気が急いて、九時には病院へ到着してしまった。病室には森下の姿があり、すでに会計は終えたとのことだった。
私服に着替え終えベッドに腰かけた朝陽は、ゆうやの遊び相手をしていて、それを眺める森下の目にはまた薄らと涙が浮かんでいる。
「何度も噛みしめてしまうんです。あの子も柴田さんも無事だったことを」
「オレもです」
玄関まで四人で一緒に出て、バスで来たという森下親子とバス停まで向かう。先を歩いていたゆうやが、こちらを振り返る。手はしっかりと、母親と繋いだままに。
「おにいちゃんたちと、またあそべる?」
その言葉に、朝陽と顔を見合わせる。出逢ったきっかけこそ災難ではあったが、ちいさな子に慕われてしまったようだ。
「ゆうや。お兄ちゃんたち困っちゃうでしょ? ね?」
「あの。実はオレ、美容師やってて。よかったらゆうやくんと来てください。もちろん、気が向いたらで構いません」
捨ててくれても構わないと言い添えて、財布に忍ばせてあった名刺を取り出す。
朝陽は大怪我をすることもなかったが、それは結果論だ。また必ず遊ぼうと約束すれば、森下が気負ってしまうかもしれない。自分たち親子のせいで、他人が危ない目に遭った、と。顔を合わせたらきっと、強い罪悪感に苛まれる。想像に難くない。
だが、ちいさな子のキラキラとした瞳を無下にもできなかった。
躊躇いがちに名刺を受け取ってくれた森下は、静かに長く息を吸って顔を上げた。
「私が行ってもいいのでしょうか」
「はい、もちろん。気軽な気持ちで来ていただけたら」
「おにいちゃん、ゆうやも? ちょっきんしてくれる?」
「おう。もっとかっこよくしてあげる」
「ひゃー! ママ! ゆうや、かっこいいなるって!」
「……うん、うん。そうだね」
また涙ぐんだ顔を見せた森下は、けれど最後には微笑んでくれた。
バスが到着し、乗りこむふたりに手を振る。泣き顔ばかり見てきたが、また会う日が本当に来たなら、笑顔だといいなとそう思う。
「オレたちも帰るか」
「うん」
病院まで戻り、タクシー乗り場へと向かう。朝陽は電車でいいと言ったが、絶対にタクシーだと恭生は譲らなかった。
精密検査の結果は異常なし、今朝の診察でもお墨つきをもらえたと聞いている。それでも、だ。
気を失うほど頭を強く打ったのだと思うと、慎重にしていたかった。朝陽が大切だからだ。
「朝陽んちのおばさんに今日も連絡するって約束したんだけどさ。朝陽からする?」
「うん。そうしようかな」
「そっちのほうが安心するだろうしな。じゃあ頼んだ」
タクシーに乗りこんで、朝陽はすぐに電話をかけ始めた。朝陽は終始落ち着いていて、少しだけ漏れ聞こえてくる向こうの声も、穏やかなのが窺える。
ふたりの様子に安堵しつつ、その実恭生の心境と言えば、やけに騒がしい。森下親子と別れてからずっと、朝陽がべったりだからだ。救急車で運ばれ一晩入院して、心細いのかとも考えたが。繋がれた手には指が絡んでいて、時折なぞりあげてくるものだから参っている。顔が赤いだろうことを自覚して、窓の外へと意識を逸らす。だが電話を終えた朝陽が、そうはさせまいと指でくすぐってくる。
「朝陽……」
バックミラー越しに見られはしないかと、タクシーの運転手が気になる。それでもおずおずと朝陽のほうを振り向くと、熱っぽい視線で見つめてからあっちを向いてしまった。それでいて、離すもんかと言わんばかりに手には力がこもる。
一体どうしたのだろう。そう思いはしても、恭生も離れたいわけではなくて。朝陽の手の甲に当たる親指で、ゆったりとしたリズムを打った。
アパートに到着し、鍵を開ける。ドアノブに翳した手に、背後から朝陽の手が重なった。
