電話を切ってすぐ、タクシーを呼び止めた。乗りこんだ車内でも、心臓が嫌な音を立て続けている。
 電話で知り得たのは、朝陽が事故に遭い、救急車で運ばれたということ。事故の程度もなにも分からないままで、恐怖が恭生を支配する。
 仕事が終わったら脇目も振らず、すぐに駅に向かえばよかった。そうしていたら、こんなことにならなかったのではないか。
 自分の選択が、朝陽を危ない目に合わせてしまった。そんな気がしてならない。

「着きましたよ」
「あ……ありがとうございます」

 タクシーが停車し、運転手に声を掛けられる。車内ではずっと頭をかかえていたから、どこを走っているのかも分からなかった。
 タクシーを降りると、玄関前に立っていた若い女性が走り寄ってきた。

「あ、あの! さっき電話させてもらった方でしょうか。このスマホの……」

 その手には、見覚えのあるスマートフォンが握りしめられていた。

「はい、兎野です。さっきはご連絡ありがとうございました」

 言葉にならない様子で深く頭を下げた女性から、朝陽のスマートフォンが手渡される。うさぎのキーホルダーが付いていない。どんな事故かまだ聞いていないが、相当の衝撃があったのではないか。血の気が引く。

「…………」

 状況を把握しなければと思うのに、尋ねるのが怖い。青ざめた女性を見ていると、悪い想像ばかりしてしまう。
 朝陽になにかあったら。朝陽がもし――
 頭に浮かぶ最悪の結果に、そんなことあって堪るかと首を振る。

「朝陽のところに連れていってください」

 森下と名乗った女性の案内で、病院内を急ぐ。

「うちの子が、道に飛び出してしまったんです。抱き止めてくださって、その時に転んで、頭を強く打ってしまったようで……気を失われていたので、すぐに救急車を呼びました」

 待ち合わせの駅前での出来事だったらしい。
 子どもは母の手を繋いでいたけれど、よほど興味をひくものがあったのか振りほどき、車道に飛び出してしまった。そばにいた朝陽が駆け寄って抱き上げ、一緒に道を転がった。車との衝突は運よく免れたが、近くの生垣に頭をぶつけてしまった――とのことだ。
 気を失うなんて、普通に生きていればそうそう経験することではない。
 朝陽、朝陽――頭の中で連呼する。

「それで、朝陽は……」

 胸の部分のシャツをぎゅっと握りこむ。心臓が軋んで嫌な音を立てている。先を急ぐ足はもつれそうだ。額には冷汗が滲む。喉が狭い。
 朝陽、朝陽――

「救急車の中で目は覚まされました。ぶつけたのが頭だったので、すぐに精密検査を。ついさっき、病室に……」

 そこまで聞いたところで、ひとつの病室の前で森下が足を止めた。室内へ目をやると、奥のベッドに横たわる朝陽が見えた。
 恭生は、一瞬息が止まった。震えるくちびるを強く噛み、一秒が惜しいと中へ駆ける。

「朝陽!」
「……恭兄」

 恭生に気づいた朝陽が、目を見開いた。ベッドの脇に崩れ落ちるように膝をつき、朝陽の手を取る。両手で握り、額に当てる。
 ああ、生きている。朝陽が生きている。

「朝陽、よかった、朝陽……」
「恭兄……心配かけてごめん」
「いい、謝らなくていい。それより、どこか痛むか?」

 朝陽に不安を悟られまいと、震える口角を無理やりに上げ、気丈なふりをして尋ねる。

「ううん。ちょっと腕擦りむいたけど、全然平気」
「どれ? 見せて」
「ここ」
「痛そうじゃん」
「ちょっとだし」
「ちょっとの擦り傷だって、ヒリヒリして痛いだろ」
「まあ、確かに」
「うん。無理すんのはナシな」

 会話ができる。今朝まで当たり前だったことに、一秒ごとに心が打たれる。
 朝陽がちゃんと、生きている。
 ひとまずの安堵につく息が、ひどく震える。
 恐怖はまだ少しも去ってくれないが、大事なことを聞かなければならない。問いかけるのについ躊躇ってしまうが、引き伸ばした分だけ悪い結果を導きそうで恐ろしい。

「朝陽……それで、検査の結果は?」
「それはまだ……」

 朝陽の視線がふと背後へ移った。恭生もそちらを振り返る。そこには医師と看護師の姿があった。朝陽のベッドへとまっすぐ歩み寄ってくる。
 恭生は立ち上がり、頭を下げた。

