ふたりの乗ったバギーは悪路を進み、日が落ち切った頃、予定通り目的のN地区へと入った。
N地区は、荒野との区別がつかないほど殺風景な場所で、かつては家だったが今や風化して見る影もない残骸がポツポツと建つばかり。人が住んでいるかも疑わしい廃れようだった。街灯はとうの昔に壊れ、一面の闇に覆われた町は墓場と大差ない。
適当な側道に停車し、ふたりはバギーを降りる。
小柄なリンと長身のダダが並ぶと、小型のペットと飼い主のような身長差となる。ぐーっと伸びをすれば、さらにダダの身長が伸びた。
「運転お疲れ様、リン。お客の家はどこなの?」
「あちらです。元々この地域の地主だとか」
リンが指差す先には、確かに他の民家より大きな門構えの洋館があった。煉瓦造りの今にも崩れ落ちそうな外観。しかし煙突からは、か細い煙が立ち上っている。驚くべきことに、人が生活しているらしい。
リンとダダは洋館に着くと、礼儀としてノックの後、家主の出迎えを待った。しかし一向に現れないため、ダダが先導して家の中へ侵入した。
内部は荒れ放題だった。
広々としたロビーには、生活で出たゴミや壊れた家具などのガラクタが散乱し、バリケードのようにふたりの侵入を阻んでいた。リンは荒れ家特有のすえたニオイに一瞬怯むが、勇気を出して、長年の塵や埃が堆積した床を歩き出す。
なんとか上れそうな階段を見つけて、ふたりは2階へ上がる。1階の荒れ具合に比べれば2階はまだ片付けられていて足の踏み場があった。
2階に上がってすぐの所にある部屋を覗くと、案外あっさりと家主の姿を見つけることができた。
家主は、窓辺に置かれた安楽椅子に腰掛けてゆらゆら揺れていた。電気の節約のためか、古のガスランプのオレンジ色の炎が、家主と同じく揺れている。
家主はずいぶん痩せているが、30代ほどの若そうな男だ。彼はふたりの美女に気づくと、小さな目を瞬かせた。
「ああ! やあ、どうも! こんな汚い場所にこんな綺麗なお客さんが来てくれるなんて、嬉しいよ」
「無断で上がってしまい申し訳ありません。私たちは宇宙生命保険機構の者です」
「ああ! あなたたちがそうなのか。待っていたんだよ。僕が依頼したAだ」
リンとダダは資料に添付されている、今回の依頼人の顔写真と、目の前の男性とを見比べた。
「初めまして、A様。お問い合わせいただいた保険商品のご説明に伺いました。お時間よろしいですか?」
「あなたたちの扱ってる“終末保険”ってやつだよね。前からとても気になっていたんだ。早速頼むよ」
「ありがとうございます」
家主のA氏は、リンとダダに、安楽椅子の近くの丸椅子へ座るよう促した。
リンは着座すると、A氏のそばの文机を一瞥。使い込まれた様子のペン立てとインク瓶をA氏側に寄せ、持参した紙の資料を広げて説明を始めた。
「A様もご存知のとおり、現在のエイリアンと反政府軍との戦争は、依然エイリアン側が優勢な状況です。この戦争は20年も続いていますが、残念ながら人類の人口は減少の一途をたどっています」
「…………。そうだよねえ。ラジオもいつもそう言ってる」
「不安ですよね。ですがどうか気を落とさないで」
車内でダダと会話していたときとは打って変わって、リンはとても親身にA氏に寄り添う。例え営業上の態度だとしても、ダダにしてみれば面白くない。
「じゃあ、これも知ってる?」
リンの横から、しかめっつらのダダが身を乗り出して話を遮った。A氏はダダの美貌に思わず瞠目する。
「10年前、エイリアンがある警告を出したんだ。このまま抵抗を続けるなら、宇宙の技術を結集した“地球人だけを絶滅させる兵器”を発動するぞ、って」
「一時期SNSでもトレンド入りした“終末”と呼ばれる作戦です。A様もご存知ですね?」
物騒な脅し文句にA氏はすっかり怯えてしまった。
「ああ、もちろん知ってるよ……。ラジオでも連日報道されていた。僕は怖くて怖くて。ただでさえ、いつどこで戦争が起こるかも分からない世の中なのに、そんな恐ろしい死に方で締めくくるなんてごめんだよ」
