「朝陽ー、そっちはどうだ? オレは大体終わった!」
「俺もひと段落ついたとこだよ」
新しい春が巡ってきて、それと同時に恭生と朝陽は引っ越しをした。以前のアパートには愛着があったが、大の男ふたり暮らしではさすがに手狭だった。
重要なのは場所より、朝陽と一緒にいることで。もっと広い家にと考えるのは、恭生にとって自然なことだった。
「恭兄の部屋、入っていい?」
「もちろん」
新居を探す際、恭生は2LDKにこだわった。自分は物が多いタイプだし、朝陽だってカメラの機材などこれから増えていくかもしれないのだ。それぞれに部屋を持っていたほうが長く住めると考えた。
だが職場であるヘアサロンの近くとなると、手の届かないほど家賃が高かった。徐々に探す範囲を広げていって、見つけたのは郊外に建つ、築10年ほどの物件だ。
五階建ての賃貸マンション、四階の部屋。最寄り駅まで多少歩くが、主要駅へのアクセスは悪くない。いい部屋を見つけられたと満足している。
「おお、ベッドでか」
「クイーンサイズだからな」
セミダブルのベッドで身を寄せ合って寝るのも好きだったが、せっかくだからと引っ越しを機に買い替えた。ダイブした朝陽の隣に、恭生も横たわる。
「今日からここで寝るのかあ。楽しみ」
「だな」
引っ越しを決めた時、お互いの希望を出し合った。恭生の希望はそれぞれに部屋を持つこと。そして朝陽の希望は、同じベッドで寝ることだった。恭兄のスペースが狭くなるじゃん、と朝陽は渋ったが、ベッドは恭生の部屋へ置くことにした。朝陽の撮影は夜が主だから、帰宅が深夜になることもある。自分は先に就寝することもあるだろうと思ったら、朝陽に気を使わせないようにとそれは譲れなかった。
「あれ? うさぎと犬のぬいぐるみは?」
「リビングに置いた。ここも捨てがたかったけど、そっちのほうが朝陽も多く見てられるかと思って」
「そっか」
窓から春の日差しがやわらかく入って、ふたりの寝転ぶシーツをあたためている。どちらからともなく手を繋ぎ、この家に越してきて初めてのキスをする。胸の底をくすぐられているような、浮足立つ心がよく分かる。
「恭兄」
「んー?」
「これからもよろしくお願いします」
「ん、こちらこそよろしくお願いします」
「恭兄、今眠いでしょ」
「あ、バレた? でも、朝陽も眠いだろ」
「うん、だってあったかい」
「な」
朝陽のほうへ体を寄せ髪を撫でると、そっと抱きしめられる。いよいよ本格的にまぶたが重たくなってきた。
リビングにはまだ段ボールがいくつか残っている。明日も休みを取っているけれど、予定があるから片づけたほうがいいと分かっているのだが。少しだけ、とふたりで許し合って瞳を閉じる。
おだやかな、新しい日々の幕開けだ。
「恭兄どうしよ。緊張してきた……」
翌日。新しいベッドで目覚め、朝食にトーストとたまごやきを食べて。今は電車に揺られているところだ。行き先は、神奈川にある朝陽の実家だ。
朝陽は大きなため息を吐き、扉のガラスにごつんと額をぶつけた。最近だと今年の正月にも一緒に帰省したが、今日の朝陽はお気楽な気持ちではいられない。それをよく分かっているから、恭生はそっと朝陽の指先を握った。握り返される力は頼りない。
「大丈夫だよ。きっとちゃんと聞いてくれる」
「……そうかな」
「うん。それに、オレは絶対味方だから」
「……うん」
朝陽はこの春、大学四年生になった。就職先はまだ決まっていない。カメラマンを本気で目指すと決め、多くの同級生たちとは違う道を歩き始めている。今日はその想いを両親に打ち明けるべく、実家に向かっているのだ。
一緒に来てほしいと朝陽に頼まれた時、恭生は二つ返事で頷いた。自分の力で一歩進もうとする朝陽の力になれるのなら、どんなことでもしたかった。
「なあなあ朝陽」
「ん?」
「おばさんたち、この手土産喜んでくれるかな。今人気のお菓子だって、お客さんに教えてもらったヤツなんだけど」
「うん、絶対好きだと思うよ。それに恭兄が選んだって言ったら、もっと喜びそう」
「はは、そっか」
朝陽の表情が和らぐ。人差し指の節を撫でると、くすっと笑ってくれた。
朝陽の実家へ、十四時頃に到着した。朝陽が言った通り、朝陽の母は手土産をずいぶんと喜んでくれた。朝陽の父は、さっそくひとつ食べたそうにしている。コーヒーと紅茶と緑茶、どれがいいかと尋ねられ、コーヒーと迷ったが恭生は紅茶をお願いした。
