弓道が好きだと気がついたのはここ数ヶ月前のことだった。
中学生の時、特に入りたい部活動がなくて、なんとなく入った部活が弓道部だった。
個人競技だし、チーム戦だったとしても、作戦とかポジション争いとかもない。矢が的に刺さる、刺さらない。それだけで決まる、自己責任だけの競技で気が楽だった。
張り詰めた弦が、私の指から離れて、カーボン製の弓に当たるときの金属音にも似たその音は、私から28m先の安土まで響く。
『お前の弦音、いいじゃん。俺は好き。てか射型も全部』
コーチが私に囁いたあの日から、私はずっと弓道場にいた。私だけなら良かったのに。
的前に立つ。
弦の仕掛けがそろそろ毛羽立ってきて、筈が外れそうなのを、無理に懸に引っ掛けるように右手首をひねった。
打ち起こし、大三と徐々に弓に弦に抵抗をかけていく。
すべての弦を引ききってから、指が自然に弦から離れるのを待つ。そのタイミングで、矢が発射されるのだった。
『雨だれが、葉の先から落ちるみたいな。離れってそんな感じだよ』
コーチの声が、反芻する。
温度のある、優しいミルクみたいな声。キリキリ、弦が限界まで引かれる。
その瞬間、私は地球から重力を切り離されて、宇宙に放り出されたような感覚になる。音が、時間が私の周りから消える。
「趣里先輩、俺と勝負して。
俺が勝ったら、俺と付き合ってください」
彼の声は私を急に現実に引き戻した。びっくりした拍子に私の指が離れるのはほぼ同じタイミングだった。
離れる時に弓がぶれた。
矢が真っ直ぐ的には飛ばず、ぐるぐる回りながら前へ進む。
カン、と的枠を矢が掠める音がした。
28m先にある安土にささる私の鷲矢は、土とほぼおんなじ色をしていて、目を細めて見ないと、行方を見失ってしまいそうだった。
あー、外しちゃった。当てないと、選手選考外れちゃう。
じゃなくて。
私は、乙矢を弦に番えるのをやめて、後ろに振り返る。
大前に立つ私を、落から睨むようして、その男は言った。
睨みたいのは私のほうなのに。
さっきの告白じみた発言は聞き間違いかと思うくらい、殺伐とした空気が私たちの間には流れていた。
弓道場には私と彼、田中くんしかいない。
私たちの高校がテスト週間で、部活動が禁止されている。
そのテスト週間を免除されるくらいには私は成績も良くて、彼は弓道が上手だ。
田中 一成くん。
部長の私なんかすぐに追い越すくらいには弓道が上手で、県大会でも注目されている彼が、私は嫌いだった。
例を上げるとすれば今みたいに、
全然予想もしていない発言をするところとか。
でも、私は部長だから。
先輩だからそのよく分からない発言を優しく包み込めるようにする役目がある。
『部長って大人っぽいな。冷静に俯瞰してるっていうか』
それが大人だから。私が、なりたい大人。
一度息を吸う。丹田に力を込める。
「俺と勝負しましょう」
吸った息が、循環して、息を吐き出す。
吐き出す直前に
さっきと同じように発言する彼の目は真剣そのもので、
ズッコけそうになる。
新入生で入ってきたとき、田中くんはちょっとした有名人だった。
『目がまん丸で零れ落ちそうなくらいキラキラしている、チワワに似て可愛い1年がいる』
という噂がわたしのクラスにまで回ってきたのに、その噂は本当にただの噂だった。
入部してきた彼を見た時、すぐに噂の子だと分かった。
可愛らしい顔つきにはそぐわず高い身長と引き締まった体で、これはさぞおモテになるんだろうなと勝手に思っていた。
これで中身もチワワみたいに愛くるしくて人懐っこければ良かったのに。中身は全然チワワなんかじゃなかった。
好戦的で、愛想も語彙もない。
私の同期だけじゃなく、先輩すらも弓道の成績でなぎ倒していった。大きくて、私が欲しかった二重のその目は、もはや真っ直ぐすぎて、人を射抜く程の力強さだった。
脳みそで思った事をそのまま言ってそうな口から見える犬歯があまりにも鋭くて
『これ、チワワっていうか、狂犬じゃない?』
と真逆の印象を受けた。
可愛くない本性がバレるまで時間はそうかからなくて、噂は消えた。
彼はそんな噂にも気がついてないのか、真っ直ぐマイペースに生きていた。
自由な野良犬。その野良犬を躾けるのが部長としての役割だと思って
「人が会に入ってる時に話しかけないでくれませんか?」
抗議してみる。
「それはすんません」
真顔でぺこり、頭を下げた。
