開け放たれた障子戸から、麗らかな日差しと色づいた桜の花弁が舞い込んできた。

 十畳ほどの和室の中央に敷かれた、薄い座布団の上に背筋を伸ばして座る桃色の着物を身に着けた少女がいる。

 長い黒髪を背中に流し、まだ幼さが色濃く残った可憐な顔立ちは整っていて、形のよい唇は真一文字にきつく結ばれていた。

 陶器のように滑らかな肌は青白く、少女が日に当たらない不健康な生活を送っていることをうかがわせた。

 少女と座布団以外に、生活するための道具はなく、室内はがらんとしている。

 畳と、土壁と、縁側と室内を仕切る障子戸と、それだけ。

 装飾品もなく、人の気配がない部屋は無機質で、静寂に溶け込むように少女の姿をも曖昧にした。

 鳥がお喋りする甲高い声が頭上で聞こえ、見渡せる限りの庭園では瑞々しい新緑が萌えている。

 何もない部屋に迷い込んだ桜の花弁は、風に揺られて室内を舞ったあと、労うように少女の膝にひらりと落ちた。

 少女はぴくりともしない。

 一見何の変哲もない平和な朝の始まりだが、そこにそぐわない女性の怒声が静寂を切り裂いた。

 縁側に面する庭園に立つ女性が和室に正座する少女に対してありったけの声量でまくし立てているのだ。

「あんたがいるから!
 おばあちゃんは病気になって苦しんでるのよ!
 あんたのせいで!
 全部あんたのせいなんだから!
 恨んでやる、呪ってやる!」
 
 物騒な台詞を金切り声で叫びながら、牛の頭に女性用の着物を着た異形のあやかしが、身じろぎひとつせず座布団に座る桃色の着物の少女に力一杯、小さな物を投げつける。

 それは、人の手の親指ほどの大きさの勾玉だった。

 女性のあやかしが投げた勾玉は、少女の腹の辺りに落下すると、音もなく溶け始め着物に滲んでいき、少女の肌にまで浸透していった。

 少女が、勾玉が溶けた箇所を押さえ、苦痛に小さくうめく。

 対して、先程まで少女を忌々しそうに睨み、殺気すら漂わせていたあやかしの女性が、邪気のない晴れやかな笑みを浮かべた。

「ああ、すっきりした。
 何だか身体が軽くなったわ。
 本当に、恨みや憎しみを吸い取ってくれるのね、ありがとう、また明日からやっていける気がするわ。
 またお邪魔することもあるかもしれないけど、そのときはよろしくね」

 あやかしの女性は、憑き物が落ちたように足取りも軽く庭園を去っていった。

 少女は女性の後ろ姿に深く一礼する。

 少女がゆっくりと顔を上げるころ、あやかしの女性の後ろに並んでいた四足歩行の狼が流暢に話し出した。

「次はおいらの番だ。
 地方を巡って集めてきた人間どもの憎悪だ。
 受け取れ」

 灰色の狼は器用に二本足で直立すると、長い毛並みに絡ませた勾玉を次々と少女に向かって投げつけた。

「これは不作が続く農家の分。
 これは幼子が死んだ夫婦の恨み。
 これは姑にいびられて今にもばあさんを殺しそうな嫁の憎しみだ。
 お前がいるから自分たちの生活はうまく行かないんだと、大層恨んでいたよ。
 よほど不満を溜め込んでいるんだろうな。
 これで人間どもも恨み妬みを昇華させられるだろう。
 おいらは、人間どもから食料をもらえて、人間は持て余す爆発寸前の憎悪を晴らせる。
 いい商売だよ、本当、また頼むな」