両親にどんなに歓迎されても、朝陽の表情は硬かった。ダイニングテーブルに四人で座って、朝陽以外の三人で他愛のない話をし十分ほどが経っている。
向かいに座っている両親の視線はずっと、俯いている朝陽を気にかけている。なにか大事な話があると察しているのだろう。ひそやかに漂っていた緊張感は、朝陽が顔を上げたのと同時にピークへと達した。
「あの、さ」
「うん」
朝陽がついに口を開く。声が掠れていて、ひとつ咳ばらいをした。両親ふたりが固唾を飲んで頷く。恭生もひそかに、膝の上でぎゅっと拳を握った。
「俺、やりたい仕事があるんだ。でも、それは、大学で勉強してきたことと、全然関係なくて……」
そこまで言って、朝陽は顔を上げた。それからハッと息を詰める。おだやかに微笑む両親に出会ったからだ。朝陽の瞳に、雫が浮かぶ。ゆらゆらと揺れていて、恭生もつられて目の奥が熱くなる。
「な、んで、そんな顔してるの?」
「なんでって、ねぇ? それで、朝陽はどんなお仕事がしたいの?」
「っ、俺、カメラの仕事がしたい」
「ほう、カメラマンか」
「……うん。写真スタジオの就職先を探そうと思ってる。でも専門的な勉強をしたわけじゃないから、厳しいと思う」
「へえ。いいじゃないか。応援するよ」
「……怒らないの?」
朝陽が恐る恐る尋ねると、ふたりは顔を見合わせた。朝陽のほうを向き直した時、朝陽の母は微笑みつつ、眉はしゅんと垂れ下がっていた。
「私たち、朝陽がかわいくてかわいくて。色々心配しちゃうのも、ずっと手を取って道を示してきたのも、これが愛情だって疑いもしなかった。でも……この家を出て、恭くんとちゃんと暮らしてて。朝陽はちゃんと大人になった、ううん、もうなってたんだなって。成長してないのは、私たちだったんだなって気づいたの。東京の大学に通っているのに、心配する私たちのために毎日帰ってきてくれてたし。窮屈な思いもさせたよね、ごめんね」
「っ、そんなことないよ。ふたりのこと、俺大好きだし」
「あら。ありがとう。私たちもずっと大好きよ。朝陽が自分で進みたい道を見つけて誇らしい。それを伝えてくれて、とっても嬉しい」
いよいよ鼻を啜った朝陽の頭を、よく頑張ったなと恭生は撫でる。恭兄~、としがみついてくる大きな弟を抱き止めながら、朝陽の両親と顔を見合わせて、みんなで泣きながら笑った。
それから朝陽は、これからどうしていくつもりなのかを両親に説明した。
大学の勉強も一切手を抜く気はないこと。就職先が万が一見つからなかったら、今も師事している同級生の兄のプロカメラマンの元で、修行を積ませてもらう伝手があること。
険しい道だと理解していて、それでも踏ん張って進もうとする我が子の話に、ふたりは真剣に耳を傾けていた。
朝陽の撮る写真をふたりは見たことがなかったようで、照れくさそうにしながらも朝陽はタブレットでたくさんの写真を見せた。なにかと解説を求める父親と共にソファへ移動して、ふたりで頭を突き合わせながら話しこみ始める。
「恭くん、次はコーヒーどう? 好きだったわよね」
「あ、はい。ありがとうございます」
朝陽たちを微笑ましく眺めてから、朝陽の母が今度はコーヒーを淹れてくれた。それをありがたく頂いていると、どこか意味深な視線が注がれていることに気づく。
「…………? どうかしました?」
「恭くんが朝陽のそばにいてくれてよかったなって、しみじみしちゃって。ありがとうね、恭くん」
「いや、オレはそんな……」
まさかそんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。朝陽を奪ってしまったような後ろめたさを、拭えずにいたからだ。さっきの話を聞いている限り、杞憂だったと理解したけれど。長年近くで見てきた愛情たっぷりの母親のまなざしを、恭生はよく知っている。
「あの子、生まれた時からずーっと、恭くんのことが大好きよね。そこは本当に、ずっと変わらない。なんだか兄離れできない弟みたいで、心配に思ったこともないわけじゃないけど。あの子は夢も大事な人も、自分で選べるようになったのね」
「……え?」
「ふふ。恭くん、朝陽をこれからも、末永く。よろしくお願いします」
「えーっと……」