彼は本当に謝っているのかどうか分からないとこも私は嫌いだ。
私の“秘密”を探られている気がして。
チャームポイントのその大きな目は私にとっては、一度足を止めてしまいそうになるほど、怖い。
「私なんかと勝負して、メリットありますか?」
なるべく、彼に、吸い込まれないように目線を外す。
床には歴代の部員が刻んできたキズがあった。
巻藁のカスが落ちていて、それを拾い上げた。
掃除をしても掃除をしても、壁一面開放した弓道場の作りは、土ぼこりや藁が吹き込む。
「あります」
あまりにも即答するくせに、その言葉の続きを待てども、
メリットの詳しい解説がなくてじれったくなる。
この、独特のテンポ感も私はムズムズする。
「君にメリットが仮にあっても、私にはないじゃん」
私が言葉を足した。
「俺が作ります」
何なんだこいつ。俺様かよ。という言葉を噛み殺した。
「だから、勝負なんかしないって。
何?私なんかと付き合うのが田中くんにとってメリットなわけ?」
田中くんは、矢取りにいくのか、懸を外した。
深緑の下掛けが妙に大人びて見えた。
下掛けを雑に取った右手で、天然がかったつむじの髪の毛を軽く払った。
クラスメイトの男子はセンターパートかセットされた髪型なのに、田中くんは何にもセットしてない。
それでも、完成されて見えるその髪型は、羨ましい。
私は朝20分かけてコテで伸ばしてから一つに纏めた髪の毛の毛先を触ろうと背中から前に毛束を持ってきた。
私の的から矢が抜かれる。3回、パリパリとビニール的と矢が擦れる音がした。あと3回、土がサクサク崩れる音がした。
その後ろにある的からは6回、ビニールの音がして、ますますイライラする。
会中。
彼は矢を的から外したことない。
田中くんは100%、選手に選ばれる。
私なんかよりずっとコーチに見初められてる。
どれだけ今さら頑張っても彼になんか絶対勝てない。
その事実を見せつけられるのがしんどい。
矢取りから戻ってきた彼は、私を一瞥して、矢立てにガサッと矢を入れた。
「俺に付き合ってくれたら、先輩のこと、正気に戻します」
さっきのメリットの答えなのか、普通のことみたいな言い方で、ひどく失礼な事を言う。
「人が正気じゃないみたいな言い方やめて」
「じゃあ正気なんすか?」
失礼、とは思っていないような口ぶりだった。
無邪気な悪とはまさにこのことなのかもしれない。
「正気だよ」
嘘、じゃないと言い切りたい。
そう思わないと、一度でも正気を戻したら、二度元には戻れないと知っているから。私は地面から数センチ浮いている。それは浮足立つことをしているから。そして、みんなには言えるような事ではないことをしているから。
彼は私をじっとみて、ため息をついた。
「俺には付き合ってくれないんですか?」
「付き合わない」
私は、埒が明かない会話を切り捨てた。
矢立てから、また矢を取る。
そして、的前に立つ。
「コーチなんかより、俺の方がいいっすよ」
「……なんで、コーチ関係ないじゃん」
「え?付き合ってるんじゃないんですか?」
「付き合ってないよ」
まだ、という言葉を飲み込めた自分を、私は抱きしめたい。
田中くんは私から目を離さない。びっくりしたような表情にも、まあ、分かっていたとも言わんような表情にも見える。
感情が読みにくい。
「じゃあ、フリーなんすね。俺の事、好きになってもらえるチャンスあるってことっすね」
「無いよ。継矢するレベルでありえない」
継矢。
私の矢の直径7.0mmを射抜くこと。
すなわち、7mmの的を28m離れた場所から狙うこと。
それを狙って行って、成功するのは約1/30000の確率なのだという。
それほど難しいし、奇跡に近い。
「わかりました。先輩。先に射ってください」
「……前から思ってたけど、田中くんマイペースすぎ!」
私は悪態ついてから的前に立つ。
次は邪魔せずに見守ってくれたから、私の矢は綺麗に、的の真ん中に吸い込まれていった。
一礼して、射場を去る。
すぐに私のいた的前に、田中くんが立つ。
「ちょ、何してんの」
「継矢したら、俺の事、好きになってもらえるチャンスあるってことですよね」
私じゃなくて、的を見据えながら彼は言う。
「だからありえないって」
「俺、“ありえない”とか、“無理”とかいう言葉は信用してないんで。だから、先輩の“ありえない”は無視しますね。あと、“私なんか”とかいう言葉も謙遜に見えた自己肥大だと思うんですが」