するとリンは、つとめて明るくA氏を励ます。
「A様、ご安心ください。その打開策として、近年エイリアンの一部の団体が法人化し、地球上で初めて慈善団体を立ち上げました。我々、宇宙生命保険機構です」
リンのめくった資料には、バギーにもプリントされていた赤色のロゴが載っている。
「その打開策こそが、我々の看板商品である終末保険です。加入されたお客様は、弊団体が用意した特殊なカプセルに入って冷凍睡眠状態になっていただきます。痛みも老化もなく、終末が完了するまでの時間を安全にやり過ごしていただけますよ」
「そう! これだよ! こういうのが欲しかったんだ」
A氏は思わず安楽椅子から身を乗り出した。
しかしまた横から、不機嫌そうなダダがふたりの会話に割って入る。
「ただし加入には保険料が要るよ。うちもボランティアじゃない。運営には金がかかる。よって、あんたの持ってる最も価値あるものを支払ってもらう。金銭、家、貴金属、食料、兵器、家畜、何でもいいけど」
「あ、ああ。だが生活の足しに、金目の物はすべて売ってしまったんだ。もうこの家に大した物はない……。だから、ダメ元で申し込みをしたんだよ」
リンは部屋の中を見回す。建物自体は大きいが、いつ崩れてもおかしくない劣化具合で、資産価値は低そうだ。
壁の造り付けの棚を眺めていたとき、その中のひとつの置き物が目に止まった。
茶色と黒のまだら模様の、古い猫の剥製が飾られていた。作られてから相当の年数が経っていそうだ。毛は埃をかぶっており、眼窩に埋め込まれたビー玉はくすんでいる。悲しい眼差しで3人の姿を見つめていた。
「A様、あちらの剥製などはいかがですか? 充分な資産になりますよ」
「え? ええと、あれは子どもの頃飼っていた猫なんだよ。名前はチビ。血統書もない雑種なんだが……」
「充分です。猫は今や絶滅危惧種。エイリアンの技術を使えば、剥製の毛のDNAからクローンを造れます。終末後の世界において、猫の個体数回復におおいに役立てられるでしょう」
リンの言葉を聞いたA氏は、目に涙を溜めて喜んだ。
「そ、そうか! ありがたい。よろしく頼むよ。これで終末を乗り切れるばかりか、終末後の世界でチビのクローンと再会できるかもしれないんだね。楽しみが生まれると世界はなんて彩りに満ちて見えるんだろう!」
両手で顔を覆い、A氏はオイオイと泣き出した。
ダダはリンの頭越しに、A氏の担保である猫の剥製を覗き見る。すると整った顔をこれでもかと歪めて、不快そうに舌を出した。
「………うえ、気持ちわる」
A氏に聴こえないよう、リンはすぐさまダダの尻をつねって黙らせた。
「ご満足いただけてこちらも安心しました。では契約締結ということで、さっそく本部に報告いたします。明日の朝には冷凍睡眠カプセルが届きますので、今晩中に出立のご準備を済ませてくださいませ」
リンは鞄から電子タブレットを取り出す。
契約者のサイン欄を表示し、タッチペンとともにA氏に差し出した。
「規約とはいえ、そんなに急なんだね。住み慣れた我が家との別れを一晩で済ませろっていうのかい?」
「反政府軍とエイリアンの戦争は今も世界中で起こっています。この地区もいつ戦場となるか分かりません。大切なご加入者様を守るため、早急な措置となることをご理解ください」
A氏は少々渋る様子を見せたが、元々諸規約を承知の上で申し込みをしたらしい。リンが言葉柔らかく説得すると、やがて納得して契約欄にサインした。
「ありがとうございます。これでA様は、晴れて終末保険のご加入者様となりました。また明日の朝お伺いします」
仕事を済ませると、リンは手早く荷物をまとめ始める。元々手ぶらだったダダは特に支度することもなく、何気なく部屋の中を眺めた。
「1階の汚部屋っぷりに比べたら、2階は多少は片付いてるんだね」
ダダが率直な感想を述べた。
リンがまた尻をつねろうとしたが、家主であるA氏はアハハと笑う。
「子供の頃、事故で脚を怪我してね。階段が使えないから、もう長いこと2階で生活してるんだ。お恥ずかしい」
