引っ越しをしてすぐ、忙しい日々が始まった。
恭生が所属するヘアサロンには新しいスタッフが二名入ってきて、通常の業務の傍ら、指導もするようになった。教える立場になるのは初めてで、正直戸惑った。だが村井とふたりで相談しながら、自分たちの経験を踏まえ、少しでも新人たちの糧になれればと奮闘している。村井と気兼ねなく話せる関係になれていてよかった。朝陽と新しい関係が始まる前だったら、絶対にこうはいかなかった。
その朝陽はと言えば、就活の日々だ。単位の取得数としては、大学の講義はもうそれほど受ける必要もないとのことだったが。朝陽は積極的に大学へも通った。学べることは学びたい、今しかできないことがある。そう言う朝陽に恭生は感銘を受けたものだが、当の朝陽は「恭兄が頑張ってるから、俺も頑張りたい」と笑った。相手の存在で変われたのはこちらのほうなのに、と強く思うが、見せられる背中が自分にもあるのなら。そうやってふたりの間で循環していくものがあるのなら。共に過ごせる毎日がまたひとつかけがえのないものになる。そんな関係を朝陽と築けているのだと感じ伝えた日には、ふたりして泣いて笑いながら、心を溶かし合うように愛しあった。
夏、恭生が浴衣の着付けをしてふたりで花火を見に出かけた。夏祭りなんてもう、いつぶりだかも分からない。夜店の灯りや花火にカメラを向ける朝陽の姿には、つい見惚れてしまった。花火の熱が頬まで落ちてきたみたいに熱くて、赤い顔を知られることにためらった。
秋には、朝陽のカメラスタジオへの就職が決まった。結果を知った朝陽は、それを口にするより先に瞳を涙で潤わせた。それがどちらの涙かすぐに判断できず、つい慰めてしまったのも今ではいい思い出だ。
友人の兄であるプロカメラマンの元に通うのを、冬になっても朝陽はやめなかった。教わることも、プロの姿に学ぶことも無限にあるのだと朝陽は言う。ありたい自分を朝陽の意志に見て、背筋が伸びる。
そうして迎えた三月。朝早くに朝陽を起こして、今日ばかりはたまごやきをねだるのは堪え、先に起きて用意しておいた朝食で手早く済ませた。
事態を飲みこめないまま、朝陽はスーツに身を包む。いいからいいからと宥めながら手を引きやってきたのは、恭生の働くヘアサロンだ。村井やオーナー、スタッフたちに挨拶をして、ひとつの席に朝陽を座らせる。鏡越しに目が合うのは、なんだか新鮮だ。
「朝陽、今日は卒業おめでとう」
「……ありがとう?」
「はは、疑問形」
「だって……予約してないけど、ここ座っていいの?」
「うん。オレが予約入れといた。ちなみに、オレ指名な。今日は朝陽の門出だから、どうしてもオレの手でかっこよくしてやりたくて。いい?」
「恭兄……」
朝陽と暮らすようになってから、いや、美容師という職に就いた時から。本当はずっと、朝陽のスタイリングをしたいと思っていた。朝陽はお洒落にはあまり頓着がなく、それでも持ち前の精悍さで充分男前ではあるのだが。自分ならもっと朝陽の良さを引き出せる。それだけの美容師になるのだと秘めていたものがあった。
だが再び絆を結び直してからも、ここまで来てもらうことはなかなか叶わなかった。朝陽は前もって店に予約を入れてまでカットをするタイプではなく、明日切りたいと思い立った時にはもう恭生の予約は埋まってしまっているのだと言っていた。自宅でカットしたことは何度もあるし、その時間も恭生は好きなのだが。やはり、ちゃんと環境の整った自身の職場で施術したかった。今日は大学の卒業式だから、セットだけだとしても、尚更。
鏡越しの朝陽が、少し頬を紅潮させてお願いしますと頷く。頷き返した恭生は、頭を美容師モードに切り替える。
朝陽の髪は少し伸びている。時間はまだたっぷりあるから、カットするのも手だ。だが朝陽の整った顔なら、今の長さのまま前髪を上げるのも新鮮で印象がいいだろう。前髪に指をかけ持ち上げてみると、やはり思った通りだ。更にモテてしまうだろうと思うと、正直面白くはないのだが。今日は朝陽が世界一格好いい男であってほしい。
もちろん恭生にとっては、毎日そうだけれど。
「ワックスで前髪上げていいか?」
「うん。恭兄に全部おまかせする」
