もう恋愛なんてこりごりだ。当分誰とも付き合わない。そう心に決めたばかりだったのに。
 恋人に振られ、ヤケ酒までした夜。兎野(うの)恭生(きょうせい)は、自宅のアパートでキスをしていた。その相手はまさかの、嫌われてしまったとばかり思っていた幼なじみで。

 なんでこんなことになったんだっけ。
 ゆったりとまぶたを閉じながら、恭生は一日を思い返す――

 
 兎野恭生。神奈川のごく一般的な家庭に生まれた、ひとりっ子。
 両親は共にワーカホリックで、家にはいないことのほうが圧倒的に多かった。今思えば忙しさあっての後づけな気もするが、子どもの自主性を尊重するのだと事あるごとに明言する両親は、言葉の通りに放任主義だった。
 その恩恵を受け、好きなように生きてきた。ゲームを欲しがればお小言のひとつなく買ってもらえたし、成績が下がっても叱られることはなかった。
 自由はそのまま自信となり、子どもの頃は天真爛漫な性格だったと自分で思う。高校二年生の夏頃、とあることがきっかけでそんな性分は鳴りを潜めてしまったけれど。

 恭生が選んだ職業は、美容師だった。髪型やヘアカラーを変えるのは好きだったし、東京の専門学校へ通うためにひとり暮らしを始められるのも魅力的だった。順調に卒業し、現在は都内のヘアサロンにスタイリストとして所属している。
 

 今日も今日とて、朝から仕事に勤しんだ。アシスタントからスタイリストになり、約一年。理想の美容師にはまだまだだというのが自己評価で、技術を磨き続けたいと奮闘する日々だ。
 とは言え、ひとまず夢は叶っているし、彼女もいる。順風満帆と呼ぶのはさすがに気が引けても、それなりに上々の人生と言っていい。二十四歳の誕生日を翌月に控える初秋、そう噛みしめたところだったのに。
 仕事が終わり、彼女からのメッセージを開くと、“大事な話がある”とたったひと言だけ届いていた。嫌な予感が、経験を伴って恭生に押し寄せる。
 ああ、やっぱりな。
 待ち合わせに指定された駅前で、別れを切り出す彼女を目の前にただただそう思った。分かった、と了承すれば「そう言うと思った」と苦笑いされる。これもいつものことだ。

 ――あなたは優しすぎる。隙がない。ねえ、本当に私のこと好きだった?

 振られる時の決まり文句も、例に漏れず飛んできた。
 恋愛はもうずっと受け身だ。好きだと告白されれば、フリーなら断ることなく受け入れて。それでも自分なりに、大切にしているつもりなのだけれど。

 なぜ誰もがそう言って離れていってしまうのか、未だによく分かっていない。そんなところが問題なのだろうとも思うし、でも、と歯噛みする自分もいる。
 優しくしてなにが悪いのか。好意ならゆっくりと育っていたと思う。隙なんて、見せないほうがいいだろう。
 自分でした選択は、よくも悪くも自分に返ってくる。気に召さないことをしでかしたなら、ろくでもない男だと烙印を押すのだろうに。
 恭生なりに相手のことを考えて、かつ自分のためでもある行動を取ってきた。それが不満だと愛想を尽かされるのなら、恋愛は向いていないのかもしれない。

 重たいため息をアスファルトに吐いて、ひとり暮らしをしているアパートとは反対方向の電車に乗りこむ。混み合う車内で押しつぶされながら、メッセージアプリの履歴をぐんぐんと下へスクロールする。やっとのことで探し出した相手は、ただひとりの幼なじみだ。

<今さっき振られました。大学近くの食堂に行きます>

 以前のやり取りからすでに一年が経とうとしていて、けれど前回とほぼ同じメッセージを送信する。そうしてすぐに、スマートフォンをパンツのポケットに仕舞う。どうせ返事は返ってこない。
 やるせなさに、車窓にゴツンと額をぶつける。センターパートの前髪が崩れるのも気にせず、右手でくしゃりと握りこんだ。