スッ、と構えられた姿勢は背筋が伸びていて、
真っ直ぐ弓を持ち上げた。弦が、ギリギリと悲鳴を上げていたが、彼が右手で引き切るとその悲鳴は消えて、弓道場に静寂が戻る。
矢が、的をに向けて伸び続ける時間は、永遠のようだった。
彼の射型は、芸術的だ。
毎回全く同じ型に収まれる。まるで機械のようなその姿を見ている。たった5秒程度なのに、いつまでも見ていたような気持ちになる。
カン!と金属音に近い弦音と、その間を空けずにまた弦音とは違う金属音がした。
それは初めて聞く音で、フェンスの金網が揺れる音に近いものだった。つまり弓道をしていたら聞くことのない音だということ。
「……ほら。ありえるでしょ」
振り返って、私に見せた表情は口元が少し上がっていた。
右口角にはエクボがあって、その笑顔はセクシーだった。
私は、慌てて矢取りに向かう。
そこには的のど真ん中を射抜いた私の矢を寸部狂わず射抜いた田中くんの矢があった。
田中くんの矢の方が私の矢の直径よりも大きいため、私の矢をメリメリと引き裂いていた。
使い物にならなくなった私の矢と、田中くんの矢をただ呆然と見ていると、田中くんは私を追いかけてきた。
「私の矢を!どうしてくれんの!高いんですけど!」
私は彼の弓道着に掴みかかる。
体格差がありすぎて私の揺さぶりが響かない。
「あ、それはすみません」
また、ペコリと頭を下げる。
そして頭を上げるとすぐに言った。
「じゃあ、先輩の“ありえない”は、“あり得る”話になったんで。今日から俺の好きな人になってくださいね。趣里先輩」
語尾にハートがついていそうなその台詞が、彼の顔にはよく似合っていた。
でも、私はその胸キュン台詞に甘えることも、よろこんで舞い上がることもなく、(コーチに言ってもらえれば一生脳内再生するだろう)
ただただ、彼の意図が読めない(私の事が好きそうにも見えない)この一連の騒動に混乱し続けていた。
もっと告白って甘くて、とろとろで、美味しいものだと思ってたのに、
彼のそれには全て欠けてる気がした。
この日から、私の人生設計(コーチと結婚する)は
ぽっと出の狂犬に邪魔されて大きく狂っていくことになる。
中学生の時、特に入りたい部活動がなくて、なんとなく入った部活が弓道部だった。
個人競技だし、チーム戦だったとしても、作戦とかポジション争いとかもない。矢が的に刺さる、刺さらない。それだけで決まる、自己責任だけの競技で気が楽だった。
張り詰めた弦が、私の指から離れて、カーボン製の弓に当たるときの金属音にも似たその音は、私から28m先の安土まで響く。
『お前の弦音、いいじゃん。俺は好き。てか射型も全部』
コーチが私に囁いたあの日から、私はずっと弓道場にいた。私だけなら良かったのに。
的前に立つ。
弦の仕掛けがそろそろ毛羽立ってきて、筈が外れそうなのを、無理に懸に引っ掛けるように右手首をひねった。
打ち起こし、大三と徐々に弓に弦に抵抗をかけていく。
すべての弦を引ききってから、指が自然に弦から離れるのを待つ。そのタイミングで、矢が発射されるのだった。
『雨だれが、葉の先から落ちるみたいな。離れってそんな感じだよ』
コーチの声が、反芻する。
温度のある、優しいミルクみたいな声。キリキリ、弦が限界まで引かれる。
その瞬間、私は地球から重力を切り離されて、宇宙に放り出されたような感覚になる。音が、時間が私の周りから消える。
「趣里先輩、俺と勝負して。
俺が勝ったら、俺と付き合ってください」
彼の声は私を急に現実に引き戻した。びっくりした拍子に私の指が離れるのはほぼ同じタイミングだった。
離れる時に弓がぶれた。
矢が真っ直ぐ的には飛ばず、ぐるぐる回りながら前へ進む。
カン、と的枠を矢が掠める音がした。
28m先にある安土にささる私の鷲矢は、土とほぼおんなじ色をしていて、目を細めて見ないと、行方を見失ってしまいそうだった。
あー、外しちゃった。当てないと、選手選考外れちゃう。
じゃなくて。
私は、乙矢を弦に番えるのをやめて、後ろに振り返る。
大前に立つ私を、落から睨むようして、その男は言った。
睨みたいのは私のほうなのに。
さっきの告白じみた発言は聞き間違いかと思うくらい、殺伐とした空気が私たちの間には流れていた。
弓道場には私と彼、田中くんしかいない。
私たちの高校がテスト週間で、部活動が禁止されている。