「ご家族の方ですか?」
「いえ。オレは……朝陽と一緒に暮らしている者です」

 看護師に答えると、手元の紙を見ていた医師が顔を上げた。繋いだままの朝陽の手を握り直す。
 怖いけれど、一秒一秒に気が遠くなりそうだけれど。いちばん不安なのは朝陽だろう。なによりも朝陽の心を守りたかった。

「脳震盪を起こしたようですね。頭に目立った外傷はありませんし、検査の結果も特に異常はありませんでした。大丈夫ですよ」
「は……っ、あ、よかったー……」

 大きく息を吸った後、それを吐くのと同時に安堵の言葉が口をついた。力が抜け、へなへなとしゃがみこむ。朝陽も強張っていた肩がゆるんだのが分かる。
 手を伸ばし頬をそっと撫でると、潤んだ瞳がそっと弧を描いた。病室の入り口に立っている森下も、顔を覆って泣いているのが見える。

「ご心配なら一日入院もできますが、どうなさいますか」

 看護師の提案に、ふたり同時に返事をする。だが、内容は全く真逆のものだった。
 お願いします、と強く頷いた恭生と、帰りますと気丈な朝陽。思わず顔を見合わせたが、こればかりは引くことはできない。

「だめだ朝陽。入院させてもらえ」
「異常はないんだから平気だよ」
「だめ」
「やだ」
「朝陽……頼む。心配だから。な?」
「……恭兄が、そこまで言うなら……ん、分かった」

 朝陽の入院の意思を確認して、医師と看護師は病室を出ていった。
 すれ違い際、医師たちに頭を深く下げた森下が、おずおずと恭生たちの元へとやって来る。いつの間にかその右手には、ちいさな男の子の手が握られていた。

「あの……」
「……ママ?」

 言葉に詰まる森下を、男の子が不思議そうに見上げている。首を傾げた顔が、少しずつ不安に染まっていく。大好きな母親がなぜ辛そうにしているのか分からなくても、その気持ちが乗り移ったように悲しいのだろう。

「なあ、名前なんて言うんだ?」

 恭生は男の子と目線を合わせる。大きな瞳がちいさく揺れ、繋いでいる母の手にもう片手を添えた。それでも、恭生に答えようとする健気さが伝わってくる。

「……ゆうや」
「ゆうやくんか。オレは恭生といいます。ゆうやくん、いくつ?」
「よんさい」
「四歳か。お兄さんはねー、二十四歳」
「よん? ゆうやとおなじだ」
「え? はは、そうだな」

 つい笑うと、ゆうやと名乗った子もふわりと笑ってくれた。
 息子の安堵が伝わったのだろう。森下はそっと息を吐いた後、朝陽に向かって深く頭を下げた。朝陽が上半身を起こそうとするので、恭生は背中を支えるように手を貸す。

「柴田さん。この度は本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「いえ。あの、頭上げてください」
「…………」
「ゆうやくんは怪我してないですか?」
「はい。念のため診て頂いたのですが、擦り傷ひとつありませんでした」
「よかったです」
「っ、柴田さんのおかげです。柴田さんも、大事に至らなくて本当に、本当によかったです」
「ママぁ? どうしたの? いたい?」

 我が子の無事を喜ぶだけではいられない、その気持ちがひしひしと伝わってくる。泣きだしてしまった母親を見て、ゆうやの顔がくしゃりと歪む。

「ゆうやくん、ママにぎゅってしてあげて」

 恭生がゆうやに耳打ちすると、ぎゅう、と口に出しながらゆうやは母の足にしがみついた。
 ひとしきりゆうやを抱きしめ返した森下は、入院などの費用は全て出すと朝陽に伝えた。朝陽は申し訳なさそうにしたが、受け取ってあげたほうが森下さんのためにもなる、と恭生が助言すると、森下も強く頷いた。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい。明日の朝、またここに伺いますので」

 時計を確認すると、もう十九時も半を過ぎる頃になっていた。自分からは言いだしづらいかもしれないと、恭生は口を開く。

「森下さん、あとは大丈夫ですから。ゆうやくんもお腹空いてるだろうし」
「あ……はい。そうですね。ではすみません、私たちはそろそろ帰りますね」

 病室の出入り口まで、ふたりについて行く。もう一度お辞儀をする森下に恭生も会釈をし、ゆうやに手を振る。

「救急車の手配とか、本当にありがとうございました」
「いえ、そんな……お礼を言われるようなことはなにも」
「連絡頂けたのも本当に助かりました」
「こちらこそ、ご連絡がついてよかったです」
「あれ、そう言えば……なんでオレに連絡できたんですか?」