「生ビールひとつお願いします。あとはー……たまごやき」

 店内のいちばん奥の席に座り、すぐに出てきたジョッキを呷る。炭酸が喉と胃に染み渡り、傷心が紛れるような心地を覚える。いや、苦い刺激を借りて、自分は今悲しいのだと言い聞かせているのかもしれない。
 高二の冬に少しだけ付き合った後輩。高三の半ばで告白してきた同級生。専門学校時代の後輩。それから、美容師になったばかりの頃、客として出逢ったひとつ年上の人。
 どの女の子たちとも、恭生なりに真剣に付き合っていた。今すぐとはいかずとも、このまま結婚するだろうかと想像したことだってある。それでもまたこうなる予感があったのも確かで、その日を迎えただけのような気もしているのだ。
 こんな男は別れて正解だ。次は最高の男と出逢って、どうか幸せになってほしい。去っていった元カノに、心の中で激励の言葉を送る。

 運ばれてきたたまごやきを頬張るとしょっぱくて、眉根を寄せてため息をつく。砂糖とミルクのたっぷり入った、甘いたまごやきがよかった。
 メッセージを送った相手は今頃どうしただろうか。テーブルに置いたスマートフォンを操作し、アプリを開く。返事は来ないと分かっているが、読んでくれたかどうかの確認はできるわけで。しかしそこに、既読の報せはまだない。

「早く気づけよなー……」

 人がせっかく、大学近くの定食屋を選んでわざわざやって来たというのに。
 こんな日にしか、会ってくれないくせに。
 早く来いよ、と口の中で悪態を転がし、ビールをもう一杯注文した。


『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』

 祖母を天国へと見送った朝だ。祖父の手が、ちいさな恭生の頭を撫でる。泣きじゃくりながらも、その声はよく聞こえて耳に残った。
 なんで、ねえなんで。幼心に抱えきれなかった疑問が、恭生の胸の奥でぐるぐると渦巻く。


「――(にい)(きょう)(にい)。起きろって」
「んん……あー、朝陽だあ。はは、来ないかと思った」
「バイトだったんだよ。ったく。酔っぱらい。店で寝たら迷惑だろ」

 いつの間に眠ってしまったのだろうか。肩を叩かれる感覚で、恭生はハッと目を覚ました。なにか嫌な夢をみていた気がするが、朝陽の顔を見たらすっかり飛んでいってしまった。
 目の前には空のジョッキが3つ。最後の一杯を空けた記憶は、残念ながらない。

「朝陽ー、久しぶりだけどあんま変わんないな。ふは、かわいいー」

 目の前に立っている大きな男の腕を引けば、大人しく屈んでくれた。ちいさい頃から変わらない、少しくせっ毛な短い黒髪を撫でると、精悍な顔が不服そうにむくれる。
 大切な幼なじみ。だが残念ながらもうずいぶんと、不機嫌な顔しか見られていない。

 ――4つ年下、大学二年生の柴田(しばた)朝陽(あさひ)。実家が隣で親同士も仲が良く、ちいさい頃からたくさんの時間を共に過ごした、弟同然の存在。表情豊かで懐っこくて、まっすぐに恭生を慕ってくれていた。
 だが、とあることがきっかけで嫌われてしまった。それ以来、もう何年も避けられている。
 それでも恭生にとっては、かわいい弟に変わりないけれど。

「かわいくはないだろ」
「うん、そうだな。かわいい」
「はあ……恭兄はパーマかかってるし、また髪色変えた? 銀色?」

 つんけんとしているけれど、落ち着いた口調の心地いいリズムが懐かしい。それでいて、声変わりした低いトーンは未だ聞き慣れなくて、心臓がぎこちない音を立てる。

「これはー、グレージュっていうの」
「ふうん。で? また振られたんだ」
「はは、そーう。もうさすがに恋愛は懲りたわ」
「……どうだか。ほら、帰るよ。歩ける?」
「当たり前……おっと」
「ああもう。しっかりしろって」

 立ち上がろうとしたらふらついてしまった。だがすかさず、朝陽が支えてくれた。
 変わんないな、なんて言ったけれど、再会する度に朝陽はたくましくなっている気がする。恭生だって身長なら178センチあるのだが、朝陽は優に185センチは超えていそうだ。そのうえ体まで鍛えられては、もうなにをしても勝てる気がしない。4つも年上なのにと情けなくなる。

 会計を済ませ外に出る。自覚している以上に酔っているのか、その数歩でまたよろめいてしまった。今度は腰を支えてくれた朝陽が、呆れたようにため息をつく。

「おぶろうか?」
「はは、大丈夫。歩けるよ」
「人にぶつかっても困るんだけど」
「う……それはそうだな」

 朝陽は健気で、いつだって素直に恭生の後ろをついてくるような子だった。だが、こうなったら譲らないところがある。幼い頃、恭生が怪我でもすれば自分が手当てをするのだと泣いて、絆創膏を貼ってくれていたのを思い出す。