末永く、が強調されていたのは、気のせいなんかではない。微笑む瞳には確かに朝陽とよく似た強い光があって、恭生を捉えたまま静かに頷いた。
自分たちの関係に気づかれている。全てお見通しなのだと理解するのに、それだけで充分だった。
「え、っと……もしかして、朝陽から?」
誤魔化すだけ無駄だと悟った恭生は、恐る恐るそう尋ねる。
「ううん。見てたら分かるわ」
「えー、マジ?」
「ふふ、うん。恭くんと暮らし始めるちょっと前から、朝陽は明るくなった。それから、どこか一皮剥けたというか。恭くんは逆に、ちょっと子どもみたいなところも出てきたわね。あ、もちろんいい意味でよ。肩の荷が下りたのかなあ、みたいに感じる。雰囲気がやわらかくなった」
自分のことをあまりに的確に言い当てられて、恭生は面喰ってしまった。
祖父に抱いていた疑念のこと。自由の影で、ひとつひとつの選択が自分に返ってくること。幸せとはこういうものだろう、と他人にも自分にも勝手に当てはめて、窮屈な恋愛をしてきたこと。
それら全てが圧し掛かって、人と距離を置くようになっていたと思う。だが変わった。朝陽と恋をしたからだ。今は違うと自分でも感じることができる。
「オレもそう思う。全部朝陽のおかげだよ」
「あら、そうなの? あの子もやるわね」
「うん、朝陽はすげーいい男だよ」
「ふふ、知ってる」
体からみるみると力が抜けて、朝陽の母への話し方も昔のように砕けたものになってきた。
朝陽との関係を気づかれている、そう分かった瞬間、本当は咄嗟に謝ろうと思った。だが、そうしなくてよかった。朝陽を愛する人が、こんなにも信頼してくれているのだ。その想いをしっかり受け取って、大事にしていくのがきっといい。
「おばさん、ありがとう。今日、オレも来てよかった」
「私も。恭くんにも会えて嬉しかった」
このまま一緒に夕飯でもと誘われたが、ふたりでパスタを食べに行く予定を立てていたので丁重に断った。また来てね、と見送ってくれる朝陽の両親に手を振る。
「じゃあ東京に戻るか」
「え。待ってよ恭兄」
柴田家を出て駅のほうへと足を向けると、朝陽が慌てたように恭生の手を取った。その視線はすぐに、隣にある恭生の実家を振り返る。
「寄っていかないの? 恭兄の家。せっかくここまで来たのに」
「んー、別にいいよ。正月に会ったし」
東京へ出てからも、日帰りではあるが正月には毎年帰省している。今年だってそうだった。それ以外で連絡することは、恭生からも親からも滅多にない。それが兎野家の距離感で、近くに来たからと顔を見せるのはなんだか気恥ずかしい。
昔から自分を知る人に『肩の荷が下りたみたい』と言われるくらい、変わった自分を知っているけれど。生まれてからこっちずっと築いてきたものを、なかなか崩せないのもまた確かだ。
「えー……でもオレ、おばちゃんたちに会いたい」
「マジ?」
「うん。引っ越す前はしょっちゅう喋ってたし」
「んー、分かった。でもこの時間だと、いないかもしれないぞ」
「いるかもしんないよ」
朝陽に乞われてしまったら、恭生は頷くほかない。
朝陽の指がインターホンを押す。出てくれなくてもいいよ、なんて思ってしまったが、すぐに応答があった。驚いた様子が伝わってきて、すぐに玄関の扉が開く。
「恭生、おかえり! どうしたの? 珍しいわね」
「ん。ちょっと用があって朝陽の家に来たんだけど、朝陽がうちにも寄りたいって」
「あら、朝陽くんもおかえりなさい。また大きくなった?」
「はは、もうさすがに大きくならないよ」
「そう? まあ上がって。ちょうどよかったわ」
一体なにがちょうどよかったのだろう。母の言葉に疑問を覚えながら、渋々と靴を脱ぐ。上がらずに済まそうと思ったが、そうはいかなかった。同じように靴を脱ぐ朝陽が、そっと耳打ちしてくる。
「恭兄のおばさん、俺のこと見えてなかったんだね」
「え? あー、たしかに」
インターホンのモニターに朝陽も映っていただろうし、玄関を開けた時だって背の高い朝陽は目立っただろうに。恭生が朝陽の名を出してようやく、朝陽の存在に気づいたようだった。
視力が落ちてしまったのだろうか。心配していると、朝陽はなぜか嬉しそうに、おばさんは昔からそうだよねなんて不思議なことを言う。
「どういう意味だ?」
「それは……」
「ねえねえ恭生、これ見て」
