“リン”。
5歳の少女が、その名をつけてくれた生き物と出会った場所は、第一次戦争で崩壊した街の瓦礫の中だった。
なぜそんな場所に隠れていたのか、少女は覚えていない。そばに父親も母親もいなかったから、家族と死に別れたか、捨てられたかのどちらかなのだろう。
瓦礫の中に隠れるようにして、少女は外の景色を見ていた。
そこで見たものは、“宇宙からの敵”と戦うために銃を持ったはずの地球人が、“銃を持たない地球人”を殺す光景だった。
後になって知ったことだが、避難の完了していない地域で先に戦争を始めたのは、地球人のほうだったらしい。
銃器、爆薬、戦車……雲の上へ向けて放たれる兵器は標的に届くことはなく、そのまま地上へ落下し、多くの生活者に被弾していく。結果、地球人の兵器で地球人が死んだ。大勢、大勢死んだ。
そんな地獄の中に隠れていた少女を助け出してくれたのは、地球人ではなかった。
大きな生き物だ。大人より、建物より大きな、見たこともない生き物。
「XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
最初、その生き物はよく分からない音を発した。
でも通じていないことに気づくと、すぐに少女にも理解できる言葉を話してくれた。
「どしたの、可愛いね」
まるで猫に話しかけているみたい。
少女がギュッと抱きしめていた猫のぬいぐるみを見たから、そう声をかけたのかと思った。
「こんにちは。小さいねえ。名前はあるの?」
名前はあった気がするけれど、何度も何度も爆発の音が続いていたから、すっかり声の出し方を忘れてしまった。体を震わせる少女の動きに合わせて、猫のぬいぐるみの首にぶら下がっていた鈴が、かすかに鳴る。
大きな生き物は適当に言った。
「鈴がリンリン鳴ってるから、リンと呼ぼっか。とりあえず」
なんて呑気なんだろう。少女リンは思った。
周りでは戦争が続いているというのに。大人達が殺そうと躍起になってるのは、きっとこの大きな生き物に違いない。こんな大きな体なんだから、すぐに見つかって殺されてしまうのに。早く逃げればいいのに。
「………とっか、……いって」
とても掠れた声ではあるが、「どこかに行って」と避難を促すことができたはずだ。
大きな生き物は何か勘違いをしたようで、なぜかその場所から逃げようとしない。
「そっか、こんな姿じゃ恐いよね。君達みたいな可愛い姿になれたらいいんだけど、私は想像力が乏しいからな。うーん……」
大きな生き物は体から細長いものをたくさん伸ばして、周辺の瓦礫の隙間にそれらを潜り込ませる。中で何かをゴソゴソ探しているようだ。
やがてそのうちの一本が、一冊の本を手繰り寄せた。
裸同然の女の人の写真がたくさん載っている本。
大人になった今のリンなら分かる。あれは成人向けのグラビア誌だった。
「これ地球人のカタログ? 便利だねぇ。君をお世話するなら、手足が長いほうがいいよね」
生き物は雑誌の中のあるページを開いた。そこに写っているのは、手足が長くて、髪も長くて、とても綺麗な女の人。
大きな生き物は見よう見まねで、写真の女の人とまったく同じ姿に変身して見せた。
「さあおいで、リン。抱っこしてあげる」
それからリンは、ダダという名の生き物と暮らすようになった。
「ダダ」という変な名前の命名者は、リンだ。掠れた声だから「抱っこ」が言えなくて、代わりに「ダッダ」と言ってせがんだから。
ダダは文字通り、リンを猫可愛がりした。