 投げつけられた複数の勾玉が、着物を溶かし、少女の肌も焼く。

 それでも、少女は顔色を変えず、鼻歌混じりに庭園を去っていく狼に深く一礼した。

 狼がいなくなっても、まだまだ庭園には行列が続いている。

 庭園を出て、敷地の外にまで異形のあやかしたちが列を成している。

 何ら変わらない、いつもの一日の始まり。

 鳥が餌を探しに飛び立つように、少女は当たり前に憎悪を受け取る。

 そう、憎悪を受け取る──それが、少女、白河李寿(しらかわりず)の生まれた意味、さだめだった。


☆☆☆

 首都、東京の一等地には広大な敷地面積を誇る『神殿』が威風堂々と鎮座している。

 鬱蒼と繁った樹木が取り囲むのは、神社と寺院を融合させたような威容の要塞にも似た建築物、通称『本殿』だ。

 『本殿』に住まうのは、この国を統治する神たる『白狐』のあやかしだ。

 日本には、人間とあやかしが共生しているが、身体能力の優れているあやかしがいつからか人間を支配するようになり、首都東京にはあやかしが跋扈し人間は寂れた地方へと追いやられてしまった歴史がある。

 今や人間を統治するのは、あやかしの頂点に君臨する白狐の系譜を継ぐ『鳴海(なるみ)家』の者たちだ。

 現在『神』として日本を治めているのは鳴海大祐(だいすけ)、人間よりも遥かに強靭な肉体を持ち、遥かに永く生きるあやかしだ。

 あやかしたちは鳴海大祐を無条件に信仰している。

 強力な妖力を誇る鳴海大祐を畏怖を込めて、確固たる『揺るがない神』だと崇拝している。

 民衆の前には姿を現すことはなく、神秘性が強いが、指導者として鳴海大祐は厚い支持を集めていた。

 人間もある程度は掌握済みだが、首都から追い出され、地方で未開の地の開拓を強いられている人間の少数は、あやかしと鳴海大祐に対する少なからぬ不満を抱いていることもまた事実だった。

 そこで重要なのが、『生け贄』の存在だ。

 あやかし人間問わず、心に巣食う鳴海大祐や国の重要な役割りを果たすあやかしへの恨みや憎しみ、妬みの『負の感情』を発散させ、国政の安定化を図るために生け贄は必要不可欠な存在だ。

 生け贄とは、『諸悪の根源』。

 この世で起きる悪いことは生け贄のせい、病気になるのは生け贄のせい、他人を羨むのは生け贄のせい、人を殺したのは生け贄のせい……。

 生け贄は、日本中から憎悪の念を一手に引き受けるために生まれ、くすぶる政権への不満を解消するため、鳴海家の足元を盤石にするための貴重な存在として珍重されてきた。

 事実、生け贄のお陰で鳴海家は『神の系譜』として繁栄し、統治を始めてから政権の危機に陥ったことはない。

 妖力を帯びた神器、勾玉に胸の内にわだかまる負の感情を込めた口づけをして、それを『生け贄』へと投げつけると、勾玉を介して負の感情を受け取った生け贄が己の肉体にそれを取り込む。

 すると、勾玉に込められた政権を脅かす『不満』は人々の胸からすっかり消え失せる。

 あやかしの中には、わざわざ地方を回り、人間の憎悪を込めた勾玉を東京に持ち帰り生け贄に捧げることを約束して人間から謝礼をもらうことを生業とするあやかしも珍しくはない。

