は古い父の色褪せたセピア色の写真を仏壇から無造作に引っ張り出し、濃い目の緑茶を啜った。軍服姿がよく似合い、南国の椰子の木の下に立ち、日焼けで真っ黒な顔に真っ白な歯を少し見せ、なんとなく微笑んでいるかのような、当時の日本軍人とは思えないような、朗らかな微笑を浮かべている父の写真を眺めながら「親父、南国気分かよ、こっちはもう秋風がヒンヤリと身に染みるよ…」と独り言を放ち、仏壇に供えられていた大福餅を一つ取って、ぽいと口に入れ腰を上げた。セピア色に変わり始めた庭の銀杏の木から、二枚の落ち葉がくっつきながら落ちてきた。
「タイは暑いんだろうか…息子泰地は元気でやっているだろうか」
泰男の一人息子、泰地のタイでの生活にまるで自分を重ねているような、そんな気持ちになっていた。
泰地は30歳、国立医大で伝染病を研究する若い医者だ。外務省に勤める叔父の勧めもあって、今年から東南アジアの経済をけん引する、タイ王国の日本大使館へ医務官として赴任している。学生の頃から英語が得意とあって、社会人になってからも世界各国へバックパッカーとしてあちこち飛び回っていた。しかし、今回赴任するタイは泰地にとって初めての国だ。息子の初めての海外赴任ということもあって、彼の成長の機会を喜ぶと同時に、どうか無事に任務を終えて帰ってきて欲しいと願っている。
タイは大の親日国で「微笑の国」として日本人にもよく知られている。トムヤムクンで有名なタイ料理も日本でもかなりの人気があるようだ。人口約7千万人でかつては農業立国であったが、今では日系メーカーを中心に自動車産業がとって代わり、国の重要な経済を担っている。冬がなく年中常夏の国のタイ人と言えば、その陽気な性格や、マイペンライ(大丈夫、気にしない)というフレーズで有名だ。
泰男はまだタイには一度も行ったことはないが、会社の同僚が数年前にタイの自社工場へ駐在員として赴任しており、帰任後にタイ人ののんびりさについてボヤキなのか羨ましいのか、タイ人との仕事の難しさを聞かされたことがある。陽気でのんびりな国の人と働くのが、そんなに日本人にとってやりにくいと感じるのは何故だろうと思ったことがある。
逆に日本人の仕事のやり方がタイ人にとっては理解しがたいものなのかもしれない。日本人は時間に厳格で、タイ人のことを時間にルーズだと小馬鹿にしているらしいが、その同僚がタイ人から言われたそうだ。「日本人は時間に厳しいというが、朝はぴったり始業時間を守るが、就業時間が来てもいつまでも会社にいて残業している…」と。言われてみればそうだ、今では『働き方改革』などとその意味さえよく解らない言葉が国策のように取り出たされているが、そもそも『働き方』さえ日本人は忘れてしまったのだろうか?
少し世知辛くなった現代の日本社会にも時には必要なフレーズだと、泰男は「マイペンライ、マイペンラーイ」と語尾を長く伸ばして小声で唄いながら、仏壇の脇に飾ってあるシルクの民族衣装をまとい合掌ワイのポーズをしている細身の人形を手に取って、フッと埃を吹き払った。
タイと言えば幼い頃に母から聞いた父、泰三の話をふと思い出した。
泰男の父、佐藤泰三は第二次世界大戦末期、大日本帝国陸軍の軍医として、タイ西部カンチャナブリにある、日本軍の駐屯基地に配属されていた。当時日本はタイと同盟関係を結び、ビルマ戦線やインドシナ半島での戦闘や物資の調達のために、タイ国内に軍の駐屯基地を構えていた。無謀な戦略といわれたビルマからインドのインパールに通じる鉄路、泰緬鉄道の建設には、多くの連合国の捕虜や現地やアジア各国の人々が鉄道建設に動員され、過酷な労働環境の中で、マラリア・コレラなどの風土病に侵され十万人以上の犠牲者を出したといわれる。終戦間近に泰三は、最も悲惨な建設現場であったクェー河鉄橋の袂の診療所で病人の診察や治療にあたっていた。当時は敗戦間近、日本軍の診療所には治療できる薬も設備も乏しく、泰三は日本人だけでなく、捕虜となって労働を課せられている西洋人や現地のタイ人やアジア諸国からの出稼ぎ労働者を診察して回った。