ふたりで話していると、リビングのほうから母が顔を出し手招いた。
「なに?」
父はどうやら仕事でいないようだった。朝陽との会話も中途半端に、母のもとへと寄る。すると、一枚の写真を手渡された。ちいさな頃の恭生と、祖父の姿が写っている。
「昨日ね、兎野のおじいちゃんちの片づけだったの。伯父さんたちが住んでたんだけど、もう古かったから手放すことにしたみたいで。そしたらこれ、おじいちゃんの部屋に飾ってあって。恭生、覚えてる?」
「うーん、覚えてないかも……」
「俺は覚えてるよ」
「え? 朝陽が?」
「だってこの写真が、俺の原点だから」
「……え?」
朝陽の言葉に、恭生はまた写真に視線を戻す。画質は今の写真に比べれば粗く、少しブレている。だが幼い自身の手に、柴犬のぬいぐるみが抱かれていることに気づく。
「あ、これ……」
ああ、そうだ。この写真は、このぬいぐるみを貰った日のものだ。朝陽がうさぎを欲しがったから、自分の手元の柴犬が嬉しくなって。母が携帯電話で朝陽とのツーショットを撮ってくれて、その後に朝陽が自分も撮りたいと言いだした。それで母が朝陽に携帯電話を貸して、祖父との写真を撮ってもらったのだった。
「思い出した……朝陽が撮ってくれたの」
「うん。上手だなって褒めてくれて、かなり嬉しかった」
「そっか。はは、オレめっちゃ笑ってる」
カメラマンを志すきっかけを、恭兄に褒められたからだと朝陽は言っていた。今の今まで思い出せなかったのは、祖父が関係していたからなのかもしれない。
だが朝陽のおかげで祖父のことを理解できた今、鮮やかに蘇る。線のように繋がったそれぞれの想いに、胸がふつふつと熱くなる。
「お母さん、この写真もらっていい?」
「えー、お母さんも飾ろうと思ってたのに……なんてね。もちろんあげる。朝陽くんにとっても大切なものみたいだしね」
「ありがとう」
「それに、なんだか安心した」
「え?」
再び写真を眺めていると、母が安堵の息と共にそう言った。どういう意味だろう。顔を上げると、母が肩を竦めてみせる。
「恭生、おじいちゃんのこと、最後のほう苦手に思ってたでしょ」
「え、なんで知って……」
「そりゃ分かるわよ、息子のことだもん」
「…………」
「でも、吹っ切れてるみたいね。その写真も本当は見せるか迷ったんだけど、渡せてよかった」
「なんだよそれー……」
まさか、祖父への複雑な感情を母に勘づかれているとは思いもしなかった。いつも忙しくて放任主義の母が、そんな風に自分のことを見てくれていただなんて。今の口ぶりだと、きっとずっと、自分の思う以上に見守ってくれていたのかもしれない。
泣きたくなんかないのに、鼻がツンと痛んで恭生は思わず顔を背ける。気づかれる前に、一刻も早くここを去りたい。だが朝陽がそうはさせてはくれなかった。
「ねえ、もしよかったらふたりの写真撮ってもいい?」
「は? おい朝陽」
「え、いいの? 撮って撮って朝陽くん」
「ちょ、お母さんも……」
戸惑う恭生に構わず、朝陽がリュックからカメラを取り出す。
「いいじゃない。欲しいもん、息子とのツーショット」
「えー、マジ?」
「マジマジ。お父さんに自慢しちゃお。絶対羨ましがるよ」
「どうだか……」
じゃあ撮るよ、とレンズが向けられて、母の手が恭生の腕に絡む。寄り添い合うのはいつぶりだろう。衣食住不自由なく、欲しいものも与えてもらってきた。だが子どもの頃まで記憶を巻き戻してもこんな記憶は見当たらず、どんな顔をすればいいのか分からない。その上、この歳で親と仲の良さそうな写真なんて、と小っ恥ずかしくて顔が引きつる。それなのに。恭兄、と呼ばれて視線を上げると、愛おしそうに微笑む朝陽がそこにはいて。
「ふ、はは」
「あ、恭兄いい顔」
シャッターが切られる度に、胸のうちに渦巻くものが薄まっていくのを感じる。
朝陽との日々で変わった自分を知っている。それは今も現在進行形で、秒ごとに変化する。ふと視線を感じて隣を見下ろすと、母が薄らと涙を浮かべてこちらを見ていた。
ああ、愛されているのだ。見える景色が広がった自分に出逢う。朝陽のためだけでなく母のためにも、今日はいない父のためにも。ひたむきに生きていきたいな、なんて思った。
ゆらゆら揺れる視界に陽の光が射して、シャッター音の心地いい音。朝陽がひとつステップを上がった日、恭生にも齎されるのは春の匂いだ。
