朝陽との恋人“カッコカリ”な関係がスタートし、恭生の日常は一変した。
朝起きたらおはようと朝陽にメッセージを送る。きちんと返事が返ってくる。昼飯だとか道端で見かけた猫だとかの他愛のないやり取りに、おやすみだって言い合える。
一日のそこかしこで朝陽の存在を感じていられる意味は、とても大きい。だって連絡できるのは今まで振られた時だけで、返信すらなかったのだ。胸が躍るのを抑えることなんてできない。
それから、毎週のようにふたりで会うようになった。お互いの仕事と大学が終わった後、朝陽のバイトがない日。多くて3回会った週もある。
行き先は、映画館や書店など。カフェで洒落たドリンクを飲んだり、話すだけで楽しくてただ街をフラフラ歩いた日もあった。
夕方に待ち合わせをして、夕飯を食べて解散がお決まりのコース。朝陽曰くこれはデートで、受け身でいてと先日言われた通り、お誘いから全て朝陽に任せ、エスコートされている。
毎日きちんと実家に帰宅する朝陽だからタイムリミットはあるが、疎遠だった今までに比べれば充分すぎるほどだ。嫌われたと感じたあの夏からの数年と比べたら、180度変わった。
「あ、恭兄。あそこのゲーセン寄っていい?」
「お、いいな。オレも久々に行きたい」
今日も今日とて待ち合わせをし、つい先ほど夕飯を済ませたところだ。
夕飯のお代はいつも恭生が支払っていて、朝陽は律義に毎回申し訳なさそうにする。そんな顔をされると胸が痛むのだが、相手は大学生だ。こればかりは譲る気はない。
「……ん? ちょ、朝陽待った!」
「なに?」
「なあこれ! な!?」
視界に飛びこんできたものに、恭生は急ブレーキをかけた。先を歩いていた朝陽のシャツを掴み、引き止める。興奮のあまり、言葉が続かない。
「うわ、めっちゃ似てる」
だが朝陽は、恭生の言いたいことをすぐに分かってくれた。
今ふたりが立っているのは、クレーンゲームの前だ。景品は、手のひらサイズのぬいぐるみキーホルダー。数種類の動物がラインナップされた中に、うさぎと犬もある。その二種が、祖父からもらったあのぬいぐるみたちにそっくりだった。
「恭兄、あれ欲しい?」
「正直かなり欲しい」
「分かった。俺が獲る」
「え、朝陽こういうの得意?」
「うん、結構」
「マジか」
朝陽は謙遜したが、腕前は見事なものだった。巧みにぬいぐるみを転がして、ふたつともほんの数手で獲得してしまった。
「すげー……」
少なくとも、中学までの朝陽とこんな思い出はない。朝陽の新しい一面を知られた嬉しさに、離れていた期間の長さを感じ少し切なさが混じる。
呆気に取られていると、はい、とふたつを手のひらに乗せられた。
「あげる」
「いいのか?」
「うん。恭兄のために獲ったんだし」
「……あ、じゃあお金」
「要らない」
「でも」
「いつもご馳走になってるし。これくらいさせてよ。もらってくれたほうが、何倍も嬉しい」
「朝陽……ん、分かった。なあ、じゃあさ、うさぎは朝陽が持ってて」
祖父にもらったぬいぐるみ同様、恭生の名前にちなんだうさぎのほうを朝陽に渡す。手元に残った犬のキーホルダーを撫で、さっそくスマートフォンに取りつけてみせると、朝陽は照れくさそうに笑った。
朝陽の笑顔に出会う度、何年ぶりだろうかと毎回感激してしまう。あの夏以来つんけんとしていた口ぶりも、すっかり柔らかく元通りになった。こちらが本来の朝陽だと、幼い頃を思い出せばよく分かる。
嫌いだなんて思ってない――この関係がスタートした日の夜、そう言った朝陽を手放しで信じてみたくなる。だが、じゃあなぜずっと素っ気なかったのかと、疑問が拭えない自分がいるのも確かだった。
「じゃあ俺もこれ、スマホにつける」
「はは、マジ?」
「俺がぬいぐるみつけてたら変?」
「ううん、かわいい」
「もー……かわいくないって」
「はは」
朝陽と付き合えば、祖父の言葉の真意が理解できる。そう言われたからこそ始まった関係だが、それはまだ少しも分からないままだ。
だが朝陽と共に過ごし、懐かしい姿を見て、新しい一面も知ることができる。そんな時間を過ごせるだけで、恭生は満たされている。
「ご来店ありがとうございました。手直ししたいところなどありましたら、お気軽にご連絡ください。これ、僕の名刺です」
初来店の客を担当し、清算を終えて外まで見送りに出る。カラーやカットは気に入ってもらえただろうか。施術中のトークは不愉快に感じなかっただろうか。
様々なことに頭を巡らせながら店内に戻ると、同期の村井が声をかけてきた。
「兎野、お疲れ」
「ああ、お疲れ」
「さっきのお客様、喜んでくれてたな」
「だといいんだけど」
