「仮ってなんなんだろうな」
「かり? 仮予約とか、仮約束とかの“仮”か?」
「あ……うん、そう」

 閉店後、店内を掃きながら恭生はついため息をついた。一緒に零れ落ちたひとり言を、思いがけず村井に拾われてしまった。
 朝陽のバスケの試合を観戦して、約二週間。今週は大学のテスト期間らしく、朝陽は勉強に集中するとのことであれ以来会えていない。
 疎遠だった数年があるのに、たった二週間が恐ろしいほどに長い。

「仮は仮じゃん? 一時的にとか、この先は未確定、みたいな?」
「だよなあ」
「あとはー、お試しとか!」
「お試し……」

 朝陽が仮の恋人関係を提案してきたのは、もう恋愛はこりごりだと恭生が言ったことが発端だ。振られることがなければ朝陽と会えなくなる。それを寂しがったから――それから、自分と付き合えば祖父の言葉の真意が分かる、と言って。
 未だに祖父の件は全く理解できていない。いや、ここ最近は忘れていたと言ったほうが正しい。ただただ朝陽のことで頭がいっぱいだった。

「よし、掃除こんなもんかな」
「なあなあ、兎野。今日暇? これから飲みに行かない?」
「うーん、パス」
「なんでだよおー!」
「ごめんな村井、また誘って」
「今度は絶対だぞー? 俺、お前と美容師談義したいから!」
「あ、それはオレもしたい。約束な」
「おう!」

 どうせ今夜もひとりだ。気が紛れるかもと思えば村井の誘いは魅力的だったが、どうしても気乗りしなかった。金曜日の今日はテストの最終日で、もしかしたら朝陽から連絡があるかも、なんて淡い期待を抱かずにいられなかった。
 とは言え、村井と美容師談義をする約束ができたことは素直にうれしい。つい最近まで、ライバル心から一方的に距離を取っていたのが嘘みたいだ。
 
 
 変わった自分にちいさく笑い、駅のほうへと歩き出す。すっかり暮れて冷えこむ夜だが、街は多くの人で賑わっている。
 仕事帰りの大人たち、若者に、制服を着た学生たち。人々の間を小走りですり抜けて、だが恭生はふと立ち止まる。

「朝陽?」

 今、朝陽がいたような気がする。来た道を少し戻り見渡すと、数メートル先に本当に朝陽の姿があった。瞬時にあたたまる胸には、一瞬通り過ぎただけなのに見つけられた優越感が生まれている。
 もしかして、会いに来てくれたのだろうか。朝陽のほうへ歩きだし、連絡は入っていないよなとスマートフォンを確認する。
 だから気づけなかった、朝陽がひとりではないことに。

「朝陽。偶然だな」
「あ、恭兄」

 声をかけると、驚いたのか朝陽は目を丸くした。たかが二週間で大きな変化など起きるはずもないが、ついついその姿をじっくり観察してしまう。

「仕事終わったんだ」
「うん。朝陽は? 大学の帰り?」
「あー、帰りって言うか……」
「ちょっと柴田、私のこと忘れてない? こんばんは!」

 人がたくさんいるし、朝陽の顔ばかり見ていたから分からなかった。朝陽の隣にいた女の子は、朝陽の知り合いだったようだ。朝陽にむくれた顔を見せ、恭生には笑顔を向けてくる。
 バスケの試合会場で会った彼女たちとは、また違った雰囲気だ。髪は綺麗に巻かれた明るいイエローブラウン。短いスカートがよく似合っていて、ギャルと評されるような派手な見た目の女の子。
 朝陽の交友関係にこういったタイプの子がいるのは、ちょっと意外だった。

「あ、こんばんは」
「柴田のお兄さんなんですか?」
「あー、うん。そんなとこかな」
「そんなとこ? まあいいや。ねえお兄さん、お兄さんからも言ってやってくださいよ! 柴田ほんっと付き合い悪くて! ねー柴田?」
「ほっといてよ……」