泰三は本来の軍務として、地域のタイ人の生活様式や食生活などを調査するのが本来の任務で、駐屯地内の日本軍人の健康状態を管理する一方、通訳と共に村に出てタイ人の食卓を見に行ったり、屋台や食堂で現地のタイ人が食べるものと同じものを食べたり、当初は平和的な日常を送っていた。しかし、既にタイ政府は敗戦色の濃い日本と同盟を続けるより、連合国側につく方が賢明という国策に転換した。そして日本は遂にその大東亜共栄圏の国策が崩壊し始めたころ、徐々にタイの一般社会にも駐屯日本軍、日本人への嫌悪感が増してきた時期でもあった。
そのような不穏な戦況の中でも、泰三は村の中をタイ人の通訳を連れて歩き回り、人々の暮らしぶりや食べ物について調べて回るのが日課だった。もともと辛い物が好きだった泰三には唐辛子がたっぷり利いたタイ料理の味は口に合った。唐辛子をふんだんに使い、タイ原産のハーブの一種ガパオと、豚バラ肉をカリカリに揚げたものを一緒に炒めた料理は泰三の大好物だった。しかし、辛さのせいで口の中がまるで火事のように熱くなり、顔が火照り、まつ毛から汗が滴り落ちてくる…常夏の国でこの残酷ともいえるタイ料理の洗礼にはいつまで経っても慣れることはなかった。タイ料理と言えば、一般的には唐辛子を使った辛い料理のイメージがあるが、実は料理の中には甘いものや、酸っぱい味付け、また日本のお吸い物のようなワカメと豆腐だけの薄味のスープがあったりする。恐らく移民の華僑が多いタイなので、彼らが持ち込んだ中華料理が、タイ料理の一部として浸透していったものであろう。
ある日、泰三は駐屯所の若いタイ人の将校で、日本語の通訳を担当しているタムを伴って村の中心部にある朝市へと向かった。まだ朝六時すぎというのに強烈な南国の朝日は泰三の胸を差し、アイロンがピシッとかかった生成りの開襟シャツに身を包み、部屋に差し込む強い朝の日差しに幾度か瞬きをした。
「今日も暑いな…」
うんざりするような常夏の朝にため息交じりに呟いた。
タイの気候は暑季、雨季、乾季の熱帯モンスーン気候でとにかく年中暑い。特に泰三が駐屯している地域はタイの中部の広大な平野にあり、肌を突き刺すような強烈な日差しと、むせかえるような大地の熱風には慣れることはなかった。富士山の麓の村で育った泰三は時折、日本のふるさとの凍える冬の寒さを思い出し、ブルっと身震いをしてみるが、南国の灼熱の太陽の熱視線をごまかすことはできなかった。
泰三は外出の際も、軍隊の厳しい規則に従って軍装を整える。大日本帝国陸軍の制服のうち夏季の通常勤務に用いられていた開襟の軍服だ。両肩につけられた肩章には星印が一つついており、赤十字の腕章を付け直すと“佐藤軍医”の威厳を醸し出していた。しかしながら、村のタイ人たちは風通しの良さそうなシルクか麻の薄手の上着を着ており、特に女性のスカートはくるぶしまであり、その柄には象や縞模様が施され、日本では見たこともないような伝統的な衣装を身に着けている。
「俺もあんな涼しい服装が欲しい…」と通訳のタムに強請るように言った。
タムは「また始まったか…」というような顔をして「ダメです、それはダメです」と泰三に即答する。タイの現地の人達の生活様式や食生活を調査していく内にだんだんと興味を持ちはじめ、なんでも食べたい、やってみたい、欲しい、欲しいと通訳のタムを困らせるのであった。
一通り村を一周して駐屯地へ戻ってきた泰三とタムは、敷地を囲っている白い塀に沿って並んでいる数軒のテントの屋台の前で立ち止まった。ちょうど昼前だったので、駐屯地に勤めるタイ人の兵士や役人たちが昼食や、飲み物、お菓子などを買いに来ている。毎朝、泰三の診察室へ掃除にやってくるタイ人の初老の女性パイリンが、バナナの葉っぱで包んだ甘いココナッツのお菓子を持って来てくれることがある。それは今でもタイ人にも日本人旅行者にも大人気のタイのスィーツだ。
「カノム・クルック」という、椰子の実のミルクを原料にした、たこ焼きを半分にして焼き上げたもの、椰子砂糖をまぶし揚げた丸いドーナツのような「カノム・カイヒア」、小さなバナナを薄く切って揚げた「クルアイ・トーッ」など、南国特有の材料を使った甘いタイのお菓子の店が並んでいる。泰三はそのタイの身体が蕩けそうになるくらいの甘いお菓子が至極気に入り、パイリンさんが掃除に部屋に入ってくる時は、今日はどんなお菓子を持って来てくれるのかと密かに期待をしたりしていた。