「兎野なら大丈夫っしょ」
「はは、サンキュ」
恭生が務めるヘアサロンには、現在6名のスタイリストが在籍している。
同い年で同期の村井は、確かな技術はもちろん、明朗な性格で客にもスタッフにも好かれている。恭生も、村井と良好な関係を築けている。だがそれは表面上だ。指名の数で差が開いてきていて、コンプレックスを抱かずにはいられない。
腕は磨き続けるしかない、それに関しては負けていないつもりだ。だが、トークはどうにも固い自覚がある。
時間を割いて来てくれている客に、失礼があってはいけない。不必要なことを喋って、技術以外で低評価を受けるのは恐ろしい。
とは言え仕事なのだから、トークが不得意だなんて言ってはいられない。改善すべきだと分かっているのに、ヘマをするのが怖い。プライドが邪魔をして、仲間にアドバイスを乞うこともできない。
こういったところが、元カノたちに“隙がない”と言わせてきたのかもしれない。
両親が与えてくれた、進む道を自分で選択できる人生。だが、自由はいつだって責任と隣り合わせだ。いいことも悪いことも、自分が選んだ結果。慎重にならざるを得ない。
特に、人間関係は難しい。あんなに仲がよかった朝陽に嫌われ、疎遠になることだってあるように。
根拠もなく自信に満ちていた自分とは、あの高二の夏に決別したのだった。
「なあ兎野、たまにはさ、終わったら一緒に飲みに行かない?」
「あー、ごめん。今日は用事があってさ」
「そっか、残念。あれ、彼女とは別れたんだったよな? もしかしてもう次できた!?」
「違うよ。幼なじみと会う予定」
「あ、そうなん? 幼なじみかあ。仲良いんだな」
「そうだな」
正しくは、幼なじみ兼、恋人“カッコカリ”だが。そこまで説明する必要もないだろうと、肩を竦めて笑ってみせる。
「オーナー、じゃあオレ、そろそろ上がります」
「ああ、お疲れ。こんな日に出てもらって悪かったな」
「いえ、大丈夫です。お先に失礼します」
勤務時間が終わり、オーナーに挨拶をする。出勤予定だったスタッフが体調を崩してしまい、今日は急遽その代打で呼ばれたのだった。
「え、兎野今日なんかあったんすか?」
オーナーに訊ねる村井の声を背に店を出て、暮れた道を急ぐ。
ヘアサロンの最寄りの駅に着くと、すぐに朝陽を見つけることができた。朝陽の姿を見るだけで、体からふっと力が抜けるのを感じる。思い返せば幼い頃から、朝陽の隣がいちばん気を抜ける場所だった。
待たせてしまったことだし、詫びに飲みものでも買ってこようか。それよりもまずはと声をかけようとして、だが上げかけた手を一度引っこめることになる。
朝陽はひとりではなかった。すぐには気づかなかったが、三人の女の子たちに囲まれている。どうやら知り合いではなさそうだ。
「ねえ聞いてる? この近くに映えるカフェあるし、一緒にどうかな」
華やかな声が朝陽を誘う。時折三人で目配せをしあい、朝陽を見ては色めき立つ。
いわゆる逆ナンというやつか。当の朝陽は我関せずという顔で、無視を決めこんでいるけれど。
「朝陽」
「あ、恭兄!」
助け舟を出すような気持ちで名前を呼ぶと、朝陽は女の子たちを気にもかけず、こちらへと駆けてきた。その光景に、恭生はふと昔を思い出す。
幼稚園に入ってからも、小学校に上がってからも。朝陽は友だちからの遊びの誘いを断ってまで、恭生と一緒にいたがった。それで友人関係を保てるのかと心配したこともあったが、朝陽にまた明日と手を振る彼らの笑顔に、杞憂だと分かった時。自分もめいっぱい朝陽との時間を大切にしていいのだと、安堵したのを覚えている。
朝陽に声を掛けていた女の子たちへと目を向けると、すでに興味は他に移ったのか、こちらを見てはいなかった。出会ったばかりの人に簡単について行くような朝陽ではないが、その程度の彼女らから朝陽を守れたようで満足だ。
背を大きく越されても、二十歳を過ぎたって、朝陽は今もかわいい弟だから。
「恭兄?」
「ん? ああ、ぼーっとしてた」
「仕事大変だった? お疲れ様」
「さんきゅ。てか待たせたよな、悪い」
「平気。さっき着いたとこだし」
今日は土曜日で朝陽の大学もなく、本来は朝から一緒に過ごす予定だった。朝陽はいつも以上に、熱心に今日のプランを考えただろうに。あいにくの突然の出勤で、こんな時間になってしまった。
「なあ朝陽。今日の予定、変えさせたよな。急に仕事になってほんとごめ……」
「恭兄」
「ん?」
「誕生日おめでとう」
「あ……うん。ありがとう」
「はは、久しぶりに言えた」
「朝陽……」
恭生を遮り、朝陽は祝福の言葉を口にした。
そう、今日は恭生の二十四歳になる誕生日なのだ。
