朝陽には嫌われている、それだけのことを自分はしてしまった。後ろめたくて暗いしこりは、ずいぶんと大きく自分の中に巣食っていたのだと、恭生はつくづく思い知った。
 嫌われてなどいなかった、とやっと心から感じられた途端、朝陽の行動の端々に自分への好意が見えるようになったからだ。
 待ち合わせをする時は、恭生の仕事終わりに合わせているから、どうしたって待たせる側になってしまう。約束の場所に急いで、立っている朝陽をよくよく観察してみると。いつも辺りを見渡していて、恭生の姿に気づくとその頬を綻ばせる。
 アパート前まで送ってもらい、さよならを告げる時。朝陽は大きく息を吸って、やっとの思いでひねり出すかのように、小さくおやすみを言う。
 断られると分かっているのに家に上がっていかないかと尋ねたら、上下のくちびるをきゅっとひきこむのにも今まで気づかずにいた。小さい頃によく見た、泣くのを我慢する時の朝陽の癖だ。
 かわいい弟が、今も恭兄と呼んでこんなに慕ってくれている。これを幸せと名づけなかったら、罰が当たるに違いない。

 
「朝陽、好きなの食べろよ。デザートもつけていいからな」

 ファミリーレストランで、メニューを眺める朝陽と向かい合う。テーブルの端では、お互いのスマートフォンについた、柴犬とうさぎのキーホルダーが仲良く並んでいる。窓の外は冬に凍えているが、恭生の胸はあたたかい。

「恭兄は? なに食べるかもう決めた?」
「んー? まだ」
「じゃあなんで、メニューじゃなくてこっち見てんの」
「あー、うん。気にしなくて大丈夫」
「ふーん。いいことでもあった?」
「なんで?」
「なんか嬉しそう」

 ただ朝陽を見つめるだけの自分が、嬉しそうに見えると言うのなら。あの夏の朝陽に嫌われたわけじゃなかった、と知ることができたからに他ならない。
 だが経緯を説明するのなら、橋本の話は避けられない。自分が誤解していたのだとは言え、橋本の名を出すのはどこか憚られた。

「嬉しいよ。朝陽とまた会えてんのが」
「……んだそれ」

 端的にそれだけ伝えれば、淡く染まった頬がメニューの向こうに隠れてしまう。見ていたいのにと勿体なく感じるけれど、その仕草すら愛らしいのも事実だ。

「そうだ。恭兄、来月の第二日曜って仕事?」
「来月はまだシフト決まってないけど、どうした?」

 ハンバーグを食べていた朝陽が、ふと思い出したように尋ねてきた。
 急いで咀嚼したかと思えば、ごくんと飲みこんで。真剣な瞳がまっすぐに注がれて、恭生も思わず姿勢を正した。

「バスケの試合があってさ。他の大学との交流戦で、気楽なやつだけど。サークルの先輩が組んだみたいで。えっと……もしよかったら、見に来ないかなって」
「え……え! いいのか!?」

 テーブルに両手をつき、恭生は思わず身を乗り出した。
 朝陽に倣って、パスタグラタンを食べるのを中断していてよかった。口に含んでいたら、勢い余って喉に詰まらせていたかもしれない。
 朝陽は中学に上がると、バスケットボール部に入部した。その報告と一緒に、試合に出られるようになったら見に来て! と誘ってくれたのをよく覚えている。だが、例の件があってそれは叶わなかった。
 高校に上がってもバスケを続けていて、早くからスタメンにも選ばれていると母づてに聞いていたが、同じく応援に行ったことはなかった。

「うん。来てもらえたら、その、嬉しい」
「……っ、絶対に行く! 絶対に休み取る! うわー、すげー楽しみ」
「よかった。俺も楽しみ」

 朝陽の止まっていた手が再び動き出し、ハンバーグとライスを口いっぱいに頬張る。それを見た恭生もフォークを手にしたら、勢いよく巻き上げたパスタからソースが跳ねてしまった。
 高揚した心がそのまま表れたようで、取り繕う声が上擦る。紙ナプキンをテーブルに滑らせると、同じく拭こうとしてくれた朝陽の手とぶつかった。それだけのことになぜだか妙に浮足立って、ふたりで顔を見合わせて笑った。