「タイの伝統のお菓子は実に美味い!」
自分の事務所の机の上に広げられたタイのお菓子を素手にとって頬張りながら一人でニヤリとするのであった。日本にもこんなお菓子があったらいいのになぁ、と少し故郷の和菓子と相比べることもあった。
翌日も泰三は外出した。しかしその日は塀沿いの屋台へ真っ先に足を進め、一軒のタイのお菓子売り、マリーの店の前で足を止めた。泰三はこの店の若い女性に見覚えがある。タイ人の若い兵士や役人たちが数人屋台に群がって、マリーをからかいながらお菓子を買っていく。歳の頃は二十歳くらいだろうか、タイ人独特の健康的な茶褐色の肌に生成りのブラウスがよく似合い、時々客と談笑しながら見せる屈託のない彼女の笑顔は、まるでこの国が戦時下にあることさえ、微塵も感じさせないほど癒されるのであった。店先には串に刺した三色の砂糖団子のようなものや、鶏卵を椰子糖に溶かして素麺のような甘い菓子、そして日本のたこ焼きを思い出せるあのお菓子、カノムクロックが並んでいた。
「ああ、パイリンさんはここであのお菓子を買ってきていたのか…」
泰三は満足げに、彼女のお菓子を作る腕前は相当なものだと悟り、店先に並んでいたお菓子をほとんど買ってから、通訳のタムに言った。
「タムさん、この女性にちょっと尋ねてくれないか」
「あの女性に『日本の餅』は作れるか?って訊いてほしいのです!」
「日本の餅が作れるか、早く訊いてください!」
タムは若い将校だが、日本語が堪能でタイ陸軍の兵学校で日本語を勉強したという。駐屯地の中にある食堂では時折日本本国からの食糧の配給があり、彼はある日厨房で餅の木箱があったのを覚えていた。それはちょうど正月の時期で日本人の兵士たちが餅を焼いて、酒を酌み交わしながら意味のよくわからない日本の軍歌を唄いながら宴会をしていたのを覚えている。しかしその餅の配給もそれきりなくなってしまった。
タムはマリーに餅は作れるかということを、手振りを交えながら説明し尋ねている。タイにはもち米を主食とする地方もあるので、もち米があることを泰三は知っていた。泰三はこの美味しいお菓子を作って売っているマリーなら日本と同じ餅を作れるのはないかと思った。タムの説明がよく解らないのか、マリーは「モチ…モチ…」と首を左右に振っている。泰三はタムの説明を遮って、
「そうだ!餅だ!餅!日本の餅を作ってくれるか!」
と日本語で声を上げた。隣の野菜売りの屋台の男がびっくりして椅子から飛び上がった。
泰三はタムに真剣な表情で、祖国日本の餅の作り方を教えるからこの女性に作ってもらえないか、とでも言ったのだろう。日本軍部からの配給も停まってしまい、駐屯地の日本人たちも故郷の餅が食べたいだろうと思っていた。祖国を離れ外国に住んでいると時々日本の郷土料理や和菓子が恋しくなるものだ。
一方、マリーは戸惑いながらも、生まれて初めて話しかけられる異国の軍人の教えるまま、餅を作ってみようかと考えた。日本人が好む餅などマリーにはどんなものかさえわからなかったが、タイにはもち米を食べる習慣もあり、もち米を使ったお菓子もマリーは作ったことがあったので、また餅を作れば日本の軍人さんがたくさん買いに来てくれるだろうと仄かな期待があった。それ以上に、この日本軍医の持つ柔らかな表情の、そして凛々しい軍服姿の泰三に話しかけられたことに、なんとなく戸惑いと驚きを隠すことができず、
「カー(はい)…」と細い声で一言返すのが精一杯だった。
それからというもの、通訳のタムをマリーの店まで連れて行き、身振り手振りを交えながら、時折泰三自身がもち米を研いだり捏ねたりして、できた餅を味見したりして日本の餅の作り方を一つずつ教えていった。
マリーは色々なアイデアで餅の中に入れる餡を考えた。大豆、黒豆、緑豆…すべてタイ人が料理やお菓子に食べているものばかりだが、それらを餅の中に入れていわゆる『大福餅』のようなものをいくつか作ってみた。恐らく泰三は純粋な日本の餅を想像していたのだろう、焼いて醤油をつけて食べる程度に考えていたのではないか、まさかマリーがそれを『大福餅』に仕上げてしまうなんて泰三は驚くに違いない。
「サトーさん、できました!食べてみてください!」