恭生の働くヘアサロンは本来、誕生日には休暇を取っていいことになっている。それを知った朝陽に『じゃあ俺が一日予約していい?』と言われ、ふたつ返事で約束をした。
だからこそ、今日の予定変更は恭生自身、ひどく残念だったのだが。朝陽ははにかんだ顔を見せ、おめでとうと言えたなんて些細なことを喜んでくれている。
だが恭生も同じ気持ちだ。朝陽からの数年ぶりのおめでとうは、なににも代えがたいプレゼントだった。
「朝陽に祝ってもらえてすげー嬉しい、ありがとな」
「うん。じゃあ、行こ? 夕飯食べるとこ、予約してあるから」
「おお、マジか」
朝陽に連れられ向かった先は、全個室の小洒落た居酒屋だった。ふたりきりの空間で、シャンパンで乾杯。朝陽の二十歳の誕生日を盛大に祝いたかったなと心の中で悔やみつつ、幼なじみと初めて酌み交わすアルコールには感慨深いものがあった。
とびきり美味しい料理、名前の入ったバースデープレート。全て、朝陽が今日この日のために用意してくれたのだ。うっかり泣いてしまいそうで、必死に堪えたのだが。誕生日プレゼントにとキーケースをもらった瞬間に、努力の甲斐もむなしく結局涙は零れてしまった。こっそり拭ったから、朝陽にはバレていないと思いたい。
「朝陽~、さっきの店めっちゃ美味かった!」
「喜んでもらえてよかった。恭兄、もしかして酔ってる?」
「えー? ううん、酔ってない」
「ほんとかな」
「ほんとほんと。朝陽は? 酔ってる?」
「俺は多分ザル」
「うわマジか。それにしてもさっきの店、雰囲気も最高だったなあ。よく見つけたな」
「リサーチしたんで」
「あー、本当にうれしい。なあ朝陽、やっぱりお金……」
「だめ。今日だけは絶対に受け取らないから。なんで主役がお金出すんだよ」
「……ん、そっか。分かった。ありがとう」
ディナーを楽しんだ帰り、今は恭生のアパートへと最寄り駅から歩いているところだ。神奈川へと帰る朝陽を恭生こそ見送りたいのだが、朝陽はいつも「恭兄を送るところまでがデートだから」と言ってきかない。
だが今日に限っては、こうして送ってもらえることを素直にありがたく受け取っている。年に一度の誕生日を久しぶりに朝陽と過ごせて、どうにも離れがたい。
「あーあ。今日終わんのもったいない感じする」
「うん、俺も」
「朝陽も? ……なあ朝陽、今日も部屋上がってかない?」
「……うん、上がんない」
だが朝陽は、恭生の誘いをやはり受け入れてはくれない。
会う度にお茶でもどうだと誘っているのだが、朝陽はあの日以来、一度も部屋までは来ていない。終電が気になって、落ち着かないとのことだ。気持ちは分からないでもないが、一分でも長く一緒にいたいのに、と少し面白くない。
泊まってくれたって構わないのだが、両親へ心配をかけたくないのだろうと、提案することすらできないでいる。
「だよな、残念。あ、そういえばさ。もしかして、昼間もどこか予約してた?」
「いや、予約はしてなかった」
「そっか、よかった。ちなみにどこに行くつもりだったんだ?」
「水族館」
「水族館? 朝陽、魚とか好きだったっけ」
「いや別に。でも、デートって感じするかなって」
「……ふっ」
笑ってはいけない、そう強く思いはしたのだが。恭生はつい、小さく笑ってしまった。聞かれていませんようにと願ったって、ジトリとした目が恭生を映していて、もう遅い。
「恭兄……?」
「いや違う、ごめん」
「違わないし。笑ってんじゃん」
「ごめんって! だって朝陽、かわいくて」
「……なんだよそれ」
アパート前に到着して、人通りのない狭い道で立ち止まる。朝陽の機嫌を損ねてしまったと焦りがあるのに、その表情すらかわいいと感じてしまうのだから、我ながらタチが悪いなと恭生は思う。
「だってさ、朝陽、付き合うのオレが初めてってわけじゃないだろ?」
「……え?」
「オレ、今まではエスコートする側でさ。工夫しなきゃってそればっか考えちゃって。行き先決めるの、あんまり得意じゃなかったんだよな。でも朝陽が連れてってくれるところは、なんて言うか……ザ・デートって感じの場所で、逆に新鮮で。オレすげー楽しくてさ。水族館かあ、行きたかったなあ」
彼女がいる時は流行っているものや場所、世の女の子たちがなにを望んでいるのか、いつも徹底的に調べ上げた。歳を重ねる度、彼女の目に期待がありありと見える度、趣向を凝らすことに神経を使ってきた。それが恭生なりの誠実さだった。
だが朝陽に全てを委ねるデートで向かう先は、言ってしまえば初心者向けだ。『初デートならここ!』なんてタイトルのサイトに、特集されていそうなスポット。
