春。
ここ数ヶ月で、恭生は村井と指名の数で抜きつ抜かれつの争いを繰り広げるようになった。とは言っても、お互いに相手を蹴落としたいわけではない。オーナーや他のスタッフは微笑ましそうにしているし、当の恭生たちも日々それを楽しんでいる。切磋琢磨し合える、いいライバルだ。
客とのコミュニケーション、スタッフたちとの人間関係。仕事の充実感は技術以外の部分でも得られるのだと、強く実感する毎日だ。
もちろん村井のように陽気にとはいかないし、腕だって磨き続けていくけれど。
休日の朝。いつもならもう少しゆっくり寝ているところだが、ちいさなベランダの窓を開けて恭生は伸びをする。今日はいつもより念入りに掃除して、万全の状態に整えよう。そう思っていたのに。
鳴り響いたドアチャイムの音に、つい零れる笑みを抑えられない。
「恭兄、おはよう」
「ふ、おはよう」
「なんで笑ってるの?」
「だって、こんなに早いと思わなくてさ。何時に家出てきた?」
「あー……はは、じっとしてられなくて」
「そっか」
大きなリュックを背負った朝陽を招き入れる。室内にはすでに、昨日届いた布団一式と小ぶりの段ボールが2つ積み重なっている。
朝陽と本当の恋人になって、この部屋で共に朝を迎えたことは何度かあった。今までのように仕事と大学の終わりに外で待ち合わせ、共に帰ってきたり。思う存分夜景を撮影した朝陽を、とっぷり暮れた夜にここで迎えたり。
そして今日。朝陽が大学三年生になったのを機に、共に暮らすことになった。
「持ってくるの、これだけでよかったのか?」
「うん。服と勉強道具とかがあれば十分だし。冬服は置いてきたから、必要になったら取りに行く」
「そっか」
心が浮足立っていて、どこか照れくさい。それが自分だけではないと、目が合うと淡く染まった顔を逸らす朝陽を見ていると分かる。窓から入ってくる春の香りは、くすぐったい心地によく似合う。
「じゃあさっそく荷解きするか。これ開けていい?」
「うん。あ、恭兄待った!」
「んー? ……あ、これ」
元々あったデスクは、朝陽に使ってもらおうと何もない状態にしてあった。そこに向かった朝陽の背を見ながら段ボールを開けると、入っていたとあるものに恭生は目を見張る。見られたくなかったのか朝陽は項垂れるが、お構いなしに取り出してそっと撫でる。
もうずいぶんと見ていなかった、あのうさぎのぬいぐるみだ。
「まだ持ってたんだな。もうないのかと思ってた」
「ずっと持ってたよ。恥ずかしくて言えなかったけど」
「でも、部屋にもずっとなかったよな?」
朝陽の部屋で遊ぶなんてことは、それこそもう数年はなかったが。恋人に振られ励ましてもらうのに、高校の時には二度訪れたことがある。その時にはもう、定位置だった朝陽の勉強机の上から、うさぎの姿は無くなっていて。自分を嫌いになったから捨ててしまったのだろうと、苦しくなったのを覚えている。
ベッドのほうへ向かい、ヘッドボードに置いてある柴犬のぬいぐるみへ手を伸ばす。ふたつ揃ったのはもういつぶりだろう。久しぶりの再会に、ぬいぐるみたちも心なしか嬉しそうにも見える。
一緒に抱きしめると、朝陽もこちらへとやって来た。
「恭兄に彼氏がいる、って分かった時に、クローゼットの奥にしまっちゃったんだよね。見ると辛かったから。でも捨てる気にはどうしてもなれなくてさ。このうさぎは俺にとって、恭兄だし」
「それは忘れてたじゃん」
「ううん。ちいさい時に恭兄のうさぎ、って言ったってのは忘れちゃったけど。それでもずっと、恭兄のつもりで大事にしてたよ」
「朝陽……」
ふたりの間でぬいぐるみたちを抱いたまま、どちらからともなくキスをする。窓から射しているのはまだまだ朝の光で。肩を竦めるようにして、小さく笑い合う。
「よし、引っ越し終わらせないとな」
「だね。そうだ、これうちのお母さんから。俺のこと、よろしくお願いします、だって」
「あ、クッキーじゃん。おばさんのクッキー大好き」
「恭くんにあげるの久々だー、って張り切って作ってた」
「マジか。後でお礼の連絡しとく」
「ありがとう、絶対喜ぶ」
「まあ、大事な息子をたぶらかしてるんだけどな」
「それはお互い様だよ」
「はは、そっか」
それじゃあ、と今度こそ仕切り直す。少ないとは言え、段ボールは全て今日中に片してしまいたい。そう思っているのだが。ふと気づくと、カメラが恭生へと向けられていた。
「……え? ちょ、朝陽、もしかして撮ってる?」
「うん、撮ってる。気にしないで」
「いやいや気にするって」
普段から自撮りをする習慣もなく、たまにサロンのSNS用にカットしている様子を撮られるくらいだ。それだってスマートフォンやタブレットでの撮影で、本格的なカメラを向けられたことはない。気にしない、というのはさすがに難しい。
だがカメラを下ろした朝陽の表情が、どこか切なそうで。恭生はそっと息を詰める。
「俺、今まで人物には興味なくて、夜景ばっかり撮ってきたんだけどさ。最近、っていうか、恭兄とまたたくさん一緒にいるようになったら、人物も撮ってみたいって思うようになったんだよね」
「…………」
「それってさ、まんま俺自身の興味なんだと思う。元々恭兄がいちばんだったけど、話さなくなってからは余計に、他人はどうでもよくなっててさ。でも、余裕ができた、のかな。恭兄と一緒にいて、もっと友だちとか、周りの人のことも大事にしたいなって思うようになった。大学も、前より楽しい」
「朝陽……」
朝陽がそんなことを考えているなんて、思ってもみなかった。
確かにちいさい頃から、友だちの誘いを断ってまで恭生の元にやって来る朝陽だったけれど。でもそんな朝陽が、視野を広げようとしている。自分たちの時間が再び動き出したことに、きっかけを得て。
「恭兄さえよかったら、たまにこうやって撮らせてもらいたいんだけど……駄目、かな」
「っ、うん、分かった。恥ずかしいけど、頑張る」
「ほんと? ありがとう、うわー、めっちゃ嬉しい」
朝陽のおかげで変わった自分がいるように、朝陽自身にもまた、いい影響があるのなら。こんなに喜ばしいことはないとさえ思う。思わず視界が潤みかけて、恭生はこっそり鼻を啜る。