「朝陽? どうし……」
恭生が振り向くより先に、ドアが開かれ中へと急かされる。驚く暇もないまま、玄関で背後から抱きしめられる。
「恭兄」
「……朝陽?」
先ほどからどうしたのだろうか。理解できていないはずなのに、縋るような腕と声色に、鼻がツンと痛む。肩口にすり寄る朝陽の髪を後ろ手に撫でつつ、振り返る。背中に腕を回したら、もっととねだるように抱きしめられた。
「どうしたー、朝陽。甘えんぼか?」
「恭兄」
「ん……」
ちいさい頃のように、可愛い弟を甘やかすように。また髪を撫でつつ尋ねたら、不服そうに一瞬尖ったくちびるがそのまま押し当てられた。思わず一歩後ずさったのが許せなかったようで、抱擁は強くなってキスも止まらなくなる。
「あ、さひ」
「恭兄、好き」
「ん……」
朝陽からの想いは、ちゃんと分かっているつもりだ。それは日々の生活の中に、凛とした瞳の奥にいつだって見えていた。だがこんなにストレートに、愛情をぶつけられたことはなかった。
いつの間にか背は壁につき、朝陽の腕に囲われている。止まないキスに体が熱くなるのを感じながら、朝陽の名を呼ぶ。
「朝陽、なあ、どうした?」
「なにが?」
「なにがって、こんな……」
シャツの上から腰を撫でられ、思わず上擦った声が出た。こんな風に触れられるのは初めてで。驚いて見上げると、頬にひとつキスをされた後、額同士がくっついた。腰にある指先でゆったりとそこを撫でながら、もう片手は恭生の手を絡めとる。
「俺、恭兄と付き合えてすごい嬉しくて」
「うん、オレもだよ。なあ朝陽、腰の手……」
「本当は……触ったりとか、したいのに。初めてだからどうしたらいいか分からなかったし、一緒にいられるだけで嬉しくて、ゆっくりでいいなとも思ってた。でも……」
「あ、朝陽、手……」
おずおずとながらも、朝陽の手がシャツの裾から潜りこんできた。撫でられ続けていたところに、今度は直接触れられる。
「昨日、あんなことがあって。恥ずかしがったりしてる場合じゃないな、って思った。俺、恭兄に触りたい」
「朝陽……」
直球の懇願に、頬に熱が集まる。その一方で、昨日は気丈にしていた朝陽だが、様々なことを考えたのだなと切なくなる。
「恭兄、部屋上がろ」
促されるままに靴を脱ぐ。改めてただいまと言う朝陽に、おかえりと返事をする。部屋の中へと進むと、また背後から抱きしめられた。
「おっと」
「恭兄~」
「はは、やっぱり甘えんぼじゃん」
甘ったるく呼ぶ声に、ちいさい朝陽を思い出さずにいられない。よくこんな風に呼ばれて、こんな風に抱きつかれていた。
だが今は、あの頃のような戯れとは違う。抱きつかれたままふたりで進む足は拙くて、どこかペンギンみたいでくすりと笑みが出るのに。昔と同じようで同じじゃない、それが無性に照れくさい。
ベッドまで進み、朝陽がそこに座った。ここに来て、と促されるのは朝陽の足の上だ。されるがままに、向き合うかたちで朝陽の太腿に腰を下ろす。
「座っちゃって重くないか?」
「全然」
「全然ってことはないだろ」
「いいから。恭兄」
「あ……」
朝陽の親指が、ゆっくりと恭生のくちびるを辿る。思わず開いてしまったくちびるの中に指がもぐりこんできて、腹の奥から上がってきた熱い息で濡らしてしまう。
「えっちなことしたい、って言ったら、ひく?」
「……っ」
直接的なワードが朝陽の口から出てきて、恭生はつい慄く。
だって、こんな感情は知らない。たったひと言、そう言われただけなのに。体中が沸騰するように興奮して、この先を期待してしまっている。付き合ってきた元カノたちに求められても、こんな風になったことはなかった。