数日後、泰三はタムを連れていつものように駐屯所の門を出て村へ歩き出した。その時、道端から自分を呼ぶ声がした。すぐにその声の主がマリーだとわかり、踵を九十度返して泰三はマリーの店先に急いで行った。
「おお、できましたか!どれどれ」
泰三は満面の笑みを浮かべながら、出来立てで熱々の餅を想像していたのだが、恐らくマリーの自宅で作ってきたのであろう、小さなバナナの葉で作った器に団子のようなまん丸の『大福餅』が三つ並んでいた。マリーの手が震えて器の中の団子が毬球のように揺れている。
「お口に合うかわかりませんが…」
震える手と口で、マリーの心臓の鼓動が泰三に聞こえるのではないかと心配になった。マリーは恐る恐るバナナの葉で作った器を泰三の胸元に差しだした。不味いと言われたりでもしたら、この軍人の帯刀で首を落とされてしまうのではないかというくらいにマリーの緊張は絶頂に達していた。
泰三は一つ摘まんで、ぽいと口に入れた。口を縦や横にもぐもぐさせながら沈黙が流れる。そして泰三は眉を寄せて難しそうな顔をしたかと思うと、おもむろに目を剥いた。
「おおお、これは美味い、大福餅だな、味は上等、上等!」
マリーが差し出した餅はまさしく日本の『大福餅』そのものであった。中身には大豆や赤豆を漉して餡にして詰め、また地元で獲れる緑豆も加えた三種類の大福餅になっていた。現在でも大福餅は日本の和菓子として老若男女問わず、日本人のソウルフードとして絶大な人気がある。泰三はマリーの大福餅を素手で一ずつ口に入れ、じっくり味わいながら、時にはうーんと頭を上下に振りながら、美味い、美味いと口いっぱいに頬張りながら連呼する。泰三の言葉にようやく全身の硬直から解放されたかのようにマリーはいつもの笑顔を取り戻し、泰三に向って、
「コープクンカー!(ありがとうございます)」
マリーは八重歯が愛らしい白い歯を見せて笑った。
日本の軍人に褒められたことがマリーは嬉しくてしょうがなかった。泰三は大福餅を嬉しそうに優しい笑顔でマリーに言った。
「ありがとう!君の作った大福餅は上等品だ、本当に美味しい」
泰三の周囲にいた村人や、通訳のタムまでもが興味津々で、店先の小さな台に並べられた大福餅を指さしながら、我先に買い求め泰三と同じようにその場で頬張り始め、中には慌てて食べて喉を詰まらせ周囲から笑われている輩もいた。マリーは泰三の目が少し涙で潤んでいるように見え、故郷日本の和菓子を想い出しているのだろうか、軍人とはいえ、故郷に想いを馳せる血の通った心の優しい人なのだとマリーは思った。
それからマリーが作る『大福餅』は村中で人気となり、日本の軍人だけでなく村の役人や、畑仕事を終えて帰宅途中の村人たちも買いに来るようになった。マリーはこれまで作って売っていたお菓子に加え、泰三に作り方を教えてもらった餅を売りながら家族を支えることができると、泰三に対する感謝と、異国の軍人男性に対する畏敬の念を抱くようになっていった。
マリーには少しの歳の離れた兄がいた。苦学して土木建築技術の学校を卒業し、生活を支えてくれていた。兄は日本軍のタイ人技師としてかなりの俸給で雇用され、泰緬鉄道の鉄橋の設計や現場で建設指揮を執っていた。しかし、バンコク都心部への橋梁建設に携わっていた時に、連合国軍の空襲で死亡している。
タイは当時、日本との同盟を結んでいた為、英国軍によるバンコク郊外の日本軍拠点への爆撃はしばし行われていた。父親を幼い頃に失くしたマリーにとって兄は、優しくて頼れる存在であった。そんな中、生まれて初めて出会い、日本の餅の作り方を教えてくれた日本人の泰三に兄のような温かさを覚え、優しい面影を思い起こさせるのであった。
マリーのお菓子の店も『大福餅』のおかげで、朝早くに作ったものは昼までに全部売り切れてしまい、昼休みに泰三が昼食の帰りに買いに来る頃にはもうなくなっていることもあった。泰三は残念がりながらも、自分がマリーに教えた餅が、タイの人達にも受け入れられ、人気が出たことに喜びを覚えた。どうしても食べたくなった日には、通訳のタムを使いにやらせ、仕事の休憩時には兵舎の若い日本人たちに振舞って、配給が止まってしまった日本の緑茶の代わりに、タイ産の芳醇な香りのジャスミン茶を啜りながら談笑する。このまま無事に戦争が終わって日本に帰ることができたら、このタイのジャスミン茶をお土産に持って帰るつもりだ。