 
「これで完成です。いかがでしょうか。後ろのほうはこんな感じになっています」
「わあ……この髪型、すごく気に入りました!」
「本当ですか? よかった。気に入って頂けて、僕も嬉しいです」
「ここに来るの初めてなので、実は緊張してたんですけど。これからも通います、また兎野さんにお願いしたいです」
「それは光栄です。またお待ちしていますね」

 施術に満足してもらえた。自惚れではないと確信できる。そう思えるだけの笑顔や言葉を客から貰い、熱いものがこみ上げる。ここ一ヶ月ほどで、もう五人目になる出来事だ。
 お辞儀をした頭を上げ、去っていく背中を見送る。小さくガッツポーズをし、緩んでしまう口元をどうにか引き締め店内へ戻った。

「兎野、最近調子よさそうだな」
「オーナー。はい、ありがとうございます」

 切った髪を掃いていると、オーナーから声をかけられた。自分で噛みしめているものを改めて褒めてもらえると、喜びもひとしおだ。

「技術に関してはずっと申し分なかったけど、接しやすさが出てきたよな。一皮むけたというか。なんかきっかけでもあったのか?」
「きっかけ……」

 そう尋ねられると、思い当たることはひとつしかない。

「もう長年気がかりなことがあったんですけど、それがようやく解決して。気持ちが軽くなったので、間違いなくそれは関係していると思います。プライベートのことで仕事も上手くいってなかったんだと思うと、情けない話ですけど」
「上手くいってなかった、ってこともないと思うけどな。でも、向上心があるのはいいことだ」
「はい。ありがとうございます」

 自分の好きなものを選びなさい、自分の進む道は自分で選びなさい。与えられた自由の本当の意味に、年齢を重ねるごとに気づいていった。選んだものは全て、自分に返ってくるということ。
 それでもやはり、高二の夏の出来事は大きかった。家の前なんかでキスをしなければ、朝陽と疎遠にならずに済んだのではないか。隙を作らないことに注力し、人間関係には必要以上に慎重で、必要であれば感情さえも取り繕う。今の恭生が出来上がっていった。
 だが、自分の勘違いに気づくことができた。性格を根本から変えることは難しいが、きっと、もっと、心を開いてみてもいいのかもしれない。あの頃の朝陽を知られたことで、そう思えるようになったから。接客時にも肩から力を抜いて話せるようになってきた。
 それにしても、だ。朝陽との関係が、仕事にもこれほどいい影響をもたらしている。幼なじみにどれだけ心を明け渡していたのかと、静かに驚く。それでも悪い気がしないのは、ただひたすらに朝陽がかけがえのない存在なのだということだろう。

「なになに、なんの話っすか」
「村井、兎野に抜かされるのもすぐかもな」
「え! マジっすか! まあでも俺としては、兎野はライバルってより、仲間のつもりなんであんまり気にしないかな」
「へえ。じゃあオレは遠慮なく」
「え!? 兎野~仲良くやろうよお!」
「はは、はいはい」

 軽口を叩いてみると、村井が泣き真似なんかをしてみせる。笑みを交わして、拳をぶつけ合う。こんなことは、ここで働き始めてから初めてだ。
 村井に抱いていた劣等感までも、溶けてなくなったとは言わないが。上手く競争心へと昇華できそうだ。この瞬間にだって、恭生の頭には朝陽の顔が浮かんでいる。

 一月。厚いコートを羽織り、首にはマフラーを巻いて。恭生はスマートフォンを片手に、慣れない街を歩いているところだ。
 向かう先は、某大学の体育館。朝陽が誘ってくれた、バスケットボールの試合を観戦するためだ。
 余裕を持って出てきたつもりだが、少し迷ってしまった。試合開始ギリギリの到着になりそうだ。
 無事に到着し体育館に入ると、バスケットボールの弾む音が聞こえてきた。それから、バッシュの底が床に擦れる音。急かされる心地がして、観客席が設けられた二階へと急ぐ。
 他大学との気楽な交流戦、と朝陽は言っていなかったっけ。現れた光景に、恭生は一瞬圧倒されてしまった。結構な人数のギャラリーが集まっていたからだ。
 ゴールポストの両側どちらにも、大勢の人たちが座っている。それぞれの大学の生徒だろうか。歓声を上げる彼らとは少し間を空け、いちばん後ろに恭生も腰を下ろす。
 コートに目を向ければ、朝陽をすぐに見つけることができた。背の高い学生が多い中でも、朝陽はひと際目立っている。赤のビブスを着用しているのが、朝陽のチームのようだ。