「よし! じゃあまずは片づけ! な!」
「はは、そうだった」
「おーい朝陽、そろそろ起きろー。今日一限からって言ってたろ」
「んー……」
味噌汁に乾燥わかめを入れながら、ベッドから出てこない朝陽に声をかける。
朝陽は特別朝に弱いわけではないが、昨夜も遅くまでカメラを構えていたようだ。無理はしてほしくなくても、思う存分夢を追えているのだと輝く瞳を見たら、背中を押す選択しか恭生にはない。
ローテーブルに朝食を並べ終えた後、ベッドに腰かけ朝陽の頬を指先でつつく。
「あーさーひー。朝ごはん食べないの?」
「……んー、食べる」
返事をしながらも、朝陽は恭生の枕を抱きしめてまた眠ろうとしている。
朝陽の新品の布団は結局、開封されることもないまま部屋の隅に立てかけられている。どうしても一緒に寝たいと朝陽が言うのだ。ちいさい頃みたいにねだられるのを、恭生が無下にできるはずもない。
セミダブルのベッドに大の男ふたりで寝るのは、正直狭い。それに恋人同士になったのだから、肌を寄せて眠るのは恭生にしてみれば落ち着かないのだけれど。触れるだけのキス以上のことはしないまま、毎日を過ごしている。
今はただ、ふたりでいられることへの幸福感が恭生を満たしている。離れていた数年が、瞬間瞬間を煌めかせている。弟への愛は恋を帯びたばかりで、朝陽のペースに合わせて、少しずつ育んでいきたい。
だが、いつの日か……と、朝陽ともっと深い恋人になれる日を夢見てもいる。過去の恋人とのスキンシップは、積極的にはなれなかったのに。今や覚えたての恋にはしゃぐ少年のようで、そんな自分に戸惑いもするけれど。
朝陽は自分が初の恋人だ。その時が来たらリードしてやらなければ、と密かに考えている。
「あーあ、先にひとりで食べようかなあ」
「……だめ。起きる、起きた」
「はは、おはよう」
ようやくベッドを出た朝陽と、向かいあって腰を下ろす。眠たげな目が、朝食を見ると少し見開かれて、そして弧を描く。ひとりだった時は適当に済ませた朝食だが、これを見たいがためにちゃんと食べるようになった。
「朝陽、今日はバイトだっけ」
「ううん、休み。恭兄はお店の人と飲みだよね」
「うん。夕飯、ひとりにしてごめんな」
「そんなんで謝らないでよ、ひとりでだって食べられるし。それに、俺ももっと料理できるようになりたいから、作ってみる。まあ、まだ下手だけど」
「そっか」
ひとつの家で暮らしているから、またここで必ず顔を合わせられる。その事実を何度だって噛みしめてしまう。
恋なんてこりごりだ。そう思ったのが嘘みたいに、朝陽への恋心が恭生を充実させている。
「ふ」
「どしたの?」
「いや、なんでもない。なあ朝陽、今度の休み、一緒に料理してみるか」
「あ、それいいね。やりたい、教えて」
「ああ、約束な」
迎えた金曜日。恭生の仕事は休みだが、朝陽は大学の講義があった。とは言えバイトは入っておらず、十五時頃の帰宅。夕飯にはまだ早いが、ふたりしてキッチンに立つ。
献立はカレーと、簡単なサラダだ。
「カレー作れるようになっといて、損はない」
「俺はなにすればいい?」
「じゃあまずは、玉ねぎの皮剥いてもらおうかな」
「了解」
それから、朝陽にはもうひとつ頼みたいものがある。
「あとさ、一個おねだりしてもいい?」
「うん、いいよ」
「はは、即答。あのさ、朝陽にたまごやき作ってほしい」
「たまごやき? うわ懐かしい、俺作ってたね。分かった、作る」
「やった。朝陽のたまごやきが世界一美味しいからな」
「でもカレーにたまごやきって合わなくない?」
「いいんだよ。むしろ朝陽のたまごやきが主役」
朝陽はちいさい頃、母親に習いながらよくたまごやきを作ってくれた。砂糖とミルクがたっぷりの、甘いたまごやきだ。また食べられると思うと、どうにも顔がにやける。
「よし、じゃあやるか」
「うん」
広いとは決して言えないアパートの、ちいさなキッチンだ。男二人で作業するにはどうしたって窮屈で、朝陽にはリビングのほうで野菜の下準備をお願いすることにした。じゃがいもの皮も朝陽に頼んで、そのままその二種はカットまで任せてみようか。
「朝陽ー、それ終わったらじゃがいもな。ピーラー使えそうか?」
「できるよ、手伝いでやったことあるし。恭兄、俺のこと赤ちゃんだと思ってない?」
「おお、そうかも」
「恭兄~……」
「はは。じゃあオレはニンジン切ってようかな」
恨めしそうな声と一緒に、細くした目と尖ったくちびるがこちらに向けられているのだろう。見なくたって分かる。こんなやり取りが楽しくて仕方ない。
くすぐったく思いながらそれを背で受け取め、恭生は包丁を手に取った。ニンジンを左手で押さえ、包丁を当てる。
「あっ! いったー……」
「恭兄!?」
手に力をこめる時、ちゃんと用心したつもりだったのだが。硬いニンジンの上を、どうやら刃が滑ってしまったようだ。左手の人差し指を、少し切ってしまった。
「切っちゃったの!?」
朝陽がキッチンへと飛んでくる。左手首を掴まれ、青ざめた顔で覗きこまれる。
「うん、やっちゃったわ。ニンジンに血がつかなくてよかった」
「ニンジンなんてどうだっていいから。痛いよね。絆創膏ある?」
「こんくらい平気だって。大したことないし」
「なに言ってんの? 恭兄美容師だろ、大事な手じゃん。そうじゃなくたって、恭兄が怪我すんの嫌だよ。こんくらいとかないから」
「朝陽……」
実際のところ、切れてしまったのは本当に少しだけだ。血もすぐに止まりそうな、些細なもの。だが朝陽は真剣で、自身の怪我を軽く扱う恭生に怒ってすらいるようだ。
「ん、そうだよな。怪我なんてちょっとだとしたって、しないほうがいいもんな。気をつける」
「うん。そうしてほしい」
朝陽に大事に想われている。自分のためにはもちろん、朝陽のためにも気をつけなければならないと感じる。
洗うね、と恭生の手を掴んだまま、朝陽が蛇口をひねる。朝陽の手と一緒に水に触れていると、ふと祖父のあの言葉が頭を過ぎった。