その日の夕暮れ時、赤く染まった西の空が鉛色に変わり、にわかに振り出した南国のスコールの大きな雨粒が、兵舎の庭のバナナの葉っぱを叩き始めた。同時に雷雲を切り裂く轟音が同時にやってきた……
「タイは暑いんだろうか…息子泰地は元気でやっているだろうか」
泰男の一人息子、泰地のタイでの生活にまるで自分を重ねているような、そんな気持ちになっていた。
泰地は30歳、国立医大で伝染病を研究する若い医者だ。外務省に勤める叔父の勧めもあって、今年から東南アジアの経済をけん引する、タイ王国の日本大使館へ医務官として赴任している。学生の頃から英語が得意とあって、社会人になってからも世界各国へバックパッカーとしてあちこち飛び回っていた。しかし、今回赴任するタイは泰地にとって初めての国だ。息子の初めての海外赴任ということもあって、彼の成長の機会を喜ぶと同時に、どうか無事に任務を終えて帰ってきて欲しいと願っている。
タイは大の親日国で「微笑の国」として日本人にもよく知られている。トムヤムクンで有名なタイ料理も日本でもかなりの人気があるようだ。人口約7千万人でかつては農業立国であったが、今では日系メーカーを中心に自動車産業がとって代わり、国の重要な経済を担っている。冬がなく年中常夏の国のタイ人と言えば、その陽気な性格や、マイペンライ(大丈夫、気にしない)というフレーズで有名だ。
泰男はまだタイには一度も行ったことはないが、会社の同僚が数年前にタイの自社工場へ駐在員として赴任しており、帰任後にタイ人ののんびりさについてボヤキなのか羨ましいのか、タイ人との仕事の難しさを聞かされたことがある。陽気でのんびりな国の人と働くのが、そんなに日本人にとってやりにくいと感じるのは何故だろうと思ったことがある。
逆に日本人の仕事のやり方がタイ人にとっては理解しがたいものなのかもしれない。日本人は時間に厳格で、タイ人のことを時間にルーズだと小馬鹿にしているらしいが、その同僚がタイ人から言われたそうだ。「日本人は時間に厳しいというが、朝はぴったり始業時間を守るが、就業時間が来てもいつまでも会社にいて残業している…」と。言われてみればそうだ、今では『働き方改革』などとその意味さえよく解らない言葉が国策のように取り出たされているが、そもそも『働き方』さえ日本人は忘れてしまったのだろうか?
少し世知辛くなった現代の日本社会にも時には必要なフレーズだと、泰男は「マイペンライ、マイペンラーイ」と語尾を長く伸ばして小声で唄いながら、仏壇の脇に飾ってあるシルクの民族衣装をまとい合掌ワイのポーズをしている細身の人形を手に取って、フッと埃を吹き払った。
タイと言えば幼い頃に母から聞いた父、泰三の話をふと思い出した。
泰男の父、佐藤泰三は第二次世界大戦末期、大日本帝国陸軍の軍医として、タイ西部カンチャナブリにある、日本軍の駐屯基地に配属されていた。当時日本はタイと同盟関係を結び、ビルマ戦線やインドシナ半島での戦闘や物資の調達のために、タイ国内に軍の駐屯基地を構えていた。無謀な戦略といわれたビルマからインドのインパールに通じる鉄路、泰緬鉄道の建設には、多くの連合国の捕虜や現地やアジア各国の人々が鉄道建設に動員され、過酷な労働環境の中で、マラリア・コレラなどの風土病に侵され十万人以上の犠牲者を出したといわれる。終戦間近に泰三は、最も悲惨な建設現場であったクェー河鉄橋の袂の診療所で病人の診察や治療にあたっていた。当時は敗戦間近、日本軍の診療所には治療できる薬も設備も乏しく、泰三は日本人だけでなく、捕虜となって労働を課せられている西洋人や現地のタイ人やアジア諸国からの出稼ぎ労働者を診察して回った。
泰三は本来の軍務として、地域のタイ人の生活様式や食生活などを調査するのが本来の任務で、駐屯地内の日本軍人の健康状態を管理する一方、通訳と共に村に出てタイ人の食卓を見に行ったり、屋台や食堂で現地のタイ人が食べるものと同じものを食べたり、当初は平和的な日常を送っていた。しかし、既にタイ政府は敗戦色の濃い日本と同盟を続けるより、連合国側につく方が賢明という国策に転換した。そして日本は遂にその大東亜共栄圏の国策が崩壊し始めたころ、徐々にタイの一般社会にも駐屯日本軍、日本人への嫌悪感が増してきた時期でもあった。