 ああ、やっとだ。やっと、朝陽のプレイを見ることができる。口元が緩むのをどうにも抑えられず、恭生は左手の節をくちびるに押し当てる。
 朝陽が中学生の時だったなら、高校生の自分はきっと声を張り上げて応援しただろう。
 高校生の朝陽には、ひとり暮らしで自炊を始めたあの頃の自分なら、お弁当でも作って差し入れたかもしれない。
 そのどれもを他でもない、自分の勘違いで逃してきてしまった。後悔がまた襲ってくるがその分だけ、今この場にいられることを、朝陽が招待してくれたことを、胸が震えるほど幸福に感じられるのもまた確かだ。
 大学生になった朝陽を、じゃあ今の自分は、どんな風に応援できるだろうか。昨夜は電話をして、楽しみにしている、頑張れとエールを送ったけれど。誰ひとり知人のいない状況が、大きな声を出すことを躊躇させる。
 どうしたものか、と考えていると、1クウォーターの終了を報せるホイッスルが鳴った。コート上の朝陽がシャツの襟をつかみ、首の汗を拭いながらこちらへと視線を上げた。それを受けてか、女性たちが色めき立つ。だがそれを気にする素振りもなく、朝陽の瞳は恭生だけを捉えた。こちら側へと数歩駆け寄り、

「恭兄!」

 と嬉しそうに手を振ってくる。

「あ……」

 その姿に、不意に幼い頃の朝陽が重なった。恭生を見つけたら、どんなに遠くからでも名前を呼んで、駆け寄ってくる姿だ。健気で愛らしくて、その度に、朝陽を大事にするのだと決意を新しくしていたのを覚えている。
 なにを躊躇うことがあっただろう。恭生は立ち上がる。階段状の客席を下り、柵に手をかける。口元に手を添えて、名前を呼ぶ。

「朝陽! 勝てよ!」
「もちろん!」

 勝ち気な笑顔でピースサインが返り、恭生もそれを真似る。なんだか可笑しくてお互いに吹き出し、そんな些細なことすらも今日の日の喜びだなと噛みしめる。
 間もなく、試合再開の合図が鳴った。元の席に戻るのもな、と恭生はすぐそばの席に腰を下ろす。コートの端に位置するからか、運よく空いていて助かった。
 朝陽のプレイがまた楽しみだ。せっかくだから写真に収めたいが、一秒も逃さず見ていたい気持ちとせめぎ合う。
 試合展開に息を呑みつつ悩んでいると、後ろからトントンと肩を叩かれた。周囲には誰もいなかったはずなのに、と驚きつつ振り返れば、そこには女の子ふたりの姿があった。

「…………? えっと。もしかしてここにいると迷惑でしたか? すみません」
「いえ! そんなことないです! そうじゃなくて、あのー……」
「あの! 柴田くんのお兄さんなんですか!? 私たち、柴田くんと同じ大学に通ってて」
「ああ、そうなんですね。オレは、えっと……」

 なるほど、さっきの会話を目撃され、一体何者なのかと思われたようだ。
 兄です、と答えるのは正確には違うし、かと言って否定するのもどこか切ないものがある。朝陽を弟みたいに想っているし、今まで築いてきた朝陽との関係を否定するみたいだからだ。
 さてどう言ったものか。考える恭生だが、女の子たちはすっかり盛り上がっているようで、おしゃべりな口は止まらない。

「柴田くん、さっきすごくいい笑顔でしたよね! あんな顔、初めて見ました!」
「あ、そうなんすか」
「はい! どっちかと言うとクールだし、たくさん喋るタイプじゃないじゃないですか。お兄さん相手だと、ああいう感じなんですね。なんかかわいいと思っちゃって。ね?」
「ね! 新しい一面見られて、ラッキーだなって」
「えっと、朝陽ってやっぱモテるんですね?」
「そりゃもう! 勉強もスポーツもできるし、かっこいいし。何人ガチ恋してることか。ていうかお兄さんもかっこいいですね! 柴田くんとはまた違うタイプ!」
「はは、それはどうも……」