 女の子の手が朝陽の腕に絡み、朝陽を揺さぶる。まるで恋人同士のような親密さに、恭生はたじろぐ。朝陽は鬱陶しそうに引き剥がそうとしているが、女の子は意にも介さない。
 少なくとも、彼女にとっての朝陽は気安く接することができる相手、ということなのだろう。何気ないスキンシップだろうに、見せつけられていると感じてしまう。そんな自分が恭生は苦々しい。腹の中に、目を背けたいような黒いものが渦巻いている。

「あー、えっと、ふたりでお出かけ? もしかして邪魔したかな」
「え? 恭兄、違……」
「お兄さん、よくぞ聞いてくれました! 今日でうちらテスト終わったじゃないですか。だから仲良い子たちで飲みに行こうってなったのに、柴田は行かない~って言うんです。どうにかここまで引きずってきたけど、いつ誘ってもこんな」
「いいじゃん別に。みんなで行ってきなよ」
「よくないし! みんな柴田とも飲みたいの!」

 未だ彼女の手は朝陽に触れたままで、恭生の中の黒いものは重たさを増してゆく。
 嫌がってるからやめてあげて、と言ったら朝陽を救うことになるだろうか。それともそれは、ただの身勝手だろうか。自分自身の感情なのに、判別がつかない。

「お兄さーん、バシッと言ってやってください!」
「え? あー、えっと……朝陽、全然そういうの行ってないのか? 付き合いは大事だとオレも思うぞ」
「……たまには行ってる」
「来てもすーぐ帰るんですよ!」
「しょうがないじゃん、家遠いんだよ。帰れなくなるだろ」

 その言葉に、恭生はどこかほっとしてしまった。
 朝陽は自分と会う時、恭生の家に寄るのを拒んでまでもしっかり帰宅する。朝陽の例外にはなれなくとも、彼らを自分以上に大事にしているわけでもない。
 そこまで考えて、なんて幼稚なのだろうと心の内で苦笑する。仮にも四つ年上なのに、情けない。
 だが、そう思えたのもほんの束の間だった。

「え、じゃあさ、うちに泊まればいいじゃん。今日、兄貴帰ってくるよ」
「あ、マジ?」
「……え?」

 突拍子もない提案。朝陽が乗るわけがない。彼女をフォローしてあげようかとさえ思ったのに。当の朝陽が、まさかのそんな反応をする。
 ふたりの会話がにわかには信じられず、恭生は思わず朝陽の袖を掴んだ。

「朝陽、この子の家に泊まんの?」

 自分の家には泊まるどころか、寄ってさえくれないのに。
 朝陽の体に女の子の手が触れているだけで胸が焦れて仕方ないというのに、そんなことになったら気がおかしくなってしまいそうだ。

「んー……」

 考えている様子の朝陽に、怒りが巡るように体温が上がる。その熱は目の奥までやってきて、泣いてしまいそうな自分に気づく。歯を食いしばってそれをどうにか堪えながら、朝陽のシャツの襟を掴み引き寄せた。

「朝陽」
「わ、恭兄どうし……」
「女の子の家に気安く泊まろうとすんな! それだったら、オレんちに来ればいいだろ!」
「っ、恭兄……?」
「頼むよ朝陽……お前、オレの恋人なんじゃねえの」

 喧騒に溶けてしまいそうな最後のひと言と共に、いよいよ瞳に膜が張る。
 ああ、いつの間にかこんなにも、朝陽のことを――
 そんなこと、今ここで気づいたところで仕方がない。いくら叫んだところで、引き止める権利は“仮”の恋人である自分にはないに等しい。
 こっそり鼻を啜り、トンと朝陽の胸を打って一歩下がる。