 生け贄はどうなるのかというと、どうにもならない。

 生け贄はひたすら自身に向けられる憎悪をその身体に溜め込み続ける。

 生け贄がそれを不満に思うことはない。

 それが、生け贄が生け贄として生まれた意味であり、それ以外の生き方は、生け贄には与えられないのだ。

 辞めることも、逃げ出すことも許されない。

 不可避に他人に恨まれて、見たこともない他人の憎悪で身体の内を肥やしていく。

 それを吐き出す手段も与えられずに。

 生け贄の内面がどれだけ壊れていこうが、胸を掻きむしりたくなるような苦痛に苛まれていようが、誰も同情もしない。

 それがこの世に必要な『犠牲』であるなら、生け贄を傷つけることを人々は何ら躊躇わない。

 自身の安寧を願うことと『諸悪の根源』を攻撃することはほとんど同じだ。

 生け贄の痛みも苦しみにも、人々は思いを巡らせない。

 そんなもの、どうでもいいことだ。

 自分の傷でも痛みでもないものを、想像する者などいない。

 
 『生け贄』は『神殿』で生まれる。

 生け贄は、代々『白河家』が『生け贄』の役目を負うのが暗黙の了解だ。

 白河家は半人半妖の家柄で、本殿で暮らすことを許された一族である。

 生け贄を輩出するためだけに本殿で暮らすことを許されており、先代の生け贄が寿命を迎え、今、生け贄として役職に就いているのが、白河李寿という少女であった。

 憎きあやかしの血をその身に宿す禁忌の存在として人間からも忌避され、白河家はあやかしからも人間からも同調されない、孤独な一族だった。

 そんな事情があるから、当然生け贄に選ばれた年端も行かぬ少女に同情する者はいない。

 日本中から敵意をむき出しにされ、救いもなく、くずおれてしまいそうな少女──李寿の暗鬱とした心を支えているのは──。

☆☆☆


 罵倒され続けるだけの、永遠にも思える時間が終わり、狭い空が眩い星の輝きを伝えるころ、桃色の着物のあちこちに焼け焦げた穴を開け、その下の素肌にまでやけどを負った李寿は行列が消えた庭園を無感情に眺めていた。

 すると、背後のふすまが音もなく開き、畳を擦るかすかな足音がして、まだ青さを残す少年の声が李寿を呼んだ。

 振り返った李寿は、足音の主に目を留め、結んでいた唇を軽く綻ばせた。

 今日一日がようやく終わりを告げたのだと、肩の力が抜け、李寿は年相応の幼い笑みを無意識に浮かべていた。

 少年は濃紺の着物を着流し、皿が載せられた盆を手に部屋に入ってきた。

「李寿、今日もお疲れ。
 夕食だ」

 少年は手際良く、ふたり分の盆を李寿の前に並べると、持参した自分の座布団を李寿の対面に置き、腰を落ち着けた。

 朝起きて、太陽が眠るまで休む暇も食事の暇も与えられず、見知らぬ誰かの憎悪をその身に溜め込み続けた生け贄の少女の腹の虫が、思い出したように鳴き出す。

 その生理現象に顔を赤くした李寿に、対面の少年は快活に笑い自分の箸に手を伸ばす。

「そりゃ腹も減るわな。
 着物も毎日ひでえことになってるし、女中が針仕事が間に合わねえって嘆いてたぜ。
 女中のためにもたまには休んだらどうだ?」

 少年はあくまで軽口といった調子で言うと、いただきますも言わずに味噌汁が入った椀に口をつける。

 とんとん、と盆のふちを叩き、少年に目を向けさせると、李寿は顔の前で両手のひらを素早く、複雑に動かした。

玲苑(れおん)、毎日ごはん持ってきてくれなくて、いいんだよ?〉

 少年──玲苑は、李寿の手の動きを読み取り、一瞬だけ瞳を昏い色にして李寿を見つめると、すぐさま、にかっと白い歯を見せて明るい笑顔を咲かせた。

 長めの茶色い髪を縁側から入る風になびかせ、爽やかと表現するに相応しい黒目がちで猫のような瞳が印象的な顔立ちの玲苑は、小鉢の豆腐を切り分けながら明朗な声で李寿を諭す。

「気にすんなって。
 俺が李寿と一緒にメシ食いたいから持ってきてんの。
 李寿だって、朝から晩まで話し相手もいないなんてきついだろ?
 メシは誰かと食うもんだ。
 そっちのが、うまいだろ?」

