氷のように冷たいガラスに震える手をそっと添える。その向こうで静かに眠る彼女を見つめながら。僕は、自分の無力さを痛感した。乾き切った唇から一言漏らした。

「メリークリスマス。」

そう言っても彼女は何も言わない。自然と涙が頬を伝う。
 いつの日か彼女が僕に向けてくれたあの暖かい笑顔が思い浮かぶ。澄み切った空に爽やかな春のそよ風、舞う桜の花びらに彼女の笑顔。この世にこれほど魅力的なものは存在しないと僕はあの時思った。一体何が彼女を苦しめてしまったのだろうか。
 彼女が呼吸をしていることを確認して、固く冷え切った僕の足音だけが響く廊下を歩く。受付係の人に会釈をし、正面入り口へ向かおうとすると病院の自動ドアの前で屯する記者たちが見えた。
 僕は彼らに、いや、奴らに鋭い視線を向けた。彼らは僕が出てくるのを待っていたのだろう。僕の姿が見えると急いで取材の準備をする。
 僕は羽織っていたコートのフードを深く被った。傘立てから雫の滴るビニール傘を取る。自動ドアが開くと僕は数十個のレコーダーを向けられた。たくさんのシャッター音に、怒涛のように投げかけられる質問。大雨が降っていることもあり、もう何と言っているのか聞き取ることすらできない。
 僕は、我先にというように詰め寄ってくる記者の波を抜けた。病院の敷地さえ出れば記者はもう追いかけてこなかった。大雨のクリスマス。僕にはぴったりだろう。

 十二月二十九日。もうクリスマスも終わり、街は新年を迎える準備をしていた。
 彼女はクリスマスの夜、静かに息を引き取った。
 彼女の死を受け入れられないまま僕は日々を過ごしていた。仕事へ行っていて、夜まで帰って来ない母の代わりに家事をする。
 僕が生まれてすぐ、父は転勤先であったシンガポールで亡くなった。僕が生まれた時も父は帰国することができなかったため僕は一度も父に会ったことがない。母は僕を女手一つで育ててくれたのだ。
 冷たくなっている洗濯物を取り込んでいるとアパートの敷地内にある公園で元気に遊んでいる子どもたちがいた。子供は寒さを感じないのだろうか、僕は子供の頃でも冬に外出することを嫌っていたのにな、などと思いながら両手を擦り合わせて部屋の中に入る。あまりにも寒かったので暖房を入れた。
 そして、ポストを覗きに行くと一通の茶封筒が入っていた。僕宛の手紙だった。誰から送られてきたのか不思議に思い、送り主を見てみると有名出版社の記者からだった。どうせ彼女のことについて取材をお願いしたいという内容だろうと思い、中を見ることもなく茶封筒を破こうとしたが、何故か破く直前で手が止まった。僕はハサミに手を伸ばし、丁寧に封筒を開けた。中には綺麗に三つ折りに折られた一枚の便箋が入っていた。

如月恭介様
 はじめまして。私、彩啓出版の久遠亜紀と申します。突然のお手紙となってしまい、申し訳ありません。日々、様々な出版社の記者に追われ、不快な思いをされているであろう如月様にこのようにお手紙をお送りしたのには理由があります。私は水無瀬翠生様が病気と向き合いながら生きた彼女の生き様と水無瀬様と如月様の過ごした時間を何かの形に残したいと思いました。如月様、是非お話を聞かせていただけないでしょうか。もし、お話をお伺いできるようであれば彩啓出版までご連絡いただくことは可能でしょうか。ご検討ください。
                                久遠亜紀

 水無瀬翠生。彼女と僕が過ごした三年間は短くも深いものだった。彼女は病気を抱えながらも強く生きていた。僕は投げ捨てるように置いていたスマホを手に取り、久遠亜紀に連絡をした。