なのにつまらないどころか、どこに行っても不思議なくらい胸が躍った。過去の自分はなにか勘違いをしていて、本当はそんなに頭を悩ませることではなかったのかもしれない。
朝陽と過ごす時間は、恭生の心をいっぱいに満たす。離れていた年月の長さが、余計にそう感じさせるのだろうか。
緩む口元をそっと隠していると、ぼそぼそと落ちるような声が耳に届いた。
「――だけど」
「ん? 聞こえなかった、なに?」
「恭兄が初めて、って言った。付き合うの」
「へ……マジ?」
「こんなん、嘘ついても仕方ないだろ」
「…………」
拗ねたような、どこか不機嫌な口調でそう言って、朝陽は視線を逃がすが。にわかには信じがたい事実に、食い入るように朝陽を見つめてしまう。
だって、ちゃんと理解している。恭生にとって朝陽がどんなにかわいい弟でも、世間一般的にはいわゆるイケメンだ。性格だって優しくて、勉強もスポーツもできる。モテない理由がない。先ほどの女の子たちがいい例だ。それなりの数の告白を受けてきただろう。
なのに。今まで誰とも付き合ってこなかった? どんなに信じられなくても、朝陽がそう言うのならそうなのだろう。
もしかしなくても、とんでもないことをしているのではないか。仮とは言え、朝陽の初恋人の座を幼なじみの男がもらっていいのだろうか。
だが他でもない、この仮の恋人関係は、朝陽の提案で始まったものだ。それに高揚してしまっている自分に、静かに戸惑う。
「そ、っか。うん、分かった」
心臓の底がふわふわと浮くような、不思議な心地を持て余していると。スマートフォンで時間を確認した朝陽が、長く息を吐いて言った。
「じゃあ、俺そろそろ帰る」
「うん」
「恭兄。今日の分」
「……ん」
きょろきょろと辺りに人がいないのを確認し、朝陽が両腕を広げる。それにそっと頷けば、大きな体に包みこまれる。
あの日――恭生が恋人に振られ、朝陽と仮の恋人になって以来。ハグと頬へのキスは、さよならの際のお決まりになった。もう何度もくり返して、その度に懐かしさとあたたかさに満たされてきたのに。
今日はなぜだか、今までのそれとはどこか違った心地がする。
「恭兄?」
「んー?」
「どうかした?」
「別に?」
不愛想に返せば、朝陽が顔を覗きこんでくる。だが恭生は、目を逸らしてしまう。今どんな顔をしているか、自分でも分からないからだ。
「……もしかして照れてる?」
「っ、はあ? オレが? なんで?」
「だって、顔赤いよ」
「……マジか」
今までのハグは、戯れの延長線にあった。小さい頃のじゃれ合いと同じ、ただふたりとも大人になっただけ。
そうだったはずなのに。
「なあ、朝陽。こういうのも初めて……ってこと?」
「こういうの?」
「その、ハグ、とか……」
「うん。恭兄としかしたことない」
「…………」
その事実が、ぽとりと胸の辺りに落ちてゆく。くすぐったくて、あたたかくて、美しくて。触れていいのか分からなくなる。
だってそれは、大事なものではないのだろうか。初めてで、唯一なんて。
それを自分がもらっていいのだろうか。かわいい弟の、生涯に一度の大切なものを。
「なあ朝陽、なんでオレと……」
「恭兄」
不安になって顔を上げると、一瞬でまた距離が縮まった。それに気づいた瞬間にはもう、頬でリップ音が鳴ってしまう。
「あっ」
それから、そのまま耳元で朝陽はささやく。
「恭兄、もう一回言わせて。お誕生日おめでとう」
「……っ!」
飛ぶようにして、勢いよく距離を取る。朝陽はくすくすと笑っていて、どうやらしてやられたようだ。
腹が立つ、だけど憎めない。なにか言ってやりたいのに言葉が出てこず、朝陽の胸元をトンとたたいた。
「顔真っ赤」
「覚えとけよー、朝陽」
「ふは、うん。絶対忘れない。じゃあ、ほんとに帰るね」
「……ん。気をつけてな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
人の心を散々かき回しておいて、朝陽は数歩後ずさってからあっさりと去っていった。恭生はと言えば、朝陽が見えなくなった道からもうしばらくは目を離せないというのに。
ふう、と息を吐き、恭生は夜空を見上げる。
朝陽は誰とも付き合ったことがない。きっともうすでに、朝陽にとっての“初めて”をたくさんもらってしまったに違いない。
本当にいいのだろうか、この関係を続けて。そう思うのに――胸の奥に、また朝陽と離れるなんてごめんだとくちびるを尖らせる自分がいる。
せめて、祖父の言葉の真意を知るまで。もしくは、朝陽が飽きるまで。もう少し、この関係に甘えさせてもらおう。
どうしようもない兄でごめんな、朝陽。届くことのない懺悔が、透明になって夜に溶ける。