 李寿は、目を丸くしたあと、はにかむように微笑みを見せる。

〈ありがとうね、玲苑〉

「ん。
 ほら、食え。
 野菜ばっかりの大したメシじゃねえけど、腹の足しにはなるだろ」

 うなずいて、李寿はようやく箸を手に取る。

 確かに、玲苑の言う通り、用意された食事は、質素なものばかりだ。

 本来なら、玲苑はこのような質素な食事をする立場ではない。

 本殿に仕える料理長が腕によりをかけて作る豪勢な夕餉を楽しむ──李寿とは天と地ほど違う地位にいる、それが鳴海玲苑という少年だ。

 しかし、玲苑は毎日、李寿のもとにやってきて、女中から奪った盆を持って夕食を一緒に摂る。

 玲苑が間に入らなければ、まともに食事すら提供されないかもしれないことを考えると、玲苑の存在はありがたいことこの上ない。

 まだ少し肌寒い春の風がそよぐ室内で、ささやかな食事の音だけが響く。

 夜がくる。

 李寿にとって、安寧といえる時間が、ようやく始まる。

 眠っている間だけは、苦しみから解放される。

 そして、意識がなくなるその瞬間まで、玲苑がそばにいてくれる。

 安らぎをくれる。

 生け贄として生まれた自分には、もったいないほどの幸福を、もたらしてくれる。

 生け贄の少女は、眠っている間だけ、幸せと表現出来る夢を見る──。


☆☆☆

 白河李寿は、『神殿』で生まれた。

 そのときの『生け贄』をつとめていた白河の男性が高齢になっており、次に生まれてくる白河の子供が、『生け贄』となることが決まった状態だった。

 その『生け贄になるべく生まれてきた子供』が運の悪いことに李寿だった。

 生まれて間もなく、李寿は親から引き離され、神殿の外れに建つ『別館』に幽閉され、神殿につとめる女官によって育てられた。

 さすがに生後すぐのころは女官が頻繁に部屋を訪れて面倒を見てくれたが、離乳食が始まると女官がやってくる回数は極端に減った。

 泣いても誰の気も引けないと悟った李寿は、赤ん坊のころに泣くのをやめた。

 本殿への立ち入りや別館でも立ち入ることを禁じられている場所も多く、ひとりで立つことが出来るようになった李寿は自分が住んでいる建物のほとんどに行ったことがなかった。

 食事は寝起きする十畳ほどの和室に運ばれ、他に足を向ける場所といえばお手洗いとお風呂だけ。

 寝る前にお風呂へ行けば、籠に寝間着の浴衣が用意され、洗面所にある歯ブラシで歯を磨き、部屋に戻るとすっかり布団が敷かれていた。

 生活の全ては女官によって管理されているが、李寿の話し相手になったり、泣いた李寿をあやしてくれる大人はいなかった。

 女官たちは感情の欠片もみせず、李寿を物のように、あるいは李寿などいないもののように扱った。


 昼間は寝具がすっかり片付けられ、和室には文字通り、生活感が全くなかった。

 けれど、まだ自分に課せられた過酷な運命を知らない幼い李寿には、寂しくない理由があった。


 することがなく、日がな一日ぼんやりとして過ごす李寿のもとに、通ってくる存在がいたのだ。

 神殿の主である、鳴海大祐のふたりの息子、涼我(りょうが)と玲苑だ。

 涼我は大祐の長男で、時期『神』を継ぐ後継者、玲苑は大祐の次男だった。

 涼我は李寿より二歳年上で、玲苑は同い年だった。

 誰からも見向きもされない李寿に、涼我が言葉を教え、李寿はふたりと会話するうちに感情を知った。

 偉大な鳴海の王子たちといえど、まだまだ幼かったふたりは、妖力を調節出来ず、白狐の姿から人間の姿に変化することは出来ず、李寿はもふもふの白い毛玉としか表現出来ない可愛らしい兄弟の毛並みを撫でては、顔を綻ばせていた。

 彼らのお陰で、李寿は置かれた環境の厳しさに負けず歪んだ性格になることもなく育った。

 しかし彼らのお陰で、李寿は疑いようのない事実に気づいてしまった。

 親もなく、女官たちには突き放した態度を取られる。

 親元ですくすくと育つ彼らを見て李寿は、自分が誰からも愛されていないことに気づいてしまったのだ。

 兄弟には、李寿が持たない明るさがあった。

 周りから、一心に愛情を受けて育った者が放つ、混じりけのない眩しさのようなものがあった。

 彼らからは、自信が感じ取れた。

 当たり前に愛されている自信。

 李寿にはないもの。

 どれだけ欲しくても手に入れられないもの。

 李寿は不思議に思う。

 なぜ、自分には与えられないのだろう。

 兄弟と、自分の違いはなんだろう。

 どうして誰も、自分のことを見てもくれないのだろう。

 世間を知らず、世界を知らない李寿にとっては、兄弟と自分の置かれた立場に天と地ほどの差があるなどとは考えも及ばないことだった。

 4回目の誕生日であることを兄弟から教えられ、見たこともない可憐な花束を贈られたときは、天にも昇る心地だった。

 日付も季節も関係なく、打ち捨てられたように過ごしている毎日で、生まれた日が特別であることは知らなかったし、自分が生まれてきたことを祝ってくれる人がいることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 ちくちくと不可視の針を刺されているようなひりひりした日常しか知らない李寿は、このとき初めて自分の存在を認めてもらえた気がして、心から笑顔を浮かべた。