「大声出して悪かった。君もごめんね。……オレ、帰るわ」
「恭兄!」
「ちゃんと飲み会行くんだぞ。友だち大事にしろよ」

 上手く笑えていただろうか。震える口角を見られてしまっただろうか。
 踵を返し、逃げるように駅へと駆ける。

「恭兄! 後で連絡するから!」

 朝陽に返事をすることは、崩れた声が邪魔をして叶わなかった。

 逃げるように帰宅した恭生は、暗闇の中、玄関に座りこんで動けずにいる。
 ここ最近を思い返せば、いつの間にか朝陽のことばかり考えていた。
 昔の面影を見つけると胸はあたたかくなって、初めての一面を知ると離れていた期間を切なく思って、その後は全部宝物にしたくなる。
 かわいらしかった子が、その愛しさはそのままに格好いい男になった。
 自分にくっついてばかりだった弟に広がる交友関係は確かに嬉しいのに、寂しさが入り混じるのを否めない。
 最後に頼ってくれるのは自分ならいいのに。触れていいのは、自分だけならいいのに。
 この感情はなんだっけ。知らんぷり、気づかないふりをしてみても。己の人生を振り返ってみれば、初めて恋をした高校生の夏にたどり着く。だが朝陽への想いは、その経験をもはるかに凌駕している。
 心の中はぐちゃぐちゃで、苦しさに息が詰まる。嫉妬と独占欲が渦巻き、綺麗とは到底呼べない有り様なのに。今まででいちばん大切にしたい、いっとう特別だとよく分かる。
 物心ついた時から大好きだった、朝陽が。今だって変わらず大好きだ。でも、朝陽に恋心も抱いてしまうなんて、思ってもいなかった。
 どうにか立ち上がり明かりをつけ、重たいのか浮ついているのか分からない体を引きずる。長年住んでいる部屋なのに、朝陽が一度だけ来たあの日ばかりを思い出す。
 朝陽が座っていたところを空けて、その隣に腰を下ろす。

「朝陽」

 ベッドに頭を預け、朝陽の名をぽつりつぶやく。
 恋をしたら、こんなに苦しくなるんだっけ。鼓動はずっと早足で、体は自分のものじゃないみたいで、少し気を抜いただけで涙が滲んでくる。ため息に似た吐息で、ちいさな部屋はいっぱいだ。


 一体どれくらいの時間をそうしていたのだろうか。いつの間にか微睡んでいたようで、突如鳴り響いたドアチャイムの音に恭生は体を跳ね上げた。
 慌てて立ち上がり玄関へ向かえば、扉の向こうから「恭兄」と呼ぶ声。ひとつ深呼吸をして開錠するとそこには、冬だというのに汗を滲ませ息を切らしている朝陽の姿があった。

「朝陽……走ってきたのか?」
「だって、恭兄、ずっと連絡してるのに、見てもくれないし」

 荒い息と共に、肩に額を擦りつけられる。
 ドクンと大きく拍を打つ心臓。今まで通りになんていられるはずもなく、朝陽の頭をポンと撫でて、まあ上がれよとさりげなく離れる。

「ごめん、全然気づかなかった」

 そう言えば、電車に乗る際マナーモードにしてそのままだった。メッセージアプリを開くと、どうやら飲み会の最中から連絡をくれていたようだ。

「ふ、ずっとオレにこんなん送ってて、ちゃんと楽しめたか?」
「正直、全然。恭兄のことばっか考えてた。行かないで恭兄といればよかった」
「はは、なんだそれ」
「……ねえ恭兄、本当に泊まっていいの?」

 スマートフォンの左上の時計は、もうすぐ22時になることを示している。終電にはまだ早い。帰ろうと思えば帰られるはずなのに。汗をかくほど走り、あの女の子の誘いも断ってここにいる朝陽を、恭生だって帰したくなんかない。

「ん、いいよ。家には連絡するんだぞ」
「うん、分かった」

 朝陽は嬉しそうに頷き、さっそく母親へ電話をかけ始める。
 今日は帰れそうにないと知ると、どうやら渋られたようだ。だが「恭兄のところに泊めてもらう」と言った途端に安心してくれた様子が、漏れ聞こえる朝陽の母の声のトーンと、朝陽の表情から伝わってくる。
 それを聞きながら、恭生の胸には罪悪感が生まれていた。安心してもらえるような存在ではなくなってしまったからだ。今はもう、朝陽に恋をする、ただの男だ。柴田の両親の朝陽への愛情をよく知るだけに、居た堪れない。