 朝陽がいわゆるイケメンなのは、よく分かっている。モテるのだろうことも想像に容易かった。だが実際に女の子たちから言葉にされると、強い実感に圧倒されてしまう。
 この子たち自身も、本気で朝陽に恋をしているという人数に含まれているのかもしれない。朝陽が幼なじみである自分と、仮の恋人なんて関係を結んでいる間に。
 胸にくゆるのは罪悪感だろうか。それにしては、後ろめたいというよりどこかジリジリと焼けつくような感覚がする。
 これはなんだろうと首を傾げている間にも、試合は展開していく。大きな歓声が上がりハッと顔を上げると、どうやら朝陽がゴールを決めたようだった。後ろに座ったままの女の子たちは「柴田くんすごい!」と興奮していて。見逃してしまった歯がゆさに、こっそりため息をついた。

 試合終了、軍配は朝陽たちのサークルに上がった。
 あの後、朝陽は見事にもう二本シュートを決めた。達成感に満ちた顔で仲間とハイタッチをする、朝陽の姿。見届けられたことで、恭生の胸はいっぱいだ。

「あ、お兄さん! もう帰るんですか?」

 観客席を後にしようとすると、先ほどのふたり組に声をかけられた。歩くスピードを落としつつ、出口のほうへと向かいながら返事をする。

「うん、お邪魔しました」
「そんなあ。あの、この後みんなで打ち上げしようって話してるんですけど、一緒にどうですか?」
「それいいね! 是非ぜひ!」
「オレ? いや、オレは部外者だし」
「えー、お兄さんなんだから部外者じゃないですよ! 柴田くんも喜びますって」
「あー、うん、ありがとう。でも気持ちだけで。ごめんね」

 体育館の外へと出る。きちんと断らないと、引っ張ってでも連れていかれそうだ。屈託のない明るさに圧倒されつつ、顔の前で手を合わせてそう告げる。残念そうに顔を見合わせたが、ふたりはようやく頷いてくれた。安堵しつつ、恭生は手を振ってその場を後にする。
 少しでも早く、この場を離れたかった。このふたりや、他の女の子たちの相手をする朝陽を見たくない。そう思ってしまったからだ。その理由こそ、明確ではないけれど。
 朝陽にはあとで連絡を入れよう。来られてよかった、誘ってくれてありがとう。すごくかっこよかった、と。試合に出場した朝陽たちこそが打ち上げの主役だろうから、返事は遅くなるだろうが構わない。

 体育館のある敷地を出て、街路樹の下でマフラーに口元まで埋める。どこかカフェでも寄って、コーヒーを一杯飲もうか。
 曇った低い空に白い息を溶かしていると、背後から誰かの走る足音が聞こえてきた。ジョギングをする人だろうか。道を空けようと後ろを振り向き、そこに見えた人物に恭生は目を丸くする。

「っ、は? 朝陽!?」
「恭兄! 先に帰んないでよ」
「え?」
「一緒に帰りたい」
「え……でも朝陽、打ち上げあるんだろ?」
「誘われたけど行かない」
「いや行って来いよ。試合に出てたヤツが行かないでどうすんだよ」
「やだ、行かない。恭兄のほうがいいから」
「……なんだそれ」

 膝に手をつき息を整える姿は、ともすれば試合中より必死なように恭生の目には映る。
 そこまでして追いかけて来なくてもいいだろうに。そう思うのに、心臓はなぜか鼓動を速める。
 それを朝陽に悟られるのは、どうにか避けたい。進行方向へと向き直る。

「じゃあ、一緒に帰るか」
「うん」
「ん……てか朝陽、薄着すぎじゃない?」
「え、そうかな。全然平気だけど。むしろ熱いくらい」
「いやいや、今はそうかもだけど。汗も掻いただろうし油断しないほうがいいぞ。ほら、マフラー貸すから」
「いいよ。恭兄寒いでしょ」
「いいから。ほら」
「……ん、ありがとう」

 コートこそ羽織っているが、その下はTシャツのみなことに気づく。見ているだけで寒くて、自分のマフラーを解いて朝陽の首へとかける。すると、なにもそこまで、と不思議になるくらい、朝陽は嬉しそうに笑う。
 だがすぐに、その笑顔は曇ってしまった。くちびるを淡く尖らせどこか拗ねたような表情が、恭生の胸をざわつかせる。

「朝陽? どうした?」
「恭兄、女の子たちと話してたよね」
「え? あー、うん。柴田くんのお兄さんですか、ってすごい勢いで話しかけられてさ。違うって言えないままで、お兄さんって呼ばれてた。まあ、兄だと思ってるからいいんだけど」
「彼氏だけどね」
「……そんなん言えないだろ」
「ふうん。ねえ、かわいかった?」
「かわいい? そうだな、今どきな感じでかわいいし、いい子たちだったな」