そのような不穏な戦況の中でも、泰三は村の中をタイ人の通訳を連れて歩き回り、人々の暮らしぶりや食べ物について調べて回るのが日課だった。もともと辛い物が好きだった泰三には唐辛子がたっぷり利いたタイ料理の味は口に合った。唐辛子をふんだんに使い、タイ原産のハーブの一種ガパオと、豚バラ肉をカリカリに揚げたものを一緒に炒めた料理は泰三の大好物だった。しかし、辛さのせいで口の中がまるで火事のように熱くなり、顔が火照り、まつ毛から汗が滴り落ちてくる…常夏の国でこの残酷ともいえるタイ料理の洗礼にはいつまで経っても慣れることはなかった。タイ料理と言えば、一般的には唐辛子を使った辛い料理のイメージがあるが、実は料理の中には甘いものや、酸っぱい味付け、また日本のお吸い物のようなワカメと豆腐だけの薄味のスープがあったりする。恐らく移民の華僑が多いタイなので、彼らが持ち込んだ中華料理が、タイ料理の一部として浸透していったものであろう。
ある日、泰三は駐屯所の若いタイ人の将校で、日本語の通訳を担当しているタムを伴って村の中心部にある朝市へと向かった。まだ朝六時すぎというのに強烈な南国の朝日は泰三の胸を差し、アイロンがピシッとかかった生成りの開襟シャツに身を包み、部屋に差し込む強い朝の日差しに幾度か瞬きをした。
「今日も暑いな…」
うんざりするような常夏の朝にため息交じりに呟いた。
タイの気候は暑季、雨季、乾季の熱帯モンスーン気候でとにかく年中暑い。特に泰三が駐屯している地域はタイの中部の広大な平野にあり、肌を突き刺すような強烈な日差しと、むせかえるような大地の熱風には慣れることはなかった。富士山の麓の村で育った泰三は時折、日本のふるさとの凍える冬の寒さを思い出し、ブルっと身震いをしてみるが、南国の灼熱の太陽の熱視線をごまかすことはできなかった。
泰三は外出の際も、軍隊の厳しい規則に従って軍装を整える。大日本帝国陸軍の制服のうち夏季の通常勤務に用いられていた開襟の軍服だ。両肩につけられた肩章には星印が一つついており、赤十字の腕章を付け直すと“佐藤軍医”の威厳を醸し出していた。しかしながら、村のタイ人たちは風通しの良さそうなシルクか麻の薄手の上着を着ており、特に女性のスカートはくるぶしまであり、その柄には象や縞模様が施され、日本では見たこともないような伝統的な衣装を身に着けている。
「俺もあんな涼しい服装が欲しい…」と通訳のタムに強請るように言った。
タムは「また始まったか…」というような顔をして「ダメです、それはダメです」と泰三に即答する。タイの現地の人達の生活様式や食生活を調査していく内にだんだんと興味を持ちはじめ、なんでも食べたい、やってみたい、欲しい、欲しいと通訳のタムを困らせるのであった。
一通り村を一周して駐屯地へ戻ってきた泰三とタムは、敷地を囲っている白い塀に沿って並んでいる数軒のテントの屋台の前で立ち止まった。ちょうど昼前だったので、駐屯地に勤めるタイ人の兵士や役人たちが昼食や、飲み物、お菓子などを買いに来ている。毎朝、泰三の診察室へ掃除にやってくるタイ人の初老の女性パイリンが、バナナの葉っぱで包んだ甘いココナッツのお菓子を持って来てくれることがある。それは今でもタイ人にも日本人旅行者にも大人気のタイのスィーツだ。
「カノム・クルック」という、椰子の実のミルクを原料にした、たこ焼きを半分にして焼き上げたもの、椰子砂糖をまぶし揚げた丸いドーナツのような「カノム・カイヒア」、小さなバナナを薄く切って揚げた「クルアイ・トーッ」など、南国特有の材料を使った甘いタイのお菓子の店が並んでいる。泰三はそのタイの身体が蕩けそうになるくらいの甘いお菓子が至極気に入り、パイリンさんが掃除に部屋に入ってくる時は、今日はどんなお菓子を持って来てくれるのかと密かに期待をしたりしていた。
「タイの伝統のお菓子は実に美味い!」
自分の事務所の机の上に広げられたタイのお菓子を素手にとって頬張りながら一人でニヤリとするのであった。日本にもこんなお菓子があったらいいのになぁ、と少し故郷の和菓子と相比べることもあった。