朝陽だからこそ欲情するのに、それを朝陽に知られるのが恥ずかしい。狼狽えて少し体を離す。
「ひくわけない、けど」
「けど?」
「その、朝陽はこういうの、興味ないのかなって思ってたから、心の準備が……」
「……俺が恭兄を好きだっていつ気づいたか、覚えてる?」
「それは……オレが高校の時、家の前で、その……だろ?」
橋本の名前も、キスを見られた時だとはっきり言うのも憚られる。口籠りながらも答えれば、朝陽は頷く。そして恭生を抱きしめて、耳の下に口づけながらささやかれる。
「俺、あの日に精通した」
「……っ! ……え?」
「だから、恭兄のことが好きって気づいた瞬間に、自分のことがはしたないとも思った。それで、恭兄の顔まともに見られなくなって。だから避けてた。ごめん。でも、だから……俺はあの時からずっと、恭兄のこと、そういう目で見てた。触りたい、したい、って――思ってたよ」
「あっ、やば……」
避けられていた理由は、そういうことだったのか。まさかの事実に体中に血が巡る感覚が走る。恥ずかしいのか、朝陽の頬は淡く染まっていて。それも堪らない。
変な声が零れそうで、慌てて手で口をふさぐ。
「恭兄、触っていい?」
朝陽の手が下に伸びて、思わずそれを掴む。不服そうな目が向けられるけれど。
こういう瞬間が来たならリードしてあげたいと、前々から考えていた。四つ年上の人生の先輩として、いいところを見せたい。なにより心配だから、朝陽には今はなるべくじっとしていてほしい。
「オレがする」
「え……恭兄?」
「お兄ちゃんに任せろって」
「いや、でも……」
「退院したばっかりなんだし、朝陽はじっとしてろ。な?」
――
お互いの体に初めて触れ合った。熱い瞳を向けてくる朝陽はかわいい弟なんかじゃなく、ただひたすらに恭生を求める男だった。
ひと息つくと、朝陽が遠慮がちに恭生の顔を覗きこんでくる。
「恭兄はさ、その、男同士でどうやって最後までするか……知ってる?」
「そ、れは……朝陽は知ってんのか?」
「知ってるよ。恭兄としたくて、いっぱい調べたから」
思いも寄らない質問に、危うく咽そうになった。
恥じらっていたという朝陽は、一体どこに消えてしまったのか。
男同士のそれを知っている、だなんて。
「お、オレも知ってる。けど……」
「じゃあ、したい。だめ?」
「それは……だめ、だろ」
「なんで? 俺とそこまではしたくない?」
「違う、そうじゃなくて……」
恭生だって、いつか朝陽と、と夢見ていた。だがそれはもっと遠いことのように思えて、深くまで考えていなかった。例えばポジションをどうするか、ということだ。
だが今、恭生の中にたしかに芽生えている感覚がある。
「あ、あのさ、朝陽はどっちがいい、とかあんの? 抱きたいか、抱かれたいか」
「それは……」
「オレは……はは、どうしよ。オレ、朝陽に抱かれたい、みたい」
「っ、恭兄……」
口に出したことで、欲望がくっきりと形を持ってしまった。
経験があるのは自分だけだから、リードしてあげたい。だとしたら自分は抱くほうになるのだろうか、なんてぼんやり考えたこともあったのに。
だが朝陽に触れられる幸せを知ってしまった。自分はずっと、こうされたかったのだと気づいてしまった。
男が好きで、いや、朝陽が好きで。そうされたいのだと魂だけは、きっと分かっていた気がする。
「え、っと。朝陽、嫌だったらごめんな。でも、オレは……」
「嫌じゃない」
「っ、朝陽?」
朝陽がきつく抱きしめてくる。首筋の薄い皮膚にそっと吸いつかれる。その感触に震えると、くちびるにキスが落ちてきた。