 かわいらしい子たちだったと確かにそう思う。髪もきちんと手入れされているのが窺えたし、指先まで意識の通った、洗練された姿だった。初対面の自分に対して臆せず話しかけられるその心も、きっと人好きがすることだろう。

「じゃあ……好きになりそう?」
「は? 好きに、って……恋愛とか、そういう好きって意味?」
「うん」
「…………」

 橋本と別れて以降、ずっと受け身の恋愛をしてきたが。それにしたって、今日出逢った彼女たちに少しだって靡きもしなかった自分に気づく。お兄さんもかっこいいですね、と言われたって、恋だなんて思い至りもしなかった。
 それどころか、だ。朝陽がモテている現実に得体の知れない感情を抱いたし、今だって目の前でなぜか苦しそうな顔をしている朝陽のことでいっぱいだ。

「朝陽はなんでそんな顔してんの?」
「そんな、って?」
「んー、なんかしんどそうな顔?」
「…………」
「さっきの答えだけどさ。あの子たちのこと好きになるとかないよ、絶対ない」
「ほんとに?」
「うん」
「ん……そっか」

 朝陽の気持ちがなによりの気がかりで、ともすれば自分の行動の基準になっている。そう言えば、と恭生は、あの夏とこれまでの恋愛を思い返さずにいられない。
 朝陽に嫌われた、と勘違いしてしまったのは、男とキスをする自分を見られたことがきっかけだ。今思えばそれがきっかけだったのだろう、それ以降の恋愛は自ずと女性だけが対象だった。女性と付き合う自分でいれば、これ以上朝陽に嫌われることはないのではないか。無意識にそう考えていたように思う。
 振られれば人並みに落ちこむけれど、朝陽に連絡がとれる権利を得られたような気分も確かにあった。
 そして現在。恋愛なんてこりごりだと思ったくせに。もう当分誰とも付き合いたくない、と強く感じたその夜に、朝陽からの仮恋人の提案を受け入れてしまった。約束のハグとキスは、いつもくすぐったい気持ちになる。
 いつだって朝陽ばかり。他の誰にも、朝陽以上の興味を持てない。朝陽の想いがどこにあるか、どう思われているか、そればかりが気になる。
 これは執着、なのだろうか。朝陽が知ったら、重いと今度こそ嫌がられてしまうかもしれない。
 自分の根底を見つめ直せば、こぼれるのは苦笑いで。それでもふと視線を上げると、先ほどとは打って変わって穏やかな顔をした朝陽がいる。
 なにが朝陽の気持ちを上向きにさせたのだろうか。理由は分からなくとも、心が晴れたのならじゃあいいか、とやっぱり朝陽ばかりな自分に改めて出逢う。そんな自分が恭生は嫌いではなかった。

「恭兄? なんで笑ってんの?」
「んー、なんかいいなって」
「なにが?」
「朝陽とこうしていられるのが」
 
 
 体育館のある町を離れ、昼食をとった。入店したのは、洒落た店構えのハンバーガーショップ。バンズからはみ出るパティが見るからに美味しそうで、朝陽が嬉々とした様子でかぶりつく。
 それを眺めつつ、バスケをしている姿がかっこよかった、誰よりも輝いていたと褒め続けていると、朝陽は赤い顔をして俯いてしまった。その反応がかわいらしく、だけど口に出したら不貞腐れるだろうと少し堪えはしたが。結局かわいいと口から零れると、やはりムッとした顔をされて、それまで愛らしくて参った。

 その後は水族館へ行くことになった。恭生の誕生日に、朝陽が行く予定を立てていた水族館だ。恭生にとっては子どもの頃以来で、思いの外はしゃいでしまった。
 水槽の中を泳ぐカラフルな魚や、空中を舞うイルカ。なにかを発見すると服を引いて、引かれて。感動を共有する度に、無邪気な子どもの頃に戻ったみたいだった。
 夜、改めて朝陽の健闘を称えたくて、夕飯にはステーキを選んだ。大ぶりの肉を頬張る朝陽に、恭生自身も大満足だった。
 夕飯をとった店から駅まではよく喋ったのに、電車に乗ってアパートの最寄り駅に向かう間、なぜかお互いに口数が減ってしまった。扉付近に立って、窓の向こうを過ぎ去る夜景を見ながら、隣に立つ朝陽の呼吸を感じる。それだけで胸がきゅうと狭くなるような、切ない心地を覚える。
 これって、なんだったっけ。
 朝陽といられる時間は刻一刻と減っていくのに、言葉が出てこない。勿体ないと思うのに、一秒ごとにあたたかいなにかが積もるようでもある。朝陽も喋らないのは、同じような気持ちなのだろうか。
 結局、電車を降りてからの道のりも、ほとんど会話がないままアパートに到着してしまった。階段下で立ち止まり、朝陽のほうをゆっくりと振り返る。
 今日はとても充実していた。だからだろうか、いつも以上に名残惜しい。口を開いたら、まだ帰らないでと零れてきてしまいそうだ。朝陽は首を縦に振らない、困らせると分かっているのに。
 ふう、とひとつ深呼吸をして、恭生は腕を広げる。