「ありがと。じゃあやってくな」
手元のワゴンには、ワックスが数種類準備してある。朝陽の髪質に合うものを探していると、村井が近づいてきた。今日も今日とて、指名の予約が詰まっているだろうに。一瞬手が空いたようだ。
「こんにちは! 兎野のお知り合いですか?」
「あ……はい。そうです」
「村井ー。朝陽が驚いてるだろ」
「ごめんごめん。仲良さそうだったから、つい声かけちゃった」
ワックスを手に伸ばし、朝陽の前髪に指を通すと、村井もそれいいな、と隣で頷く。恭生は素直に鼻を高くする。だがまだなにか言いかけた村井を、そこまで、と遮る。
「村井のアイディアは絶対的確だけど、朝陽はオレがかっこよくしたいから。それ以上は禁止」
「えー、褒められた?」
「うん、めっちゃ褒めてる」
「やった。てか兎野と朝陽さん、ほんと仲良いんすね」
「そうですね」
喜んだ村井は、朝陽に視線を送りながらそう言った。セットしている最中だからだろう、首を動かすのを耐えつつ朝陽が返事をする。目の前でふたりの視線が交わっているのが、なんだか面白くない。朝陽を連れてきたのはオレなのに、なんて。ガキかよ、と内心苦笑しつつ、恭生は口を開く。
「朝陽はオレのいちばんだから」
「……え?」
村井がぽかんとした顔をして、朝陽は目を見開く。
男同士で付き合っていることを、特別隠すつもりはないと朝陽は以前言っていた。恭生も、村井にはいつか伝えようと思っていたが、美容師談義にばかり花が咲いて機会を逃してきた。村井が勘づいたなら、それでいい。だが村井が口を開きかけたところで、村井を指名で予約している客が来店した。今行きます、と声を上げながら、恭生の脇腹を肘でつついてくる。
「兎野~! もっとゆっくりできる時に聞きたかったんだけど!」
「はは、ごめん」
「もうー。じゃあ俺行くわ。朝陽さん、今日は卒業おめでとうございます。ごゆっくり」
「あ、はい。ありがとうございます」
名残惜しそうに晴れやかな笑顔を向けた村井は、そのテンションのまま客の待つほうへと歩いていく。
まったく、騒がしくて良いヤツだ。ついくすくすと笑いつつ、朝陽のセットを終える。前髪を上げ、サイドも後ろのほうに向かって流れるようにセットした。
「よし、できた。どう? 後ろはこんな感じ」
「わ、めっちゃいいね。俺じゃないみたい。恭兄すげー……」
「はは、ありがと。じゃあ行くか」
立つように促し、レジのほうへと向かう。だが今日のこれは恭生からのプレゼントだ。会計は後で済ませておくと言えば、払いたいと朝陽は渋る。
「それは朝陽が予約で来られた時にお願いしようかな」
「う……ちゃんとします」
「はは、うん。待ってる。まあ家で切るのも好きだけどな」
「俺も好き。でも美容師してる恭兄見てて、やっぱりここで切ってほしいなって思った」
「そう?」
話をしながら外へと出る。卒業を迎える春とは言え、三月の東京はまだまだ寒い。冷えた空気に頬を撫でられながら、朝陽のネクタイを整える。
「美容師してる恭兄、かっこいいね。ドキドキした。他のお客さんたちも恭兄に見惚れてたし。まあ正直、嫉妬もしたけど」
「……マジか」
「うん」
「あー、そっか。なあ朝陽、そう見えたんだとしたら……」
朝陽の腕を引いて、屈んでくれた耳元に口を近づける。道を行き交う人々に聞かれたって構いはしないのだが、ふたりだけで大切にしたくなることだってある。
「オレをかっこよくしてくれたのは、朝陽だよ」
「……え?」
「朝陽と付き合う前のオレはさ、理想の美容師にはまだまだ遠くて、自信がなかった。でも、朝陽とまたたくさん一緒にいられるようになって、毎日楽しくて……そしたら変われたんだ。朝陽のおかげだよ。そんなオレを朝陽にかっこいいって言ってもらえるの、なんか感動する」
「恭兄……」
思わずまぶたが熱くなって、慌てて鼻を啜り誤魔化す。だが朝陽にはバレバレのようで、もらい泣きするかのように朝陽の瞳も潤んでしまった。
「朝陽? ごめん、移った?」
「移った……し、今言われたの嬉しすぎて、そうじゃなくても泣いた」
「はは、そっか。なんかオレたち、大人になった割によく泣くよな」
