それからの一週間はひとことで言ってしまえば、甘い甘いシロップ漬けの、地獄のような日々だった。

 退院した翌日から、朝陽は変わらず大学へ行った。目の前にある道と夢が違えてしまっても、勉強はしっかりしたいのだと朝陽は言っていた。その言葉を思い出せば、引き止めるわけにはいかなかったが。連日、気が気ではなくなるほど心配だった。精密検査ですら見つけられなかった異変があって、電車の揺れや友だちとじゃれあったりの刺激で、また倒れたらどうしよう。
 仕事中、少しでも時間が空けば連絡を入れ、大丈夫だよと返事があると安堵して。さすがに過保護かと思いはすれど、朝陽の無事を知るためと思えば、背に腹は代えられない。帰宅した朝陽に何度も連絡してごめんと言う度、嬉しいだけだと笑ってくれるのが救いだった。

 その反面、家で過ごす時間は、朝陽がべったりと離れなくなった。
 帰宅するとまず、おかえりとただいまを交わしてハグ。着替える時は熱い視線が離してくれないし、夕飯の支度にキッチンへ立てばまた後ろから抱きつかれる。朝陽が料理してくれる夜には、傍にいないと拗ねられた。
 いただきますと手を合わせる時、パクチーに水をあげる時、それから風呂へと向かう時など。カメラを向けられる瞬間が、格段に増えた。慣れとは恐ろしいもので、写真を撮られることに戸惑うことももうなくなったが。この数日は、レンズを覗く瞳がやたら色っぽいのがいけない。口より雄弁で、欲をぶつけられている感覚になる。
 本格的に地獄が始まるのは、明日の準備まで終えて、まったりと過ごす時だ。夜更かしを試みても、早くにベッドへもぐっても。大きな手は恭生の体に巻きついて、指先が甘えてくる。くちびるに肌をなぞられて、吐息をちいさくでも漏らせば、ねえ続きが欲しいよねと攻めたてられてしまう。

「朝陽、駄目だって」
「どうしても?」
「どうしても」
「でも、きつい。恭兄のせいだよ、自分でもしちゃ駄目って言うから」
「う……」

 それを言われてしまうと、恭生も頭が痛い。なぜあんなことを、と大いに悔いているところだ。
 一週間後にと約束した次の日、たくさんキスをしてふたりとも体が反応しかけていた時だ。パンツのウエストに伸びてきた朝陽の手を、慌てて掴んだ。昨日みたいに触るだけならいいでしょと乞われて、蘇る記憶に恭生もつよく惹かれ、受け入れそうになった。でも約束をしたのだから、きちんと遂げたかった。必死に理性を繋ぎ止めて、恭生は言った。ひとりでだってしないように我慢するから、朝陽も頑張ろう、と。そうした分、約束の日はもっと嬉しいだろうから、と。
 なぜいいお兄ちゃんぶってしまったのだろう。できるものなら、あの日の自分の肩を掴み、がくがくと揺らして説得したい。そのくらいには、恭生も限界を感じている。
 自分たちを追い詰めるようなものなのに、ふたりしてキスもハグもやめられない。とろ火にかけられた果実みたいに、熱だけがふつふつと溜まっていく。沸点へ達することを禁じたら、ただただ苦しい。だが、離れているのはもっと我慢ならないのだから仕方ない。
 本当は恭生だって、今すぐに触ってほしい。強い欲は初めてで、でも殊勝なことを言ったからには後には引けず、どうにか往なしている。

「もう明後日だし。な? 約束の日」
「そうだけど……」
「たくさん我慢してるから、その、すげーイイかもじゃん」
「恭兄……だいぶえっちなこと言ってる自覚ある?」
「……ある。から言うな」

 布団の中で背後から抱きすくめられ、熱くなった体を擦りつけながら朝陽がぐずる。うう、と唸って、どうなっても知らないからと火照った息がうなじにぶつかる。
 たった二日だけ。まだ二日もある。前者の心持ちでいられたら、どんなに楽か。
 正直なところ、我慢の影響は仕事にも及んでいる。美容師としてのプライドがある、カットする手にこそ一切の狂いは許さないが、やけに色気があるだのと客からもスタッフからも言われるようになってしまった。隙あらば朝陽の体温を欲してしまい、熱っぽいため息を吐いてしまうからに他ならなかった。
 甘い地獄を耐え抜くため、朝陽の髪を後ろ手に撫でながら、細く長く息を吐く。
 あと二日、あと二日。呪文のように心の内で唱えて、早く寝てしまおうと瞳を閉じる。