「俺もひと段落ついたとこだよ」
新しい春が巡ってきて、それと同時に恭生と朝陽は引っ越しをした。以前のアパートには愛着があったが、大の男ふたり暮らしではさすがに手狭だった。
重要なのは場所より、朝陽と一緒にいることで。もっと広い家にと考えるのは、恭生にとって自然なことだった。
「恭兄の部屋、入っていい?」
「もちろん」
新居を探す際、恭生は2LDKにこだわった。自分は物が多いタイプだし、朝陽だってカメラの機材などこれから増えていくかもしれないのだ。それぞれに部屋を持っていたほうが長く住めると考えた。
だが職場であるヘアサロンの近くとなると、手の届かないほど家賃が高かった。徐々に探す範囲を広げていって、見つけたのは郊外に建つ、築10年ほどの物件だ。
五階建ての賃貸マンション、四階の部屋。最寄り駅まで多少歩くが、主要駅へのアクセスは悪くない。いい部屋を見つけられたと満足している。
「おお、ベッドでか」
「クイーンサイズだからな」
セミダブルのベッドで身を寄せ合って寝るのも好きだったが、せっかくだからと引っ越しを機に買い替えた。ダイブした朝陽の隣に、恭生も横たわる。
「今日からここで寝るのかあ。楽しみ」
「だな」
引っ越しを決めた時、お互いの希望を出し合った。恭生の希望はそれぞれに部屋を持つこと。そして朝陽の希望は、同じベッドで寝ることだった。恭兄のスペースが狭くなるじゃん、と朝陽は渋ったが、ベッドは恭生の部屋へ置くことにした。朝陽の撮影は夜が主だから、帰宅が深夜になることもある。自分は先に就寝することもあるだろうと思ったら、朝陽に気を使わせないようにとそれは譲れなかった。
「あれ? うさぎと犬のぬいぐるみは?」
「リビングに置いた。ここも捨てがたかったけど、そっちのほうが朝陽も多く見てられるかと思って」
「そっか」
窓から春の日差しがやわらかく入って、ふたりの寝転ぶシーツをあたためている。どちらからともなく手を繋ぎ、この家に越してきて初めてのキスをする。胸の底をくすぐられているような、浮足立つ心がよく分かる。
「恭兄」
「んー?」
「これからもよろしくお願いします」
「ん、こちらこそよろしくお願いします」
「恭兄、今眠いでしょ」
「あ、バレた? でも、朝陽も眠いだろ」
「うん、だってあったかい」
「な」
朝陽のほうへ体を寄せ髪を撫でると、そっと抱きしめられる。いよいよ本格的にまぶたが重たくなってきた。
リビングにはまだ段ボールがいくつか残っている。明日も休みを取っているけれど、予定があるから片づけたほうがいいと分かっているのだが。少しだけ、とふたりで許し合って瞳を閉じる。
おだやかな、新しい日々の幕開けだ。
「恭兄どうしよ。緊張してきた……」
翌日。新しいベッドで目覚め、朝食にトーストとたまごやきを食べて。今は電車に揺られているところだ。行き先は、神奈川にある朝陽の実家だ。
朝陽は大きなため息を吐き、扉のガラスにごつんと額をぶつけた。最近だと今年の正月にも一緒に帰省したが、今日の朝陽はお気楽な気持ちではいられない。それをよく分かっているから、恭生はそっと朝陽の指先を握った。握り返される力は頼りない。
「大丈夫だよ。きっとちゃんと聞いてくれる」
「……そうかな」
「うん。それに、オレは絶対味方だから」
「……うん」
朝陽はこの春、大学四年生になった。就職先はまだ決まっていない。カメラマンを本気で目指すと決め、多くの同級生たちとは違う道を歩き始めている。今日はその想いを両親に打ち明けるべく、実家に向かっているのだ。
一緒に来てほしいと朝陽に頼まれた時、恭生は二つ返事で頷いた。自分の力で一歩進もうとする朝陽の力になれるのなら、どんなことでもしたかった。
「なあなあ朝陽」
「ん?」
「おばさんたち、この手土産喜んでくれるかな。今人気のお菓子だって、お客さんに教えてもらったヤツなんだけど」
「うん、絶対好きだと思うよ。それに恭兄が選んだって言ったら、もっと喜びそう」
「はは、そっか」
朝陽の表情が和らぐ。人差し指の節を撫でると、くすっと笑ってくれた。
朝陽の実家へ、十四時頃に到着した。朝陽が言った通り、朝陽の母は手土産をずいぶんと喜んでくれた。朝陽の父は、さっそくひとつ食べたそうにしている。コーヒーと紅茶と緑茶、どれがいいかと尋ねられ、コーヒーと迷ったが恭生は紅茶をお願いした。