 朝陽のスマートフォンにはロックがかかっている。履歴からかけようにも、顔認証かパスワードを入力しなければそれもできないのではないか。

「それは……柴田さんの持ち物を一旦預かったのですが。どなたかに連絡しなければと、スマホを拝見して。緊急連絡先に登録されていた番号にかけたら、兎野さんに繋がりました」
「ああ、あのロック画面から見られるやつ……」

 朝陽が自分を緊急連絡先に登録しているなんて、ちっとも知らなかった。朝陽のほうを見ると、はにかんだ顔を逸らされる。

 今度こそ去っていくふたりに手を振り、深く息を吐く。朝陽がいるベッドを振り向いた時には、恭生の目にはいっぱいの涙が膨らんでいた。鼻を啜りながら戻り、ベッドにちいさく腰かける。朝陽の肩に頭を乗せると、そっと背中を撫でられた。
 早くふたりきりになりたいと思っていた。こうやって朝陽に触れて、朝陽の無事をしっかり感じたかったからだ。体中から力が抜けてゆく。

「朝陽、朝陽……」

 言葉が喉に絡まる。医師たちにも森下にも気丈に振る舞ったつもりだが、頭の中はずっと動揺したままだった。涙が止まらないのも相まって、ただ名前をくり返すことしかできない。

「恭兄、せっかくお泊りの予定だったのにごめんね」
「そんなの、謝んな。だって、オレのせいじゃん」
「え? なにが?」
「朝陽が待ってるって分かってたのに。仕事が終わってもすぐに駅に行かなかった。オレのせいで、オレのせいで朝陽は……」
「恭兄。こっち向いて」
「…………」

 ささやいた朝陽の手が、両肩に触れる。体を離すと、真剣な瞳がまっすぐに向けられていた。

「恭兄のせいとかないから」
「でも……」
「だって分かんないじゃん。恭兄が早く来てたとして、どうなってたかなんて誰にも分かんないよ。もしかしたら本当に事故に遭わずにいたかもしれない。でもそんなこと言ったら、恭兄の目の前で起こった可能性だってあるよね。俺はなんともなくても、あの子が大変なことになってたかもしれない。そんなの、今だからできる後悔だと思う」
「朝陽……」
「恭兄の選択だけがなにかを引き起こしてるなんてこと、ないよ」
「……そう、なのかな」
「うん、俺はそう思う。俺もお泊まり無くなったこともう謝らないから。あおいこ。ね?」
「……ん、分かった」
「うん」

 こんな時に、朝陽が事故に遭った時に、自分のほうが励まされてしまうなんて。情けなくも思うが、朝陽の言葉たちが沁み渡る。今の自分にも、過去の自分にも、だ。
 良いことも悪いことも、全て自分に返ってくる。ひとつひとつの自身の選択を重く受け止めてきた過去に、やわらかな朝陽の光が射していく。

「恭兄、もっかいこっち来て?」
「うん」

 朝陽に誘われるまま、もう一度肩に擦り寄る。生きていることを確かめるために、鼻を寄せ匂いをかいで、首筋にくちびるを当てて体温を感じ取る。
 本当は強く抱きしめて、髪をくしゃくしゃと撫でてやりたいけれど。異常はないとは言え、大事を取って入院するのだ。ぐっと堪える。その代わりにと手を繋いで、指を絡ませる。

「恭兄」
「あ……」

 だが、朝陽のほうから抱きしめられてしまった。そんなことをされたら、ますます涙は止まらなくなってしまう。手を添えるように抱きしめ返し、まぶたを閉じる。
 どれくらいそうしていただろうか。朝陽の向こうのサイドテーブルがふと目に入った。うさぎのキーホルダーが置かれている。朝陽がゲームセンターで獲った、あのうさぎだ。森下から朝陽のスマートフォンを受け取った時、そこについておらず肝を冷やしたのだった。
「これ……」
「あ。それ、いつの間にか握りしめてたみたいで、スマホから取れちゃった」
「そうだったんだ」
「このうさぎは恭兄のようなものだから。転ぶ時に咄嗟に握ったのかも」
「…………」
「恭兄? また泣いてる?」
「泣くに決まってんじゃん。あー……もう全然止まんない」
「そっか。はは、俺も泣けてきた。恭兄、心配かけてごめんね」
「だから謝るなっての」
「恭兄」
「ん……」