 このころには、神殿において、李寿は自分が異端の存在であると、うっすらではあるが、気づき始めていた。

 洗面所で鏡に映る自分と、女官たちの見た目が全く違うのだ。

 兄弟や女官たちが『あやかし』であり、李寿が『人間、あるいはあやかしにも似た何か』であることを自覚するようになっていった。

 兄弟のようにあやかしの姿から、李寿のような人間の姿に変化する女官も見たことがあり、姿を変えない自分が異質なのだと悟った。

 自分が人間なのかあやかしなのかすらわからないが、とにかく、李寿ひとりだけが種類の違う生き物であると認識するようになった。

 このころになると、兄弟も妖力を操ることに慣れ、李寿に会いにくるときは、人間の姿に変化した。

 涼我も玲苑も時間さえあれば李寿のもとを訪ね、たどたどしい李寿のお喋りを辛抱強く聞いてくれ、新しい言葉を教えてくれて、新しい知識を与えてくれた。

 ふたりがやってくる時間だけ、色がついたように世界が輝いた。

 兄弟がやってくる時間を待ちわびるようになり、生活に華が添えられた。

 それが、『幸せ』であることを、遅れて李寿は知った。

 兄の涼我は、きりっとした眉が特徴的で、涼しい目元と穏やかな微笑みで、李寿の『お兄さん』だった。

 知らない花の名前を聞けば教えてくれたし、聞いたことがない言葉を聞き返せば丁寧に説明してくれた。

 涼我は自分は将来の『帝』であるとも教えてくれた。

 みかど、と怪しい発音で繰り返すと、帝は日本で一番偉い人だと涼我は言った。

 にほん、と繰り返すと、李寿が暮らすこの地のことだと教えられた。

 日本の一番偉い人になる。

 にわかにどきどきし始めた胸を押さえると、それは緊張しているということだ、とも教えてくれた。

 胸の真ん中がどくどくと波打つ。

 これが、緊張。

 どうして、緊張なんてしているのだろう?