「恭生くんのとこなら安心ね、だって」
「ん、そっか」
「恭兄? どうかした?」

 朝陽のほうを見られないでいると、それを朝陽が訝しむ。どんな顔をしていればいいか分からないから、覗きこまないでほしい。
 以前と同じ位置、ベッドの前にふたりで腰を下ろす。一センチ離れれば、一センチ詰めてくる。体の右側の神経が敏感になる。それを誤魔化すために、恭生は気になっていたことを尋ねる。

「あのさ、一個聞いていい?」
「うん、なに?」
「さっき会った子、の家にさ。泊まったことあんの?」
「え? ない、1回もない。終電逃したことはあるんだけど、その時はネカフェに泊まったし」
「ほんとに?」
「うん。誓ってほんと」
「そっか。じゃあ、さっきはなんで泊まろうとしたんだ?」
「それは……」

 言い淀んだ朝陽の目が泳ぐ。しばらく悩む様子を見せた後、その手をリュックへと伸ばした。

「俺、大学は経済学部なんだけどさ」
「うん、知ってる」
「他に、やってみたいことがあって」
「え。そうなのか?」
「うん。これ」

 おずおずといった様子で取り出されたのは、カメラだった。手のひらに収まるコンパクトなものではなく、黒くて重厚な、プロのカメラマンも使っているだろうものだ。持ってみるとずっしりとしている。

「すげー。本格的なやつだ」
「うん。バイトして貯めて買った」

 朝陽におんぶされた時、代わりに背負ったリュックがやけに重かったのを思い出す。ゴツゴツと膨らんでいたし、テキストにしてはあまりにも、と思ったっけ。

「なあ、朝陽が撮った写真見たい。見られる?」
「うん。こっちが見やすいから。はい」
「ありがとう」

 タブレット端末を手渡されると、そこには夜景が映し出されていた。東京タワーや街中、人物の影が手前にあり、ネオンが淡く滲む写真。
 数々の写真に見入り、恭生はスワイプする指が止まらない。全てを見るには相当な時間を要しそうだ。膨大な写真の数は、朝陽の想いと比例しているように感じられる。

「朝陽、真剣にやってるんだな。全然知らなかった」
「うちの親さ、俺のことすごく大事にしてくれてる、って昔から感じてて。大学も勧められるままに選んで、学費も出してもらってて。それで今更、他にやってみたいことができた、なんてさ。悪いなって思うし、趣味でいいじゃんって言われたら俺、多分言い返せない。胸張ってやれてないと思うと、恭兄にも言えなかった」

 大学を決める際のことは初めて聞いたが、朝陽の両親ならそうするだろうと想像に難くない。本人の意見を尊重し自由にさせる恭生の両親とはまた別のベクトルで、息子を愛している人たちだ。朝陽の将来を思って、苦労しないようにと経済学部という道を提示したのだろう。
 その愛情に包まれて育ってきた朝陽は、それを素直に受け入れた。ただ、心が求めるものが違ってきただけだ。

「悪くなんかないよ」
「そう、かな」
「だって、朝陽がやりたいことなんだろ」
「うん。でも、今の学歴で目指せる就職先より、安定にはほど遠いし。食っていけるかも分からない」
「朝陽がその真剣な気持ちちゃんと伝えられたら、おばさんたちもきっと分かってくれると思う。オレ、写真とか全然詳しくないけどさ。すげーいいと思ったよ、朝陽の写真」
「恭兄……」

 鼓舞したい一心で、先ほどまでの照れくささだとかはどこかへ飛んでいく。朝陽のほうへ体ごと向き直り、自分より高い場所にある頭へと手を伸ばす。くしゃくしゃと撫でると、少しくちびるを噛んだ朝陽が微笑んだ。

