部屋に響き渡るのは、限りなく澄み切った銀色の、初夏の訪れを告げる疾風怒濤の旋律。
拍子も強弱も無茶苦茶で、間違っているはずなのに、然れども其の演奏は妙な清々しさを感じさせ、その演奏が正解なんだと、無理やりにでも観客達を納得させてしまうかの様な力強さがあった。身動きの一つさえも出来ないままで、私はただ、ただ何も言えずにその場に立ち尽くしたままだった。
偽りだらけのこの世界に【天才】というものが確かに存在するのならば、それの言葉は正に、目の前でグランドピアノの鍵盤を自由自在に揺らがす、白黒乃亜がーーー。
[彼]こそが世界一相応しいのだろう。
そんな事を考えながらも、彼女は、木戸 カエデは切羽詰まった焦燥を感じていた。
今まで、木戸は結構自分自身に満足していた。
人並外れた語学の才能に恵まれ、特段美しくは無いが、均整の取れた平均的な顔立ち、人当たりの良い性格。
そして、ジャポネ最難関の音楽学校【聖帝学園】に推薦が取れるほどの『努力で掴んだ』音楽の才能。
血眼で掴んだ自分の存在価値が、この少年に奪われるかもしれないーーー。
何としてでも、それだけは避けたい。
そんな薄暗い考えが思い浮かぶのも、木戸の、短い人生で初めてのトラブルだった。
表面上は微笑みながらも、彼女の頭を埋め尽くすのは、自分の心にドロリと自我が芽生え、平常心を掻き乱す【嫉妬】という名の黒い影を
如何にして、押さえ付けなだめて、誰にも悟らせないよう隠し通すかだった。
此の世で神はただ一人、聖帝学園の生徒会長もただ一人。
極東の帝国、ジャポネ。
聖帝学園は、その国唯一の名門音楽学校だった。
厳しい入学試験を乗り越えたエリート達。その中でも異彩を放つ優等生のみが『生徒会執行部』に入部する事を許可された。
『シェズ会長!!! おはようございます!
今回の期末テスト、また一位だったって本当ですか!?』
書類をまとめながら、書記長の木戸が畳み掛ける。初春と言えどまだ肌寒く、空風が彼女の、品良く艶やかに黒光りする編み込みを軽く揺らした。
『あぁ、お早う。 ……。まぁ、運が良かっただけだよ。』
現生徒会長のシェズは、にこやかに挨拶を返しながらも、心の中では この無駄に騒がしい、煩い後輩に辟易としていた。
彼の一族は、代々音楽界の重役を担う面々をこれまで何人も輩出していた。
母親のビオラを亡くした後、父はシェズに、厳しい英才教育を施した。旧教にある、贖罪の為の鞭打ちかの様な、激しく烈しい物で、親元を離れた今、シェズは彼のほぼ異常な生き方に不快の念を憶えるようになって、いた。
『さっっすがです‼️
あっ、そう言えば、今日ってー。』
『転校生、が来るらしいな。
木戸、お前それくらいは覚えておけ。』
『五月蝿い!! あんたには聞いてないわよ。』
『あー、悪い悪い。』
シェズに代わって言葉を返したのは、副会長の 天音五線 だった。
いつも気怠げでやる気の無さそうな彼は、それでも華族の出生ということもあり、いつも周りに一目置かれる。と言うより、それとなく、避けられていたが、本人は別段その事を恥じてはいなかった。
『木戸、五月蝿いのはお前の方だ。
そうやっていつも落ち着きが無いから……。
この前のテストで名前忘れて零点になったのは、忘れたのか?』
『黙って‼️ そんなの忘れる訳無いでしょ‼️
なんで一生懸命に頑張ったあたしが、無解答だったあんたなんかと同点《ゼロ点》なのよ‼️
名前忘れた位で……。』
木戸は黒い両眼にうっすらと涙を滲ませながら、必死で歯向かおうとするのだが、悔しさがどうも消えないらしく、その金切り声は若干掠れていた。
そんなのどうだって良いことだ。とシェズは、微笑の影で彼等を嘲笑していた。決して悟られないように。
回答だろうが名前だろうが、【忘れた】と云う事自体が恥ずべき事であり、決して許されざる罪だ。
私たちは選ばれた人間《生徒会》であり、四六時中一切妥協を許すこと無く完璧《トップ》を目指し続ける義務がある。
ふと私の、愚かな父の醜態が思い出されてきた。
あれ は一度も私を名前で呼んだことが無かった。
小さな脳でせいぜい思いつく限りの低俗な罵倒を浴びせる父は完璧主義者だった。
私の思想《完全主義》は八割近くあれのご立派な教育よって形成されたのだろう。私は生活の中で、一欠片ものミスや、ズレがどうしても赦せない人間だった。
今も昔も衣食住だけは不自由ない生活だと思う。世間的には私はさぞかし恵まれた人に見えるだろう。だが然し、ふとした瞬間、漠然とした未来への不安にこうして取り憑かれる様な気分になるのだ。
不完全な他人を莫迦にする。格下と嘲笑う。
なら私は?
私は一体将来への希望というものを持ったことが無かった。いや持てなかった。
この学校を卒業して、何かしたい事を考えようとしてみようと幾度も試みた。結果は何度も何時も同じだった。
『あれ、会長! どうしたんですか?
ボーッとして……。』
『あぁ……、大丈夫だよ。有難う。
少し疲れてて……。』
『どうせまた徹夜で勉強してたとかだろ?
それか……。 ヴァイオリンの練習とか。』
図星だった。
天音《幼馴染》は妙に変な所で勘が鋭く、実際私は昨夜二時まで実技試験の為、好きでもない楽器の練習をしていた。
『それに|《ヴァイオリンに》熱を上げるのも大概にしておけよ。
下らん理由で健康を損ねたら馬鹿馬鹿しい。』
反論しようと私は試みた。
口を開いて何か言おうとしたその瞬間
『失礼しまーす‼️
生徒会室って此処で良いかな❓』
豊かな金色《ブロンド》の短髪をかきあげて屈託のない笑顔を見せる、透き通る白い肌と蒼空色の眼を輝かせた彼は、
紛れもなく美少年と云う言葉が世界一良く似合った。
この時私は知らなかった。
いや、もしかしたら既に 心の何処かで気づいていたのかも知れない。だがその時は目を逸らした。
この出逢いが、彼との……。
白黒乃亜《ビャッコク ノア》との出逢いが、私の人生の……。私たちの人生の、
運命の歯車に亀裂を刻むことになるなんて。