「じゃあ、お願いします」
「うん。じゃあ、俺のリュック代わりに背負ってて」
「わかった」

 頷けばすぐに、目の前に屈む朝陽。手渡されたリュックはずっしりと重く、ゴツゴツと膨らんでいる。大学のテキストと、あとはなにが入っているのだろうか。なんだとしたって朝陽の大事なものだからと、慎重に背負う。
 この歳でおんぶされるなんて、と躊躇いは否めない。だがおぶられてしまえば、無性に甘えたくなった。朝陽の首に手を回し、くったりともたれる。

「朝陽ー、重くないか?」
「こんくらい平気」
「そっか。今日はありがとうな、来てくれて」
「まあ。約束だし」
「朝陽は優しいな」
「……別に」
「……オレのこと、嫌いなのにな」
「ん? なに? 聞こえなかった」

 最後のひと言は聞かれたくなくて、わざと朝陽のパーカーに顔を埋めてつぶやいた。
 きちんと届いたら、更に嫌気がさしてしまうかもしれない。こんな日にも会ってくれなくなったら、いよいよ心が壊れてしまうから。

「ううん、なんでもないよ」

 はぐらかして、回した腕にぎゅっと力をこめる。


 ――恭兄が振られたら、俺が慰めてあげる。
 そう言われたのは、恭生が高校二年生、朝陽が中学一年生の夏のことだ。初めての恋人に「俺、やっぱり間違ってたかも」なんて言い草で振られ、泣きながら帰った雨の夕方。家が隣同士の朝陽と、運悪くも鉢合わせてしまったのだ。朝陽との間に気まずい思いをするのは、それで二度目だった。

 ――一度目は、その二ヶ月ほど前。初めての恋が叶って、友人が恋人になった。自由奔放に生きてきたからか、男との恋愛に後ろめたさも躊躇いもなかった。だから浮かれていたのだろう。人目を気にすることもなく、実家の玄関先でキスをした。その瞬間を、ちょうど帰宅した朝陽に見られてしまったのだ。目を見開いた朝陽の、青ざめた顔は今も忘れられない。
 それからずっと避けられた。朝陽とひと言も交わさない日が続くのは、生まれて初めてのことだった――

 久しぶりに顔を合わせるのが、みっともなく泣いている時だなんて。家の中に逃げこもうとした恭生に、けれど朝陽は鬼気迫る勢いで近づいてきた。大股で目の前までやって来て、無言で恭生の手を取り、朝陽の自宅内へと引っ張られ。何事かと思えば、二階の朝陽の自室へとまっすぐに向かい、濡れた髪をタオルでガシガシと拭かれた。
 あの頃の朝陽は、まだ恭生より背が低かった。それでも一生懸命に伸ばされた手。久しぶりに向かい合った幼なじみの必死な表情に、恭生はいよいよ心を保っていられなかった。泣き顔を見られたくなかったはずなのに。しゃくりあげるように泣き、振られてしまったのだと打ち明けた。
 朝陽が自分を避けるようになったのは、十中八九、キスの相手が男だったからだろう。気持ち悪かったに違いない。だから恋人の話をするべきではないのに、不快にさせると分かっているのに。ぐちゃぐちゃに傷ついた胸の内を、朝陽に知ってほしくなった。
 すると黙って聞いていた朝陽が、その後に言ったのだ、
 ――もしまた振られたら、慰めてあげる。
 と。
 強く、まっすぐな瞳で。
 その瞬間、恋人との別れを一瞬忘れるほど高揚したのをよく覚えている。
 嫌われたと思ったのに、朝陽が気にかけてくれている。自分を見捨てないでいてくれる。真剣な顔で絆創膏を貼ってくれた、幼い頃のように。
 結局、朝陽との関係が元に戻ったわけではないことに、すぐに気づいた。男と付き合っていた自分のことを、やはり受け入れられなかったのだろう。それ以降も避けられることに変わりはなかった。自分のせいだ。
 それでも振られた時は、傷ついた時だけは。朝陽は会ってくれる、そばにいてくれる。実際、振られたと報告すると朝陽は優しかった。高校生の時は朝陽の部屋で一緒にゲームをしたし、ひとり暮らしを始めてからはアパートまで送ってくれた。