「カメラに興味持ったの、実は大分前なんだよね」
「そうなのか?」
「うん。恭兄がきっかけだよ」
「え?」
「ちいさい頃、恭兄の写真撮ったことあるの、覚えてる?」
「んー、あったっけ」
「あったよ。その時、恭兄がすごく褒めてくれてさ。朝陽、上手だな! って。それがすごく嬉しかった」
「え……え、それだけ?」
「うん。最初はスマホで撮ってれば満足だったけど。どうしてもちゃんとしたので撮ってみたくて、始めたら奥深くて。どんどん好きになった」
「マジか……」
「うん、すごく楽しい。恭兄のおかげ」

 朝陽の人生を、知らずのうちに左右していたようだ。責任を強く感じもしたが、楽しいと笑う朝陽の瞳が強い光を放っている。恭兄のおかげ、と朝陽は言うが、その夢が朝陽自身にしっかり根づいているのが感じられるまばゆさだ。
 そんなの、応援する以外に選択肢がない。再びタブレットを一枚分スワイプして、そこではたと思い至る。

「ん? そう言えば、カメラの話とさっきの子はどう繋がるんだ?」
「あ、そうだった。ちょっと前に、カメラ持ってるとこ見られちゃってさ。そしたら、お兄さんがプロのカメラマンだからいつか紹介してあげる、って言われて」
「へえ。あ、さっき兄ちゃんが帰ってくるとかどうとか言ってたな?」
「うん。それでつい、テンション上がっちゃって……乗りかけた」
「待った、じゃあオレ、朝陽の邪魔したんじゃん。うわ、最悪」

 なにも知らなかったとは言え、嫉妬にかられ朝陽のチャンスを奪ってしまった。朝陽の夢は、絶対の絶対に自分がいちばん応援していたいのに。応援どころか、妨害してしまっただなんて。
 血の気が引く感覚に頭を抱える。だが、項垂れる肩を朝陽の両手にしっかりと掴まれる。

「それは違う」
「違わねえだろ」
「だってさ、プロの人に紹介してもらえるって、貴重なチャンスじゃん」
「だよな。だから……」
「それなのにお酒飲んだ状態で、妹に連れられて泊まりに来て……とか、不誠実すぎて怪しまれると思う。俺はちゃんとしたい。だからあの時、恭兄に止めてもらってよかった。そうじゃなきゃ気づけなかったのは情けないけどさ」
「……そう、かな」
「うん、絶対そう。だからありがとう、恭兄」
「……ん。朝陽がそう言うんなら」

 ほっとしたら体から力が抜け、恭生はベッドに頭を預けた。すると朝陽もそれを真似る。目が合うと、どちらからともなく笑みがこぼれた。

「夜景ってさ、いつ撮ってんの? オレと会ってない日とか?」
「うん。バイトの後に、帰る前に寄り道してる。恭兄を送った後に撮りに行ったこともあるよ。あんまり遅くまではできないけど」
「そうだったんだ」

 知らない朝陽がまだまだたくさんいるらしい。これからももっとたくさん知りたい、応援したい、とそう思う。叶うなら、今よりもっと近くで。

「なあ朝陽、オレ、お前のこと応援したい」
「ありがとう」
「だから、さ。これからもいつでも泊まりに来ていいから。終電気にしないで撮りたい時とか、あったりしない? なんならここに住んでもいいし。狭いけど」

 カメラに触れたことは一度もないから、アドバイスなんてひとつもできない。それでも朝陽の背中を押す兄でありたい。だが、自分にできることと言えば、そんなことしか思いつかなかった。

「え……え! いいの!?」
「もちろん」 

 今まで付き合った子たちから、同棲を迫られたことは幾度かあった。相手の望むように、とばかり考えてきた恭生でも、それだけは頷けなかったのだが。
 気心知れた幼なじみだからか、はたまた朝陽だからか。そうしたいとすんなり思うことができた。
 とは言え、遊んだ帰りに立ち寄ることさえ拒まれてきたのだ。これも断られてしまうだろう、そう思ったのだが。
 朝陽は予想外に喜んでくれた。勢いよく体を起こし、目を輝かせ、それからまたしみじみと同じ姿勢に戻る。