そのテスト週間を免除されるくらいには私は成績も良くて、彼は弓道が上手だ。
田中 一成くん。
部長の私なんかすぐに追い越すくらいには弓道が上手で、県大会でも注目されている彼が、私は嫌いだった。
例を上げるとすれば今みたいに、
全然予想もしていない発言をするところとか。
でも、私は部長だから。
先輩だからそのよく分からない発言を優しく包み込めるようにする役目がある。
『部長って大人っぽいな。冷静に俯瞰してるっていうか』
それが大人だから。私が、なりたい大人。
一度息を吸う。丹田に力を込める。
「俺と勝負しましょう」
吸った息が、循環して、息を吐き出す。
吐き出す直前に
さっきと同じように発言する彼の目は真剣そのもので、
ズッコけそうになる。
新入生で入ってきたとき、田中くんはちょっとした有名人だった。
『目がまん丸で零れ落ちそうなくらいキラキラしている、チワワに似て可愛い1年がいる』
という噂がわたしのクラスにまで回ってきたのに、その噂は本当にただの噂だった。
入部してきた彼を見た時、すぐに噂の子だと分かった。
可愛らしい顔つきにはそぐわず高い身長と引き締まった体で、これはさぞおモテになるんだろうなと勝手に思っていた。
これで中身もチワワみたいに愛くるしくて人懐っこければ良かったのに。中身は全然チワワなんかじゃなかった。
好戦的で、愛想も語彙もない。
私の同期だけじゃなく、先輩すらも弓道の成績でなぎ倒していった。大きくて、私が欲しかった二重のその目は、もはや真っ直ぐすぎて、人を射抜く程の力強さだった。
脳みそで思った事をそのまま言ってそうな口から見える犬歯があまりにも鋭くて
『これ、チワワっていうか、狂犬じゃない?』
と真逆の印象を受けた。
可愛くない本性がバレるまで時間はそうかからなくて、噂は消えた。
彼はそんな噂にも気がついてないのか、真っ直ぐマイペースに生きていた。
自由な野良犬。その野良犬を躾けるのが部長としての役割だと思って
「人が会に入ってる時に話しかけないでくれませんか?」
抗議してみる。
「それはすんません」
真顔でぺこり、頭を下げた。
彼は本当に謝っているのかどうか分からないとこも私は嫌いだ。
私の“秘密”を探られている気がして。
チャームポイントのその大きな目は私にとっては、一度足を止めてしまいそうになるほど、怖い。
「私なんかと勝負して、メリットありますか?」
なるべく、彼に、吸い込まれないように目線を外す。
床には歴代の部員が刻んできたキズがあった。
巻藁のカスが落ちていて、それを拾い上げた。
掃除をしても掃除をしても、壁一面開放した弓道場の作りは、土ぼこりや藁が吹き込む。
「あります」
あまりにも即答するくせに、その言葉の続きを待てども、
メリットの詳しい解説がなくてじれったくなる。
この、独特のテンポ感も私はムズムズする。
「君にメリットが仮にあっても、私にはないじゃん」
私が言葉を足した。
「俺が作ります」
何なんだこいつ。俺様かよ。という言葉を噛み殺した。
「だから、勝負なんかしないって。
何?私なんかと付き合うのが田中くんにとってメリットなわけ?」
田中くんは、矢取りにいくのか、懸を外した。
深緑の下掛けが妙に大人びて見えた。
下掛けを雑に取った右手で、天然がかったつむじの髪の毛を軽く払った。
クラスメイトの男子はセンターパートかセットされた髪型なのに、田中くんは何にもセットしてない。
それでも、完成されて見えるその髪型は、羨ましい。
私は朝20分かけてコテで伸ばしてから一つに纏めた髪の毛の毛先を触ろうと背中から前に毛束を持ってきた。
私の的から矢が抜かれる。3回、パリパリとビニール的と矢が擦れる音がした。あと3回、土がサクサク崩れる音がした。
その後ろにある的からは6回、ビニールの音がして、ますますイライラする。
会中。
彼は矢を的から外したことない。
田中くんは100%、選手に選ばれる。
私なんかよりずっとコーチに見初められてる。
どれだけ今さら頑張っても彼になんか絶対勝てない。
その事実を見せつけられるのがしんどい。
矢取りから戻ってきた彼は、私を一瞥して、矢立てにガサッと矢を入れた。
「俺に付き合ってくれたら、先輩のこと、正気に戻します」
さっきのメリットの答えなのか、普通のことみたいな言い方で、ひどく失礼な事を言う。
「人が正気じゃないみたいな言い方やめて」