「恭兄とちゃんと相談するつもりだったよ。でも俺は、出来れば……恭兄のこと抱きたい、って。思ってた」
「朝陽……」
またひとつ想いが通じ合って、緩みっぱなしの涙腺から涙が落ちる。それを啜っていると、シャツの中に手が忍びこんできた。
だが恭生は、服の上から朝陽の手を掴む。抱かれたい、今すぐに。でも拒まなければならない理由があった。
「朝陽、だめ」
「っ、なんで?」
「退院したばっかだから、じっとしてろって言ったろ。まだお預け。な?」
「……っ。いつまで?」
「ちょっと調べたんだけど、スポーツ選手が脳震盪になったら、一週間は休むらしい」
「俺はアスリートじゃないし、問題なしって先生も言ってた」
「そうだけど。でも頼む、心配だから。朝陽も一週間はなるべく安静にしててほしい」
朝陽の膨らんだ頬にキスをする。しぼんでくれなくてもう片方に、それからくちびるにも。
朝陽の言い分は分かる。恭生だって、昂ぶった想いを今すぐここでぶつけ合いたい。
でもそれでも。朝陽の体以上に大事なものなんてない。
「一週間経ったら、抱いてほしい」
「……恭兄はずるい」
「うん、ごめん」
「ううん、わがまま言って俺もごめん。大事にしてくれてるんだって分かってるよ。ちゃんと待つ」
「うん、いい子だな。その間にさ、オレちゃんと、準備……したりしとくから」
「準備?」
「うん、その……知ってるだろ。すぐ入るわけじゃないって」
「……自分で慣らすってこと?」
「そういうことだな」
「……そういうこと言われたら堪んないって」
ぎゅっとしがみついて、首筋を甘噛みされる。跡がつかない加減なのに、そんなことをされては恭生だって堪らない。
「あ、バカ。朝陽……」
再び強く抱きしめあって、深く舌を絡めて。
一週間後を切望しながらふたりで高みを目指すのは、胸が震えるほどに切なくて幸せだった。
私服に着替え終えベッドに腰かけた朝陽は、ゆうやの遊び相手をしていて、それを眺める森下の目にはまた薄らと涙が浮かんでいる。
「何度も噛みしめてしまうんです。あの子も柴田さんも無事だったことを」
「オレもです」
玄関まで四人で一緒に出て、バスで来たという森下親子とバス停まで向かう。先を歩いていたゆうやが、こちらを振り返る。手はしっかりと、母親と繋いだままに。
「おにいちゃんたちと、またあそべる?」
その言葉に、朝陽と顔を見合わせる。出逢ったきっかけこそ災難ではあったが、ちいさな子に慕われてしまったようだ。
「ゆうや。お兄ちゃんたち困っちゃうでしょ? ね?」
「あの。実はオレ、美容師やってて。よかったらゆうやくんと来てください。もちろん、気が向いたらで構いません」
捨ててくれても構わないと言い添えて、財布に忍ばせてあった名刺を取り出す。
朝陽は大怪我をすることもなかったが、それは結果論だ。また必ず遊ぼうと約束すれば、森下が気負ってしまうかもしれない。自分たち親子のせいで、他人が危ない目に遭った、と。顔を合わせたらきっと、強い罪悪感に苛まれる。想像に難くない。
だが、ちいさな子のキラキラとした瞳を無下にもできなかった。
躊躇いがちに名刺を受け取ってくれた森下は、静かに長く息を吸って顔を上げた。
「私が行ってもいいのでしょうか」
「はい、もちろん。気軽な気持ちで来ていただけたら」
「おにいちゃん、ゆうやも? ちょっきんしてくれる?」
「おう。もっとかっこよくしてあげる」
「ひゃー! ママ! ゆうや、かっこいいなるって!」
「……うん、うん。そうだね」
また涙ぐんだ顔を見せた森下は、けれど最後には微笑んでくれた。
