秋が深まるのは一瞬で、冬の気配がすぐに顔を出し始める。今から着こんでしまっては、真冬を乗り切れないかもしれない。昨夜そう言ったら、朝陽には笑われてしまった。
 風邪ひかないでね。恭兄は昔から、寒いの苦手なんだから。
 笑った後の朝陽のひと言を思い出し、クローゼットから薄手のコートを引っ張り出す。羽織って外へ出ると、頬を冷気に撫でられて背がぶるりと震えた。

《おはよ。今日からコート着た。朝陽も風邪ひくなよ》

 アパートの階段を下り、立ち止まってメッセージを送る。スマートフォンに揺れる柴犬を撫で、コートのポケットに両手を突っこむ。あたたかい心地が心までやってきて、そうすればうっかりと朝陽とのハグを思い出す。
 朝陽は誰とも付き合ったことがない。そう聞いてからこっち、ハグと頬へのキスの時、毎回狼狽えるようになってしまった。昨夜も例に漏れず、けれど朝陽は澄ました顔をしていて。
 翻弄されているのは自分ばかりで面白くないし、こんなことをしていていいのか、と考えはするのに。もうやめよう、と言う気には更々なれない自分を、恭生はずっと見て見ぬふりをしている。

 

「おはようございます」
「おはよう」

 出勤すると、まずはスタッフ総出で店内や外の清掃をする。
 この季節は、枯れ葉を掃いても掃いてもキリがない。それでもできるだけ、来店してくれる人たちには気持ちよく過ごしてほしい。目の前の歩道を綺麗にし、冷たい風に肩を竦めながら店内に戻る。

「あ、兎野。今日は午前空いてたよな?」
「はい。指名は入ってないですね」
「昨夜、ホームページからひとり予約入ってさ。頼むわ。11時、20代の男性だ。初来店な」

 オーナーからタブレットを受け取り、詳細を確認する。そこにあった名前に、恭生は静かに目を見張った。

「え、橋本……?」
「ん? どうかしたか?」
「あ……いえ、なんでもないです。準備始めますね」

 名字も名前も、特別珍しいものではない。だからきっと、同姓同名の見知らぬ人だろう。
 よく知る人物と同じ名に一瞬頭が真っ白になったが、そんな偶然はまずあり得ないだろう。恭生は自分をどうにか落ち着かせた。
 だが、その努力は見事に泡となってしまった。頭に浮かんだ通りの相手が現れたからだ。
 いらっしゃいませ、と迎えた時に顔がひくついてしまったのは、今日ばかりは許されたい。

「え、もしかして兎野?」
「……うん」
「マジ? すごい偶然だな」
「はは、ほんとに」

 昨夜、ホームページから予約を入れ、来店した人物――橋本は、恭生にとっての初めての恋人、その人だった。
 気まずいどころの話ではないが、仕事は仕事だ。誰かと代わってもらおうにも、他のスタッフは全員、指名で来店している客の施術中だ。

「こちらへどうぞ」

 心の中でこっそりため息をつき、橋本を案内する。平常心を装い、椅子に腰を下ろした橋本にいつも通りの接客をする。

「今日はカットでご予約頂いていますが、お間違いなかったでしょうか」
「うん」
「ご希望をお伺いできますか。写真などあれば拝見します」
「あー……えっと。おまかせってお願いできる?」
「え? もちろんできるけど……本気か?」

 まさかの言葉に恭生は敬語も忘れ、昔の調子で返事をしてしまった。

「うん」
「えー……例えばさっぱりとか、イメージだけでもないの? せめて、これ以上は切りたくないって長さとか」
「ううん、いい。兎野にまかせたい」
「…………」

 鏡越しにまっすぐとそう言われ、つい閉口する。
 美容師にすべてを任せる客は、稀ではあるが確かにいる。だがそれは、客と美容師の間に強い信頼関係があってこそ成り立つものだ。橋本のように初来店の客にそうされるのは、初めてのことだった。
 よりにもよって、元彼からそんなオーダーを受けることになるなんて。一体なにを考えているのかと不可解だが、望まれてしまえば、いち美容師として請け負うほかない。