「朝陽」
「ん?」
「ハグ。してよ」
「え……」

 すると朝陽はなぜか絶句して、その大きな手を口元に翳した。

「朝陽? どうした?」
「いや、びっくりして」
「びっくり? なにが?」
「だって……恭兄からしてって言われるなんて、思ってなくて」
「……今までなかったっけ」
「……仮恋人になった初日に言われたけど。それ以降はなかった」
「そ、っか」

 些細なことのように思えるが、手の向こうの頬が赤くなっているのが見える。自分相手に、なぜそんな顔をするのだろう。そう思うのに、赤が移ったように恭生の頬も火照ってくる。
 もう何度もしてきたのに、抱きしめられるのを待っている時間が、強烈に恥ずかしくなってきた。

「やっぱ今日はやめとくか」
「……やだ、やめない」
「でも朝陽、そんな顔し……あ」
「恭兄……」

 行き場をなくした腕を彷徨わせ、下げようとした時。それを許さないとでも言うかのように、朝陽に抱きしめられた。いつもの軽いものとは違う。ぎゅうっと縋るようにされ、肩に顔を埋められる。なんだか泣きそうだ。

「朝陽……」
「ねえ、恭兄」
「……ん?」
「今もさ、懐かしい?」
「え?」
「こうしてると、ちいさい時のこと思い出す?」
「…………」

 問われてみて初めて、この抱擁に子どもの頃の自分たちを重ねたり、比べたりしていないことに気づく。
 大人になった、逞しい男の朝陽に抱きしめられている。きちんとそう意識してしまっている。

「ううん、思い出さなかった」
「じゃあ、今はどんな気持ち?」
「それは……言わない」
「なんで?」

 気づいた途端、体が急激に熱くなった。朝陽に触れているところ全部が敏感になったみたいに、居た堪れなくなる。熟れた呼吸が零れそうで、慌てて朝陽を引き剥がす。

「もう、おしまい」
「……やだ」
「朝陽……なあ、言うこと聞いて」
「でもキスしてない」
「キス、は、今日は無理」
「……なんで? 俺のこと、嫌になった?」
「っ、その聞き方はずるいって……」
「嫌だったら、またさっきみたいに突っぱねて」

 朝陽はそう言って、恭生の両腕をそっと掴んだ。背を屈め、首を傾けて。くちびるがゆっくりと近づいてくる。
 さっきはつい離れてしまったが、突っぱねるなんてできるはずもない。朝陽がくれるキスを嫌だなんて思ったことは一度もない。くすぐったくて、甘くて、むしろ好きだった。
 でも今日はなにかが違う。戯れにしてくれないから、このキスに意味を見出したくなってしまう。スローな数秒が永遠みたいで、気が遠くなりそうだ。
 空を彷徨っていた手を、朝陽の腰に添える。びくっとした朝陽に離れてくれるなと示すように、そのままぎゅっと服を掴む。見上げた先で、朝陽の眉間が苦しそうに寄せられる。
 もう早くしてくれ、と先をねだるようにまぶたを閉じると、やっと頬にくちびるが当たった。
 腹の奥から甘ったるい声が出てきそうで、必死に堪える。今まででいちばん熱くて、今までていちばん長いキスだ。思わずまぶたを開いて、すぐにまた閉じる。そろそろと背に腕を回すと、大きく息を吸った朝陽が、キスをしたままきつく抱きしめてきた。
 どうして頬にしかキスしてくれないのだろう。
 ああ、本当の恋人ではないからか。
 初めて寂しく感じてしまい、涙を堪えるために恭生はまた、必死に朝陽の背を抱いた。