 単純に、涼我に抱いたことのない感情を感じたからだ。

 自分と涼我は違う。

 なぜかはわからないけれど、李寿は涼我との間に、透明な、けれども誰にも壊せない強靭な壁があるような気分に陥ってしまった。

 すごいひとと話しているのではないか、少しだけ知識を増やし、成長した李寿は、涼我に対して尊敬とも、畏怖の念ともいえる思いを抱いた。

 涼我のことを、遠い遠い、自分が話すことすらおこがましい存在に感じるようになった。

 李寿は外の世界を知らない。

 住んでいる建物ですら、踏み入れてはいけない未開の地がある。

 別館の外に、どんな世界が広がっていて、兄弟が世間にどんなふうに扱われている立場なのか、想像すら出来ない。

 改めて、李寿は自分が知らないことだらけの現実に打ちのめされた。

 自分が、閉じ込められていること、鎖で縛られていること、それが普通ではない、おかしなことなのだと4歳なりに自覚した。

 弟の玲苑は、兄と会話するうちに、萎んだ風船のように元気を失くした李寿にいち早く気づいた。

 玲苑は、落ち着いた雰囲気の兄、涼我と対称的な、やんちゃで快活、少しがさつなところがあるが、明るくて親しみやすい性格だった。

 ただ、兄よりもひとの気持ちの機微に敏感で、李寿の心情を何度も言い当て、驚かされた。

 玲苑から『喜怒哀楽』を学んだと言っても過言ではない。

 表情がくるくる変わり、ときにはなぜか不機嫌になる玲苑は見ていて面白い。

「べつに、帝になったって、遠くに行くわけじゃない。
 李寿に会いにこなくなるわけじゃないよ」

 玲苑の言葉に、李寿はほっと安心したようにうなずいた。

 玲苑はいつも先回りして、李寿が抱えた不安を取り払ってくれる。

 自分の心が読まれている気がして、怖いくらいだ。

「玲苑は?
 玲苑もみかどになるの?」

 鈴を転がしたような澄んだ声音で、生まれた疑問を口にした李寿に、玲苑がにかっと笑みを作ってみせる。

「おれはジナンだからな。
 帝になるのは、チョーナンだけだ」

 玲苑の言葉に李寿が首をかしげる。

「長男はぼくのこと。
 次男は玲苑のことだよ。
 生まれた順番で、そう呼び方が変わるんだ」

 涼我がすかさず弟の発言を解説してくれる。

「帝になっても、なにも変わらないよ、李寿。
 李寿のことは、ぼくたちが守るから」

 李寿がことん、と首をかしげる。

 一体なにから自分を守るというのだろう?

「そうそう、おれたちは、ずっと李寿の味方だから」

 ──味方。

 聞いたことのない言葉がまたしても出てきて、戸惑うが、兄弟が自分を特別に想ってくれていることは伝わった。


 それだけで充分だったから、あえて聞き返すことはしなかった。

 無知を恥ずかしく感じたせいでもあった。 

 涼我と玲苑の存在が、李寿の毎日を楽しくしてくれる。

 楽しい時間が増えれば増えるほど、李寿の中で、こんな気持ちが膨らんでいった。

──外の世界を見てみたい。

 兄弟と同じ位置に立って、想像することすら難しい『外の世界』を、この目で見てみたい。

 どんな景色が広がっているか、未だ見ぬ光景を見たい、それはわがままな願いだろうか。

 しかし、兄弟の話によれば、李寿の送る生活は、決して〈普通〉ではなく、おかしいのだと、いつだったか言っていた。

 〈抑圧〉されている生活だとも。

 兄弟は李寿の立場を快く思っていない様子だった。

 自分が置かれている環境が〈おかしい〉のなら、多少わがままを言っても、罰は当たらないのではないかと、最近の李寿は考えていた。

 〈普通の子供〉なら、認められて当然のわがままがあると、兄弟から学んだ結果、李寿はふたりに、とうとうこう言った。

──外へ行ってみたい。

 それを聞いたふたりは、顔を合わせると、困惑した表情を浮かべた。

 瞳だけのやりとりで、しばし意見を交換すると、兄弟は大きくうなずいて立ち上がった。

「わかった、李寿、行こう」

 涼我の決然とした言葉には緊張感が漂い、表情は見たことがないほど険しかった。

 しかし、聞き入れられるとは思っていなかった李寿は、涼我の言葉にぽかんとしてしまった。

「い、いいの、お兄ちゃん?」

 李寿の不安そうな声に、涼我は力強くうなずいてみせた。

 玲苑はいたずらを企むように、にやにや笑っている。

「玲苑も?」

 李寿の問いに玲苑も首肯した。

 李寿は、涼我を『お兄ちゃん』と呼び、玲苑は呼び捨てで呼ぶことを許されていた。

 しかし、それはふたりといるときだけであり、他の者がいるときには、兄弟を名前でなど決して呼ばない。

 自分が、ふたりに馴れ馴れしく接することができる立場ではないことくらい、とっくに学習済みだ。

 李寿のはじめてのわがままは、兄弟によって現実のものとなった。

「夜、ぼくたちは本殿を抜け出してくる。
 別館まで李寿を迎えにくるから、一緒に夜の街を散歩しよう」

 涼我の提案に、玲苑が「兄貴、悪知恵考えるの得意だからな」と底意地が悪い笑みを浮かべている。

 あっという間に脱走計画が練られていくことに、李寿はただ驚いていた。

 胸がどきどきする。

 これは、緊張?