「だね」
離れていた長い間、堪えていた苦しい思いがお互いにたくさんあった。振り返って、立ち返って、その分もめいっぱい泣いて笑って過ごしているような気がする。どうしようもなく恋しくて、その分だけ切なくて、それをくり返していくことがきっと愛で。最期の日なんて遠く遠く見えない日であれと願いながら、今を噛みしめて生きていけたらいい。
「じゃあ、俺、そろそろ行くね」
「気をつけてな。飲み会も楽しんでくるんだぞ」
「うん、ありがとう。恭兄も、お仕事頑張って」
「おう」
こちらを向いたまま後ずさるように三歩進んで、それから駅のほうへと歩き出す。ああ、頬にキスでもすればよかったな。名残惜しくて背中を見送っていると、ふと朝陽がこちらを振り返った。
「恭兄ー!」
大きく手を振ってくる朝陽に、恭生も振り返す。するとカメラをこちらに向け、レンズを覗きこむ様子が見えた。
「今日はさすがに撮られる側だろうに。ほんと好きなんだな、カメラが」
肉眼では細かな表情は見えない距離まで離れているが、レンズを通した朝陽の目には見えていたりするのだろうか。なんとなくきちんと見られているような気がして、恭生は手を振り続けながらゆっくりとくちびるを動かす。
「だ、い、す、き」
すると数秒ののち、スマートフォンがメッセージの到着を報せた。開いてみれば朝陽からで、恭生はつい吹き出して、それから両手で握って胸元に当てる。ふと見上げた空は、澄んでいて。
まだまだ早い朝の陽光が、薄いまぶたを通る。深呼吸をすれば、体に巡るのは冷たいけれど春の匂い。
ああ、きっと、今日という日を特別にして、いくつ歳を重ねても何度でも思い出す。そんな予感に、口の中で愛しい名前を転がした。
<俺も大好き>
朝陽のくれたメッセージが、心いっぱいに染み渡る。毎日のように言っているのに、今だってレンズ越しに伝わったのに。早く想いを返したくなる。
大好きだよ朝陽、愛している。
叫び出したいほどの気持ちをぐっと堪え、恭生は店内へと引き返す。けれど、やはり耐えられずに立ち止まり<オレも>とメッセージを返した。
恭生が所属するヘアサロンには新しいスタッフが二名入ってきて、通常の業務の傍ら、指導もするようになった。教える立場になるのは初めてで、正直戸惑った。だが村井とふたりで相談しながら、自分たちの経験を踏まえ、少しでも新人たちの糧になれればと奮闘している。村井と気兼ねなく話せる関係になれていてよかった。朝陽と新しい関係が始まる前だったら、絶対にこうはいかなかった。
その朝陽はと言えば、就活の日々だ。単位の取得数としては、大学の講義はもうそれほど受ける必要もないとのことだったが。朝陽は積極的に大学へも通った。学べることは学びたい、今しかできないことがある。そう言う朝陽に恭生は感銘を受けたものだが、当の朝陽は「恭兄が頑張ってるから、俺も頑張りたい」と笑った。相手の存在で変われたのはこちらのほうなのに、と強く思うが、見せられる背中が自分にもあるのなら。そうやってふたりの間で循環していくものがあるのなら。共に過ごせる毎日がまたひとつかけがえのないものになる。そんな関係を朝陽と築けているのだと感じ伝えた日には、ふたりして泣いて笑いながら、心を溶かし合うように愛しあった。
夏、恭生が浴衣の着付けをしてふたりで花火を見に出かけた。夏祭りなんてもう、いつぶりだかも分からない。夜店の灯りや花火にカメラを向ける朝陽の姿には、つい見惚れてしまった。花火の熱が頬まで落ちてきたみたいに熱くて、赤い顔を知られることにためらった。
秋には、朝陽のカメラスタジオへの就職が決まった。結果を知った朝陽は、それを口にするより先に瞳を涙で潤わせた。それがどちらの涙かすぐに判断できず、つい慰めてしまったのも今ではいい思い出だ。
友人の兄であるプロカメラマンの元に通うのを、冬になっても朝陽はやめなかった。教わることも、プロの姿に学ぶことも無限にあるのだと朝陽は言う。ありたい自分を朝陽の意志に見て、背筋が伸びる。
そうして迎えた三月。朝早くに朝陽を起こして、今日ばかりはたまごやきをねだるのは堪え、先に起きて用意しておいた朝食で手早く済ませた。