宇宙から来た彼らにとって、なぜか地球人はとても可愛く見えるらしい。地球人が猫にメロメロになる感覚に似ているようだ。
食べ物も、住む場所も、教育も、ダダは献身的に与えてくれた。「こんなに尽くしてもらえるなんて、私は神様になったんじゃないか」とリンが疑ってしまうのも、無理からぬ話。
ある時、リンはダダに訊ねたことがある。
「ダダはなぜわたしに優しくしてくれるの? わたしダダに、何もあげてないのに」
仕事にも就けないほどの子供にできることといったら、ダダが作ってくれたご飯をたくさん食べて、たまに家事を手伝って、気まぐれにイタズラなんかをして、一緒に寝ることくらいなのに。
「それで充分なんだよ、リンちゃん。私のそばにいてくれるだけで満たされるの。リンとの思い出を作れるだけで、私は幸せ者だ」
綺麗なお姉さんの顔のダダは、リンを猫可愛がりする。
どうしてこんなに良くしてくれるのか、小さなリンには分からない。
分からないけれど、何でもよかった。今はただここが、ダダのそばが、心地良い。それだけで胸が一杯だったから。
この気持ちを言い表すのに最適な言葉を、小さなリンは知らない。
ある時、ダダはリンにこんなことを教えてくれた。
「ねえ、リン。これは地球人にはまだ内緒なんだけど、君には教えておくね。実は私達は秘密裏に、“終末”作戦を進めているんだ」
ウィークエンドのことではないらしい。もっとずっと物騒な話である。
終末。世界の終わり。地球人絶滅作戦のことだ。
過激で好戦的な一部の地球人の戦争活動のために、それ以外の多くの無害な地球人が巻き込まれ、どんどん数を減らしているらしい。
良い個体を残し、悪い個体を減らしたい。そのためにダダ達は、エイリアンと協力関係を結ぶ意志があり、また生きる意志のある良い個体を、カプセルに入れて守ることに決めたそうだ。
「ねえ、リン。君はどうしたい?」
「どうって?」
「終末後の新しい世界に生きてみたいと思わない?」
ダダはその時、勧誘していた。
リンに、後に発表することとなる“終末保険”に加入させるために、言質を取りたかったのだ。
戦争をする攻撃的な個体がいなくなった世界……。地獄から救われたリンの生い立ちから言えば、間違いなく平和な世界だ。
けれどリンにとっては、それよりも確認しなければならない大切なことがある。
「終末が終わっても、ダダと一緒にいられる?」
リンにとって重要なのはたったひとつ。ダダと離れ離れにならないこと。それだけだった。
しかし思いがけず、ダダは曇った顔を見せる。
「それは……どうかな。生き残った地球人の繁殖の手伝いをしなくちゃならないから、今のように一緒には暮らせない……かも」
「ハンショクって何?」
「…………リンが、どこかの素敵な雄と結ばれて、家族になって、子供をたくさん作ることだよ」
この時、リンは8歳になったばかり。「繁殖」という言葉は知らなくても、その意味を聞けば理解できる。
つまり終末後の世界で、リンの隣にいるのはダダではないのだ。
「……リンちゃん、なんで? 何か怒ってる?」
突然険しい顔に変わったリンを見て、ダダは相当焦ったことだろう。リンはこれまで一度も、そんな反抗的な態度を見せたことがなかったのだから。
「わたしには、ダダがいるもん」
「私とじゃ繁殖できないでしょ……」
「そんなのいらない! ダダのバカ!」
「ええっ、そんな……」
それがリンの初めての反抗。
愛を欠かさず、大切に大切に育ててきたはずなのに、なぜ?