 それは恭生にとって、大きな心の支えだった。振られたなんてどうでもよくなるほど、大切な時間だった。

 
 駅に到着し、朝陽の背中から下りる。電車に乗り、アパートの最寄り駅で降りて並んで歩く。限られた時間を有意義に使いたいのに、なかなか言葉が出てこないまま恭生の住むアパートに到着してしまった。

「酔い醒めた?」
「え? あー……」

 立ち止まった朝陽が問いかけてくる。そうだ、いつも――とは言えこのアパートに送ってもらうのはこれで三度目だが――朝陽はアパートに寄ることもなく、ここで帰ってしまう。
 今回の恋人との別れはどうにも堪えたようで、もうくり返したくないと思った。恋愛はもうこりごり。そんなことまで考えた夜だからか、まだひとりになりたくない。ひとりでなくなる相手が朝陽なら、どんなにいいだろう。

「うん、醒めた、と思う」
「よかった。じゃあ俺はこれで……」
「でも。でもまだ、元気じゃないかも」
「え?」
「慰めてあげる、って、朝陽言ってくれたよな」
「……うん」
「じゃあさ、うちに寄っていかない?」
「…………」

 逃げるように目を逸らされるのが胸に痛い。
 そうだよな、迷惑だよな。
 乾いた笑い声が、口元を隠した拳にぶつかる。

「って、はは、困るよな。遅くなっちゃうし。ごめん、やっぱ今のな……」
「うん、寄ってく」

 だが朝陽はそう言って、恭生の言葉を遮った。

「へ……マ、マジで!?」
「まだ元気じゃないんだろ。それに、恭兄が誘ったんじゃん」
「そうだけど……断られると思ったから。はは、すげー嬉しい。じゃあ、行こ」
「……ん」

 まさか、頷いてもらえるとは思っていなかった。じんわりと体温が上がるのを感じながら、部屋の中へと朝陽を招く。

 恭生が暮らすのは、専門学校への入学を機に借り始めたアパートで、就職してからも住み続けている。四階建て、三階のワンルーム。決して広くはないが、ひとりで住むのになんら問題はなく、気に入っている。
 もっといいところに住んでほしい、と元カノに言われたこともあったけれど。

「適当に座ってて。あ、コーラあるけど飲む?」
「あ……うん、飲みたい」
「了解」

 ふたつのグラスにコーラを注いで、ローテーブルへと運ぶ。
 朝陽とふたりでコーラを飲むなんて、いつぶりだろうか。懐かしさについ顔が緩む。ジャンクなお菓子やジュースは親から禁止されていた朝陽との、秘密のおやつの定番だったからだ。

 恭生の両親は、かわいい子には旅をさせよ、がモットー。あの頃は自由を謳歌していたが、もっと愛情を感じたい欲求があったように今となっては思う。
 打って変わって、朝陽の両親は息子を大切に思うあまり、言ってしまえば過保護なタイプだった。
 対照的な両親を持つふたりは、不思議と相性がよかった。自分がそうされたい欲求を満たすかのように幼なじみを構いたがった恭生と、愛され上手の朝陽。ひとりっ子同士だったのも、お互いを兄弟のように慕うようになった要因かもしれない。
 今も神奈川の実家から都内の大学に通う朝陽は、ひとり暮らしの部屋が珍しいのか、きょろきょろと辺りを見渡している。
 本棚にはファッション誌やヘアカタログがたくさん詰まっていて、壁には海外アーティストなどのポスターが数枚。キッチンにはそれなりに調理道具が揃っていて、窓際でパクチーを育てている。
 恭生は小さい頃から、物が多いタイプだった。

「あ……これ」
「ん? あー、それな」

 背後にあるベッドを振り返った朝陽は、ヘッドボードに置いてあるぬいぐるみを手に取った。ちいさい子が胸に抱けるほどのサイズのそれは、小さい頃から持っている柴犬のものだ。ずいぶんくたびれているけれど、実家を出る時、置いてはいけなかった。