両親にどんなに歓迎されても、朝陽の表情は硬かった。ダイニングテーブルに四人で座って、朝陽以外の三人で他愛のない話をし十分ほどが経っている。
向かいに座っている両親の視線はずっと、俯いている朝陽を気にかけている。なにか大事な話があると察しているのだろう。ひそやかに漂っていた緊張感は、朝陽が顔を上げたのと同時にピークへと達した。
「あの、さ」
「うん」
朝陽がついに口を開く。声が掠れていて、ひとつ咳ばらいをした。両親ふたりが固唾を飲んで頷く。恭生もひそかに、膝の上でぎゅっと拳を握った。
「俺、やりたい仕事があるんだ。でも、それは、大学で勉強してきたことと、全然関係なくて……」
そこまで言って、朝陽は顔を上げた。それからハッと息を詰める。おだやかに微笑む両親に出会ったからだ。朝陽の瞳に、雫が浮かぶ。ゆらゆらと揺れていて、恭生もつられて目の奥が熱くなる。
「な、んで、そんな顔してるの?」
「なんでって、ねぇ? それで、朝陽はどんなお仕事がしたいの?」
「っ、俺、カメラの仕事がしたい」
「ほう、カメラマンか」
「……うん。写真スタジオの就職先を探そうと思ってる。でも専門的な勉強をしたわけじゃないから、厳しいと思う」
「へえ。いいじゃないか。応援するよ」
「……怒らないの?」
朝陽が恐る恐る尋ねると、ふたりは顔を見合わせた。朝陽のほうを向き直した時、朝陽の母は微笑みつつ、眉はしゅんと垂れ下がっていた。
「私たち、朝陽がかわいくてかわいくて。色々心配しちゃうのも、ずっと手を取って道を示してきたのも、これが愛情だって疑いもしなかった。でも……この家を出て、恭くんとちゃんと暮らしてて。朝陽はちゃんと大人になった、ううん、もうなってたんだなって。成長してないのは、私たちだったんだなって気づいたの。東京の大学に通っているのに、心配する私たちのために毎日帰ってきてくれてたし。窮屈な思いもさせたよね、ごめんね」
「っ、そんなことないよ。ふたりのこと、俺大好きだし」
「あら。ありがとう。私たちもずっと大好きよ。朝陽が自分で進みたい道を見つけて誇らしい。それを伝えてくれて、とっても嬉しい」
いよいよ鼻を啜った朝陽の頭を、よく頑張ったなと恭生は撫でる。恭兄~、としがみついてくる大きな弟を抱き止めながら、朝陽の両親と顔を見合わせて、みんなで泣きながら笑った。
それから朝陽は、これからどうしていくつもりなのかを両親に説明した。
大学の勉強も一切手を抜く気はないこと。就職先が万が一見つからなかったら、今も師事している同級生の兄のプロカメラマンの元で、修行を積ませてもらう伝手があること。
険しい道だと理解していて、それでも踏ん張って進もうとする我が子の話に、ふたりは真剣に耳を傾けていた。
朝陽の撮る写真をふたりは見たことがなかったようで、照れくさそうにしながらも朝陽はタブレットでたくさんの写真を見せた。なにかと解説を求める父親と共にソファへ移動して、ふたりで頭を突き合わせながら話しこみ始める。
「恭くん、次はコーヒーどう? 好きだったわよね」
「あ、はい。ありがとうございます」
朝陽たちを微笑ましく眺めてから、朝陽の母が今度はコーヒーを淹れてくれた。それをありがたく頂いていると、どこか意味深な視線が注がれていることに気づく。
「…………? どうかしました?」
「恭くんが朝陽のそばにいてくれてよかったなって、しみじみしちゃって。ありがとうね、恭くん」
「いや、オレはそんな……」
まさかそんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。朝陽を奪ってしまったような後ろめたさを、拭えずにいたからだ。さっきの話を聞いている限り、杞憂だったと理解したけれど。長年近くで見てきた愛情たっぷりの母親のまなざしを、恭生はよく知っている。
「あの子、生まれた時からずーっと、恭くんのことが大好きよね。そこは本当に、ずっと変わらない。なんだか兄離れできない弟みたいで、心配に思ったこともないわけじゃないけど。あの子は夢も大事な人も、自分で選べるようになったのね」
「……え?」
「ふふ。恭くん、朝陽をこれからも、末永く。よろしくお願いします」
「えーっと……」