『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』
「あ……」
「恭兄? 痛い?」
朝陽へ動く心に大いに振り回されて、最近は思い出さなかったけれど。朝陽と仮の恋人になったのは、この言葉もきっかけのひとつだった。
俺と付き合えば、じいちゃんの言葉の意味が分かるよ、と。
「あのさ、じいちゃんのあの言葉だけどさ」
「うん」
仮ではなく、本物の恋人になった。朝陽の気持ちも自分の気持ちも、本物。だからこそ感じるものが、確かにちいさく芽吹いている。
「自分になにかあったら、大切な人に悲しい想いさせちゃうわけじゃん。今、朝陽がオレの怪我を心配してくれてるみたいに」
「そうだね」
「じいちゃんになにかあったら、ばあちゃんが悲しんでたから、ってこと?」
「うん。俺はそう思ったよ。例えば親より先に死んだら、ふたりとも凄く悲しむだろうな、先に死ねないよな、って」
「なるほど……」
「俺と付き合って、恭兄に俺がいっぱい愛情表現できたら伝わるかな、って思ってさ。恋人カッコカリ、なんて提案したんだよね」
「そうだったんだな」
「まあ、恥ずかしくて上手くできてなかったし、俺のほうが恭兄に大事にされてるんだけど」
「そんなことねえよ、伝わってる。現に今、じいちゃんのこと自然と思い出したし」
「そっか」
「まあでも、相手が先に死んだほうがいいってとこまでは、さすがに分かんないな」
完全には難しくとも、祖父の言葉の真意に近づけたような気がする。それでもやはり、久しぶりに思い出した言葉に、切なさが否めない。朝陽を想う時に、死がちらつくのは胸が潰れそうになる。
気づけば水は止まっていて、朝陽がタオルで拭いてくれている。絆創膏も巻いてくれて、朝陽の優しさに離れがたくなる。
「これでオーケーかな。恭兄、気をつけてよ」
「うん」
「じゃあ料理再開しよ。ピーラーもらっていい? ついでに持って……」
「朝陽」
「……恭兄?」
「キス、したい」
驚いている朝陽の首に手を回し、そっと力をこめる。丸くしていた目が眇められ、すぐに受け入れてくれたのが分かる。
短いキスをして、今度は朝陽から口づけられて。もっと深くまでほしいと、朝陽のやわらかいくちびるのあわいに、舌先で触れてみる。
「っ、恭兄」
「駄目だった?」
「駄目じゃない、けど」
「じゃあ、嫌?」
「……その聞き方、恭兄がずるいって言ったんじゃん」
「うん、ごめん。どうしてもしたいから、ずるいこと言った」
「恭兄……口開けて」
「あ……」
躊躇っている時は、あどけなくすらあったのに。少し腰を屈めた朝陽が、顎に指をかけてくる。翻弄されるのはすぐに、恭生のほうになる。
遠慮がちに入ってきた舌にそっと舐められる。それに応えると、首の後ろを支えられてぐっと深くなった。口内に、自分の中に朝陽がいる。そう実感すると、頭がくらくらしてくる。
「カレー、作んなきゃな」
「うん。でももうちょっと」
「はは、朝陽がもっとって言ってくれるんだ」
甘えるように吸いついて、甘やかすように抱きしめられて。いつの間にかふたりで床に座りこみ、熱い吐息まで絡ませ合った。
「恭兄、今日何時終わりだっけ」
「十八時。待ち合わせどうする?」
「十七時にはバイト終わるから、そっちに行く」
「了解。じゃあ駅前にするか」
「うん」
五月も下旬になり、半袖の服を着る日も増えてきた。
ゴールデンウィークには、朝陽と旅行に行ってみたかったのだが。あいにく恭生の仕事が忙しく、連休を取ることは叶わなかった。ごめんな、と言うと、謝ることじゃないと朝陽はむくれてみせたけれど。
自分の夢を、朝陽も大切にしてくれる。もちろんそれを幸せに思う。だがなによりも恭生自身が、朝陽とゆっくり過ごしたかったのだ。
「楽しみだな」
「うん、俺も」
久しぶりの、外で待ち合わせてのデート。だが今までのそれと、今回は一味違う。明日はふたりとも休日で、今日のうちから出掛けて一泊してみよう、という計画になっている。ゴールデンウィークの代わりに、というわけだ。
宿泊先は、都内の少しリッチなホテル。遠出する案もあったが、移動は最小限にし、その分のお金はホテル代につぎこむことにした。
立派なディナーと、朝食は豪華なバイキング。夜には朝陽がシャッターを切りたいほうへと気ままに出掛ける予定で、それも楽しみだ。
「じゃあそろそろ仕事行くわ」
「うん」
「戸締り頼むな」
「任せて」
玄関まで見送りに来てくれた朝陽から、頬にキス。朝陽の手にあるスマートフォンでは、相変わらずうさぎのキーホルダーが揺れていて。それを指先で愛でてから、恭生も朝陽の頬にキスをする。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
一泊分の着替えが入った小さいボストンバッグを抱え、玄関を開けて手を振る。朝陽がほんの少しだけくちびるを噛むのを見ると、いつも離れがたくなる。
恭生が小学生になった春の朝も、こんな顔をしていたっけ。頭を過ぎる懐かしい光景に、無性に抱きしめたくなった。でもキリがないな、とぐっと堪え、また後でともう一度手を振る。
今夜になれば明日までずっと、ふたりで過ごせるのだから。
十八時前、本日ラストの指名客を見送った。今日は残業をすることもなく上がれそうだ。
店内に戻り、使用していた鏡の前を掃除し、オーナーに声をかける。
「オーナー、そろそろ上がります」
「おう、今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」
「あれ、兎野~その荷物なに?」
「あー、これは。今からちょっと旅行」
「旅行? さてはデートだな!?」
ボストンバッグを指さして、村井がニヤリと笑う。オーナーを交えてのこんな会話が、なんだか懐かしい。
そう言えば、村井との仲が深まるほど、話題は美容師談義に終始するようになった。恋バナなんてものをしたのは、もうずいぶん前のことだ。
「そう、デート」
「うわー……オーナー、今の兎野の顔見ました?」