「若いのに気の毒だね。お手伝いでも雇ってるのかい? 食料とか、色々入り用だろ?」
「ああ。週に一度、地区のボランティアの方が訪ねてくれるんだ。本当に助けられっぱなしだよ。……そうだ、彼らにも、僕が家を空けることを伝えておかないと」
A氏はしばし周辺をキョロキョロ見回した。まずシワのついた紙切れをつまみ、続いて胸ポケットからボールペンを取り出す。
A氏は、ボランティアに宛てて手紙を書き始めた。
まず、日頃の感謝。次いで、自分が終末保険への加入が決まったこと。自分がいなくなった後、家財は好きに利用して構わないことを、一字一字考え込みながら、丁寧にしたためた。
「はは、誰かに手紙を書くなんて久々だから緊張したよ。それも、美女ふたりに見られながらなんて。……すみませんが、この手紙を玄関ドアに貼っていただけますか? いつボランティアの方が来てもいいように」
「承知しました」
短く答えると、リンは手紙と営業資料を手に、一旦退室した。
決して呼んだわけではないが、ダダはリンのそばにぴたりと寄り添い、当たり前のように同行する。
2階と比べると、1階はやはり凄まじい荒れようだ。先ほども嗅いだ悪臭に、リンは顔をしかめる。
「リン。良い子のリンちゃん」
「……なんなんですか」
「あいつの言葉、信じてないだろ?」
ダダの質問の意図を、リンはちゃんと理解していた。
「嘘ですね。彼がここの家主というところから全部。ダダはなぜ分かったんですか?」
「使用感のある羽ペンとインク瓶が目の前に置かれてるのに、視界に入らない胸ポケットのボールペンを使ってた。多分、羽ペンの使い方を知らないんだ。他にも、何の躊躇いもなく電子機器を使いこなしてたし。あいつが事前に送ってきたプロフィールだと83歳……高齢者のはずだろ?」
ダダは得意げに胸を張る。
長身と豊満な肉体を持ちながら、ずいぶん幼い仕草にリンは「はぁ」のみ答える。
「ふふん、リンちゃんもそれで気づいたんでしょ?」
「いえ。飾られていた絶滅種のイリオモテヤマネコの剥製を“昔飼ってた”と言ってましたし、あと」
「あと?」
「単純に顔写真が違っていたので」
リンが鞄の中から取り出したのは、A氏の事前プロフィールだ。しかしそこに載っている顔写真は、先ほどの男とは似ても似つかない、老い先短そうなシニア男性のものだった。
「恐らく、高齢者を装ったほうが優先的に加入できると思ったのでしょう。偽装に使った高齢者の遺体も、おそらくこの1階のどこかにあると思います」
生活臭に混じる嗅ぎ慣れないニオイの正体は、おそらくそれだろう。
ふたりが特に取り乱した様子を見せないのは、このような事例が初めてではないからだ。保険加入のために手段を選ばない地球人はいくらでもいる。
「どうします? 私としては、このまま本部に戻って報告すべきと思うのですが。虚偽申告は立派な規約違反です」
「あー、んー、でもサインしたことだし、明日冷凍カプセルが届くまであいつはどこへも逃げないよ。私達は問題なく審査が通ったフリしておこう。どうせ冷凍カプセルの行き先は本部だ。事情だけ本部にメールしておくよ」
本部とのやりとりはダダの役目だった。
タブレットを預かり、操作をする彼女の横顔を、リンは恨めしげな目で睨む。
「なぁに、リン」
熱い視線を浴びながら、ダダはタブレットから目を離すことなく訊ねる。
「……ダダ、やっぱり区別ついてないんですね。30代と80代を見間違えるなんて」
「ええ!? ちょ、なに? なんで怒ってるの?」
明らかに拗ねた様子のリンに、焦ったダダはメールそっちのけで、ご機嫌を取ろうと努めた。
しかしリンはすっかりヘソを曲げている。ダダが何度「怒ってる?」と訊ねても、リンはぶっきらぼうに「怒ってません」と返すだけだった。
玄関ドアの目線の高さに手紙を貼ると、ふたりは報告と挨拶のために再びA氏の自室を訊ねた。本当はこのまま引き上げるつもりだったが、
「良ければ今夜は泊まっていってください。長時間の運転でお疲れでしょう。部屋はたくさんありますし、シャワーも使えますので、ぜひ」