朝起きたらおはようと朝陽にメッセージを送る。きちんと返事が返ってくる。昼飯だとか道端で見かけた猫だとかの他愛のないやり取りに、おやすみだって言い合える。
一日のそこかしこで朝陽の存在を感じていられる意味は、とても大きい。だって連絡できるのは今まで振られた時だけで、返信すらなかったのだ。胸が躍るのを抑えることなんてできない。
それから、毎週のようにふたりで会うようになった。お互いの仕事と大学が終わった後、朝陽のバイトがない日。多くて3回会った週もある。
行き先は、映画館や書店など。カフェで洒落たドリンクを飲んだり、話すだけで楽しくてただ街をフラフラ歩いた日もあった。
夕方に待ち合わせをして、夕飯を食べて解散がお決まりのコース。朝陽曰くこれはデートで、受け身でいてと先日言われた通り、お誘いから全て朝陽に任せ、エスコートされている。
毎日きちんと実家に帰宅する朝陽だからタイムリミットはあるが、疎遠だった今までに比べれば充分すぎるほどだ。嫌われたと感じたあの夏からの数年と比べたら、180度変わった。
「あ、恭兄。あそこのゲーセン寄っていい?」
「お、いいな。オレも久々に行きたい」
今日も今日とて待ち合わせをし、つい先ほど夕飯を済ませたところだ。
夕飯のお代はいつも恭生が支払っていて、朝陽は律義に毎回申し訳なさそうにする。そんな顔をされると胸が痛むのだが、相手は大学生だ。こればかりは譲る気はない。
「……ん? ちょ、朝陽待った!」
「なに?」
「なあこれ! な!?」
視界に飛びこんできたものに、恭生は急ブレーキをかけた。先を歩いていた朝陽のシャツを掴み、引き止める。興奮のあまり、言葉が続かない。
「うわ、めっちゃ似てる」
だが朝陽は、恭生の言いたいことをすぐに分かってくれた。
今ふたりが立っているのは、クレーンゲームの前だ。景品は、手のひらサイズのぬいぐるみキーホルダー。数種類の動物がラインナップされた中に、うさぎと犬もある。その二種が、祖父からもらったあのぬいぐるみたちにそっくりだった。
「恭兄、あれ欲しい?」
「正直かなり欲しい」
「分かった。俺が獲る」
「え、朝陽こういうの得意?」
「うん、結構」
「マジか」
朝陽は謙遜したが、腕前は見事なものだった。巧みにぬいぐるみを転がして、ふたつともほんの数手で獲得してしまった。
「すげー……」
少なくとも、中学までの朝陽とこんな思い出はない。朝陽の新しい一面を知られた嬉しさに、離れていた期間の長さを感じ少し切なさが混じる。
呆気に取られていると、はい、とふたつを手のひらに乗せられた。
「あげる」
「いいのか?」
「うん。恭兄のために獲ったんだし」
「……あ、じゃあお金」
「要らない」
「でも」
「いつもご馳走になってるし。これくらいさせてよ。もらってくれたほうが、何倍も嬉しい」
「朝陽……ん、分かった。なあ、じゃあさ、うさぎは朝陽が持ってて」
祖父にもらったぬいぐるみ同様、恭生の名前にちなんだうさぎのほうを朝陽に渡す。手元に残った犬のキーホルダーを撫で、さっそくスマートフォンに取りつけてみせると、朝陽は照れくさそうに笑った。
朝陽の笑顔に出会う度、何年ぶりだろうかと毎回感激してしまう。あの夏以来つんけんとしていた口ぶりも、すっかり柔らかく元通りになった。こちらが本来の朝陽だと、幼い頃を思い出せばよく分かる。
嫌いだなんて思ってない――この関係がスタートした日の夜、そう言った朝陽を手放しで信じてみたくなる。だが、じゃあなぜずっと素っ気なかったのかと、疑問が拭えない自分がいるのも確かだった。
「じゃあ俺もこれ、スマホにつける」
「はは、マジ?」
「俺がぬいぐるみつけてたら変?」
「ううん、かわいい」
「もー……かわいくないって」
「はは」
朝陽と付き合えば、祖父の言葉の真意が理解できる。そう言われたからこそ始まった関係だが、それはまだ少しも分からないままだ。
だが朝陽と共に過ごし、懐かしい姿を見て、新しい一面も知ることができる。そんな時間を過ごせるだけで、恭生は満たされている。
「ご来店ありがとうございました。手直ししたいところなどありましたら、お気軽にご連絡ください。これ、僕の名刺です」
初来店の客を担当し、清算を終えて外まで見送りに出る。カラーやカットは気に入ってもらえただろうか。施術中のトークは不愉快に感じなかっただろうか。
様々なことに頭を巡らせながら店内に戻ると、同期の村井が声をかけてきた。
「兎野、お疲れ」
「ああ、お疲れ」
「さっきのお客様、喜んでくれてたな」
「だといいんだけど」
「兎野なら大丈夫っしょ」
「はは、サンキュ」