「承知いたしました。それではまずシャンプーをしますので、こちらにお願いします」

 丁寧に髪を洗い、席へと戻る。任されてしまったとは言え、これくらい切っても大丈夫か、などと時折尋ねる。橋本は、全ての質問に頷くだけだ。
 必要事項の確認だけをして、黙々とカットを進める。そもそもがトークは得意ではないが、他の客の接客時以上に会話のしようがない。どうにも気まずいが仕方がない。自分にそう言い聞かせていたのだが。
 カットも終盤に差しかかる手前、橋本のほうから話しかけてきた。窺うような目が、鏡越しに見上げてくる。

「なあ、兎野。元気にしてた? 美容師の専門行ったってのは知ってたんだけどさ」
「うん、元気。橋本は? 大学に行ったんだったよな」
「ああ。今は都内の会社に就職して、なんとかやってる」
「そっか」

 当たり障りのない会話が、自分たちの間に横たわる空白の時間と、違えてしまった仲を表しているようだ。
 案の定続かない話題に、動かす手にだけ集中していると。隣で施術をしていた村井が、橋本に声をかけてきた。村井が担当していた客は、いつの間にか退店したようだ。普段だったら恭生も挨拶で見送る場面なのに、気にかける余裕がなかった。

「お客様、もしかして兎野とはお知り合いなんですか?」
「あ、そうなんです。高校の同級生で」
「そうなんですね! 今日は偶然?」
「はい。たまたま今日時間が取れたので予約入れたら、って感じです」
「それはすごいですね! なんていうか、運命って感じ?」
「おい、村井……」
「いいじゃんいいじゃん。ちなみに俺は、兎野とは同期で――」

 床に落ちた髪を掃きながら、村井は楽しそうに橋本と会話をしている。
 村井のことだ、自分たちのただならぬ空気を感じ取ったのだろう。和ませようと、あえて砕けた言葉を使っているのがよく分かる。
 自分より一枚も二枚も上手な接客術には、いつだって嫉妬を覚える。だが今だけは、助かったと心の内で感謝をする。このままでは、居心地の悪さを感じさせたまま、橋本を帰すことになるところだった。

「はい、完成。どうかな?」
「おー、すげー……」
「気になるところあったら遠慮なく言って。直すから」
「いや、マジで全然ない。今までの髪型でいちばん気に入った」
「……そっか。それはよかった」

 ブローを終え、バックミラーを広げ後頭部も確認してもらう。気を遣わせたくないなと案じていたのだが、どうやら本当に気に入ってもらえたようだ。

「兎野はさ、人のことよく見てるじゃん。だからかな、こういうの上手いよな。俺に合うように考えて切ってくれたの、分かるよ」
「……それはどうも」

 美容師として、その言葉はこれ以上ないほどの誉め言葉だろう。だが、元恋人としては素直に受け取れない自分がいる。振ったくせになにをいまさら、と思わずにいられない。
 今まで付き合った恋人の中で、自分で好きになって、自分で告白した相手は橋本だけだった。男性なのも、橋本だけ。今思えばあの恋だけが本気で、だからこそ、振られた日の朝陽の行動にどれだけ救われたか。
 そこまで考えて、朝陽に行き着く自分にはたと気づく。
 唯一の恋をした元彼と偶然に出くわして、あろうことかスタイリングを一任され、それを褒められて。それでも心は今、朝陽に向くようだ。どこかくすぐったい心地がして、つい口角が緩む。

「兎野? どうかした?」

 思わず漏れたのはほんの小さな笑みなのに、橋本に見つかってしまった。

「ん? あー、ごめん。なんでもない。そうだ、前髪の根元のとこ、ドライヤー当てたらこんな風に立つから。橋本はおでこ出したほうが爽やかな印象になると思う」
「分かった。明日からやってみる」

 カットケープを外し、レジへと橋本を促す。一瞬迷ったが、お釣りと一緒に名刺も渡した。喜んで受け取ってくれたことに安堵する。そんなことはあり得ないと今日の今日まで思っていたが、もしかしたら友人に戻れるのではと、そんな気さえしてくる。