「朝陽は覚えてないかもしれないけど、うちのじいちゃんが買ってきたヤツでさ。朝陽くんにも、って言ってふたつ。でも同じもぬいぐるみじゃなくて。そしたら朝陽が――」

 祖父が買ってきたものは柴犬と、もうひとつはうさぎのぬいぐるみだった。なんだお揃いじゃないのか、とがっかりしたのを覚えている。
 だが、朝陽は違った。

『恭生の名字、兎野の“兎”は、うさぎって意味なんだ。朝陽くんの柴田の“柴”は、柴犬の柴だからな。どうだ? ふたりにぴったりだろ?』

 得意げな祖父に、恭生はダジャレじゃんと思ったものだけれど。朝陽は瞳をキラキラと輝かせ、こう言ったのだ。

『あさひ、こっちがいい。きょうおにいちゃんの、うさぎさん!』

 そう来たかと祖父は笑っていたが、朝陽の言葉が恭生にとってどれだけ嬉しいものだったか。なんの変哲もないぬいぐるみを、がっかりすらしたそれを、朝陽は一瞬にして宝物へと変えてしまったのだ。朝陽がうさぎを抱きしめていることも、自分の手元に柴犬がやってきたことも、とびきりになった瞬間だった。

「そんなこと言ったっけ。んー、覚えてない……」
「だよな。朝陽、こーんなちっちゃかったし」
「でも、ぬいぐるみのこととか、恭兄のおじいちゃんにもらったことはちゃんと覚えてるよ。……中学くらいまで、飾ってたし。あと、おじいちゃんがいい人だったのも覚えてる」
「……いい人、ねえ」
「恭兄?」

 恭生の脳裏にふと、胸の詰まるような思い出が蘇る。
 祖父がなにを考えているのか分からず、恐ろしくなった日――そうだ、先ほどみていた夢もそれだった。

「あー、さっき嫌な夢みたの思い出した」
「さっき? 定食屋で寝てた時?」
「うん。じいちゃんさ……ばあちゃんが亡くなった時に言ったんだよね。『ばあさんが先に死んでよかった』、って」
 
 祖母が他界した時、恭生は十歳だった。告別式を終え、言いようのない喪失感に打ちひしがれた。優しくて、いつもあたたかい笑顔で“恭くん”と呼んでくれる祖母が大好きだった。
 もう幾度目かも分からない、まぶたを熱くする涙に、ぐすんと鼻をすすった時。隣にしゃがんだ祖父が、恭生の頭を撫でながら言ったのだ。

『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』

 あんなに仲がよかったふたりなのに、一体なにを言っているのか。思わず体が震え、固まったのを覚えている。だが怯える恭生をよそに当の本人は、震えるくちびるを必死に堪えるようにして、微笑んでいた。確かに恐ろしいことを祖父は言ったのに。
 寂しい、つらい、もっと一緒にいたかった――
 苦しい感情で祖父はいっぱいなのだと、伝わってくる表情だった。だからこそ、余計に祖父のことが分からなくなった。
 それからほどなくして、祖母を追いかけるかのように、祖父も天へと旅立ってしまった。
 
「なんであんなこと言ったんだろうな。オレ、すげーショックでさ。じいちゃんのこと大好きだったけど、なんか怖くなって……結局、最後まで意味を聞けなかった」
「…………」
「オレはじいちゃんとは違う。絶対に、この人を失いたくないって思える恋をするんだー、って……思ったりしたんだけどな。それももう無理だなあ」

 じいちゃんは間違っている。大切な人を失ってよかっただなんて、そんなことあるわけがない。
 それを証明しようと、躍起になっていたのかもしれない。だから、告白されれば必ず付き合ってきた。自分の中に恋心なんて、芽生えていなくとも。
 だがそんなことはもう、続けられそうにない。

「なんで?」
「だってマジで懲りたもん。オレ、恋愛向いてないわ。いつも同じ理由で振られるし。私のこと本当に好きだった? って。まあ始まりはさ、両想いってわけじゃないけど。オレなりに誠実だったつもりなんだけどな。そうは見えないらしい。もう疲れた」

 少しぬるくなってしまったコーラをぐいと呷る。
 これから先、ひとり寂しい瞬間があるとしても、きっとこれが最適解だ――と、本当にそう感じたのだが。
 この決断で失うものは、恋人だけではないことにふと気づく。

「あー……でもそしたら、朝陽とも会えなくなるのか」
「え?」
「だって朝陽とは、オレが振られた時しか会えないだろ。それはちょっと、いや……かなり寂しいなあ」
「恭兄……」

