数秒後、彼のハナシをすんなり受け止めている自分に気づいて、あっと驚く。

いや、信じたわけじゃないもん。根っから信じてないわけでもないけど! うーん、どうだろ、なにこれ。ぐちゃぐちゃでよくわかんなくなってきた。


「俺もね、」

狭い路地を右に曲がったとき、ふと、静かな声が落とされた。

「俺も、自分がおかしいんじゃないかって今でもときどき疑うことがある。実は精神異常者で、死神なんてのは思い込みにすぎなくて。しまいには見えてる世界ぜーんぶ妄想なんじゃないかとか」

声が静かなのは相変わらずだけど、今、微かに震えていたような。


「でもザンネンながら違った。俺はこの世界に確かに存在してるけど、お前みたいに生きてない」

「…………」

「人間の終わりを見届ける使命があって、ときには誰かの命を選んで無理やり奪うこともできる得体のしれないナニカ」

──────だめだ、やっぱりしっくりきてしまう。
あっさり納得できてしまう。

今、間違いなく夏川くんの手に触れている。人間のそれと全く違わない肌の感触もある。だけどやっぱり……温度がない。

“ない”ってなんだろうと思いつつ、ナイものはナイ。凍えるようでも、普通に冷たいわけでも、ぬるいわけでも、あったかいわけでも、熱いわけでも、火傷しそうでも……どれでもない。奇妙だ。本当に奇妙。

だけどおかしなことに、その奇妙さを不気味に感じることなく、私はただ受け入れている。

繋がれた手に、初めて自分から力を込めてみた。
驚いたのか、夏川くんが振り向く。


「どうしたの、伊藤りりこちゃん」

「なんか、本当に生きてないんだなって……ちゃんと存在してるのに生きてない。ただの物質みたい」

「…………」

相手が息を呑んだ気配で、また我に返る。


「っごめん!! 言葉の選び方間違えた、物質とか言って、その、モノ扱いしたいわけじゃなくて……っ」

「大丈夫、まさにそんな感じだから」


夏川くんはそう言って、私の手を自分の胸元へと誘導した。
夏川くんの、胸元の、左側。ぴたりと重ねてみても、そこにあるべきものが感じられない。


「……うそだ、そんなわけない」

「服の中まで確かめていいよ」

「っ、あ……」


今度はシャツの裾から滑り込むようにして肌をなぞらせられる。
直に触れてみても、結果は同じ。


「人のかたちを為して存在してるけど、生きてない。俺はそういうモノなの」

「……………、うん、わかった」

「はは、わかっちゃったか」

「心臓がないんだもん」


「そうだよ。心臓“だけ”がない。肺はあるから空気を吸ったり吐いたりできる。肌を切れば血も出てくる。無論、それらもヒトの細胞や器官と同じ役割をもったナニカにすぎないんだけど。人間の真似ごとはだいたいできるよ」

「だいたい……。そんなに、できるんだ」

「そう。だから、例えば……」


不意に距離が近づいて、目の前に影がかかる。

唇が、触れる……

「こういうことはもちろん、もっとえろいことだってできる」

かと、思った。

触れるか触れないかギリギリのラインを攻めて、ゆっくりと離れていく。その様子をぼんやりと追いかける。彼の昏い瞳が、すうっと妖しく弧を描いた。

ワンテンポ遅れて、首から上がかーっと熱をもった。

今……っ、今……!
奪われるかと思っ……!!


「はは、真っ赤な顔」

「〜っ、わ、私たち初対面だよねっ? 冗談でもしていいことと悪いことがあると思うんだけど……っ」

「“だいたいできる”ことの一例をわかりやすく示してあげただけ」

「もうわかったっ、もういいからっ!」


さっきまでの恐ろしさはどこへ行ったのか。暴力的に綺麗なお顔だとか綺麗すぎて手が届かない存在だとか、ちょっと買いかぶりすぎてたかも。

今は、めちゃくちゃ顔がいい(中身はその辺にいる)ただの男子高校生にしか見えない─────


「ま、茶番はこの辺にして。本題に戻るけど、殺してほしい人間をひとり教えて」


─────いや、撤回。この人(?)やっぱり普通に普通じゃない。
初めと同じ異様な静けさだけを纏った声に、私はごくりと息を呑む。

──『殺してほしい人間いる?』

茶番だと思っていたあのやりとりは茶番じゃなかった。
声で、瞳で、嫌でもわからせてくる。もう観念するしかない。


殺してほしい人間がいるか。
私の中ですでに答えは出てるんだけどね、焦らしてごめんなさい。答える前に私も知っておきたいことができちゃった。

ギブアンドテイクだよ、秘密を共有するなら、対等な関係でいなくちゃでしょ。


「……わかった。真剣に考えてみる。その代わり、死神……のシステムみたいなのと、あと、夏川くん自身のことを詳しく教えてほしいんだけど」

………いい?
首を傾げて見つめれば、彼は一度、視線を斜めに逸らした。それからまた、ゆっくりと私に戻した。


「嫌だけど、いいよ」

その声は少しだけ震えていた。