その理由をダダは理解できなかった。ずっと長い間。リンが成人してもなお。
「君は昔から本当に気難しいね。そこも可愛くて、私は大好きなんだよ」
なおも優しい表情で、優しい声で愛を注ぎ続けてくれるダダ。
彼女にとって自分は保護対象に過ぎないのだ。言わなくても、言われなくても、やがてリンは気づいてしまう。
——あ、そっか。
きっと終末後の平和な世界で、リンがどこかの地球人の雄と番になったとしても。家族となり、子供を増やしても。
——きっとダダはいつものように、“可愛いね”と言いながら見守るんだ。私の触れられないどこか遠くから。そしてやがて、私と雄の区別すら付かなくなる。
——ダダにとって、私はただの“猫”だ。
それがダダの理想とする平和なら、リンにとっては地獄の始まりなのだ。
そんな地獄に染まるくらいなら……
「私には必要ないからです。終末後の未来にも興味ありません。終末と一緒に私も死ぬ。それを望んでいます」
これが、リンが頑なに終末保険を拒む理由。
5歳の少女が、その名をつけてくれた生き物と出会った場所は、第一次戦争で崩壊した街の瓦礫の中だった。
なぜそんな場所に隠れていたのか、少女は覚えていない。そばに父親も母親もいなかったから、家族と死に別れたか、捨てられたかのどちらかなのだろう。
瓦礫の中に隠れるようにして、少女は外の景色を見ていた。
そこで見たものは、“宇宙からの敵”と戦うために銃を持ったはずの地球人が、“銃を持たない地球人”を殺す光景だった。
後になって知ったことだが、避難の完了していない地域で先に戦争を始めたのは、地球人のほうだったらしい。
銃器、爆薬、戦車……雲の上へ向けて放たれる兵器は標的に届くことはなく、そのまま地上へ落下し、多くの生活者に被弾していく。結果、地球人の兵器で地球人が死んだ。大勢、大勢死んだ。
そんな地獄の中に隠れていた少女を助け出してくれたのは、地球人ではなかった。
大きな生き物だ。大人より、建物より大きな、見たこともない生き物。
「XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
最初、その生き物はよく分からない音を発した。
でも通じていないことに気づくと、すぐに少女にも理解できる言葉を話してくれた。
「どしたの、可愛いね」
まるで猫に話しかけているみたい。
少女がギュッと抱きしめていた猫のぬいぐるみを見たから、そう声をかけたのかと思った。
「こんにちは。小さいねえ。名前はあるの?」
名前はあった気がするけれど、何度も何度も爆発の音が続いていたから、すっかり声の出し方を忘れてしまった。体を震わせる少女の動きに合わせて、猫のぬいぐるみの首にぶら下がっていた鈴が、かすかに鳴る。
大きな生き物は適当に言った。
「鈴がリンリン鳴ってるから、リンと呼ぼっか。とりあえず」
なんて呑気なんだろう。少女リンは思った。
周りでは戦争が続いているというのに。大人達が殺そうと躍起になってるのは、きっとこの大きな生き物に違いない。こんな大きな体なんだから、すぐに見つかって殺されてしまうのに。早く逃げればいいのに。
「………とっか、……いって」
とても掠れた声ではあるが、「どこかに行って」と避難を促すことができたはずだ。
大きな生き物は何か勘違いをしたようで、なぜかその場所から逃げようとしない。
「そっか、こんな姿じゃ恐いよね。君達みたいな可愛い姿になれたらいいんだけど、私は想像力が乏しいからな。うーん……」
大きな生き物は体から細長いものをたくさん伸ばして、周辺の瓦礫の隙間にそれらを潜り込ませる。中で何かをゴソゴソ探しているようだ。
やがてそのうちの一本が、一冊の本を手繰り寄せた。
裸同然の女の人の写真がたくさん載っている本。
大人になった今のリンなら分かる。あれは成人向けのグラビア誌だった。
「これ地球人のカタログ? 便利だねぇ。君をお世話するなら、手足が長いほうがいいよね」
生き物は雑誌の中のあるページを開いた。そこに写っているのは、手足が長くて、髪も長くて、とても綺麗な女の人。
大きな生き物は見よう見まねで、写真の女の人とまったく同じ姿に変身して見せた。
「さあおいで、リン。抱っこしてあげる」
それからリンは、ダダという名の生き物と暮らすようになった。
「ダダ」という変な名前の命名者は、リンだ。掠れた声だから「抱っこ」が言えなくて、代わりに「ダッダ」と言ってせがんだから。
ダダは文字通り、リンを猫可愛がりした。