「どうしよ。すげー嬉しい。ありがとう恭兄」
「どういたしまして。役に立てるならオレも嬉しいよ」

 それにしても、だ。偶然見られてしまったとは言え、先ほど会った女の子は朝陽のカメラのことを知っていたのか、とまた嫉妬心が顔を出す。燻る想いは、拗ねたような口をきいてしまう。

「でもなー、ちょっとショックかも」
「ショック?」
「オレんちに寄ってくれないの、いつも寂しくてさ。その後撮りに行ってたんだな。まだ時間あったんなら、オレも一緒に行きたかった」
「それは……さっきも言ったけど、カメラのこと言いづらかったから」
「うん。だよな、分かってる。分かってるけど言っちゃった。ごめん」
「恭兄、寂しかったんだ」
「……うん。帰ってほしくなかった」
「…………」
「……朝陽?」

 再び起き上がった朝陽が、ゆっくりと近づいてくる。動けないでいる恭生の両脇に手をついて、ベッドを背に囲われてしまう。

「今日の分のハグ、していい?」
「え? あー、えっと……」

 好きだと自覚してしまった恭生には、今までしてきたハグも大きく意味が変わってしまう。先ほど玄関で擦り寄られた時はどうにか誤魔化せたが、今は逃げ場もない。かと言って、朝陽を拒否することもしたくない。
 躊躇っていると、じりじりと距離を詰め、跨れてしまった。見下ろしてくる真剣な顔に、震えた胸がくずれた声をこぼす。

「恭兄が寄ってくかって誘ってくれる度、俺も本当は来たかった」
「朝陽……」
「でも、帰りたくなくなっちゃうから我慢してた。恭兄」
「あ」

 体にゆっくりと腕が回り、首元に顔を埋められる。朝陽に触れられているところ全部がぴりぴりと痺れるみたいで、思わずしがみついた。早鐘を打つ心臓も上がる呼吸も、手に負えない。

「待っ、て、やばい、朝陽」
「……恭兄? 顔赤くなってる」
「ばか、見んな」
「やだ、見たい」

 至近距離に朝陽の顔がある。逸らしても追われて、頬に手が宛がわれる。火照っている自分の頬に負けないくらい、朝陽の手も熱い。

「も、無理だって。恥ずかしい、から」

 見つめられることに耐えられず、朝陽の肩に顔を埋める。密着することになるが、強い光を一心に注がれるよりは幾分かマシだ。
 だがこんな態度を取っては、好きだとバレてしまう。こんな風に求められては、好かれているのではと期待してしまう。
 強くなる抱擁に、熱い吐息が隠せない。

「恭兄、こんなの俺、期待しちゃうんだけど」
「……なにが」
「俺とこういうのすんの嫌だったら、振りほどいて? 力、抜くから」
「そんなん、ずるい。だって……嫌じゃ、ねえもん」
「…………」
「…………」

 腰を浮かせていた朝陽が、恭生の目の前に座りこんだ。それから両手を握られ、今度は朝陽が恭生の肩に額を摺り寄せてくる。

「恭兄、俺……恭兄が好き」

 絞り出すような声が、胸の中に直接落ちてくるみたいだ。離そうとしたと勘違いしたのか、思わず跳ねた指先を縋るように握りこまれる。

「それは、兄として?」
「違う。ひとりの男の人として、だよ。ずっと、ずっと好きだった」
「……ずっと?」

 鼻を啜った音を聞かれてしまったのだろう。目を丸くした朝陽が顔を上げ、今度は額同士をくっつけられる。

「ずっとだよ。恭兄が家の前でキス、してるの見た時。死んじゃいそうなくらいショックで、それで……男同士だけど、俺もそういう意味で好きになっていいんだ、って。そうだったんだって気づいた」
「あ……マジで?」
「うん。まあその瞬間に失恋だったんだけど」