恭生が務めるヘアサロンには、現在6名のスタイリストが在籍している。
同い年で同期の村井は、確かな技術はもちろん、明朗な性格で客にもスタッフにも好かれている。恭生も、村井と良好な関係を築けている。だがそれは表面上だ。指名の数で差が開いてきていて、コンプレックスを抱かずにはいられない。
腕は磨き続けるしかない、それに関しては負けていないつもりだ。だが、トークはどうにも固い自覚がある。
時間を割いて来てくれている客に、失礼があってはいけない。不必要なことを喋って、技術以外で低評価を受けるのは恐ろしい。
とは言え仕事なのだから、トークが不得意だなんて言ってはいられない。改善すべきだと分かっているのに、ヘマをするのが怖い。プライドが邪魔をして、仲間にアドバイスを乞うこともできない。
こういったところが、元カノたちに“隙がない”と言わせてきたのかもしれない。
両親が与えてくれた、進む道を自分で選択できる人生。だが、自由はいつだって責任と隣り合わせだ。いいことも悪いことも、自分が選んだ結果。慎重にならざるを得ない。
特に、人間関係は難しい。あんなに仲がよかった朝陽に嫌われ、疎遠になることだってあるように。
根拠もなく自信に満ちていた自分とは、あの高二の夏に決別したのだった。
「なあ兎野、たまにはさ、終わったら一緒に飲みに行かない?」
「あー、ごめん。今日は用事があってさ」
「そっか、残念。あれ、彼女とは別れたんだったよな? もしかしてもう次できた!?」
「違うよ。幼なじみと会う予定」
「あ、そうなん? 幼なじみかあ。仲良いんだな」
「そうだな」
正しくは、幼なじみ兼、恋人“カッコカリ”だが。そこまで説明する必要もないだろうと、肩を竦めて笑ってみせる。
「オーナー、じゃあオレ、そろそろ上がります」
「ああ、お疲れ。こんな日に出てもらって悪かったな」
「いえ、大丈夫です。お先に失礼します」
勤務時間が終わり、オーナーに挨拶をする。出勤予定だったスタッフが体調を崩してしまい、今日は急遽その代打で呼ばれたのだった。
「え、兎野今日なんかあったんすか?」
オーナーに訊ねる村井の声を背に店を出て、暮れた道を急ぐ。
ヘアサロンの最寄りの駅に着くと、すぐに朝陽を見つけることができた。朝陽の姿を見るだけで、体からふっと力が抜けるのを感じる。思い返せば幼い頃から、朝陽の隣がいちばん気を抜ける場所だった。
待たせてしまったことだし、詫びに飲みものでも買ってこようか。それよりもまずはと声をかけようとして、だが上げかけた手を一度引っこめることになる。
朝陽はひとりではなかった。すぐには気づかなかったが、三人の女の子たちに囲まれている。どうやら知り合いではなさそうだ。
「ねえ聞いてる? この近くに映えるカフェあるし、一緒にどうかな」
華やかな声が朝陽を誘う。時折三人で目配せをしあい、朝陽を見ては色めき立つ。
いわゆる逆ナンというやつか。当の朝陽は我関せずという顔で、無視を決めこんでいるけれど。
「朝陽」
「あ、恭兄!」
助け舟を出すような気持ちで名前を呼ぶと、朝陽は女の子たちを気にもかけず、こちらへと駆けてきた。その光景に、恭生はふと昔を思い出す。
幼稚園に入ってからも、小学校に上がってからも。朝陽は友だちからの遊びの誘いを断ってまで、恭生と一緒にいたがった。それで友人関係を保てるのかと心配したこともあったが、朝陽にまた明日と手を振る彼らの笑顔に、杞憂だと分かった時。自分もめいっぱい朝陽との時間を大切にしていいのだと、安堵したのを覚えている。
朝陽に声を掛けていた女の子たちへと目を向けると、すでに興味は他に移ったのか、こちらを見てはいなかった。出会ったばかりの人に簡単について行くような朝陽ではないが、その程度の彼女らから朝陽を守れたようで満足だ。
背を大きく越されても、二十歳を過ぎたって、朝陽は今もかわいい弟だから。
「恭兄?」
「ん? ああ、ぼーっとしてた」
「仕事大変だった? お疲れ様」
「さんきゅ。てか待たせたよな、悪い」
「平気。さっき着いたとこだし」
今日は土曜日で朝陽の大学もなく、本来は朝から一緒に過ごす予定だった。朝陽はいつも以上に、熱心に今日のプランを考えただろうに。あいにくの突然の出勤で、こんな時間になってしまった。
「なあ朝陽。今日の予定、変えさせたよな。急に仕事になってほんとごめ……」
「恭兄」
「ん?」
「誕生日おめでとう」
「あ……うん。ありがとう」
「はは、久しぶりに言えた」
「朝陽……」
恭生を遮り、朝陽は祝福の言葉を口にした。
そう、今日は恭生の二十四歳になる誕生日なのだ。