「村井と兎野がここに来て四年くらいか? あんなしっかり恋した顔見たの、初めてだな」
「ですよね!」
「あー、はは……」
ふたりが大きな声を出すものだから、ちょうど客足の引いていた店内から他のスタッフも集まってくる。しっかり恋をしている顔とは、どんな顔だ。店中にある鏡で確認する気にはなれず、皆の視線から逃げるようにスタッフ出入口へと向かう。
「兎野~! 今度ゆっくり聞かせてもらうからなあ!」
「村井と飲みに行くの、しばらくやめようかな」
「え! うそ! うそうそ! 聞かないから飲みは行こ!」
「はは、うん。また行こうな」
足早に出てきてしまったけれど、赤いだろう顔を見られて恥ずかしかったけれど。職場の雰囲気をこれほど愛しく思ったことはなかった。村井にはああ言ったが、大切な人がいるのだといつか聞いてもらおう。
路地に出て時計を確認すると、十八時を五分ほど過ぎていた。朝陽のことだから、もう待っているだろう。
駅へと進みかけ、だが足を止める。店の前に立っている人物に見覚えがあったからだ。あちらも恭生に気づいたようで、手を上げて合図してくる。
「兎野」
「橋本。もしかしてカットに来たのか?」
「違うよ。来るなら兎野指名してるし」
「はは、それはどうも」
相変わらずまっすぐな言葉を口にする男だ。天然タラシとは、橋本のようなヤツのことを言うのだろう。内心苦笑しつつ、橋本の向こうの女性の姿に気づく。
「今日はたまたま通りかかったんだけどさ。えっと、この子は彼女。この店いいよって話してたところなんだ。奈々ちゃん、さっき話してた、ここで働いてる兎野だよ。高校からの友だちなんだ」
橋本に紹介され、奈々と呼ばれた彼女に会釈をする。柔らかな雰囲気、それでいてまっすぐ伸びた背筋からは、凛とした印象。顔を見合わせ微笑むふたりは幸せそうだ。
安堵するのは傲慢か。
酷い別れ方をしたと謝られてしまえば、あの頃の朝陽の真意を知ってしまえば、振り返るのも苦ではなくなった。だからだろうか、一瞬で終わってしまった恋の片割れに、幸福を願ってしまうのは。
「奈々ちゃん、美容室探してるみたいでさ」
「そうなんですか?」
「はい。今通ってるところも悪くはないんですけど、他にも行ってみたくて。そしたら、彼がおすすめの美容室があるよと言うので。近くに来たので、寄ってみました」
「そうだったんですね。ではもし良かったら、いつでもご連絡ください」
「ありがとうございます」
とは言え、元恋人として気まずい思いも多少はある。彼女は自分たちの関係を知らないとしても、だ。
名刺を渡しつつ、女性のスタッフもいることを伝える。恋人の友人だから指名しなければなんて、気を遣って欲しくはない。なんの気兼ねもなく、自分の好きなスタイルを見つけて欲しい。
ここで立ち止まり、かれこれ五分ほど経っただろうか。ふと遠くから救急車のサイレンが聞こえ、話しこんでいたことにはたと気づく。
「ごめん、オレ待ち合わせしてるんだ。そろそろ行くわ」
「そうだったんだ。悪かったな、引き止めて」
「ううん、平気。じゃあまたな」
「おう」
橋本に手を振り、彼女の奈々に再び会釈をして駅のほうへと駆けだす。だがすぐに、橋本に呼び止められる。
「あ。兎野!」
「ん?」
「これ、お前のか? 犬のぬいぐるみ落ちてる」
「え。うわ……」
橋本の手にある柴犬にぎょっとする。ゲームセンターで朝陽が獲ってくれたキーホルダーだ。ポケットに入れていた自分のスマートフォンを見ると、確かにそこにあるはずの姿がない。慌てて引き返し、両手でそれを受け取った。
「マジで助かった……ありがとう。失くしたらいつまでも探すところだった」
「そんな大事なものなんだ。気づけてよかった」
「うん、宝物」
包みこむようにきゅっと握って、深く息を吐きながら額に当てる。橋本のおかげで事なきを得たが、失くしていたかもしれない事実に肝が冷える。胸に残る不安を、すぐ横の道を通り過ぎる救急車の音が煽る。
「兎野? 大丈夫か?」
「ああ、うん。平気……オレ、行くわ」
やけに心臓が騒がしいままで、まだキーホルダーを握ったままの手を今度は胸に当てる。
こんな思いは忘れてしまいたい。
早く、朝陽に会いたい。
駅までの道を急いだが、いつも朝陽が待っている場所にその姿はなかった。バイトは十七時に終わると言っていた。橋本たちと話しこみ遅くなってしまったから、どこかの店で休んでいるのかもしれない。
スマートフォンを確認しても、連絡は入っていなかった。駅に着いた、とメッセージを送りつつ、近くのコンビニを覗いてみることにする。
横断歩道を渡ってコンビニへ入店する直前、スマートフォンが鳴り始めた。朝陽からの着信だ。連絡がついてよかった。画面をタップして通話を繋ぎながら、先に見つけてやろうとコンビニの中を覗く。
「もしもし朝陽? 今どこ? オレは近くの……」
『あ、あの……』
「……え?」
だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、朝陽の声ではなかった。見知らぬ女性の、ひどく動揺した声。嫌な胸騒ぎが駆け足で襲ってくる。
『このスマホの、持ち主の方の、お知り合いの方でしょうか』
「……はい、そうですが」
『っ、すみません、さっき、事故が、すみません……っ、それで、救急車で、っ、ごめんなさい……』
女性は混乱しているようで、ひどく泣きじゃくっている。言葉は支離滅裂で、聞き取ることも難しい。だが、よくない事態に朝陽が巻きこまれたことだけは分かった。
「朝陽……?」
悪い想像ばかりが頭を巡る。地面がぐにゃりと歪んだみたいに、足から力が抜ける。思わずしゃがみこむと、大丈夫ですかと知らない誰かの声がした。だが、確かに耳に届いているのにとても遠くに聞こえる。声を発することも叶わない。
心臓が冷えて、くちびるが震える。手に持ったままだった柴犬のぬいぐるみを縋るように握り、浅くなった呼吸を意識する。
落ち着け、落ち着け。深く息を吸って、吐いて。
電話の向こうの人も落ち着いてくれるように願いながら、どうにか口を開く。
「あの……オレは、どこに行けばいいですか」