事態を飲みこめないまま、朝陽はスーツに身を包む。いいからいいからと宥めながら手を引きやってきたのは、恭生の働くヘアサロンだ。村井やオーナー、スタッフたちに挨拶をして、ひとつの席に朝陽を座らせる。鏡越しに目が合うのは、なんだか新鮮だ。
「朝陽、今日は卒業おめでとう」
「……ありがとう?」
「はは、疑問形」
「だって……予約してないけど、ここ座っていいの?」
「うん。オレが予約入れといた。ちなみに、オレ指名な。今日は朝陽の門出だから、どうしてもオレの手でかっこよくしてやりたくて。いい?」
「恭兄……」
朝陽と暮らすようになってから、いや、美容師という職に就いた時から。本当はずっと、朝陽のスタイリングをしたいと思っていた。朝陽はお洒落にはあまり頓着がなく、それでも持ち前の精悍さで充分男前ではあるのだが。自分ならもっと朝陽の良さを引き出せる。それだけの美容師になるのだと秘めていたものがあった。
だが再び絆を結び直してからも、ここまで来てもらうことはなかなか叶わなかった。朝陽は前もって店に予約を入れてまでカットをするタイプではなく、明日切りたいと思い立った時にはもう恭生の予約は埋まってしまっているのだと言っていた。自宅でカットしたことは何度もあるし、その時間も恭生は好きなのだが。やはり、ちゃんと環境の整った自身の職場で施術したかった。今日は大学の卒業式だから、セットだけだとしても、尚更。
鏡越しの朝陽が、少し頬を紅潮させてお願いしますと頷く。頷き返した恭生は、頭を美容師モードに切り替える。
朝陽の髪は少し伸びている。時間はまだたっぷりあるから、カットするのも手だ。だが朝陽の整った顔なら、今の長さのまま前髪を上げるのも新鮮で印象がいいだろう。前髪に指をかけ持ち上げてみると、やはり思った通りだ。更にモテてしまうだろうと思うと、正直面白くはないのだが。今日は朝陽が世界一格好いい男であってほしい。
もちろん恭生にとっては、毎日そうだけれど。
「ワックスで前髪上げていいか?」
「うん。恭兄に全部おまかせする」
「ありがと。じゃあやってくな」
手元のワゴンには、ワックスが数種類準備してある。朝陽の髪質に合うものを探していると、村井が近づいてきた。今日も今日とて、指名の予約が詰まっているだろうに。一瞬手が空いたようだ。
「こんにちは! 兎野のお知り合いですか?」
「あ……はい。そうです」
「村井ー。朝陽が驚いてるだろ」
「ごめんごめん。仲良さそうだったから、つい声かけちゃった」
ワックスを手に伸ばし、朝陽の前髪に指を通すと、村井もそれいいな、と隣で頷く。恭生は素直に鼻を高くする。だがまだなにか言いかけた村井を、そこまで、と遮る。
「村井のアイディアは絶対的確だけど、朝陽はオレがかっこよくしたいから。それ以上は禁止」
「えー、褒められた?」
「うん、めっちゃ褒めてる」
「やった。てか兎野と朝陽さん、ほんと仲良いんすね」
「そうですね」
喜んだ村井は、朝陽に視線を送りながらそう言った。セットしている最中だからだろう、首を動かすのを耐えつつ朝陽が返事をする。目の前でふたりの視線が交わっているのが、なんだか面白くない。朝陽を連れてきたのはオレなのに、なんて。ガキかよ、と内心苦笑しつつ、恭生は口を開く。
「朝陽はオレのいちばんだから」
「……え?」
村井がぽかんとした顔をして、朝陽は目を見開く。
男同士で付き合っていることを、特別隠すつもりはないと朝陽は以前言っていた。恭生も、村井にはいつか伝えようと思っていたが、美容師談義にばかり花が咲いて機会を逃してきた。村井が勘づいたなら、それでいい。だが村井が口を開きかけたところで、村井を指名で予約している客が来店した。今行きます、と声を上げながら、恭生の脇腹を肘でつついてくる。
「兎野~! もっとゆっくりできる時に聞きたかったんだけど!」
「はは、ごめん」
「もうー。じゃあ俺行くわ。朝陽さん、今日は卒業おめでとうございます。ごゆっくり」
「あ、はい。ありがとうございます」
名残惜しそうに晴れやかな笑顔を向けた村井は、そのテンションのまま客の待つほうへと歩いていく。