末永く、が強調されていたのは、気のせいなんかではない。微笑む瞳には確かに朝陽とよく似た強い光があって、恭生を捉えたまま静かに頷いた。
自分たちの関係に気づかれている。全てお見通しなのだと理解するのに、それだけで充分だった。
「え、っと……もしかして、朝陽から?」
誤魔化すだけ無駄だと悟った恭生は、恐る恐るそう尋ねる。
「ううん。見てたら分かるわ」
「えー、マジ?」
「ふふ、うん。恭くんと暮らし始めるちょっと前から、朝陽は明るくなった。それから、どこか一皮剥けたというか。恭くんは逆に、ちょっと子どもみたいなところも出てきたわね。あ、もちろんいい意味でよ。肩の荷が下りたのかなあ、みたいに感じる。雰囲気がやわらかくなった」
自分のことをあまりに的確に言い当てられて、恭生は面喰ってしまった。
祖父に抱いていた疑念のこと。自由の影で、ひとつひとつの選択が自分に返ってくること。幸せとはこういうものだろう、と他人にも自分にも勝手に当てはめて、窮屈な恋愛をしてきたこと。
それら全てが圧し掛かって、人と距離を置くようになっていたと思う。だが変わった。朝陽と恋をしたからだ。今は違うと自分でも感じることができる。
「オレもそう思う。全部朝陽のおかげだよ」
「あら、そうなの? あの子もやるわね」
「うん、朝陽はすげーいい男だよ」
「ふふ、知ってる」
体からみるみると力が抜けて、朝陽の母への話し方も昔のように砕けたものになってきた。
朝陽との関係を気づかれている、そう分かった瞬間、本当は咄嗟に謝ろうと思った。だが、そうしなくてよかった。朝陽を愛する人が、こんなにも信頼してくれているのだ。その想いをしっかり受け取って、大事にしていくのがきっといい。
「おばさん、ありがとう。今日、オレも来てよかった」
「私も。恭くんにも会えて嬉しかった」
このまま一緒に夕飯でもと誘われたが、ふたりでパスタを食べに行く予定を立てていたので丁重に断った。また来てね、と見送ってくれる朝陽の両親に手を振る。
「じゃあ東京に戻るか」
「え。待ってよ恭兄」
柴田家を出て駅のほうへと足を向けると、朝陽が慌てたように恭生の手を取った。その視線はすぐに、隣にある恭生の実家を振り返る。
「寄っていかないの? 恭兄の家。せっかくここまで来たのに」
「んー、別にいいよ。正月に会ったし」
東京へ出てからも、日帰りではあるが正月には毎年帰省している。今年だってそうだった。それ以外で連絡することは、恭生からも親からも滅多にない。それが兎野家の距離感で、近くに来たからと顔を見せるのはなんだか気恥ずかしい。
昔から自分を知る人に『肩の荷が下りたみたい』と言われるくらい、変わった自分を知っているけれど。生まれてからこっちずっと築いてきたものを、なかなか崩せないのもまた確かだ。
「えー……でもオレ、おばちゃんたちに会いたい」
「マジ?」
「うん。引っ越す前はしょっちゅう喋ってたし」
「んー、分かった。でもこの時間だと、いないかもしれないぞ」
「いるかもしんないよ」
朝陽に乞われてしまったら、恭生は頷くほかない。
朝陽の指がインターホンを押す。出てくれなくてもいいよ、なんて思ってしまったが、すぐに応答があった。驚いた様子が伝わってきて、すぐに玄関の扉が開く。
「恭生、おかえり! どうしたの? 珍しいわね」
「ん。ちょっと用があって朝陽の家に来たんだけど、朝陽がうちにも寄りたいって」
「あら、朝陽くんもおかえりなさい。また大きくなった?」
「はは、もうさすがに大きくならないよ」
「そう? まあ上がって。ちょうどよかったわ」
一体なにがちょうどよかったのだろう。母の言葉に疑問を覚えながら、渋々と靴を脱ぐ。上がらずに済まそうと思ったが、そうはいかなかった。同じように靴を脱ぐ朝陽が、そっと耳打ちしてくる。
「恭兄のおばさん、俺のこと見えてなかったんだね」
「え? あー、たしかに」
インターホンのモニターに朝陽も映っていただろうし、玄関を開けた時だって背の高い朝陽は目立っただろうに。恭生が朝陽の名を出してようやく、朝陽の存在に気づいたようだった。
視力が落ちてしまったのだろうか。心配していると、朝陽はなぜか嬉しそうに、おばさんは昔からそうだよねなんて不思議なことを言う。
「どういう意味だ?」
「それは……」
「ねえねえ恭生、これ見て」
ふたりで話していると、リビングのほうから母が顔を出し手招いた。