翌日も泰三は外出した。しかしその日は塀沿いの屋台へ真っ先に足を進め、一軒のタイのお菓子売り、マリーの店の前で足を止めた。泰三はこの店の若い女性に見覚えがある。タイ人の若い兵士や役人たちが数人屋台に群がって、マリーをからかいながらお菓子を買っていく。歳の頃は二十歳くらいだろうか、タイ人独特の健康的な茶褐色の肌に生成りのブラウスがよく似合い、時々客と談笑しながら見せる屈託のない彼女の笑顔は、まるでこの国が戦時下にあることさえ、微塵も感じさせないほど癒されるのであった。店先には串に刺した三色の砂糖団子のようなものや、鶏卵を椰子糖に溶かして素麺のような甘い菓子、そして日本のたこ焼きを思い出せるあのお菓子、カノムクロックが並んでいた。
「ああ、パイリンさんはここであのお菓子を買ってきていたのか…」
泰三は満足げに、彼女のお菓子を作る腕前は相当なものだと悟り、店先に並んでいたお菓子をほとんど買ってから、通訳のタムに言った。
「タムさん、この女性にちょっと尋ねてくれないか」
「あの女性に『日本の餅』は作れるか?って訊いてほしいのです!」
「日本の餅が作れるか、早く訊いてください!」
タムは若い将校だが、日本語が堪能でタイ陸軍の兵学校で日本語を勉強したという。駐屯地の中にある食堂では時折日本本国からの食糧の配給があり、彼はある日厨房で餅の木箱があったのを覚えていた。それはちょうど正月の時期で日本人の兵士たちが餅を焼いて、酒を酌み交わしながら意味のよくわからない日本の軍歌を唄いながら宴会をしていたのを覚えている。しかしその餅の配給もそれきりなくなってしまった。
タムはマリーに餅は作れるかということを、手振りを交えながら説明し尋ねている。タイにはもち米を主食とする地方もあるので、もち米があることを泰三は知っていた。泰三はこの美味しいお菓子を作って売っているマリーなら日本と同じ餅を作れるのはないかと思った。タムの説明がよく解らないのか、マリーは「モチ…モチ…」と首を左右に振っている。泰三はタムの説明を遮って、
「そうだ!餅だ!餅!日本の餅を作ってくれるか!」
と日本語で声を上げた。隣の野菜売りの屋台の男がびっくりして椅子から飛び上がった。
泰三はタムに真剣な表情で、祖国日本の餅の作り方を教えるからこの女性に作ってもらえないか、とでも言ったのだろう。日本軍部からの配給も停まってしまい、駐屯地の日本人たちも故郷の餅が食べたいだろうと思っていた。祖国を離れ外国に住んでいると時々日本の郷土料理や和菓子が恋しくなるものだ。
一方、マリーは戸惑いながらも、生まれて初めて話しかけられる異国の軍人の教えるまま、餅を作ってみようかと考えた。日本人が好む餅などマリーにはどんなものかさえわからなかったが、タイにはもち米を食べる習慣もあり、もち米を使ったお菓子もマリーは作ったことがあったので、また餅を作れば日本の軍人さんがたくさん買いに来てくれるだろうと仄かな期待があった。それ以上に、この日本軍医の持つ柔らかな表情の、そして凛々しい軍服姿の泰三に話しかけられたことに、なんとなく戸惑いと驚きを隠すことができず、
「カー(はい)…」と細い声で一言返すのが精一杯だった。
それからというもの、通訳のタムをマリーの店まで連れて行き、身振り手振りを交えながら、時折泰三自身がもち米を研いだり捏ねたりして、できた餅を味見したりして日本の餅の作り方を一つずつ教えていった。
マリーは色々なアイデアで餅の中に入れる餡を考えた。大豆、黒豆、緑豆…すべてタイ人が料理やお菓子に食べているものばかりだが、それらを餅の中に入れていわゆる『大福餅』のようなものをいくつか作ってみた。恐らく泰三は純粋な日本の餅を想像していたのだろう、焼いて醤油をつけて食べる程度に考えていたのではないか、まさかマリーがそれを『大福餅』に仕上げてしまうなんて泰三は驚くに違いない。
「サトーさん、できました!食べてみてください!」
数日後、泰三はタムを連れていつものように駐屯所の門を出て村へ歩き出した。その時、道端から自分を呼ぶ声がした。すぐにその声の主がマリーだとわかり、踵を九十度返して泰三はマリーの店先に急いで行った。
「おお、できましたか!どれどれ」