「じゃあ正気なんすか?」
失礼、とは思っていないような口ぶりだった。
無邪気な悪とはまさにこのことなのかもしれない。
「正気だよ」
嘘、じゃないと言い切りたい。
そう思わないと、一度でも正気を戻したら、二度元には戻れないと知っているから。私は地面から数センチ浮いている。それは浮足立つことをしているから。そして、みんなには言えるような事ではないことをしているから。
彼は私をじっとみて、ため息をついた。
「俺には付き合ってくれないんですか?」
「付き合わない」
私は、埒が明かない会話を切り捨てた。
矢立てから、また矢を取る。
そして、的前に立つ。
「コーチなんかより、俺の方がいいっすよ」
「……なんで、コーチ関係ないじゃん」
「え?付き合ってるんじゃないんですか?」
「付き合ってないよ」
まだ、という言葉を飲み込めた自分を、私は抱きしめたい。
田中くんは私から目を離さない。びっくりしたような表情にも、まあ、分かっていたとも言わんような表情にも見える。
感情が読みにくい。
「じゃあ、フリーなんすね。俺の事、好きになってもらえるチャンスあるってことっすね」
「無いよ。継矢するレベルでありえない」
継矢。
私の矢の直径7.0mmを射抜くこと。
すなわち、7mmの的を28m離れた場所から狙うこと。
それを狙って行って、成功するのは約1/30000の確率なのだという。
それほど難しいし、奇跡に近い。
「わかりました。先輩。先に射ってください」
「……前から思ってたけど、田中くんマイペースすぎ!」
私は悪態ついてから的前に立つ。
次は邪魔せずに見守ってくれたから、私の矢は綺麗に、的の真ん中に吸い込まれていった。
一礼して、射場を去る。
すぐに私のいた的前に、田中くんが立つ。
「ちょ、何してんの」
「継矢したら、俺の事、好きになってもらえるチャンスあるってことですよね」
私じゃなくて、的を見据えながら彼は言う。
「だからありえないって」
「俺、“ありえない”とか、“無理”とかいう言葉は信用してないんで。だから、先輩の“ありえない”は無視しますね。あと、“私なんか”とかいう言葉も謙遜に見えた自己肥大だと思うんですが」
スッ、と構えられた姿勢は背筋が伸びていて、
真っ直ぐ弓を持ち上げた。弦が、ギリギリと悲鳴を上げていたが、彼が右手で引き切るとその悲鳴は消えて、弓道場に静寂が戻る。
矢が、的をに向けて伸び続ける時間は、永遠のようだった。
彼の射型は、芸術的だ。
毎回全く同じ型に収まれる。まるで機械のようなその姿を見ている。たった5秒程度なのに、いつまでも見ていたような気持ちになる。
カン!と金属音に近い弦音と、その間を空けずにまた弦音とは違う金属音がした。
それは初めて聞く音で、フェンスの金網が揺れる音に近いものだった。つまり弓道をしていたら聞くことのない音だということ。
「……ほら。ありえるでしょ」
振り返って、私に見せた表情は口元が少し上がっていた。
右口角にはエクボがあって、その笑顔はセクシーだった。
私は、慌てて矢取りに向かう。
そこには的のど真ん中を射抜いた私の矢を寸部狂わず射抜いた田中くんの矢があった。
田中くんの矢の方が私の矢の直径よりも大きいため、私の矢をメリメリと引き裂いていた。
使い物にならなくなった私の矢と、田中くんの矢をただ呆然と見ていると、田中くんは私を追いかけてきた。
「私の矢を!どうしてくれんの!高いんですけど!」
私は彼の弓道着に掴みかかる。
体格差がありすぎて私の揺さぶりが響かない。
「あ、それはすみません」
また、ペコリと頭を下げる。
そして頭を上げるとすぐに言った。
「じゃあ、先輩の“ありえない”は、“あり得る”話になったんで。今日から俺の好きな人になってくださいね。趣里先輩」
語尾にハートがついていそうなその台詞が、彼の顔にはよく似合っていた。
でも、私はその胸キュン台詞に甘えることも、よろこんで舞い上がることもなく、(コーチに言ってもらえれば一生脳内再生するだろう)
ただただ、彼の意図が読めない(私の事が好きそうにも見えない)この一連の騒動に混乱し続けていた。
もっと告白って甘くて、とろとろで、美味しいものだと思ってたのに、
彼のそれには全て欠けてる気がした。
この日から、私の人生設計(コーチと結婚する)は
ぽっと出の狂犬に邪魔されて大きく狂っていくことになる。