 そうかもしれないし、違うかもしれない。

 とにかく、夜が楽しみでたまらない。

 神殿が寝静まった夜に再会を約束して、兄弟は李寿のもとをあとにした。


☆☆☆

 すっかり暗くなった庭園を、眩い月明かりが照らしている。

 そっと、李寿は履き物に小さな脚を入れると、縁側から庭園に降り立った。

 よく晴れていて、周囲をよく見渡せた。  

「まずは警備を突破しないとな。
 一番手薄なのは、東門か」

 涼我が李寿の手を握る。

 李寿はびっくりして、手を引っ込めそうになってしまった。

「暗いし、神殿は入り組んでるから、迷わないように」

 涼我はお兄さんらしく李寿の面倒を見てくれているだけ。

 それだけのはずなのに、年下扱いされたことが、わだかまりとして心に引っかかった。

「街ったって、どこ行くんだ?」

 のんびりと頭の後ろで腕を組んだ玲苑が涼我に訊く。

「声を落とせ、警備に見つかったら水の泡だぞ」

「それくらい、わかってるって」

 玲苑はいつもの不機嫌顔だ。

「神社へ行こう。
 今は桜が満開で、この天気なら夜桜がよく見えるはずだ」

「よし、じゃ、おれが先に行って見張りがいないか確かめてやるよ。
 李寿は兄貴にしっかりとついてくるんだぞ」

 そう言うと、玲苑は走り出した。

 別館を抜けると、背の高い木々が生い茂る広い空間に出た。

 それが、どこまでもどこまでも続いている。

 李寿の心が、不安に支配されそうになる。

──『外』は、こんなにも果てがないほど広いのか。

 『果てがない』ことが、李寿の心をざわつかせる。

──『自分』という存在が、こんなにもちっぽけだったなんて。

 木々の間を涼我に手を引かれながら走り、いくつもの建物と建物の間をすり抜けていると、人の話し声が聴こえてきて、涼我が立ち止まり、息を潜めた。

「警備員の交代の時間だ」

 くぐもった声で涼我が説明する。

 その様子をうかがっていた玲苑が、大きくうなずいて合図する。

──今だ。

 玲苑の唇がそう動く。

 腰を屈めるようにして、涼我が再び走り出す。

 自分たちよりも遥かに巨大な門扉を玲苑が押し開けて3人は門の外へ転がるようにして脱出することに成功した。

 夜の街は、正直怖かった。

 建物がたくさん並んでいて、人の姿はなかった。

 『街』は、どこまで続いているのだろう。

 やはり、果てがない?

 見知らぬ世界にひとりきりで放り出された気分になり、李寿は泣きそうになってしまった。

──情けない。自分が外へ行きたいと言い出したのに。

 怖じ気づきそうな自分を奮い立たせる。

 音のない道路に、3人分の足音だけが響く。

 涼我に手を引かれ、体感で5分ほど歩いたころ、「着いたよ」と声をかけられた。

 涼我に支えられながら、石造りの急階段を上って行く。

 やがて、荘厳な社殿が李寿を出迎えた。

 月明かりを受けて輝く社殿は広く大きく、そして美しかった。

 そして、なによりも李寿の目を引いたのは、神社の敷地内に植えられ、今が盛りとばかりに咲き誇った桜の木々だった。

「うわあ……」

 月光に照らされ神々しく鎮座する桜に見惚れていると、「綺麗だろ?」と玲苑が自分の手柄のように言った。

 こくこくと、何度もうなずく。

「李寿、世界は広いんだよ。
 李寿が閉じ込められることがないよう、ぼくも手を尽くすつもりだ」

 涼我の言葉に、李寿は表情を曇らせる。

「……でも、そんなことしたらお兄ちゃんが怒られない?」 

 涼我は鷹揚に笑った。

「大丈夫、ぼくは『神』になるんだから、李寿を救ってみせるさ」

「おれもいるんですけどー?」

 玲苑の言葉に、ぷっとふたりは噴き出す。

「ぼくが忙しくなったら、李寿のことはお前に頼むよ」

 涼我が弟の肩を小突く。

 それだけで、へへ、と玲苑は嬉しそうな笑みを零す。

 李寿も嬉しくなって、つい微笑んだ。

 この夜、幻想的で儚くて、けれど力強く輝く桜の姿は、3人の胸に焼き付いた。

 忘れられない想い出として。


 時は経ち、7歳になった李寿は、『生け贄』に就任した。

 日本中の国民から憎悪の念を向けられ、罵倒され続けた李寿の心は、あっけなく壊れた。 

 そして、声を(うしな)った。