バスが到着し、乗りこむふたりに手を振る。泣き顔ばかり見てきたが、また会う日が本当に来たなら、笑顔だといいなとそう思う。
「オレたちも帰るか」
「うん」
病院まで戻り、タクシー乗り場へと向かう。朝陽は電車でいいと言ったが、絶対にタクシーだと恭生は譲らなかった。
精密検査の結果は異常なし、今朝の診察でもお墨つきをもらえたと聞いている。それでも、だ。
気を失うほど頭を強く打ったのだと思うと、慎重にしていたかった。朝陽が大切だからだ。
「朝陽んちのおばさんに今日も連絡するって約束したんだけどさ。朝陽からする?」
「うん。そうしようかな」
「そっちのほうが安心するだろうしな。じゃあ頼んだ」
タクシーに乗りこんで、朝陽はすぐに電話をかけ始めた。朝陽は終始落ち着いていて、少しだけ漏れ聞こえてくる向こうの声も、穏やかなのが窺える。
ふたりの様子に安堵しつつ、その実恭生の心境と言えば、やけに騒がしい。森下親子と別れてからずっと、朝陽がべったりだからだ。救急車で運ばれ一晩入院して、心細いのかとも考えたが。繋がれた手には指が絡んでいて、時折なぞりあげてくるものだから参っている。顔が赤いだろうことを自覚して、窓の外へと意識を逸らす。だが電話を終えた朝陽が、そうはさせまいと指でくすぐってくる。
「朝陽……」
バックミラー越しに見られはしないかと、タクシーの運転手が気になる。それでもおずおずと朝陽のほうを振り向くと、熱っぽい視線で見つめてからあっちを向いてしまった。それでいて、離すもんかと言わんばかりに手には力がこもる。
一体どうしたのだろう。そう思いはしても、恭生も離れたいわけではなくて。朝陽の手の甲に当たる親指で、ゆったりとしたリズムを打った。
アパートに到着し、鍵を開ける。ドアノブに翳した手に、背後から朝陽の手が重なった。
「朝陽? どうし……」
恭生が振り向くより先に、ドアが開かれ中へと急かされる。驚く暇もないまま、玄関で背後から抱きしめられる。
「恭兄」
「……朝陽?」
先ほどからどうしたのだろうか。理解できていないはずなのに、縋るような腕と声色に、鼻がツンと痛む。肩口にすり寄る朝陽の髪を後ろ手に撫でつつ、振り返る。背中に腕を回したら、もっととねだるように抱きしめられた。
「どうしたー、朝陽。甘えんぼか?」
「恭兄」
「ん……」
ちいさい頃のように、可愛い弟を甘やかすように。また髪を撫でつつ尋ねたら、不服そうに一瞬尖ったくちびるがそのまま押し当てられた。思わず一歩後ずさったのが許せなかったようで、抱擁は強くなってキスも止まらなくなる。
「あ、さひ」
「恭兄、好き」
「ん……」
朝陽からの想いは、ちゃんと分かっているつもりだ。それは日々の生活の中に、凛とした瞳の奥にいつだって見えていた。だがこんなにストレートに、愛情をぶつけられたことはなかった。
いつの間にか背は壁につき、朝陽の腕に囲われている。止まないキスに体が熱くなるのを感じながら、朝陽の名を呼ぶ。
「朝陽、なあ、どうした?」
「なにが?」
「なにがって、こんな……」
シャツの上から腰を撫でられ、思わず上擦った声が出た。こんな風に触れられるのは初めてで。驚いて見上げると、頬にひとつキスをされた後、額同士がくっついた。腰にある指先でゆったりとそこを撫でながら、もう片手は恭生の手を絡めとる。
「俺、恭兄と付き合えてすごい嬉しくて」
「うん、オレもだよ。なあ朝陽、腰の手……」
「本当は……触ったりとか、したいのに。初めてだからどうしたらいいか分からなかったし、一緒にいられるだけで嬉しくて、ゆっくりでいいなとも思ってた。でも……」
「あ、朝陽、手……」