 ようやく迎えた約束の日、恭生も朝陽もそれぞれに仕事と大学の講義があった。朝食のテーブルの上には、バターを塗ったトーストとたまごやき。一般的には洋と和のバランスがおかしくても、これが定番の朝食になっている。朝陽が焼いた甘いたまごやきに、恭生は朝から幸福を噛みしめるのだ。

「なあ朝陽、今日の夕飯だけどさ。待ち合わせして外で食わない?」
「んー、俺は家がいいけど」
「でもさ、それだと多分……夕飯どころじゃなくなる気がする」

 恭生の潜めた声に、トーストを齧っていた朝陽の動きが止まる。
 この一週間がどれほど長くて、今日をどんな気持ちで待ちわびたか。自分のことも相手のことも、お互い手に取るように分かっている。見透かされていることまで、知っている。
 この部屋にまっすぐ帰って来たら、なにもかも放り出したくなるに決まっている。

「大学終わったら恭兄のほうに行く」
「うん。あ、気をつけて来いよ。もう無茶すんのはなしな」
「はは、うん。分かってる」

 恭生が働くヘアサロンの、最寄り駅で待ち合わせ。そう決めたら、そこから会話は続かなくなった。朝食を一緒に食べられる時は、いつも話したいことがたくさんで、遅刻しかけて慌てることもしばしばなのに。
 あと数時間も経てば、念願の時間がやってくる。その瞬間を焦がれるなんて、はしたないだとかいやらしいだとか。気恥ずかしさで本音を閉じこめるのはやめた。恋人に触れたい、触れられたい。こみ上げてくる感覚は過去を振り返っても初めてのことで、初恋のようにみずみずしい。
 自分の気持ちまで大事にしたくなる恋を、朝陽としている。

「じゃあ、いってきます」
「うん」
「あ……朝陽、今日はだめ」
「え、なんで」

 先に家を出る恭生を、朝陽が玄関まで見送りにくる。いつもならキスをするところだが、手のひらで朝陽の口元を覆い拒む。むくれて突き出されたのが、手のひらに当たるくちびるのかたちで分かる。

「キスしたらその、反応する自信あるから」
「……俺、今の聞いて反応しそうだけどどうしたらいい?」
「はは、あとちょっと我慢な?」

 じゃあなと指同士を絡め、ぎゅっと握ってから外へ出る。壁にもたれかかった朝陽が、恨めしそうにじとりとした目を向けてくる。
 でもその奥に、はっきりと熱い灯がともっている。それが爆ぜたら、一体どうなってしまうだろう。今夜知るのだと思うと背が震え、吐いた息が体にまとわりつく。


「朝陽!」
「恭兄。お疲れ様」
「ん、朝陽もお疲れ様」

 仕事終わりに駅へと直行したら、朝陽の姿をすぐに見つけることができた。あの事故以来の、この場所での待ち合わせだ。無事に会えたことに奇跡みたいに感動する。
 さっそく、夕飯はどうするかを話し合う。だがお互い、なにを食べるかなんて今日は心底どうでもよかった。
 ここから一番近いのは、チェーンのファミリーレストランだ。じゃあそこにしようと歩き始めた時。兎野、と呼ぶ声が聞こえ、朝陽と一緒に振り向いた。

「わ、橋本じゃん」
「はは、また会ったな」
「あー、はは、だな」

 まさか朝陽と一緒の時に、しかもこんな日に出くわすなんて。朝陽の顔を盗み見るといかにも不機嫌そうで、どうやら橋本だと認識しているようだ。じっとりとした視線が向けられていることに、橋本もすぐに気づく。

「あれ。もしかして、兎野の幼なじみの……」
「……どうも」

 気まずい空気に、恭生はついたじろぐ。睨みつけるような朝陽を受けて、橋本も応戦するように目を眇めていて。
 恭生は思わず、朝陽を背に守るようにしてふたりの間に割って入った。その直前にとった朝陽の手に、こっそり指を絡める。

「えっと、橋本は仕事終わり?」
「え? ……ああ、うん。営業先がこの近くで、直帰するところだった」
「そっか。オレたちはこれから、ごはん食いに行くとこ」
「へえ。はは、ほんと仲良いんだな」
「うん、そうだな」
「俺、幼なじみっていないから。ちょっと羨ましいわ」