まったく、騒がしくて良いヤツだ。ついくすくすと笑いつつ、朝陽のセットを終える。前髪を上げ、サイドも後ろのほうに向かって流れるようにセットした。
「よし、できた。どう? 後ろはこんな感じ」
「わ、めっちゃいいね。俺じゃないみたい。恭兄すげー……」
「はは、ありがと。じゃあ行くか」
立つように促し、レジのほうへと向かう。だが今日のこれは恭生からのプレゼントだ。会計は後で済ませておくと言えば、払いたいと朝陽は渋る。
「それは朝陽が予約で来られた時にお願いしようかな」
「う……ちゃんとします」
「はは、うん。待ってる。まあ家で切るのも好きだけどな」
「俺も好き。でも美容師してる恭兄見てて、やっぱりここで切ってほしいなって思った」
「そう?」
話をしながら外へと出る。卒業を迎える春とは言え、三月の東京はまだまだ寒い。冷えた空気に頬を撫でられながら、朝陽のネクタイを整える。
「美容師してる恭兄、かっこいいね。ドキドキした。他のお客さんたちも恭兄に見惚れてたし。まあ正直、嫉妬もしたけど」
「……マジか」
「うん」
「あー、そっか。なあ朝陽、そう見えたんだとしたら……」
朝陽の腕を引いて、屈んでくれた耳元に口を近づける。道を行き交う人々に聞かれたって構いはしないのだが、ふたりだけで大切にしたくなることだってある。
「オレをかっこよくしてくれたのは、朝陽だよ」
「……え?」
「朝陽と付き合う前のオレはさ、理想の美容師にはまだまだ遠くて、自信がなかった。でも、朝陽とまたたくさん一緒にいられるようになって、毎日楽しくて……そしたら変われたんだ。朝陽のおかげだよ。そんなオレを朝陽にかっこいいって言ってもらえるの、なんか感動する」
「恭兄……」
思わずまぶたが熱くなって、慌てて鼻を啜り誤魔化す。だが朝陽にはバレバレのようで、もらい泣きするかのように朝陽の瞳も潤んでしまった。
「朝陽? ごめん、移った?」
「移った……し、今言われたの嬉しすぎて、そうじゃなくても泣いた」
「はは、そっか。なんかオレたち、大人になった割によく泣くよな」
「だね」
離れていた長い間、堪えていた苦しい思いがお互いにたくさんあった。振り返って、立ち返って、その分もめいっぱい泣いて笑って過ごしているような気がする。どうしようもなく恋しくて、その分だけ切なくて、それをくり返していくことがきっと愛で。最期の日なんて遠く遠く見えない日であれと願いながら、今を噛みしめて生きていけたらいい。
「じゃあ、俺、そろそろ行くね」
「気をつけてな。飲み会も楽しんでくるんだぞ」
「うん、ありがとう。恭兄も、お仕事頑張って」
「おう」
こちらを向いたまま後ずさるように三歩進んで、それから駅のほうへと歩き出す。ああ、頬にキスでもすればよかったな。名残惜しくて背中を見送っていると、ふと朝陽がこちらを振り返った。
「恭兄ー!」
大きく手を振ってくる朝陽に、恭生も振り返す。するとカメラをこちらに向け、レンズを覗きこむ様子が見えた。
「今日はさすがに撮られる側だろうに。ほんと好きなんだな、カメラが」
肉眼では細かな表情は見えない距離まで離れているが、レンズを通した朝陽の目には見えていたりするのだろうか。なんとなくきちんと見られているような気がして、恭生は手を振り続けながらゆっくりとくちびるを動かす。
「だ、い、す、き」
すると数秒ののち、スマートフォンがメッセージの到着を報せた。開いてみれば朝陽からで、恭生はつい吹き出して、それから両手で握って胸元に当てる。ふと見上げた空は、澄んでいて。
まだまだ早い朝の陽光が、薄いまぶたを通る。深呼吸をすれば、体に巡るのは冷たいけれど春の匂い。
ああ、きっと、今日という日を特別にして、いくつ歳を重ねても何度でも思い出す。そんな予感に、口の中で愛しい名前を転がした。
<俺も大好き>
朝陽のくれたメッセージが、心いっぱいに染み渡る。毎日のように言っているのに、今だってレンズ越しに伝わったのに。早く想いを返したくなる。
大好きだよ朝陽、愛している。
叫び出したいほどの気持ちをぐっと堪え、恭生は店内へと引き返す。けれど、やはり耐えられずに立ち止まり<オレも>とメッセージを返した。