 眉尻を下げた朝陽の表情に、胸の奥がツキリと痛む。
 そりゃそうか、嫌っている相手にこんなこと言われたって困るよな。
 身勝手な感傷で、大切な幼なじみを苦しめたいわけではない。

「あー、はは、ごめん。今のは忘れ……」
「なあ、恭兄」
「うお、どうした」

 これ以上嫌われるのは絶対にごめんだ。話を終わらせようとした恭生を、けれど朝陽が遮った。
 ぐっと寄せられた顔につい距離を取ると、その分また詰められる。手にあったグラスは奪われ、テーブルへと戻されてしまった。

「あのさ、恭兄。俺と……付き合ってみない?」
「…………は?」

 たっぷりと間を置いた後、まぬけな声が零れた。朝陽がなにを言っているのか、全く理解できないからだ。
 いや、言葉の意味は分かる。ただ、そんな提案が朝陽から出てくる理由を少しも推測できない。

「朝陽、自分がなに言ってんのか分かってる?」
「……当たり前」

 朝陽のくちびるが不服そうに尖り、恭生の胸は不規則な音を立てはじめる。
 悲しいだとか怒りだとか、そういった負の感情を朝陽に抱かせてしまうのが、恭生は昔からとにかく苦手だった。朝陽の目にちょっとでも涙が浮かぼうものなら、慌てふためくのが常だった。
 朝陽の心はいつだって穏やかであってほしい。自分はどうあろうとも。
 だが、なんでもしてあげたくなるのを慌てて制す。朝陽が言うならそうしよう、なんて。簡単に飲める提案ではさすがにない。

「なあ朝陽、オレたちは男同士だぞ」
「うん」
「……それに言ったじゃん、もう付き合うとかこりごりなんだって」
「うん、分かってる」
「…………」

 幼い子に言い含めるかのように話す。だがそんなことは関係ないと言わんばかりに、朝陽は飄々と頷き続ける。本当になにを考えているのだろうか。
 男同士でキスをしている自分を見て、避け始めたのは朝陽なのに。

 ――だからもう二度と、男を好きにはならなかったのに。

 困惑する恭生とは違い、朝陽は至って真剣な顔をしている。からかわれているとはどうも思えない。
 考えこんでいると、朝陽が口を開いた。

「付き合ったらさ、いっぱい会えるじゃん」
「……え?」
「恭兄の仕事が終わった後とか、休みの日とか」

 必死な様子で、縋るような目を向けられる。
 会えないのは寂しいと、確かに言ったけれど。
 だから付き合う?
 やはり、その真意がどうしても見えない。
 付き合う、というのは本来、好き合っている者同士がすることであって。自分たちの間には、恋心なんて片道すらない。ましてや幼なじみとしての絆すら、心許ない細い糸しか残っていないのに。

「……意味分かんねぇ」
「どの辺が?」
「どの辺が、って。だって朝陽、オレのこと嫌いじゃん……」

 自分で放った言葉が、自分の胸に突き刺さる。朝陽の顔を見ているのが怖くて、深く俯く。

「……え? なにそれ、嫌いだなんて思ってない」
「いいよ、嘘なんかつかなくて」
「嘘じゃない。そんな風に思ったこと、一回もない」
「…………」

 怒っているとも取れる表情で、朝陽が強いまなざしを向けてくる。
 嫌いじゃなかった? 本当に?
 一瞬胸が明るくなるが、いやまさかと頭を小さく横に振る。もう何年も嫌われていると思ってきたから、そうすんなりとは飲みこめない。

「でも朝陽、ずっとオレのこと避けてただろ。朝陽が中学生になった夏の……あー、いや」

 思わず口から出てしまったそれを、恭生はすぐに後悔した。出来ることならあの夏のことは、もう朝陽に思い出してほしくなかったからだ。

「それは……」
「オレはさ、朝陽とたくさん会えるんなら、すげー嬉しいよ。でもそんなの、朝陽にはメリットないじゃん」

 なにか言いかけた朝陽を遮る。うっかりすれば泣いてしまいそうで、誤魔化すように捲し立てる。

「あるよ」

 だが朝陽も、負けじと目尻をとがらせる。

「……どんな?」
「それは……内緒」
「は、なんだそれ。朝陽、別に男が好きなわけでもないだろ」
「……うん、そうじゃない」
「だよな」

 話せば話すほど、朝陽が遠くなる。朝陽に寄り添いたいのに、その寄り添うべき心が見えない。
 前髪を握りこみ、ため息として届かないように細く息を吐く。すると、顔を覗きこむようにして名前を呼ばれる。