泰三は満面の笑みを浮かべながら、出来立てで熱々の餅を想像していたのだが、恐らくマリーの自宅で作ってきたのであろう、小さなバナナの葉で作った器に団子のようなまん丸の『大福餅』が三つ並んでいた。マリーの手が震えて器の中の団子が毬球のように揺れている。
「お口に合うかわかりませんが…」
震える手と口で、マリーの心臓の鼓動が泰三に聞こえるのではないかと心配になった。マリーは恐る恐るバナナの葉で作った器を泰三の胸元に差しだした。不味いと言われたりでもしたら、この軍人の帯刀で首を落とされてしまうのではないかというくらいにマリーの緊張は絶頂に達していた。
泰三は一つ摘まんで、ぽいと口に入れた。口を縦や横にもぐもぐさせながら沈黙が流れる。そして泰三は眉を寄せて難しそうな顔をしたかと思うと、おもむろに目を剥いた。
「おおお、これは美味い、大福餅だな、味は上等、上等!」
マリーが差し出した餅はまさしく日本の『大福餅』そのものであった。中身には大豆や赤豆を漉して餡にして詰め、また地元で獲れる緑豆も加えた三種類の大福餅になっていた。現在でも大福餅は日本の和菓子として老若男女問わず、日本人のソウルフードとして絶大な人気がある。泰三はマリーの大福餅を素手で一ずつ口に入れ、じっくり味わいながら、時にはうーんと頭を上下に振りながら、美味い、美味いと口いっぱいに頬張りながら連呼する。泰三の言葉にようやく全身の硬直から解放されたかのようにマリーはいつもの笑顔を取り戻し、泰三に向って、
「コープクンカー!(ありがとうございます)」
マリーは八重歯が愛らしい白い歯を見せて笑った。
日本の軍人に褒められたことがマリーは嬉しくてしょうがなかった。泰三は大福餅を嬉しそうに優しい笑顔でマリーに言った。
「ありがとう!君の作った大福餅は上等品だ、本当に美味しい」
泰三の周囲にいた村人や、通訳のタムまでもが興味津々で、店先の小さな台に並べられた大福餅を指さしながら、我先に買い求め泰三と同じようにその場で頬張り始め、中には慌てて食べて喉を詰まらせ周囲から笑われている輩もいた。マリーは泰三の目が少し涙で潤んでいるように見え、故郷日本の和菓子を想い出しているのだろうか、軍人とはいえ、故郷に想いを馳せる血の通った心の優しい人なのだとマリーは思った。
それからマリーが作る『大福餅』は村中で人気となり、日本の軍人だけでなく村の役人や、畑仕事を終えて帰宅途中の村人たちも買いに来るようになった。マリーはこれまで作って売っていたお菓子に加え、泰三に作り方を教えてもらった餅を売りながら家族を支えることができると、泰三に対する感謝と、異国の軍人男性に対する畏敬の念を抱くようになっていった。
マリーには少しの歳の離れた兄がいた。苦学して土木建築技術の学校を卒業し、生活を支えてくれていた。兄は日本軍のタイ人技師としてかなりの俸給で雇用され、泰緬鉄道の鉄橋の設計や現場で建設指揮を執っていた。しかし、バンコク都心部への橋梁建設に携わっていた時に、連合国軍の空襲で死亡している。
タイは当時、日本との同盟を結んでいた為、英国軍によるバンコク郊外の日本軍拠点への爆撃はしばし行われていた。父親を幼い頃に失くしたマリーにとって兄は、優しくて頼れる存在であった。そんな中、生まれて初めて出会い、日本の餅の作り方を教えてくれた日本人の泰三に兄のような温かさを覚え、優しい面影を思い起こさせるのであった。
マリーのお菓子の店も『大福餅』のおかげで、朝早くに作ったものは昼までに全部売り切れてしまい、昼休みに泰三が昼食の帰りに買いに来る頃にはもうなくなっていることもあった。泰三は残念がりながらも、自分がマリーに教えた餅が、タイの人達にも受け入れられ、人気が出たことに喜びを覚えた。どうしても食べたくなった日には、通訳のタムを使いにやらせ、仕事の休憩時には兵舎の若い日本人たちに振舞って、配給が止まってしまった日本の緑茶の代わりに、タイ産の芳醇な香りのジャスミン茶を啜りながら談笑する。このまま無事に戦争が終わって日本に帰ることができたら、このタイのジャスミン茶をお土産に持って帰るつもりだ。
その日の夕暮れ時、赤く染まった西の空が鉛色に変わり、にわかに振り出した南国のスコールの大きな雨粒が、兵舎の庭のバナナの葉っぱを叩き始めた。同時に雷雲を切り裂く轟音が同時にやってきた……