宇宙から来た彼らにとって、なぜか地球人はとても可愛く見えるらしい。地球人が猫にメロメロになる感覚に似ているようだ。
食べ物も、住む場所も、教育も、ダダは献身的に与えてくれた。「こんなに尽くしてもらえるなんて、私は神様になったんじゃないか」とリンが疑ってしまうのも、無理からぬ話。
ある時、リンはダダに訊ねたことがある。
「ダダはなぜわたしに優しくしてくれるの? わたしダダに、何もあげてないのに」
仕事にも就けないほどの子供にできることといったら、ダダが作ってくれたご飯をたくさん食べて、たまに家事を手伝って、気まぐれにイタズラなんかをして、一緒に寝ることくらいなのに。
「それで充分なんだよ、リンちゃん。私のそばにいてくれるだけで満たされるの。リンとの思い出を作れるだけで、私は幸せ者だ」
綺麗なお姉さんの顔のダダは、リンを猫可愛がりする。
どうしてこんなに良くしてくれるのか、小さなリンには分からない。
分からないけれど、何でもよかった。今はただここが、ダダのそばが、心地良い。それだけで胸が一杯だったから。
この気持ちを言い表すのに最適な言葉を、小さなリンは知らない。
ある時、ダダはリンにこんなことを教えてくれた。
「ねえ、リン。これは地球人にはまだ内緒なんだけど、君には教えておくね。実は私達は秘密裏に、“終末”作戦を進めているんだ」
ウィークエンドのことではないらしい。もっとずっと物騒な話である。
終末。世界の終わり。地球人絶滅作戦のことだ。
過激で好戦的な一部の地球人の戦争活動のために、それ以外の多くの無害な地球人が巻き込まれ、どんどん数を減らしているらしい。
良い個体を残し、悪い個体を減らしたい。そのためにダダ達は、エイリアンと協力関係を結ぶ意志があり、また生きる意志のある良い個体を、カプセルに入れて守ることに決めたそうだ。
「ねえ、リン。君はどうしたい?」
「どうって?」
「終末後の新しい世界に生きてみたいと思わない?」
ダダはその時、勧誘していた。
リンに、後に発表することとなる“終末保険”に加入させるために、言質を取りたかったのだ。
戦争をする攻撃的な個体がいなくなった世界……。地獄から救われたリンの生い立ちから言えば、間違いなく平和な世界だ。
けれどリンにとっては、それよりも確認しなければならない大切なことがある。
「終末が終わっても、ダダと一緒にいられる?」
リンにとって重要なのはたったひとつ。ダダと離れ離れにならないこと。それだけだった。
しかし思いがけず、ダダは曇った顔を見せる。
「それは……どうかな。生き残った地球人の繁殖の手伝いをしなくちゃならないから、今のように一緒には暮らせない……かも」
「ハンショクって何?」
「…………リンが、どこかの素敵な雄と結ばれて、家族になって、子供をたくさん作ることだよ」
この時、リンは8歳になったばかり。「繁殖」という言葉は知らなくても、その意味を聞けば理解できる。
つまり終末後の世界で、リンの隣にいるのはダダではないのだ。
「……リンちゃん、なんで? 何か怒ってる?」
突然険しい顔に変わったリンを見て、ダダは相当焦ったことだろう。リンはこれまで一度も、そんな反抗的な態度を見せたことがなかったのだから。
「わたしには、ダダがいるもん」
「私とじゃ繁殖できないでしょ……」
「そんなのいらない! ダダのバカ!」
「ええっ、そんな……」
それがリンの初めての反抗。
愛を欠かさず、大切に大切に育ててきたはずなのに、なぜ?
その理由をダダは理解できなかった。ずっと長い間。リンが成人してもなお。
「君は昔から本当に気難しいね。そこも可愛くて、私は大好きなんだよ」
なおも優しい表情で、優しい声で愛を注ぎ続けてくれるダダ。
彼女にとって自分は保護対象に過ぎないのだ。言わなくても、言われなくても、やがてリンは気づいてしまう。
——あ、そっか。
きっと終末後の平和な世界で、リンがどこかの地球人の雄と番になったとしても。家族となり、子供を増やしても。
——きっとダダはいつものように、“可愛いね”と言いながら見守るんだ。私の触れられないどこか遠くから。そしてやがて、私と雄の区別すら付かなくなる。
——ダダにとって、私はただの“猫”だ。
それがダダの理想とする平和なら、リンにとっては地獄の始まりなのだ。
そんな地獄に染まるくらいなら……
「私には必要ないからです。終末後の未来にも興味ありません。終末と一緒に私も死ぬ。それを望んでいます」
これが、リンが頑なに終末保険を拒む理由。