おずおずとながらも、朝陽の手がシャツの裾から潜りこんできた。撫でられ続けていたところに、今度は直接触れられる。
「昨日、あんなことがあって。恥ずかしがったりしてる場合じゃないな、って思った。俺、恭兄に触りたい」
「朝陽……」
直球の懇願に、頬に熱が集まる。その一方で、昨日は気丈にしていた朝陽だが、様々なことを考えたのだなと切なくなる。
「恭兄、部屋上がろ」
促されるままに靴を脱ぐ。改めてただいまと言う朝陽に、おかえりと返事をする。部屋の中へと進むと、また背後から抱きしめられた。
「おっと」
「恭兄~」
「はは、やっぱり甘えんぼじゃん」
甘ったるく呼ぶ声に、ちいさい朝陽を思い出さずにいられない。よくこんな風に呼ばれて、こんな風に抱きつかれていた。
だが今は、あの頃のような戯れとは違う。抱きつかれたままふたりで進む足は拙くて、どこかペンギンみたいでくすりと笑みが出るのに。昔と同じようで同じじゃない、それが無性に照れくさい。
ベッドまで進み、朝陽がそこに座った。ここに来て、と促されるのは朝陽の足の上だ。されるがままに、向き合うかたちで朝陽の太腿に腰を下ろす。
「座っちゃって重くないか?」
「全然」
「全然ってことはないだろ」
「いいから。恭兄」
「あ……」
朝陽の親指が、ゆっくりと恭生のくちびるを辿る。思わず開いてしまったくちびるの中に指がもぐりこんできて、腹の奥から上がってきた熱い息で濡らしてしまう。
「えっちなことしたい、って言ったら、ひく?」
「……っ」
直接的なワードが朝陽の口から出てきて、恭生はつい慄く。
だって、こんな感情は知らない。たったひと言、そう言われただけなのに。体中が沸騰するように興奮して、この先を期待してしまっている。付き合ってきた元カノたちに求められても、こんな風になったことはなかった。
朝陽だからこそ欲情するのに、それを朝陽に知られるのが恥ずかしい。狼狽えて少し体を離す。
「ひくわけない、けど」
「けど?」
「その、朝陽はこういうの、興味ないのかなって思ってたから、心の準備が……」
「……俺が恭兄を好きだっていつ気づいたか、覚えてる?」
「それは……オレが高校の時、家の前で、その……だろ?」
橋本の名前も、キスを見られた時だとはっきり言うのも憚られる。口籠りながらも答えれば、朝陽は頷く。そして恭生を抱きしめて、耳の下に口づけながらささやかれる。
「俺、あの日に精通した」
「……っ! ……え?」
「だから、恭兄のことが好きって気づいた瞬間に、自分のことがはしたないとも思った。それで、恭兄の顔まともに見られなくなって。だから避けてた。ごめん。でも、だから……俺はあの時からずっと、恭兄のこと、そういう目で見てた。触りたい、したい、って――思ってたよ」
「あっ、やば……」
避けられていた理由は、そういうことだったのか。まさかの事実に体中に血が巡る感覚が走る。恥ずかしいのか、朝陽の頬は淡く染まっていて。それも堪らない。
変な声が零れそうで、慌てて手で口をふさぐ。
「恭兄、触っていい?」
朝陽の手が下に伸びて、思わずそれを掴む。不服そうな目が向けられるけれど。
こういう瞬間が来たならリードしてあげたいと、前々から考えていた。四つ年上の人生の先輩として、いいところを見せたい。なにより心配だから、朝陽には今はなるべくじっとしていてほしい。
「オレがする」
「え……恭兄?」
「お兄ちゃんに任せろって」
「いや、でも……」
「退院したばっかりなんだし、朝陽はじっとしてろ。な?」
――
お互いの体に初めて触れ合った。熱い瞳を向けてくる朝陽はかわいい弟なんかじゃなく、ただひたすらに恭生を求める男だった。