「なに?」
父はどうやら仕事でいないようだった。朝陽との会話も中途半端に、母のもとへと寄る。すると、一枚の写真を手渡された。ちいさな頃の恭生と、祖父の姿が写っている。
「昨日ね、兎野のおじいちゃんちの片づけだったの。伯父さんたちが住んでたんだけど、もう古かったから手放すことにしたみたいで。そしたらこれ、おじいちゃんの部屋に飾ってあって。恭生、覚えてる?」
「うーん、覚えてないかも……」
「俺は覚えてるよ」
「え? 朝陽が?」
「だってこの写真が、俺の原点だから」
「……え?」
朝陽の言葉に、恭生はまた写真に視線を戻す。画質は今の写真に比べれば粗く、少しブレている。だが幼い自身の手に、柴犬のぬいぐるみが抱かれていることに気づく。
「あ、これ……」
ああ、そうだ。この写真は、このぬいぐるみを貰った日のものだ。朝陽がうさぎを欲しがったから、自分の手元の柴犬が嬉しくなって。母が携帯電話で朝陽とのツーショットを撮ってくれて、その後に朝陽が自分も撮りたいと言いだした。それで母が朝陽に携帯電話を貸して、祖父との写真を撮ってもらったのだった。
「思い出した……朝陽が撮ってくれたの」
「うん。上手だなって褒めてくれて、かなり嬉しかった」
「そっか。はは、オレめっちゃ笑ってる」
カメラマンを志すきっかけを、恭兄に褒められたからだと朝陽は言っていた。今の今まで思い出せなかったのは、祖父が関係していたからなのかもしれない。
だが朝陽のおかげで祖父のことを理解できた今、鮮やかに蘇る。線のように繋がったそれぞれの想いに、胸がふつふつと熱くなる。
「お母さん、この写真もらっていい?」
「えー、お母さんも飾ろうと思ってたのに……なんてね。もちろんあげる。朝陽くんにとっても大切なものみたいだしね」
「ありがとう」
「それに、なんだか安心した」
「え?」
再び写真を眺めていると、母が安堵の息と共にそう言った。どういう意味だろう。顔を上げると、母が肩を竦めてみせる。
「恭生、おじいちゃんのこと、最後のほう苦手に思ってたでしょ」
「え、なんで知って……」
「そりゃ分かるわよ、息子のことだもん」
「…………」
「でも、吹っ切れてるみたいね。その写真も本当は見せるか迷ったんだけど、渡せてよかった」
「なんだよそれー……」
まさか、祖父への複雑な感情を母に勘づかれているとは思いもしなかった。いつも忙しくて放任主義の母が、そんな風に自分のことを見てくれていただなんて。今の口ぶりだと、きっとずっと、自分の思う以上に見守ってくれていたのかもしれない。
泣きたくなんかないのに、鼻がツンと痛んで恭生は思わず顔を背ける。気づかれる前に、一刻も早くここを去りたい。だが朝陽がそうはさせてはくれなかった。
「ねえ、もしよかったらふたりの写真撮ってもいい?」
「は? おい朝陽」
「え、いいの? 撮って撮って朝陽くん」
「ちょ、お母さんも……」
戸惑う恭生に構わず、朝陽がリュックからカメラを取り出す。
「いいじゃない。欲しいもん、息子とのツーショット」
「えー、マジ?」
「マジマジ。お父さんに自慢しちゃお。絶対羨ましがるよ」
「どうだか……」
じゃあ撮るよ、とレンズが向けられて、母の手が恭生の腕に絡む。寄り添い合うのはいつぶりだろう。衣食住不自由なく、欲しいものも与えてもらってきた。だが子どもの頃まで記憶を巻き戻してもこんな記憶は見当たらず、どんな顔をすればいいのか分からない。その上、この歳で親と仲の良さそうな写真なんて、と小っ恥ずかしくて顔が引きつる。それなのに。恭兄、と呼ばれて視線を上げると、愛おしそうに微笑む朝陽がそこにはいて。
「ふ、はは」
「あ、恭兄いい顔」
シャッターが切られる度に、胸のうちに渦巻くものが薄まっていくのを感じる。
朝陽との日々で変わった自分を知っている。それは今も現在進行形で、秒ごとに変化する。ふと視線を感じて隣を見下ろすと、母が薄らと涙を浮かべてこちらを見ていた。
ああ、愛されているのだ。見える景色が広がった自分に出逢う。朝陽のためだけでなく母のためにも、今日はいない父のためにも。ひたむきに生きていきたいな、なんて思った。
ゆらゆら揺れる視界に陽の光が射して、シャッター音の心地いい音。朝陽がひとつステップを上がった日、恭生にも齎されるのは春の匂いだ。