ここ数ヶ月で、恭生は村井と指名の数で抜きつ抜かれつの争いを繰り広げるようになった。とは言っても、お互いに相手を蹴落としたいわけではない。オーナーや他のスタッフは微笑ましそうにしているし、当の恭生たちも日々それを楽しんでいる。切磋琢磨し合える、いいライバルだ。
客とのコミュニケーション、スタッフたちとの人間関係。仕事の充実感は技術以外の部分でも得られるのだと、強く実感する毎日だ。
もちろん村井のように陽気にとはいかないし、腕だって磨き続けていくけれど。
休日の朝。いつもならもう少しゆっくり寝ているところだが、ちいさなベランダの窓を開けて恭生は伸びをする。今日はいつもより念入りに掃除して、万全の状態に整えよう。そう思っていたのに。
鳴り響いたドアチャイムの音に、つい零れる笑みを抑えられない。
「恭兄、おはよう」
「ふ、おはよう」
「なんで笑ってるの?」
「だって、こんなに早いと思わなくてさ。何時に家出てきた?」
「あー……はは、じっとしてられなくて」
「そっか」
大きなリュックを背負った朝陽を招き入れる。室内にはすでに、昨日届いた布団一式と小ぶりの段ボールが2つ積み重なっている。
朝陽と本当の恋人になって、この部屋で共に朝を迎えたことは何度かあった。今までのように仕事と大学の終わりに外で待ち合わせ、共に帰ってきたり。思う存分夜景を撮影した朝陽を、とっぷり暮れた夜にここで迎えたり。
そして今日。朝陽が大学三年生になったのを機に、共に暮らすことになった。
「持ってくるの、これだけでよかったのか?」
「うん。服と勉強道具とかがあれば十分だし。冬服は置いてきたから、必要になったら取りに行く」
「そっか」
心が浮足立っていて、どこか照れくさい。それが自分だけではないと、目が合うと淡く染まった顔を逸らす朝陽を見ていると分かる。窓から入ってくる春の香りは、くすぐったい心地によく似合う。
「じゃあさっそく荷解きするか。これ開けていい?」
「うん。あ、恭兄待った!」
「んー? ……あ、これ」
元々あったデスクは、朝陽に使ってもらおうと何もない状態にしてあった。そこに向かった朝陽の背を見ながら段ボールを開けると、入っていたとあるものに恭生は目を見張る。見られたくなかったのか朝陽は項垂れるが、お構いなしに取り出してそっと撫でる。
もうずいぶんと見ていなかった、あのうさぎのぬいぐるみだ。
「まだ持ってたんだな。もうないのかと思ってた」
「ずっと持ってたよ。恥ずかしくて言えなかったけど」
「でも、部屋にもずっとなかったよな?」
朝陽の部屋で遊ぶなんてことは、それこそもう数年はなかったが。恋人に振られ励ましてもらうのに、高校の時には二度訪れたことがある。その時にはもう、定位置だった朝陽の勉強机の上から、うさぎの姿は無くなっていて。自分を嫌いになったから捨ててしまったのだろうと、苦しくなったのを覚えている。
ベッドのほうへ向かい、ヘッドボードに置いてある柴犬のぬいぐるみへ手を伸ばす。ふたつ揃ったのはもういつぶりだろう。久しぶりの再会に、ぬいぐるみたちも心なしか嬉しそうにも見える。
一緒に抱きしめると、朝陽もこちらへとやって来た。
「恭兄に彼氏がいる、って分かった時に、クローゼットの奥にしまっちゃったんだよね。見ると辛かったから。でも捨てる気にはどうしてもなれなくてさ。このうさぎは俺にとって、恭兄だし」
「それは忘れてたじゃん」
「ううん。ちいさい時に恭兄のうさぎ、って言ったってのは忘れちゃったけど。それでもずっと、恭兄のつもりで大事にしてたよ」
「朝陽……」
ふたりの間でぬいぐるみたちを抱いたまま、どちらからともなくキスをする。窓から射しているのはまだまだ朝の光で。肩を竦めるようにして、小さく笑い合う。
「よし、引っ越し終わらせないとな」
「だね。そうだ、これうちのお母さんから。俺のこと、よろしくお願いします、だって」
「あ、クッキーじゃん。おばさんのクッキー大好き」
「恭くんにあげるの久々だー、って張り切って作ってた」
「マジか。後でお礼の連絡しとく」
「ありがとう、絶対喜ぶ」
「まあ、大事な息子をたぶらかしてるんだけどな」
「それはお互い様だよ」
「はは、そっか」
それじゃあ、と今度こそ仕切り直す。少ないとは言え、段ボールは全て今日中に片してしまいたい。そう思っているのだが。ふと気づくと、カメラが恭生へと向けられていた。
「……え? ちょ、朝陽、もしかして撮ってる?」
「うん、撮ってる。気にしないで」
「いやいや気にするって」
普段から自撮りをする習慣もなく、たまにサロンのSNS用にカットしている様子を撮られるくらいだ。それだってスマートフォンやタブレットでの撮影で、本格的なカメラを向けられたことはない。気にしない、というのはさすがに難しい。
だがカメラを下ろした朝陽の表情が、どこか切なそうで。恭生はそっと息を詰める。
「俺、今まで人物には興味なくて、夜景ばっかり撮ってきたんだけどさ。最近、っていうか、恭兄とまたたくさん一緒にいるようになったら、人物も撮ってみたいって思うようになったんだよね」
「…………」
「それってさ、まんま俺自身の興味なんだと思う。元々恭兄がいちばんだったけど、話さなくなってからは余計に、他人はどうでもよくなっててさ。でも、余裕ができた、のかな。恭兄と一緒にいて、もっと友だちとか、周りの人のことも大事にしたいなって思うようになった。大学も、前より楽しい」
「朝陽……」
朝陽がそんなことを考えているなんて、思ってもみなかった。
確かにちいさい頃から、友だちの誘いを断ってまで恭生の元にやって来る朝陽だったけれど。でもそんな朝陽が、視野を広げようとしている。自分たちの時間が再び動き出したことに、きっかけを得て。
「恭兄さえよかったら、たまにこうやって撮らせてもらいたいんだけど……駄目、かな」
「っ、うん、分かった。恥ずかしいけど、頑張る」
「ほんと? ありがとう、うわー、めっちゃ嬉しい」
朝陽のおかげで変わった自分がいるように、朝陽自身にもまた、いい影響があるのなら。こんなに喜ばしいことはないとさえ思う。思わず視界が潤みかけて、恭生はこっそり鼻を啜る。