 それじゃあ、と言う橋本に、恭生は手を振る。歩き出した橋本は、けれどすぐにまたこちらを振り返った。

「朝陽くん」
「……はい」
「約束、守れなかった。ごめん」
「……あんたにお願いしたことなら、俺が叶えるんで大丈夫です」
「え……?」

 ふたりの会話に、恭生は繋いだままの手に思わず力をこめた。
 ふたりが顔を合わせるのは、今日で三回目のはずだ。
 一回目は、キスを見られてしまった時。二回目は橋本が以前言っていた、キスをしてすぐの頃に、道でばったり会ったという日。
 恭兄を大事にしないと許さない、絶対に悲しませないで――朝陽が言ったらしいその言葉を、橋本は約束だと言っているのだろう。
 中学生の朝陽と、今の朝陽。橋本に向かって放たれた言葉が混ざり合う。それだけで橋本だって察しただろう、自分たちの関係を。見開かれた瞳に映される。けれど恭生の意識は全て、背後に立っている朝陽にしか向かない。

「あー、マジか。そういうことかあ」
「っす」
「もしかして、朝陽くんは兎野のこと、あの時から?」
「はい」
「そっか……朝陽くんかっこいいな。昔も今も。兎野が惚れるのも納得」

 してやられたといった顔、だがどこか清々しくも見える。

「兎野」
「ん?」
「また切ってもらいに行くから、その時はよろしくな。もちろん今度は指名で」
「ああ、うん」
「じゃあな」

 今度こそ去っていく橋本をぼんやりと眺める。すると繋いだままだった朝陽の手が、駅のほうへと恭生を引っ張る。

「え、朝陽、ファミレスは?」
「ごめん、今すぐ帰りたい」
「へ……」
「もう一秒も待てない」
「朝陽……」

 帰宅ラッシュの時間だ。駅は大勢の人で溢れていて、その間を朝陽とふたり縫うように進む。混んでいる電車の中で身を寄せ合う。
 朝陽はひと言も喋らず、少しくちびるを噛んでいる。橋本と会ったことで、嫌な思いをさせてしまったのは明白だった。
 電車が揺れ、朝陽の肩口に顔がぶつかった。ああ、これはまずい。朝陽の機嫌をよくしてあげたい、だがそれとは別に、恭生の中にははっきりと灯っている熱がある。
 一秒も待てない――朝陽のそのひと言が頭の中でリフレインし続けている。自分の感情に対処するだけでも精いっぱいだった。
 人波に押され、今度は朝陽の二の腕に密着してしまう。腹から火照った息が上がってくる。
 顔を上げられずにいると、押しつぶされた手を朝陽が探り当て、指を絡められた。朝陽の爪先が、手の甲を掻いてくる。ああ、恭生だってもう待てない。だが電車のスピードが変わるはずもなく、じれったさだけが募ってゆく。もうどうにでもなってしまえと額を擦りつけ、シャツ越しの朝陽の腕にこっそり齧りついた。


「あ、朝陽、手!」
「恭兄ごめん、離したくない」

 アパートの最寄り駅に到着すると、朝陽は恭生の手を掴み早足で改札を抜けた。道へと出てその手は離されるどころか、再び指を絡めるように繋がれてしまった。

「誰かに見られるの、困る?」
「……いや、それは大丈夫、だけど」

 男同士だからと人目を気にするつもりは、恭生にもなかった。敢えて宣言もしないが、誰かに付き合っているのかと聞かれたら胸を張ってイエスと答えたい。そう思っている。
 とは言え、繋がれた手にどうにも戸惑ってしまう。外で手を繋ぐのは初めてのことで、心臓がバクバクとうるさいのだ。
 立ち止まっていた朝陽が、一歩身を寄せる。

「恭兄」
「ん?」

 駅から家路をいく人たちが数人、横を通り抜けていく。それを横目に、月明りの下で朝陽は真剣な顔をしている。

「あの人とは……」
「え?」
「さっきの、橋本さん、だっけ。とは、こんな風に手繋いで歩いたりした?」
「……ううん、してない」
「ほんとに?」
「うん、ほんとだよ」
「ん。じゃあさ……」

 少し口籠った朝陽が、恭生の耳元へ口を近づける。

「あの人としてないこと、もっといっぱいしたい」
「……っ」

 誘惑するような仕草なのに、それでいて拗ねたような、懇願するような、甘えるような。その言いっぷりが、甘い熱を持って恭生の腹の奥に落ちてきた。

「あ、朝陽」
「うん」
「はやく、帰ろ」
「……うん」

 繋いでいる手を強く握り返す。気が急くままに進んだら、足がもつれそうになる。


 アパートに到着して、朝陽が鍵を取り出す。焦っているのか中々鍵穴に刺さらず、手を貸してどうにか開けることができた。
 中へ入り、扉が閉まるより先にくちびるを塞がれる。壁に背をぶつけながら朝陽の首に手を回すと、キスは深くなった。