 あの時に嫌われたと思ったのは勘違いだった。そう分かっただけで、心の底から救われていたのに。まさか朝陽に恋が生まれていたなんて、思ってもみなかった。

「もしかして、それからずっと好きでいてくれたのか?」
「そうだよ」
「誰とも付き合ったことない、って、そういうこと?」
「うん」

 もう七年も前の話だ。それからずっと? オレだけを?
 どれだけ苦しかったろう。気づいたばかりの恋に、自分はこんなに揺さぶられているのに。それを七年も、しかも何度も恋人を作っては振られて、慰めてもらいにやってくるようなどうしようもない男なのに。

「恋人カッコカリになろって言ったのも、恭兄がもう恋愛はこりごりって言うから。誰のことも見ないなら、チャンスかなって。下心があった」
「朝陽……」

 朝陽の短い黒髪に、両手の指を差しこむ。不安げな顔を少しでも早く晴らしてあげたい。自分の気持ちを差し出せばそうできることに、耐え切れなかった涙が落ちる。

「恭兄? 泣いてる」
「うん……オレも、朝陽が好きだから」
「っ、それは……弟として、でしょ?」
「弟としても、ひとりの男としても。どっちもだよ」
「期待した通りだった、ってこと?」
「うん」

 息を呑んだ朝陽が、ぎゅっとくちびるを噛みしめる。
 こんなに体も大きくなって、見るからにいい男になった。女の子たちを魅了する、正真正銘の格好いい男。だが今は、小さな頃の癖をそのままに泣くのを堪えて、子どものようだ。
 色が白く変わりそうなくちびるに、我慢しなくていいと伝えるように指を這わせる。
 ちいさい頃もこんな風に「だいじょうぶだよ」と言い、ちょんちょんと触れて励ましていたのを思い出す。そしたら堰を切ったように、自分の前でだけ朝陽は泣いてくれた。絶対に守るのだとちいさな胸に宿った誓いは、今だってちゃんと灯っている。

「恭兄、恭兄」
「いっぱいしんどい思いさせたよな、ごめんな」
「そんなことない。恭兄はいつか結婚して、おめでとうって言わなきゃいけないんだと思ってたから。夢みたいだよ」
「ん……」

 遠回りをしてしまった気がする。きっと、ここがたどり着く居場所だった。
 くちびるを解いた朝陽が、そのまま恭生の頬へとキスをする。思わず朝陽の服を握りこむと、これはいつもの分だよ、とささやかれた。

「なあ朝陽、もう一回」
「うん。もう一回」

 次は反対の頬へ触れる。そっと当たって、そこで瞬くくちびるがもっと欲しい。

「朝陽、足りない」
「恭兄……今日の恭兄やばい」
「嫌か?」
「嫌なわけないじゃん。ね、口にもしたい、していい?」
「へ……いやそれは、さすがに早くないか?」
「そういうもんなの? だめ? 絶対に?」
「どう、だろ。もう分かんねえよ」
「じゃあ、する」
「あ、朝陽……ん」

 腰を少し曲げて、下から掬うようなキスだ。そっと触れて、心の奥底を確かめるように見つめ合って。そこからはもう、言葉を交わすのがもどかしいほど夢中になった。

「あっ、朝陽……」
「恭兄……」
「はっ、やば……」

 触れるだけのキスは、こんなに気持ちいいものだったっけ。柔らかさを味わうような、温度が同じになったのを確かめ合うような、くちびるが沈み合うキスの止め方が分からない。
 指を絡め、キスの音だけがする静かな部屋に吐息が満ちる。そろそろ風呂に入って、寝なければと思いはするのに。数秒離れるだけで、想いを結べたことをまた確かめたくなる。引き寄せられるようにまたキスをして、濡れた下まぶたを拭われて。
 目が合った時にどちらからともなく笑うのが、信じられないくらいに幸福だ。