「よし! じゃあまずは片づけ! な!」
「はは、そうだった」
「おーい朝陽、そろそろ起きろー。今日一限からって言ってたろ」
「んー……」
味噌汁に乾燥わかめを入れながら、ベッドから出てこない朝陽に声をかける。
朝陽は特別朝に弱いわけではないが、昨夜も遅くまでカメラを構えていたようだ。無理はしてほしくなくても、思う存分夢を追えているのだと輝く瞳を見たら、背中を押す選択しか恭生にはない。
ローテーブルに朝食を並べ終えた後、ベッドに腰かけ朝陽の頬を指先でつつく。
「あーさーひー。朝ごはん食べないの?」
「……んー、食べる」
返事をしながらも、朝陽は恭生の枕を抱きしめてまた眠ろうとしている。
朝陽の新品の布団は結局、開封されることもないまま部屋の隅に立てかけられている。どうしても一緒に寝たいと朝陽が言うのだ。ちいさい頃みたいにねだられるのを、恭生が無下にできるはずもない。
セミダブルのベッドに大の男ふたりで寝るのは、正直狭い。それに恋人同士になったのだから、肌を寄せて眠るのは恭生にしてみれば落ち着かないのだけれど。触れるだけのキス以上のことはしないまま、毎日を過ごしている。
今はただ、ふたりでいられることへの幸福感が恭生を満たしている。離れていた数年が、瞬間瞬間を煌めかせている。弟への愛は恋を帯びたばかりで、朝陽のペースに合わせて、少しずつ育んでいきたい。
だが、いつの日か……と、朝陽ともっと深い恋人になれる日を夢見てもいる。過去の恋人とのスキンシップは、積極的にはなれなかったのに。今や覚えたての恋にはしゃぐ少年のようで、そんな自分に戸惑いもするけれど。
朝陽は自分が初の恋人だ。その時が来たらリードしてやらなければ、と密かに考えている。
「あーあ、先にひとりで食べようかなあ」
「……だめ。起きる、起きた」
「はは、おはよう」
ようやくベッドを出た朝陽と、向かいあって腰を下ろす。眠たげな目が、朝食を見ると少し見開かれて、そして弧を描く。ひとりだった時は適当に済ませた朝食だが、これを見たいがためにちゃんと食べるようになった。
「朝陽、今日はバイトだっけ」
「ううん、休み。恭兄はお店の人と飲みだよね」
「うん。夕飯、ひとりにしてごめんな」
「そんなんで謝らないでよ、ひとりでだって食べられるし。それに、俺ももっと料理できるようになりたいから、作ってみる。まあ、まだ下手だけど」
「そっか」
ひとつの家で暮らしているから、またここで必ず顔を合わせられる。その事実を何度だって噛みしめてしまう。
恋なんてこりごりだ。そう思ったのが嘘みたいに、朝陽への恋心が恭生を充実させている。
「ふ」
「どしたの?」
「いや、なんでもない。なあ朝陽、今度の休み、一緒に料理してみるか」
「あ、それいいね。やりたい、教えて」
「ああ、約束な」
迎えた金曜日。恭生の仕事は休みだが、朝陽は大学の講義があった。とは言えバイトは入っておらず、十五時頃の帰宅。夕飯にはまだ早いが、ふたりしてキッチンに立つ。
献立はカレーと、簡単なサラダだ。
「カレー作れるようになっといて、損はない」
「俺はなにすればいい?」
「じゃあまずは、玉ねぎの皮剥いてもらおうかな」
「了解」
それから、朝陽にはもうひとつ頼みたいものがある。
「あとさ、一個おねだりしてもいい?」
「うん、いいよ」
「はは、即答。あのさ、朝陽にたまごやき作ってほしい」
「たまごやき? うわ懐かしい、俺作ってたね。分かった、作る」
「やった。朝陽のたまごやきが世界一美味しいからな」
「でもカレーにたまごやきって合わなくない?」
「いいんだよ。むしろ朝陽のたまごやきが主役」
朝陽はちいさい頃、母親に習いながらよくたまごやきを作ってくれた。砂糖とミルクがたっぷりの、甘いたまごやきだ。また食べられると思うと、どうにも顔がにやける。
「よし、じゃあやるか」
「うん」
広いとは決して言えないアパートの、ちいさなキッチンだ。男二人で作業するにはどうしたって窮屈で、朝陽にはリビングのほうで野菜の下準備をお願いすることにした。じゃがいもの皮も朝陽に頼んで、そのままその二種はカットまで任せてみようか。
「朝陽ー、それ終わったらじゃがいもな。ピーラー使えそうか?」
「できるよ、手伝いでやったことあるし。恭兄、俺のこと赤ちゃんだと思ってない?」
「おお、そうかも」
「恭兄~……」
「はは。じゃあオレはニンジン切ってようかな」
恨めしそうな声と一緒に、細くした目と尖ったくちびるがこちらに向けられているのだろう。見なくたって分かる。こんなやり取りが楽しくて仕方ない。
くすぐったく思いながらそれを背で受け取め、恭生は包丁を手に取った。ニンジンを左手で押さえ、包丁を当てる。
「あっ! いったー……」
「恭兄!?」
手に力をこめる時、ちゃんと用心したつもりだったのだが。硬いニンジンの上を、どうやら刃が滑ってしまったようだ。左手の人差し指を、少し切ってしまった。
「切っちゃったの!?」
朝陽がキッチンへと飛んでくる。左手首を掴まれ、青ざめた顔で覗きこまれる。
「うん、やっちゃったわ。ニンジンに血がつかなくてよかった」
「ニンジンなんてどうだっていいから。痛いよね。絆創膏ある?」
「こんくらい平気だって。大したことないし」
「なに言ってんの? 恭兄美容師だろ、大事な手じゃん。そうじゃなくたって、恭兄が怪我すんの嫌だよ。こんくらいとかないから」
「朝陽……」
実際のところ、切れてしまったのは本当に少しだけだ。血もすぐに止まりそうな、些細なもの。だが朝陽は真剣で、自身の怪我を軽く扱う恭生に怒ってすらいるようだ。
「ん、そうだよな。怪我なんてちょっとだとしたって、しないほうがいいもんな。気をつける」
「うん。そうしてほしい」
朝陽に大事に想われている。自分のためにはもちろん、朝陽のためにも気をつけなければならないと感じる。
洗うね、と恭生の手を掴んだまま、朝陽が蛇口をひねる。朝陽の手と一緒に水に触れていると、ふと祖父のあの言葉が頭を過ぎった。