「あさ……んう」
「恭兄、恭兄」

 キスの合間に何度も名前を呼ばれる。

「あ、朝陽、待って」
「もういっぱい待った」
「そうだけど、ベッド行こ? な?」

 こんなところでは、外を通る他の住民に声を聞かれてしまうかもしれない。朝陽のシャツを引いて訴える。朝陽のくちびるがむっと尖る。ぱくりと口を食まれたと思ったら、体を抱えあげられてしまった。

「わっ」
「掴まってて。靴脱がすよ」

 靴に指を引っかけられ、恭生も足を振って脱ぎ捨てる。言ってくれれば、自分で脱いだのに。しがみつく首筋は熱い、本当に数秒すらも待てないのだろう。

 ベッドにふたりでもつれるように倒れこむ。ベッドヘッドのライトがつけられて、くしゅっと寄った眉間が見えた。切なそうに愛しそうに、恭兄、と呼ばれる。その声が堪らなくて、鼻がツンと痛みだす。

「朝陽、こっち。ぎゅってさせて」
「ん……恭兄」

 朝陽の頭を抱きこむようにして、髪を撫でる。抱きしめ返され、朝陽の重みが心地よく圧し掛かってくる。
 やっと、やっとだ。待ちわびた瞬間に、お互いの肌へと手を伸ばす――


 体を重ねることがこんなにも幸せなことなのだと、恭生は知らなかった。
 どうして自分たちは同じ人間じゃないのだろう。同じじゃないから、四六時中一緒にいることは叶わない。だが、別の人間だからこんな風に触れて愛し合うことができる。好きで好きで仕方ないほど愛したら、その分だけ切なさも強くなってしまうようだ。お互いに涙を浮かべる瞬間があった。それすらも幸福な想いとして、恭生の胸に熱く残る。


 たっぷりと心を溶かしあった後、初めて一緒に風呂へ入った。狭いアパートの小さな浴室だ、シャワーを浴びてすぐに出た。すると、朝陽の腹がぐうと鳴って空腹を知らせてきた。恥ずかしそうにするかわいい朝陽にちいさく笑って、今はふたりでキッチンに並んでいるところだ。
 今夜は外食をするつもりだったから、家にはろくなものがない。それでも即席のラーメンがちょうど二個残っていて、冷蔵庫には卵が三個あった。

「ラーメンに卵入れちゃう?」
「うーん。オレはラーメンとたまごやきがいいな」
「恭兄ほんと好きだね」
「うん、好き」
「はは、じゃあ作ります」
「やった」

 鍋にラーメン二食分の湯を沸かしながら、隣のコンロにはちいさなフライパンが置かれる。お椀の中でたまごを溶く朝陽の横で、恭生はミルクと砂糖を用意する。

「恭兄、牛乳と砂糖ここに入れて」
「うん、ストップって言えよ」

 卵液の色が牛乳で薄まり、砂糖がきちんと溶けるまでかき混ぜる。カチカチと音を鳴らして火がつけられ、サラダ油をあたためる。フライパンの上に朝陽が手を翳し、あたたまったかを確認する。間もなく、卵液がフライパンに注がれた。
 弱火でじっくりと優しく焼き上げる、その手元を見ているだけでちっとも飽きない。菜箸で器用にたまごを巻きはじめた朝陽にもたれながら、恭生は朝陽の入院先からひとり帰った夜を思い出していた。
 祖父の言葉を、本当の意味で理解した。朝陽が隣にいてたまごやきを焼いている、小説や映画ならきっと、何気ないシーンとして描かれるだろうこの瞬間にこそ、またひしひしと感じられる。

「朝陽ー」
「んー?」
「じいちゃんの言ってたあれ、あるじゃん」
「うん」
「オレ、多分もっと分かったよ。ニンジンの時より」
「あ、俺も。恭兄と一緒かな」

 フライパンの中では、くるくると巻かれた小ぶりのたまごやきが端に寄せられ、朝陽が卵液を少量追加する。

「森下さんから電話もらった時、朝陽にもしものことがあったらって、体が粉々になりそうなくらい怖かった。それで……あー、じいちゃん、ばあちゃんがいなくなる時、こういう気持ちをいっぱい経験して、めちゃめちゃしんどくて、ばあちゃんにさせないで済んでよかったって思ったんだろうなって。自分が引き受けるほうがいい、そういう愛だったんだなって。ふ、だって朝陽、オレのことすげー好きじゃん。あんな恐怖、絶対感じさせたくないって思ったもん」
「……うん、俺も。恭兄、すごく泣いてたから。もうこんな想いさせたくない、絶対に恭兄残して死ねないなって思った」
「うん。オレも朝陽が大好きだからな」
「恭兄~……」
「はは、朝陽涙目」
「恭兄もじゃん」
「だなぁ。あ、朝陽、たまごやき焦げてない?」
「え! うわほんとだ!」