恭生の働くヘアサロンは本来、誕生日には休暇を取っていいことになっている。それを知った朝陽に『じゃあ俺が一日予約していい?』と言われ、ふたつ返事で約束をした。
だからこそ、今日の予定変更は恭生自身、ひどく残念だったのだが。朝陽ははにかんだ顔を見せ、おめでとうと言えたなんて些細なことを喜んでくれている。
だが恭生も同じ気持ちだ。朝陽からの数年ぶりのおめでとうは、なににも代えがたいプレゼントだった。
「朝陽に祝ってもらえてすげー嬉しい、ありがとな」
「うん。じゃあ、行こ? 夕飯食べるとこ、予約してあるから」
「おお、マジか」
朝陽に連れられ向かった先は、全個室の小洒落た居酒屋だった。ふたりきりの空間で、シャンパンで乾杯。朝陽の二十歳の誕生日を盛大に祝いたかったなと心の中で悔やみつつ、幼なじみと初めて酌み交わすアルコールには感慨深いものがあった。
とびきり美味しい料理、名前の入ったバースデープレート。全て、朝陽が今日この日のために用意してくれたのだ。うっかり泣いてしまいそうで、必死に堪えたのだが。誕生日プレゼントにとキーケースをもらった瞬間に、努力の甲斐もむなしく結局涙は零れてしまった。こっそり拭ったから、朝陽にはバレていないと思いたい。
「朝陽~、さっきの店めっちゃ美味かった!」
「喜んでもらえてよかった。恭兄、もしかして酔ってる?」
「えー? ううん、酔ってない」
「ほんとかな」
「ほんとほんと。朝陽は? 酔ってる?」
「俺は多分ザル」
「うわマジか。それにしてもさっきの店、雰囲気も最高だったなあ。よく見つけたな」
「リサーチしたんで」
「あー、本当にうれしい。なあ朝陽、やっぱりお金……」
「だめ。今日だけは絶対に受け取らないから。なんで主役がお金出すんだよ」
「……ん、そっか。分かった。ありがとう」
ディナーを楽しんだ帰り、今は恭生のアパートへと最寄り駅から歩いているところだ。神奈川へと帰る朝陽を恭生こそ見送りたいのだが、朝陽はいつも「恭兄を送るところまでがデートだから」と言ってきかない。
だが今日に限っては、こうして送ってもらえることを素直にありがたく受け取っている。年に一度の誕生日を久しぶりに朝陽と過ごせて、どうにも離れがたい。
「あーあ。今日終わんのもったいない感じする」
「うん、俺も」
「朝陽も? ……なあ朝陽、今日も部屋上がってかない?」
「……うん、上がんない」
だが朝陽は、恭生の誘いをやはり受け入れてはくれない。
会う度にお茶でもどうだと誘っているのだが、朝陽はあの日以来、一度も部屋までは来ていない。終電が気になって、落ち着かないとのことだ。気持ちは分からないでもないが、一分でも長く一緒にいたいのに、と少し面白くない。
泊まってくれたって構わないのだが、両親へ心配をかけたくないのだろうと、提案することすらできないでいる。
「だよな、残念。あ、そういえばさ。もしかして、昼間もどこか予約してた?」
「いや、予約はしてなかった」
「そっか、よかった。ちなみにどこに行くつもりだったんだ?」
「水族館」
「水族館? 朝陽、魚とか好きだったっけ」
「いや別に。でも、デートって感じするかなって」
「……ふっ」
笑ってはいけない、そう強く思いはしたのだが。恭生はつい、小さく笑ってしまった。聞かれていませんようにと願ったって、ジトリとした目が恭生を映していて、もう遅い。
「恭兄……?」
「いや違う、ごめん」
「違わないし。笑ってんじゃん」
「ごめんって! だって朝陽、かわいくて」
「……なんだよそれ」
アパート前に到着して、人通りのない狭い道で立ち止まる。朝陽の機嫌を損ねてしまったと焦りがあるのに、その表情すらかわいいと感じてしまうのだから、我ながらタチが悪いなと恭生は思う。
「だってさ、朝陽、付き合うのオレが初めてってわけじゃないだろ?」
「……え?」
「オレ、今まではエスコートする側でさ。工夫しなきゃってそればっか考えちゃって。行き先決めるの、あんまり得意じゃなかったんだよな。でも朝陽が連れてってくれるところは、なんて言うか……ザ・デートって感じの場所で、逆に新鮮で。オレすげー楽しくてさ。水族館かあ、行きたかったなあ」
彼女がいる時は流行っているものや場所、世の女の子たちがなにを望んでいるのか、いつも徹底的に調べ上げた。歳を重ねる度、彼女の目に期待がありありと見える度、趣向を凝らすことに神経を使ってきた。それが恭生なりの誠実さだった。
だが朝陽に全てを委ねるデートで向かう先は、言ってしまえば初心者向けだ。『初デートならここ!』なんてタイトルのサイトに、特集されていそうなスポット。
