聞きなれない物音を耳にして、私は一階の廊下で立ち止まった。
 下校時間をとっくに過ぎていて、中学校の校舎にいる生徒はたぶん、忘れ物を取りに戻った私一人だ。
 このまま無視して帰ろうかと思ったが、なんとなく気になる。
 注意深く耳を澄ませてみると、音は理科準備室の中から聞こえているのがわかった。

 モサモサ。ザリザリ。
 やはり聞きなれない。何かがこすれる音。

 この中学は県内でもかなりの僻地で、周囲は森だらけ。以前イタチが廊下に入り込んで大騒ぎになったことがある。もしかして、また小動物が入ってきたのかもしれない。それなら出してやらなければ。
 驚かさないようにそっと戸を開ける。理科準備室は狭くて薄暗くて薬品の匂いに満ちていた。見渡したところそれらしいものはいなかったが、中央の机の向こうで何か動いた気がした。黄色いしっぽのようなもの。
 なんだ、猫か?

「怖くないよ~、出ておいで~」
 机の向こうをのぞき込む。
 影が動いた。
 むくりと起き上がって私を見つめる。猫じゃない。

 トラだった。

 なんの冗談だろう。笑えないし足がすくんで逃げることもできない。そのまま尻もちをついた。
 たぶん立ち上がったら2メートル以上あるのではないかと思うほどの巨体だ。大きな顔が、どんどんこっちに近づいてくる。もう無理だ。
 九条美羽14歳は、学校でトラに襲われてこの人生を閉じるのか。
 目の前が霞んでいく。

「九条、びっくりさせてごめん。大丈夫?」
 へたり込んだ私をのぞき込んで、トラがしゃべった。

 もう脳までおかしくなったらしい。トラがしゃべるとか。声なんか同級生の桐野蒼汰そっくりだし。

「僕、今はこんな姿だけど、桐野なんだ。同じ3年2組の桐野蒼汰。だから怖がらなくていい。信じてくれって言っても難しいかもしれないけど」
 少し喋りにくそうだったが、トラは確かにそう言った。
 私の頭はかつてないほど混乱していたが、自分を見つめてくるその目があまりにも静かで、あまりにも憂いを帯びているのを感じ取った。激しかった鼓動が少しづつ静まっていく。

「桐野……なの?」
 私のかすれた第一声に、トラは嬉しそうに琥珀色の目を細め、しっぽをうねらせた。
「そう、桐野なんだ。ああよかった。最初にバレたのが九条で」
 その言葉は、私の中の何かをブルンと揺さぶった。冷えて縮こまっていた内臓が急に熱を帯び、正常に動き出した気がした。

「九条、驚かした上に、こんなお願いは申し訳ないんだけど、このことは秘密にしてくれるかな。絶対誰にも言わないでほしい」
「……私は誰にも言わないけどさ、たぶんバレるよ? どっからどう見てもトラだもん。着ぐるみでも特殊メイクでもないよね?」
「大丈夫、あと1時間くらいしたら元に戻ると思う。この7日間で検証済みだから」
 桐野蒼汰はそう言って、横でくしゃくしゃになっている自分の制服に、ポンと前足を乗せた。


 カーテン越しの黄昏の色はどんどんくすんできたが、至近距離で見るトラは、とても美しかった。中身が桐野だと分かれば、もう怖さはない。彼とは家も近所だし、小学校からずっと同じクラスだった。
 小さい頃は互いを蒼汰、美羽と呼んでいたが、中学になって少し距離が出て、桐野、九条と呼ぶようになった。桐野はとにかくいつもマイペースで穏やか。男子と騒ぐこともほとんどなく、ひとりでいることが多かった。「桐野の特技は存在感を消すことだ」と、小学校のころはよくからかわれていた。
 肉食獣で最強のトラとは対極の、雨に当たるだけで消えてしまうのでは、と心配になる男子だ。