 慌ててコンロからフライパンを下ろしたが、少し焦げてしまっていた。いつもは綺麗な黄色だから、そんな色は初めて見た。だがこれも、今日の特別という気がしてとてもいい。焦げた部分をどうにか取り除こうとする朝陽に、それが食べたいと皿を差し出す。不服そうなくちびるで、恭兄がいいならとよそってくれた。

 それからラーメンを作って、ふたつのどんぶりに分けて。ローテーブルに運び、ふたり並んで腰を下ろした。いつもは向かい合って食べるところだが、今日は少しも離れたくなかった。

「いただきます」
「いただきます。あー、うま」

 空腹の体に、スープのほどよい塩気が沁み渡る。朝陽も次々に麺を啜っていて、それを眺めているだけで顔がにやける。

「でもオレさ」
「んー?」
「じいちゃんのこと、それが深い愛情ってことも理解できたけど……朝陽には、オレより先に死んでください、なんてちっとも思えないわ。自分が先だと朝陽を悲しませるって分かってるのに、勝手かもしれないけど」

 ふふ、と自嘲じみた笑みをこぼし、恭生はちょっと焦げたたまごやきをひとつ頬張る。大好きな甘さは幸福の味で、今日だけはちょっぴりほろ苦くて、ついつい目を瞑って浸ってしまう。

「俺もだよ。恭兄に、俺より先に死んでください、なんて絶対思わない。確かに、おじいちゃんの考えに照らし合わせたら、自分かわいさかなって行き着くよね。でも、そんなもんじゃない? 好きな人には長生きして、楽しいこと幸せなこと、たくさん経験してほしいって思うし。愛なんて、言ってしまえばいつだって身勝手だよ」
「おお、なんか名言。でもそっか。そうだよな。好きな人と恋人になりたいとか、一緒にいたいのだって、なんだかんだ自分が嬉しいからだよな」
「うん。でも俺たちはほら、両想い、だから。恭兄が嬉しいと俺も嬉しい、ウィンウィンだよ」
「たしかに。朝陽が喜んでくれるんだし、長生きしなきゃな」
「うん、俺も長生きする。一緒にめいっぱい長生きして、仲良しおじいちゃんになろ」
「うん、最高」

 朝陽が自分自身を大事にしてくれたら、そうやってずっとそばにいてくれたら、こんな幸せなことはないと恭生は強く思う。同じように己を大事にすることが、巡り巡って朝陽の幸せになる。うんと長生きして、おじいちゃん同士になって、それでもきっと、恭兄と呼ばれていて。切り離せない切なさと一緒に朝陽への愛を抱きしめて生きていけたら、それがいちばんいい。

「恭兄、たまごやき一個残ってる。口開けて」
「やった。あー……」
「はは、恭兄かわいい」
「いや、かわいくはないだろ」

 いつもとは反対の会話がおかしくて、笑いあってキスをする。額をくっつけて浸っていると、不意にまた朝陽が拗ねた顔を見せ始めた。

「そう言えばさ」
「んー?」
「俺、まだ恭兄の店行ったことない」
「え? うん、そうだな」
「……あの人はあるんだ」

 橋本のことだとすぐに分かった。先ほどから度々妬かれているのだと思うと、申し訳なさと一緒に湧くくすぐったさが否めない。

「あー……さっきな、言ってたよな。えっと、連絡とってたわけじゃなくて。ちょっと前に本当にたまたま、店に来てさ。オレも橋本も驚いたんだよ」
「へえ……それはそれでなんか、嫌かも」
「そう?」
「そう! なんかこう……いや言わない。俺も今度行っていい?」
「当たり前! 朝陽にも来てほしいなって、ずっと思ってたよ」

 約束だからねと、油っぽいくちびるが今度は頬にもキスをしてくる。べたべたするじゃんと笑ったら、恭兄もしてよとねだられて。頬に返して、堪えきれずにまたくちびるにキスをして。甘じょっぱいキスだねと朝陽が言うから、またふたりで笑い合った。