「ねえ、恭兄」
「……なに?」
「俺と付き合ったら分かる、って言ったら? 恭兄のおじいちゃんが言ってた意味」
「……は?」
「大切な人が先に死んでよかった、がどういうことなのか。俺、分かってると思う」
「は? うそ……」
「ほんと。おじいちゃんに確かめられるわけじゃないから、もちろん憶測ではあるけど。こういう意味だろうな、ってのはある」
「マジ?」
「うん。すごく幸せな意味なんだと思う」
「……んだそれ」
「付き合う理由はそれじゃだめ? 知りたいんだろ、おじいちゃんの気持ち」
「それは……」

 朝陽の真剣な表情に、嘘はひとつも見えない。
 祖父とのあの会話から、もう10年以上経っている。恭生は未だに呪縛のように囚われているというのに、朝陽には意味が分かるというのか。しかも、それを幸せだと呼べるような。
 理解できる糸口が見つかるなんて、考えたこともなかった。知りたい欲求は、抑えようにも溢れ出してくる。

「……朝陽と付き合ったら、オレにも分かるんだ?」
「うん」
「なんで?」
「それも……内緒」
「なんだよそれー……」
「全部種明かししたら、付き合ってもらえなさそうだから」
「…………」

 なぜそうまでして、自分と付き合うことにこだわるのか。朝陽の考えていることが、未だにちっとも分からない。
 だが、もうほとんど絆されかけている自分の心ならよく分かる。

「朝陽は本当にいいわけ? オレと付き合っても」
「うん」
「さっきも言ったけど、オレ男だよ」
「そんなの、生まれた時から知ってる」
「……オレ、どっちかって言うと恋人には尽くすタイプだと思うけど、恋愛に疲れ切ったとこだから。そういうの、もうできないかも」
「うん、いいよ。恭兄は受け身でいい。そのほうがおじいちゃんを理解できるだろうし」
「うわー、余計分かんねー……」
「あとは? なんか気になることある?」
「あとは? あとはー……」

 試しているようで心苦しくはあるが、質問をくり返した。だがそれも尽きてくる。観念して見上げると、不安げな顔をした朝陽が首を傾げた。

「付き合ってくれる?」
「……う、ん。分かった」

 そう答えると、力が抜けたかのように朝陽が笑った。恭生も脱力し、後ろのベッドに背を凭れ、天井を見上げる。

「朝陽と恋人かあ。なんか変な感じ」
「恋人“カッコカリ”でもいいよ」
「はは、カッコカリ」

 朝陽はずっと近くにいた弟で、大切な存在だ。かと言って、恋心を抱いたことはない。自分たちの関係に恋人という新たな名前が足されるのは、妙な心地がする。

「でもさ、付き合うってなにすんの? 仮つったって、恋人は恋人だし。今まで通りじゃじいちゃんのこと、分かんないんだよな?」

 それなりに他人と恋人関係を結んできたが、朝陽と、となるとどうもピンと来ない。
 身を起こし尋ねると、朝陽がじいっとこちらを見つめてくる。かと思えば目を逸らし、ぼそりと言葉を落とした。

「ハグ……とか?」
「ハグ」

 意外な答えについオウム返しをする。なるほど、とも確かに思いはするが、なんだその程度でいいのか、という感覚のほうが強い。
 まさか、誰とも付き合ったことがないわけじゃないだろうに。ずいぶんと初心な提案だ。

「じゃあやってみるか」
「は……? なにを?」
「なにって、ハグ」
「恭兄軽すぎ」
「えー……朝陽が言ったんじゃん。大体、朝陽とハグなんてよくしてたし」
「…………」
「はは、なんだよその目ー」

 ちいさい頃はよく、朝陽に抱きつかれていた。ぎゅっと抱き止めながら、幼心にかわいいな、守りたいなと思ったのをよく覚えている。
 両腕を広げると戸惑ってみせる朝陽に、あの頃とはまた違った愛らしさを感じる。
 会話が続く、反応が返ってくる。それだけでも心がいっぱいに満たされているからだろうか。