「どういうことなのか、説明してもらってもいい? なんで桐野は今、トラなの」
 トラは、いや桐野はじっと私を見つめ、少し首を傾げたあと、口角をグインと上げた。
「なんで笑うの」
「あ、笑ったのわかるんだ。いや、こんな時でも九条はいつもと同じだなと思って。ちゃんと信じてくれるし、話を聞いてくれる。ほかの人なら今頃パニックだと思う。トラが目の前にいるんだから」
「そういうとこ桐野だよね。私の反応見て笑ってる場合なの?」
「ああ、まあそう言われれば」
 桐野はきちんと座りなおして、事の次第を話し始めた。

 始まりは一週間ほど前だったらしい。
 いつものように登校して門をくぐったところで、ちょうど門倉とその取り巻きの中沢、森田の3人に出くわしたという。

 この門倉というのは「俺様がルールブック、皆俺様にひれ伏せ」系の不良で、全教員を見下し、気に食わない弱い者は陰湿にいじり倒す厄介な生徒だ。
 態度のでかさからよく上級生と揉め、顔に痣をつくっていることも多かった。生徒指導の教師に怒鳴られているのも何度も見たが、悪びれる素振りもない。授業妨害された若い教師が病んで、休職したのも知っている。

 そんな問題児門倉に去年あたりからずっと目を付けられているのが、桐野なのだ。
『桐野が門倉に目を付けられている』というのはたぶん教師も同級生もみな知っていた。けれど誰もそこに救いの手を出そうとしないし、出す必要も感じていなかった。なぜなら桐野は、スーパースルースキルを身につけていたからだ。門倉たちが因縁をつけてきても、足を引っかけてきても、「門倉君ほんとごめん、見えなくて僕ふんじゃったかも」といった感じでナチュラルに交わすのを何度も目撃されている。

 桐野は自分が標的だという事実を受け止めるのを拒否しているか、気づいていないかのどちらかだと私は踏んでいる。反応の薄い標的は、絡む方も飽きてしまうと聞いたことがあるので、最良の方法だと思うのに、なぜか門倉はあきらめない。あの手この手で桐野に絡み続けている。
 だから「一週間前の朝、校門で出合い頭にカバンで腕を小突かれた」のなんて、いつもの光景ではあった。
 
 でも「その朝は、いつもと違ったんだ」と桐野は言う。

「門倉の態度が?」
「いや、僕の体が」

 門倉を見ているだけで体中の細胞がざわざわするような感覚になり、立っていられなくなった。最初は保健室に行こうと思って走ったが、手から黄色と黒の毛が伸びてきてこれは普通じゃないと思い、とっさの判断でいつも無人の理科準備室に飛び込んだ。すぐに制服を脱いだのは正解で、そのあと爆発的に体は形状変化し、1分足らずで完全体のトラになったんだ……と、桐野は淡々と話してくれた。

「幸い2時間ほどで元に戻れることが分かった。それから門倉に接近するたび同じ現象が起きたけど、いつも進行状態は同じだった」
「そんなに何度も?」
 そういえばここ最近、遅刻してきたり授業中いなかったりしたことがあった。
「これで4回目だから結構慣れてきた」
「いや、慣れないでしょ普通」
「あ……体がもとに戻りそう。ちょっと向こう向いてて」

 私が慌てて背中を向けると、薄暗い部屋で一瞬発光があり、ゴソゴソと衣擦れの音がした。
「もう大丈夫だよ、お待たせ」
 振り向くと、髪の毛をくしゃくしゃにした桐野がいた。ちゃんと制服姿だ。
「いったいどうしてこんなことに」
「それは僕が一番知りたい。何かの呪いにかかったか、僕の先祖にトラがいたか」
「そんなわけないでしょ」
「だよね。でも九条にバレて少し気が楽になった。とりあえず帰ろう。遅くなる」
 
 私たちは学校を出たあと、原因をいろいろ探った。門倉にまつわる何かだろうという推測と、しばらく極力接触は避けるしかないよねというところまで話し、家の近所の三差路で別れた。

 自宅に飛び込んだ私は、そのままずるずると玄関にへたり込んだ。変な汗がにじみ出る。
 トラに変化する桐野が怖かったわけではない。

 確信していたからだ。
 桐野の変異は私のせいだと。