『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』
「あ……」
「恭兄? 痛い?」
朝陽へ動く心に大いに振り回されて、最近は思い出さなかったけれど。朝陽と仮の恋人になったのは、この言葉もきっかけのひとつだった。
俺と付き合えば、じいちゃんの言葉の意味が分かるよ、と。
「あのさ、じいちゃんのあの言葉だけどさ」
「うん」
仮ではなく、本物の恋人になった。朝陽の気持ちも自分の気持ちも、本物。だからこそ感じるものが、確かにちいさく芽吹いている。
「自分になにかあったら、大切な人に悲しい想いさせちゃうわけじゃん。今、朝陽がオレの怪我を心配してくれてるみたいに」
「そうだね」
「じいちゃんになにかあったら、ばあちゃんが悲しんでたから、ってこと?」
「うん。俺はそう思ったよ。例えば親より先に死んだら、ふたりとも凄く悲しむだろうな、先に死ねないよな、って」
「なるほど……」
「俺と付き合って、恭兄に俺がいっぱい愛情表現できたら伝わるかな、って思ってさ。恋人カッコカリ、なんて提案したんだよね」
「そうだったんだな」
「まあ、恥ずかしくて上手くできてなかったし、俺のほうが恭兄に大事にされてるんだけど」
「そんなことねえよ、伝わってる。現に今、じいちゃんのこと自然と思い出したし」
「そっか」
「まあでも、相手が先に死んだほうがいいってとこまでは、さすがに分かんないな」
完全には難しくとも、祖父の言葉の真意に近づけたような気がする。それでもやはり、久しぶりに思い出した言葉に、切なさが否めない。朝陽を想う時に、死がちらつくのは胸が潰れそうになる。
気づけば水は止まっていて、朝陽がタオルで拭いてくれている。絆創膏も巻いてくれて、朝陽の優しさに離れがたくなる。
「これでオーケーかな。恭兄、気をつけてよ」
「うん」
「じゃあ料理再開しよ。ピーラーもらっていい? ついでに持って……」
「朝陽」
「……恭兄?」
「キス、したい」
驚いている朝陽の首に手を回し、そっと力をこめる。丸くしていた目が眇められ、すぐに受け入れてくれたのが分かる。
短いキスをして、今度は朝陽から口づけられて。もっと深くまでほしいと、朝陽のやわらかいくちびるのあわいに、舌先で触れてみる。
「っ、恭兄」
「駄目だった?」
「駄目じゃない、けど」
「じゃあ、嫌?」
「……その聞き方、恭兄がずるいって言ったんじゃん」
「うん、ごめん。どうしてもしたいから、ずるいこと言った」
「恭兄……口開けて」
「あ……」
躊躇っている時は、あどけなくすらあったのに。少し腰を屈めた朝陽が、顎に指をかけてくる。翻弄されるのはすぐに、恭生のほうになる。
遠慮がちに入ってきた舌にそっと舐められる。それに応えると、首の後ろを支えられてぐっと深くなった。口内に、自分の中に朝陽がいる。そう実感すると、頭がくらくらしてくる。
「カレー、作んなきゃな」
「うん。でももうちょっと」
「はは、朝陽がもっとって言ってくれるんだ」
甘えるように吸いついて、甘やかすように抱きしめられて。いつの間にかふたりで床に座りこみ、熱い吐息まで絡ませ合った。
「恭兄、今日何時終わりだっけ」
「十八時。待ち合わせどうする?」
「十七時にはバイト終わるから、そっちに行く」
「了解。じゃあ駅前にするか」
「うん」
五月も下旬になり、半袖の服を着る日も増えてきた。
ゴールデンウィークには、朝陽と旅行に行ってみたかったのだが。あいにく恭生の仕事が忙しく、連休を取ることは叶わなかった。ごめんな、と言うと、謝ることじゃないと朝陽はむくれてみせたけれど。
自分の夢を、朝陽も大切にしてくれる。もちろんそれを幸せに思う。だがなによりも恭生自身が、朝陽とゆっくり過ごしたかったのだ。
「楽しみだな」
「うん、俺も」
久しぶりの、外で待ち合わせてのデート。だが今までのそれと、今回は一味違う。明日はふたりとも休日で、今日のうちから出掛けて一泊してみよう、という計画になっている。ゴールデンウィークの代わりに、というわけだ。
宿泊先は、都内の少しリッチなホテル。遠出する案もあったが、移動は最小限にし、その分のお金はホテル代につぎこむことにした。
立派なディナーと、朝食は豪華なバイキング。夜には朝陽がシャッターを切りたいほうへと気ままに出掛ける予定で、それも楽しみだ。
「じゃあそろそろ仕事行くわ」
「うん」
「戸締り頼むな」
「任せて」
玄関まで見送りに来てくれた朝陽から、頬にキス。朝陽の手にあるスマートフォンでは、相変わらずうさぎのキーホルダーが揺れていて。それを指先で愛でてから、恭生も朝陽の頬にキスをする。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
一泊分の着替えが入った小さいボストンバッグを抱え、玄関を開けて手を振る。朝陽がほんの少しだけくちびるを噛むのを見ると、いつも離れがたくなる。
恭生が小学生になった春の朝も、こんな顔をしていたっけ。頭を過ぎる懐かしい光景に、無性に抱きしめたくなった。でもキリがないな、とぐっと堪え、また後でともう一度手を振る。
今夜になれば明日までずっと、ふたりで過ごせるのだから。
十八時前、本日ラストの指名客を見送った。今日は残業をすることもなく上がれそうだ。
店内に戻り、使用していた鏡の前を掃除し、オーナーに声をかける。
「オーナー、そろそろ上がります」
「おう、今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」
「あれ、兎野~その荷物なに?」
「あー、これは。今からちょっと旅行」
「旅行? さてはデートだな!?」
ボストンバッグを指さして、村井がニヤリと笑う。オーナーを交えてのこんな会話が、なんだか懐かしい。
そう言えば、村井との仲が深まるほど、話題は美容師談義に終始するようになった。恋バナなんてものをしたのは、もうずいぶん前のことだ。
「そう、デート」
「うわー……オーナー、今の兎野の顔見ました?」