「朝陽ー。早く。ほら、ハグするんだろ?」
「はあ……じゃあするよ」
「うん」
「…………」
「おお、そう来る?」

 広げた腕の中に収まってくれるとばかり思っていたのだが。朝陽は恭生の腰を片手で引き寄せ、もう片手で頭を抱いてきた。髪を撫でられ、これでは子どもの頃と立場が逆転だ。
 不思議な心地がしつつも、やはり懐かしさは否めない。こうして朝陽と戯れるのが、大好きだったから。

「なんか懐かしいな。朝陽あったけー」
「え……全然嬉しくない」
「なんでだよ。でもやっぱ違うか。朝陽、デカくなったな」
「うん。恭兄よりね」
「はは、ムカつく」

 恭生からも抱き返し、軽口をたたき合う。
 仮であれ恋人になったのは想定外だが、朝陽と絆を結び直せた。隠しきれない喜びに、口角は緩みっぱなしだ。
 そっと腕を解かれ、間近で目を合わせれば、どこか不満げな顔に出会う。どうしたのだろうか。笑ってほしいな、と心情を問うように首を傾げると。朝陽の顔が近づいてきたと思った次の瞬間、頬にやわらかなものが触れた。なにか、なんて確認するまでもない。朝陽のくちびるだ。
 突然のことに頬を手で押さえ、見開いた目に朝陽を映す。

「あ、朝陽、お前なにし……」
「恭兄」
「あ、ちょ、また……」

 言葉が出てこない隙に、今度は反対の頬へとくちびるが近づく。ふわりと当たって、啄むようにくり返される。優しく触れるのに、どこかぎこちなさもあってくすぐったい。頭を撫でてくれていた手は、いつの間にか髪の中へともぐりこんでいて。地肌を這う感覚に、ついうっそりと瞳を閉じる。
 相手が朝陽だと思うと、強い拒絶がどうにも生まれてこない。でもこのままでは駄目だと、それだけは分かる。場の空気に流されてしまったと、朝陽に後悔だけはさせたくない。
 年上の自分がしっかりしなければと、朝陽の背をタップする。

「朝陽、朝陽ってば」
「……嫌だった?」
「あー、えっと……」

 なぜそんな顔をするのだろう。しゅんと下がった眉に、大いに戸惑う。
 だが、ちゃんと自分を律しなければ。仮の恋人関係になったとはいえ、朝陽の頼れる兄でありたいから。
 どう言ったものかと考えこんでいると、朝陽のほうが先に口を開く。

「恭兄、ごめん。もうしないから。恭兄の嫌がることは絶対しない」
「朝陽……そんな顔すんな。な? その、別に嫌ではなかったし……」
「ほんと?」
「うん……てかさ、お前は嫌じゃないの? 頬とはいえ、オレにキ、キスとか……」
「恭兄が嫌じゃないなら、俺も嫌じゃない」
「へえ。そ、そっか?」

 それは一体どういう理屈だ。相変わらず謎だが、悲しげな色が朝陽の瞳から引いていったことにひとまず安堵する。

「ねえ恭兄。嫌じゃなかったなら、ハグとほっぺのキスはこれからもしていい?」
「え? いやー、それはどうかな」
「嫌じゃないって言ったの、もしかして嘘?」
「っ、嘘じゃない! わ、分かった、ハグとほっぺのちゅーだけな! でもカッコカリなんだから、それ以上は駄目だぞ」
「うん、約束する」

 本当に、悲しそうな朝陽の顔にはめっぽう弱い。それをつくづくと理解する。
 上手いこと乗せられたような気がするが、ハグとキスを了承してしまった。朝陽とまた一緒に過ごせる喜びが、判断力を麻痺させている気がする。
 現に、元カノに振られたことはもうどうでもよくなっていて。明日からは気兼ねなく朝陽に連絡していいのだと思うと、今日を“いい日だった”と名づけてしまいそうなくらいだ。


「恭兄、今度一緒に出かけない?」
「お、いいな。行きたい」
「じゃあどこか探しとく」
「マジ? 楽しみにしてる」

 朝陽の横顔を眺めながら、つい顔がゆるむ。
 彼女に振られ朝陽に連絡を入れた時は、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。祖父の想いを知るための、かりそめの恋人。今のところ、糸口すらも見つけられないけれど。
 朝陽のあかるい感情が自分へと向いている。それだけでも、今は充分な気がしている。