 頬に手を添えられ、ゆっくりと朝陽のほうに引き寄せられる。目を閉じれば触れたくちびるが温かくて、また涙がこぼれてしまった。
 ふたりで鼻を啜りながらくり返す。甘ったるい恋人のものというより、魂に触れ合って存在を確認するような、切ないキスだった。

「じゃあ、明日迎えに来る」
「うん。ありがとう」
「朝陽んちのおばさんに、今日のこと連絡しとく」
「うん」
「それで、えっと……なんか変だなと思ったら、すぐナースコールするんだぞ」
「うん」
「ん……じゃあ、また」

 できることなら恭生も病院に泊まりたかったが。そういうわけにもいかず、帰ると言ってから十五分は経ってしまった。名残惜しさをどうにか振り払い、病室を出てすぐの壁に背を預け、こっそり鼻を啜る。

 

 帰りの道すがら、朝陽の母親に電話をかけた。久しぶりの会話に最初こそ嬉しそうにしてくれたが、恭生のただならぬ空気が伝わったようだ。すぐに声は潜められ、恐る恐るというように問われた、

「なにかあったの?」

 と。
 その恐怖が手に取るように分かる。すぐに払拭してあげたくて、なにも問題はないんだけど、と前置きしてから今日の出来事を告げた。
 朝陽が生まれた時から溺愛してきた人だ。ひどく混乱するかと思ったが、一度息を呑んだ後は落ち着いた様子が伝わってきた。恭生くんが駆けつけてくれてよかった、だなんて。感謝してもらえるようなことはなにひとつないけれど。朝陽の無事への安堵を共有し合って、また明日連絡すると言って電話を切った。
 それから、泊まる予定だったホテルにキャンセルの連絡を入れて。気がついた時には自宅アパートに到着していた。正直、道中の記憶が全くない。ぼんやり歩いていたのかもしれないと思うと、恐ろしいものがある。これではいけないと、両頬をバチンと音が鳴るほどに手で挟んだ。

「ただいま」

 返事のない真っ暗な室内に入り、布団の上に倒れこんだ。ベッドヘッドに置いてある柴犬のぬいぐるみを手に取り、胸元できゅっと抱きしめる。もうどれだけ流したかも分からない涙がまた溢れだし、静かにシーツに染みこんでいく。

「朝陽……あー……生きててほんっとよかったあ……」

 そんなこと想像すらしたくないのに、朝陽を失うのではと本気で思った。もしも朝陽が死んでしまったら――言葉では言い表せないほどの恐怖が、今も恭生を支配している。
 こんな思いは二度としたくない。そこまで考えると、ふと祖父の顔が頭に浮かんできた。

『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』

 なにもこんな時にまで。いや、こんな時だからか。
 数週間前、包丁で怪我をしてしまった時に理解できたような気がしていたけれど。今やっと、祖父の心に重なったような心地だ。
 朝陽を失ってしまうかもしれない。今日感じた底の見えない恐怖を、自分の身の危険で朝陽に感じさせたくない。たった一ミリも、だ。
 自分にもしものことがあったら、朝陽も同じ思いをするだろう。身も心も粉々に砕かれて、息の仕方も分からなくなってしまうような。朝陽は必ず苦しむ。
 そう思えるのは、朝陽からの愛情をつよく感じているからだ。愛されているからこそ分かる。ひどく悲しませてしまうと。

「じいちゃん、ばあちゃんのことが大好きだったんだな」

 祖母を失った祖父も、耐えがたい苦痛に襲われたのだろう。だから思ったのだ、こんな悲しみを妻に味わわせることにならなくてよかった、と。苦しみは全て自分が引き受けようと。
 祖母への愛と、愛されていたと自負できる幸せな日々の上にあったのだ。ばあさんが先に死んでよかった、というあの言葉は。

「分かりづらすぎだよ、じいちゃん。子どもには難しいって」

 小学生だった自分に理解できるはずもない。いや、朝陽と恋をしなければ、大人になった今もきっとずっと分からないままだった。
 祖父へ抱いていた疑念がほどけたら、どっと疲れが襲ってきた。思いがけない出来事だったのもあって、体はずっと強張っていたらしい。
 ああ、でもなんだか眠るのが怖い。精密検査の結果は異常なしだと、この耳で聞いたけれど。無理を言ってでも泊まらせてもらえばよかった。ひと時も離れず、朝陽のそばにいたかった。
 明日は十時には退院できると聞いているが、なるべく早く出かけよう。
 さっき別れたばかりなのに、今すぐにでも朝陽に会いたい。