「村井と兎野がここに来て四年くらいか? あんなしっかり恋した顔見たの、初めてだな」
「ですよね!」
「あー、はは……」
ふたりが大きな声を出すものだから、ちょうど客足の引いていた店内から他のスタッフも集まってくる。しっかり恋をしている顔とは、どんな顔だ。店中にある鏡で確認する気にはなれず、皆の視線から逃げるようにスタッフ出入口へと向かう。
「兎野~! 今度ゆっくり聞かせてもらうからなあ!」
「村井と飲みに行くの、しばらくやめようかな」
「え! うそ! うそうそ! 聞かないから飲みは行こ!」
「はは、うん。また行こうな」
足早に出てきてしまったけれど、赤いだろう顔を見られて恥ずかしかったけれど。職場の雰囲気をこれほど愛しく思ったことはなかった。村井にはああ言ったが、大切な人がいるのだといつか聞いてもらおう。
路地に出て時計を確認すると、十八時を五分ほど過ぎていた。朝陽のことだから、もう待っているだろう。
駅へと進みかけ、だが足を止める。店の前に立っている人物に見覚えがあったからだ。あちらも恭生に気づいたようで、手を上げて合図してくる。
「兎野」
「橋本。もしかしてカットに来たのか?」
「違うよ。来るなら兎野指名してるし」
「はは、それはどうも」
相変わらずまっすぐな言葉を口にする男だ。天然タラシとは、橋本のようなヤツのことを言うのだろう。内心苦笑しつつ、橋本の向こうの女性の姿に気づく。
「今日はたまたま通りかかったんだけどさ。えっと、この子は彼女。この店いいよって話してたところなんだ。奈々ちゃん、さっき話してた、ここで働いてる兎野だよ。高校からの友だちなんだ」
橋本に紹介され、奈々と呼ばれた彼女に会釈をする。柔らかな雰囲気、それでいてまっすぐ伸びた背筋からは、凛とした印象。顔を見合わせ微笑むふたりは幸せそうだ。
安堵するのは傲慢か。
酷い別れ方をしたと謝られてしまえば、あの頃の朝陽の真意を知ってしまえば、振り返るのも苦ではなくなった。だからだろうか、一瞬で終わってしまった恋の片割れに、幸福を願ってしまうのは。
「奈々ちゃん、美容室探してるみたいでさ」
「そうなんですか?」
「はい。今通ってるところも悪くはないんですけど、他にも行ってみたくて。そしたら、彼がおすすめの美容室があるよと言うので。近くに来たので、寄ってみました」
「そうだったんですね。ではもし良かったら、いつでもご連絡ください」
「ありがとうございます」
とは言え、元恋人として気まずい思いも多少はある。彼女は自分たちの関係を知らないとしても、だ。
名刺を渡しつつ、女性のスタッフもいることを伝える。恋人の友人だから指名しなければなんて、気を遣って欲しくはない。なんの気兼ねもなく、自分の好きなスタイルを見つけて欲しい。
ここで立ち止まり、かれこれ五分ほど経っただろうか。ふと遠くから救急車のサイレンが聞こえ、話しこんでいたことにはたと気づく。
「ごめん、オレ待ち合わせしてるんだ。そろそろ行くわ」
「そうだったんだ。悪かったな、引き止めて」
「ううん、平気。じゃあまたな」
「おう」
橋本に手を振り、彼女の奈々に再び会釈をして駅のほうへと駆けだす。だがすぐに、橋本に呼び止められる。
「あ。兎野!」
「ん?」
「これ、お前のか? 犬のぬいぐるみ落ちてる」
「え。うわ……」
橋本の手にある柴犬にぎょっとする。ゲームセンターで朝陽が獲ってくれたキーホルダーだ。ポケットに入れていた自分のスマートフォンを見ると、確かにそこにあるはずの姿がない。慌てて引き返し、両手でそれを受け取った。
「マジで助かった……ありがとう。失くしたらいつまでも探すところだった」
「そんな大事なものなんだ。気づけてよかった」
「うん、宝物」
包みこむようにきゅっと握って、深く息を吐きながら額に当てる。橋本のおかげで事なきを得たが、失くしていたかもしれない事実に肝が冷える。胸に残る不安を、すぐ横の道を通り過ぎる救急車の音が煽る。
「兎野? 大丈夫か?」
「ああ、うん。平気……オレ、行くわ」
やけに心臓が騒がしいままで、まだキーホルダーを握ったままの手を今度は胸に当てる。
こんな思いは忘れてしまいたい。
早く、朝陽に会いたい。
駅までの道を急いだが、いつも朝陽が待っている場所にその姿はなかった。バイトは十七時に終わると言っていた。橋本たちと話しこみ遅くなってしまったから、どこかの店で休んでいるのかもしれない。
スマートフォンを確認しても、連絡は入っていなかった。駅に着いた、とメッセージを送りつつ、近くのコンビニを覗いてみることにする。
横断歩道を渡ってコンビニへ入店する直前、スマートフォンが鳴り始めた。朝陽からの着信だ。連絡がついてよかった。画面をタップして通話を繋ぎながら、先に見つけてやろうとコンビニの中を覗く。
「もしもし朝陽? 今どこ? オレは近くの……」
『あ、あの……』
「……え?」
だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、朝陽の声ではなかった。見知らぬ女性の、ひどく動揺した声。嫌な胸騒ぎが駆け足で襲ってくる。
『このスマホの、持ち主の方の、お知り合いの方でしょうか』
「……はい、そうですが」
『っ、すみません、さっき、事故が、すみません……っ、それで、救急車で、っ、ごめんなさい……』
女性は混乱しているようで、ひどく泣きじゃくっている。言葉は支離滅裂で、聞き取ることも難しい。だが、よくない事態に朝陽が巻きこまれたことだけは分かった。
「朝陽……?」
悪い想像ばかりが頭を巡る。地面がぐにゃりと歪んだみたいに、足から力が抜ける。思わずしゃがみこむと、大丈夫ですかと知らない誰かの声がした。だが、確かに耳に届いているのにとても遠くに聞こえる。声を発することも叶わない。
心臓が冷えて、くちびるが震える。手に持ったままだった柴犬のぬいぐるみを縋るように握り、浅くなった呼吸を意識する。
落ち着け、落ち着け。深く息を吸って、吐いて。
電話の向こうの人も落ち着いてくれるように願いながら、どうにか口を開く。
「あの……オレは、どこに行けばいいですか」