ひと息つくと、朝陽が遠慮がちに恭生の顔を覗きこんでくる。
「恭兄はさ、その、男同士でどうやって最後までするか……知ってる?」
「そ、れは……朝陽は知ってんのか?」
「知ってるよ。恭兄としたくて、いっぱい調べたから」
思いも寄らない質問に、危うく咽そうになった。
恥じらっていたという朝陽は、一体どこに消えてしまったのか。
男同士のそれを知っている、だなんて。
「お、オレも知ってる。けど……」
「じゃあ、したい。だめ?」
「それは……だめ、だろ」
「なんで? 俺とそこまではしたくない?」
「違う、そうじゃなくて……」
恭生だって、いつか朝陽と、と夢見ていた。だがそれはもっと遠いことのように思えて、深くまで考えていなかった。例えばポジションをどうするか、ということだ。
だが今、恭生の中にたしかに芽生えている感覚がある。
「あ、あのさ、朝陽はどっちがいい、とかあんの? 抱きたいか、抱かれたいか」
「それは……」
「オレは……はは、どうしよ。オレ、朝陽に抱かれたい、みたい」
「っ、恭兄……」
口に出したことで、欲望がくっきりと形を持ってしまった。
経験があるのは自分だけだから、リードしてあげたい。だとしたら自分は抱くほうになるのだろうか、なんてぼんやり考えたこともあったのに。
だが朝陽に触れられる幸せを知ってしまった。自分はずっと、こうされたかったのだと気づいてしまった。
男が好きで、いや、朝陽が好きで。そうされたいのだと魂だけは、きっと分かっていた気がする。
「え、っと。朝陽、嫌だったらごめんな。でも、オレは……」
「嫌じゃない」
「っ、朝陽?」
朝陽がきつく抱きしめてくる。首筋の薄い皮膚にそっと吸いつかれる。その感触に震えると、くちびるにキスが落ちてきた。
「恭兄とちゃんと相談するつもりだったよ。でも俺は、出来れば……恭兄のこと抱きたい、って。思ってた」
「朝陽……」
またひとつ想いが通じ合って、緩みっぱなしの涙腺から涙が落ちる。それを啜っていると、シャツの中に手が忍びこんできた。
だが恭生は、服の上から朝陽の手を掴む。抱かれたい、今すぐに。でも拒まなければならない理由があった。
「朝陽、だめ」
「っ、なんで?」
「退院したばっかだから、じっとしてろって言ったろ。まだお預け。な?」
「……っ。いつまで?」
「ちょっと調べたんだけど、スポーツ選手が脳震盪になったら、一週間は休むらしい」
「俺はアスリートじゃないし、問題なしって先生も言ってた」
「そうだけど。でも頼む、心配だから。朝陽も一週間はなるべく安静にしててほしい」
朝陽の膨らんだ頬にキスをする。しぼんでくれなくてもう片方に、それからくちびるにも。
朝陽の言い分は分かる。恭生だって、昂ぶった想いを今すぐここでぶつけ合いたい。
でもそれでも。朝陽の体以上に大事なものなんてない。
「一週間経ったら、抱いてほしい」
「……恭兄はずるい」
「うん、ごめん」
「ううん、わがまま言って俺もごめん。大事にしてくれてるんだって分かってるよ。ちゃんと待つ」
「うん、いい子だな。その間にさ、オレちゃんと、準備……したりしとくから」
「準備?」
「うん、その……知ってるだろ。すぐ入るわけじゃないって」
「……自分で慣らすってこと?」
「そういうことだな」
「……そういうこと言われたら堪んないって」
ぎゅっとしがみついて、首筋を甘噛みされる。跡がつかない加減なのに、そんなことをされては恭生だって堪らない。
「あ、バカ。朝陽……」
再び強く抱きしめあって、深く舌を絡めて。
一週間後を切望しながらふたりで高みを目指すのは、胸が震えるほどに切なくて幸せだった。