「そうだ、アイツは元気にしてる?」
「アイツって?」

 見送りに一緒に外へと出て、冷たい風に肩を竦めた時だった。振り返った橋本に、恭生は首を傾げる。

「幼なじみなんだっけ。ほら、兎野んちの隣に住んでたアイツ」
「え……もしかして、朝陽のことか?」
「あーそうそう、確かそんな名前だったな」
「な、なんで……」

 なぜ橋本の口から、朝陽の話が出てくるのだろう。怪訝に思っているのを感じたのか、苦笑いをした橋本が続ける。

「実はさ、アイツ……朝陽くんとふたりで話したことがあってさ」
「は……マジ? いつ?」
「兎野と付き合ってる時。見られたことあったじゃん、その、キス……してるとこ。そのすぐ後くらいにさ、道でばったり会ったんだよ」
「……それで?」

 橋本の表情が、いい思い出ではないことを物語っている。頬を掻く指先がその先を躊躇っていて。だが橋本は意を決したように大きく息を吐いて、口を開く。

「食ってかかってくんじゃないか、ってくらいすごい剣幕で言われたんだ。兎野を大事にしないと許さない、絶対悲しませないで、って。あの時はカッとして、お前に言われなくてもって俺も大声出しちゃったんだけど。なんて言うか……朝陽くん、ずっと苦しそうだったんだ。ギリギリくちびる噛んでてさ、血が出んじゃないかってくらい」
「朝陽が、そんなことを……」
「うん。朝陽くんはさ、幼なじみの兎野にあそこまで真剣になれるんだな、って。家に帰って冷静になったら、それすげーなって思って。俺は付き合ってんのに、そのくらい本気で兎野のこと想えてんのかなって、自信なくなってさ。でもそんなこと一個も言わないで、酷い振り方したと思う。今更だけど、悪かった」
「いや、そんな……」
「俺、あんなこと言ったけど……兎野と付き合ったことも、キスしたことも、後悔してないよ。……って、本当に今更だよな。こんなの、ただの自己満だ」
「……ううん、そんなことない。え、っと、今の話、聞けてよかったって、思ってる」

 肩の荷が下りたような顔をして、橋本が笑う。それじゃあ、と手を振って去る背を、恭生はどこかぼんやりと見送る。

 
 あの日、振られた日に戻ったかのようにリフレインするのは、確かに橋本の声だ。

 ――俺、やっぱり間違ってたかも。

 だが、今の恭生の胸を苦しいほどに占めるのは、朝陽だった。橋本と偶然にも再会してよかったと思えているのは、朝陽の真意に触れられたからだ。知らない間に、橋本にそんなことを言っていたなんて。
 恭生は、へなへなとその場にしゃがみこむ。口元を覆う手が、寒空の下で熱を持つ頬の温度を感じ取る。
 嫌ってなんかいないと、付き合うことになった日に確かに言われた。仮の恋人として過ごしてきた日々に朝陽の笑顔はたくさんあったが、心のどこかで疑う気持ちは消えていなかったように思う。
 だがやっと、確信できた。男とキスする自分に、嫌悪感を抱かれてなんかいなかった。それどころか、橋本との幸せを願ってくれていた。
 中学に上がったばかりの子がよく知りもしない高校生に盾突くなんて、どれほどの勇気が必要だっただろう。必死に、一生懸命に、大事にされていたのだ。
 それでも、朝陽との間に空白の時間があったことに違いはない。自分が勘違いさえしていなかったら、なにかあったのかと尋ねていたなら、疎遠になどならなかったのではないか。この数年を恭生は心から悔いる。
 だがどれだけ悔いても、過去は変えることができないのだ。よく分かっている、良いことも悪いことも、自分に返ってくると。後悔があるなら、今変わるしかない。
 立ち上がった恭生の靴の下で、乾いた落ち葉がパリ、と音を立てる。
 仕事が終わったら、今度はいつ会えるかと朝陽に連絡を入れよう。恭兄から言ってくれるの初めてだね、と驚くだろうか。それとも、受け身でいてって言ったじゃんと拗ねてしまうだろうか。どちらの朝陽も見てみたいと、ただただそう思う。

「っし。午後も頑張るか」