ひとまず防火扉の無い方の階段を上がった。声の通り方からして、同じ階ではない気がした。4階に上がり、件の掲示板の前に来る。人影はない。


「いない、ね」

「ああ。眼鏡を落としたのなら、今のルートのどこかだと思ったんだが」


 もう既に回収したのだろうか。ならば、教室に戻る前にあいつと鉢合わせた可能性が高い。階段を踏む音はなかったから、4階のどこかに留まっているはず。


「ね、ねぇ、奏太朗……」


 不意に椿が僕の肩を叩いた。瞳に恐怖の色が揺らいでいた。震える指が、僕の前、少し遠い床を指す。灯りをそちらに向け、目を凝らした。真っ赤でぬらりした光が返ってきた。


「えっ……」


 光をその先に向けた。小さな赤い水たまりが、ぽつぽつと奥につながっている。何も考えず、その跡を辿った。肩に置かれた椿の手の振動が激しい。それは僕たちがいた校舎とは反対の校舎の階段まで続いていた。登っているようだった。ゆっくりと上に光を当てた。


「〜〜〜っ!?」


 危うく叫ぶところだった。


 階段の上には静佳がいた。横たわる姿で。黒髪の一部が赤くて。その隣には、例のあいつが立ち尽くしていた。背中を見せていた仮面が、ゆっくりと僕たちの方に振り向く。手に持つ刃が地面と擦れ、不協和音を奏でた。


「逃げるぞっ!」


 僕は椿の手を引いて階段を駆け降りた。3階に下り、北校舎に繋がる廊下を掛ける。とにかく隠れるところを見つけなければ。何気なく後方を確認すると、ちらつく懐中電灯の中で赤が追いかけてきていた。「ひゅっ」と喉が鳴る。


「どどっ、どうすんの!?」

「奴の視界に入らないうちに何処かに隠れる」

「何処かって……」

「教室しかないだろうな」


 角を曲がり、一番近い扉から教室に滑り込んだ。付近にあった掃除ロッカーに2人で入り、息を殺す。どくどくと心臓が煩かった。


 足跡が近づく。ノコギリの擦れる振動が鼓膜に響く。口を抑える手に力を込めた。どうか見つからないように。


「………」


 一瞬だけ静かになった。その後、勢いよく教室の扉が開けられる。


「……っ!」


 心臓に悪い。危うく声が漏れるところだった。


 足音が前を通り過ぎる。掃除ロッカーはスルーしたらしい。左に行って、前に行って……と教室を周回しているようだった。再び足跡が近づいてきた時、がたりと扉が揺れる。


「!!」


 バレたのかと焦った。しかし、故意にぶつかっただけのようで、足音は教室の扉を閉めると共に遠ざかっていく。


「助かった……?」

「分からない。もうしばらくだけ隠れよう」


 そこから数分、狭い空間で椿と息を潜めた。ふと体が密接していることに気づき、椿に申し訳ないと思うもどうすることもできない。無論、流石の僕でもこの状況にドギマギしないわけでは無いが、それよりも恐怖心が圧倒的に勝っていた。


「……そろそろ出てもいいかな?」

「そうだな」


 しかし、僕が目の前の板を押すより先に視界が開けた。


「ひっ」

「安心しろ俺だ俺!」


 現れたのは泰介。小声で自身の名前を繰り返す。僕らは胸を撫で下ろした。


「なんだ泰介か。あいつに待ち伏せされてたのかと思ったよ……」

「悪い。俺もあいつに見つかんないように来たんだ」

「僕たちが隠れているところを見てたのか?」

「まあな」


 僕らは教室の隅に移動し、身を寄せた。体格の良い泰介は隣にいるだけで安心する。そう思っていたところ、彼の手に懐中電灯が無いことに気づいた。じっと泰介を見ていたところ、僕の視線に気づいたのか彼と目が合う。


「ど、どうした?」

「いや、懐中電灯を持っていないからどうしたのかと気になっただけだ」

「ああ、あれな。静佳に預けたんだ」

「静佳に?」

「そうだ。あいつの眼鏡を見つけてすぐに奴に見つかってよ、バラバラに逃げることにしたから渡したんだ」

「そう、なのか……」


 静佳。その名前が出てきて、階段の光景が脳裏に蘇る。たった一瞬しか見ていない彼女の姿に胸が締め付けられた気がした。


「奏太朗は静佳に出会っていないか?俺は何とか逃げ切れたんだが、隠れている時に叫び声みたいなもんが聞こえた気がして……」

「……」


 伝えるべきか迷った。あの生々しい光景を言ってしまえば、きっと泰介は絶望と共に罪悪感に苛まれる。伝えるか否か、僕の中では決められなかった。


「会った、というより、見た」

「見た?」

「ああ」


 僕は泰介の目を食い入るように見つめる。


「静佳の状況を伝える。聞いて驚かないで欲しい。あと、自分のせいだとは絶対に思い込むな」

「あ、ああ、分かった……」

「彼女は倒れていた。それも多分、頭から出血している」

「……は?」


 信じられないという表情だった。理解はできる。というより、信じたく無いだろう。別れて逃げて、片方が逃げ延び、片方は死んだなんて最悪な結末だ。でも、これが現実。


「おそらく、あいつに襲われたんだ」

「……マジかよ」


 案の定、驚きと絶望が入り混じった表情を浮かべた泰介は、自身の手で顔を覆う。当然の反応だ。


「でも、泰介は責任を感じる必要なんてない。悪いのは全部あいつだ」

「そうだよ。泰介が罪悪感なんて背負わなくて大丈夫」

「……ああ、そうだな」


 顔を上げた泰介は笑っていたが、少しまいっているようだった。「よし」と彼は頬を叩く。


「取り敢えず俺らは、変わらず脱出を目指すってわけだな」

「ああ」

「なら、そろそろ動くか?流石にずっとここに留まるわけにもいかないだろ」

「でも、あいつが彷徨(うろつ)いているんじゃ……」

「多分音で分かる。それに、この教室は一度見てる。だから戻ってくるのはまだ掛かるだろう」

「今がチャンスってわけだな」


 僕らは立ち上がる。白い床、淡い光に浮かぶ3つの人影。あいつの音は聞こえない。


「よし、出るぞ」


 教室から出た。あと少し。