「死にたいな」
ある日、ポロリとそんな言葉を溢した。ほとんど無意識に。
別に学校でいじめられていたとか、劣悪な家族環境下にいたとか、ネットで誹謗中傷されたとか、大きな出来事に苛まれたわけじゃない。
むしろ、私は恵まれた環境にいた。両親は絵に描いたような理想的な人達だった。同級生も驚くくらい仲が良くて、学校も申し分ないほど良い場所だった。通っている塾もピアノ教室も、嫌だなんて思ったことなど人生において一度もない。
側から見るのはもちろん、自分自身でも幸せな生活を送っていると分かる。けど、だからこそ、だった。
あまりにも幸福ばかり溢れていた日常だったから、こんなにも幸せを享受して良いのだろうかという疑問が生まれるようになった。
私は平凡で、これといった才能の一つも持ち合わせていない。成績だって平均だし、身体能力も他人と比べて優れず劣らず。その上、迷子のお年寄りを案内する優しさや秩序を乱す生徒に立ち向かう勇敢さも無い。
どこにでもいる、ただの人間。そんな私が、こんな幸せな人生を送っても許されるものなのかと、そんな心配が芽生えた。
そして、次第に環境の良さが息苦しくなってしまった。好きなように生きたら良いという両親の優しさも、遊びに誘ってくれる友達の思いやりも、些細なことで褒めてくる先生の気遣いも。
全てが、私を苦しめた。こんな、何の取り柄もない自分に良い待遇をしてくれるみんなに申し訳ないと思うようになった。それで、いつからか家も学校も習い事先も、私の居場所はないように思えた。
苦しくて苦しくて苦しくて。だから、いっそいなくなりたいと願うようになった。それが基で溢れたのが、「死にたい」だ。
瞬間、私は姉に引っ叩かれた。頬に鋭い痛みが走るとともに、重心が後方に揺らぐ。
「バカなこと言ってんじゃないわよ!」
姉は泣いていた。怒ったように眉間に皺を寄せながら、ボロボロと涙をこぼしていた。
「なんで……っ!?健康なくせに!何の悩みもないくせにっ!」
悲痛な叫びだった。疑問と、嫉妬と、悲しみを帯びた声だった。
私は我に返って、姉の様子をまじまじと見つめる。白い患者服から伸びる腕は枝のように細くて、繋がる透明な管は痛々しい。そもそも、姉はベットの上にいるのだ。立つにも一苦労すると言っていたのを思い出す。
冷静になってから、血の気が引いた。私はなんてことを言ってしまったんだろう。目の前には、普通に生きたくても生きられない人がいるのに。
「ご、ごめっ──」
謝る前に、今度は前に引き寄せられていた。温もりが、私の冷えた体を包み込んでいた。微かな消毒液の匂いが鼻の奥にツンと漂う。
「良いんだよ、生きていて。継奈は生きていていいの。幸せに生きて良いんだよ」
「……ぁ」
首に冷たい何かが流れた。多分、姉の涙。
「恵まれた環境なら思う存分楽しめば良い。利用すれば良い。だから」
姉は腕を緩め、私の目を覗き込んだ。相変わらずの泣き顔だったけど、笑っていた。まるで天使のように。そうして姉は言った。
「命を、大事に」
「……うん」
それが、姉との最期の約束だった。