なのにつまらないどころか、どこに行っても不思議なくらい胸が躍った。過去の自分はなにか勘違いをしていて、本当はそんなに頭を悩ませることではなかったのかもしれない。
朝陽と過ごす時間は、恭生の心をいっぱいに満たす。離れていた年月の長さが、余計にそう感じさせるのだろうか。
緩む口元をそっと隠していると、ぼそぼそと落ちるような声が耳に届いた。
「――だけど」
「ん? 聞こえなかった、なに?」
「恭兄が初めて、って言った。付き合うの」
「へ……マジ?」
「こんなん、嘘ついても仕方ないだろ」
「…………」
拗ねたような、どこか不機嫌な口調でそう言って、朝陽は視線を逃がすが。にわかには信じがたい事実に、食い入るように朝陽を見つめてしまう。
だって、ちゃんと理解している。恭生にとって朝陽がどんなにかわいい弟でも、世間一般的にはいわゆるイケメンだ。性格だって優しくて、勉強もスポーツもできる。モテない理由がない。先ほどの女の子たちがいい例だ。それなりの数の告白を受けてきただろう。
なのに。今まで誰とも付き合ってこなかった? どんなに信じられなくても、朝陽がそう言うのならそうなのだろう。
もしかしなくても、とんでもないことをしているのではないか。仮とは言え、朝陽の初恋人の座を幼なじみの男がもらっていいのだろうか。
だが他でもない、この仮の恋人関係は、朝陽の提案で始まったものだ。それに高揚してしまっている自分に、静かに戸惑う。
「そ、っか。うん、分かった」
心臓の底がふわふわと浮くような、不思議な心地を持て余していると。スマートフォンで時間を確認した朝陽が、長く息を吐いて言った。
「じゃあ、俺そろそろ帰る」
「うん」
「恭兄。今日の分」
「……ん」
きょろきょろと辺りに人がいないのを確認し、朝陽が両腕を広げる。それにそっと頷けば、大きな体に包みこまれる。
あの日――恭生が恋人に振られ、朝陽と仮の恋人になって以来。ハグと頬へのキスは、さよならの際のお決まりになった。もう何度もくり返して、その度に懐かしさとあたたかさに満たされてきたのに。
今日はなぜだか、今までのそれとはどこか違った心地がする。
「恭兄?」
「んー?」
「どうかした?」
「別に?」
不愛想に返せば、朝陽が顔を覗きこんでくる。だが恭生は、目を逸らしてしまう。今どんな顔をしているか、自分でも分からないからだ。
「……もしかして照れてる?」
「っ、はあ? オレが? なんで?」
「だって、顔赤いよ」
「……マジか」
今までのハグは、戯れの延長線にあった。小さい頃のじゃれ合いと同じ、ただふたりとも大人になっただけ。
そうだったはずなのに。
「なあ、朝陽。こういうのも初めて……ってこと?」
「こういうの?」
「その、ハグ、とか……」
「うん。恭兄としかしたことない」
「…………」
その事実が、ぽとりと胸の辺りに落ちてゆく。くすぐったくて、あたたかくて、美しくて。触れていいのか分からなくなる。
だってそれは、大事なものではないのだろうか。初めてで、唯一なんて。
それを自分がもらっていいのだろうか。かわいい弟の、生涯に一度の大切なものを。
「なあ朝陽、なんでオレと……」
「恭兄」
不安になって顔を上げると、一瞬でまた距離が縮まった。それに気づいた瞬間にはもう、頬でリップ音が鳴ってしまう。
「あっ」
それから、そのまま耳元で朝陽はささやく。
「恭兄、もう一回言わせて。お誕生日おめでとう」
「……っ!」
飛ぶようにして、勢いよく距離を取る。朝陽はくすくすと笑っていて、どうやらしてやられたようだ。
腹が立つ、だけど憎めない。なにか言ってやりたいのに言葉が出てこず、朝陽の胸元をトンとたたいた。
「顔真っ赤」
「覚えとけよー、朝陽」
「ふは、うん。絶対忘れない。じゃあ、ほんとに帰るね」
「……ん。気をつけてな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
人の心を散々かき回しておいて、朝陽は数歩後ずさってからあっさりと去っていった。恭生はと言えば、朝陽が見えなくなった道からもうしばらくは目を離せないというのに。
ふう、と息を吐き、恭生は夜空を見上げる。
朝陽は誰とも付き合ったことがない。きっともうすでに、朝陽にとっての“初めて”をたくさんもらってしまったに違いない。
本当にいいのだろうか、この関係を続けて。そう思うのに――胸の奥に、また朝陽と離れるなんてごめんだとくちびるを尖らせる自分がいる。
せめて、祖父の言葉の真意を知るまで。もしくは、朝陽が飽きるまで。もう少し、この関係に甘えさせてもらおう。
どうしようもない兄でごめんな、朝陽。届くことのない懺悔が、透明になって夜に溶ける。