A氏がそう申し出た。
ダダは「いいよそんなの」と断ろうとしたが、「シャワー」の単語にリンが即座に反応した。長期間の車移動のせいで、まともなシャワーを浴びたのは記憶にないほど昔である。
「ありがとうございます、A様。ではお言葉に甘えて」
「おいおいリンちゃん……」
N地区は、荒野との区別がつかないほど殺風景な場所で、かつては家だったが今や風化して見る影もない残骸がポツポツと建つばかり。人が住んでいるかも疑わしい廃れようだった。街灯はとうの昔に壊れ、一面の闇に覆われた町は墓場と大差ない。
適当な側道に停車し、ふたりはバギーを降りる。
小柄なリンと長身のダダが並ぶと、小型のペットと飼い主のような身長差となる。ぐーっと伸びをすれば、さらにダダの身長が伸びた。
「運転お疲れ様、リン。お客の家はどこなの?」
「あちらです。元々この地域の地主だとか」
リンが指差す先には、確かに他の民家より大きな門構えの洋館があった。煉瓦造りの今にも崩れ落ちそうな外観。しかし煙突からは、か細い煙が立ち上っている。驚くべきことに、人が生活しているらしい。
リンとダダは洋館に着くと、礼儀としてノックの後、家主の出迎えを待った。しかし一向に現れないため、ダダが先導して家の中へ侵入した。
内部は荒れ放題だった。
広々としたロビーには、生活で出たゴミや壊れた家具などのガラクタが散乱し、バリケードのようにふたりの侵入を阻んでいた。リンは荒れ家特有のすえたニオイに一瞬怯むが、勇気を出して、長年の塵や埃が堆積した床を歩き出す。
なんとか上れそうな階段を見つけて、ふたりは2階へ上がる。1階の荒れ具合に比べれば2階はまだ片付けられていて足の踏み場があった。
2階に上がってすぐの所にある部屋を覗くと、案外あっさりと家主の姿を見つけることができた。
家主は、窓辺に置かれた安楽椅子に腰掛けてゆらゆら揺れていた。電気の節約のためか、古のガスランプのオレンジ色の炎が、家主と同じく揺れている。
家主はずいぶん痩せているが、30代ほどの若そうな男だ。彼はふたりの美女に気づくと、小さな目を瞬かせた。
「ああ! やあ、どうも! こんな汚い場所にこんな綺麗なお客さんが来てくれるなんて、嬉しいよ」
「無断で上がってしまい申し訳ありません。私たちは宇宙生命保険機構の者です」
「ああ! あなたたちがそうなのか。待っていたんだよ。僕が依頼したAだ」
リンとダダは資料に添付されている、今回の依頼人の顔写真と、目の前の男性とを見比べた。
「初めまして、A様。お問い合わせいただいた保険商品のご説明に伺いました。お時間よろしいですか?」
「あなたたちの扱ってる“終末保険”ってやつだよね。前からとても気になっていたんだ。早速頼むよ」
「ありがとうございます」
家主のA氏は、リンとダダに、安楽椅子の近くの丸椅子へ座るよう促した。
リンは着座すると、A氏のそばの文机を一瞥。使い込まれた様子のペン立てとインク瓶をA氏側に寄せ、持参した紙の資料を広げて説明を始めた。
「A様もご存知のとおり、現在のエイリアンと反政府軍との戦争は、依然エイリアン側が優勢な状況です。この戦争は20年も続いていますが、残念ながら人類の人口は減少の一途をたどっています」
「…………。そうだよねえ。ラジオもいつもそう言ってる」
「不安ですよね。ですがどうか気を落とさないで」
車内でダダと会話していたときとは打って変わって、リンはとても親身にA氏に寄り添う。例え営業上の態度だとしても、ダダにしてみれば面白くない。
「じゃあ、これも知ってる?」
リンの横から、しかめっつらのダダが身を乗り出して話を遮った。A氏はダダの美貌に思わず瞠目する。
「10年前、エイリアンがある警告を出したんだ。このまま抵抗を続けるなら、宇宙の技術を結集した“地球人だけを絶滅させる兵器”を発動するぞ、って」
「一時期SNSでもトレンド入りした“終末”と呼ばれる作戦です。A様もご存知ですね?」
物騒な脅し文句にA氏はすっかり怯えてしまった。
「ああ、もちろん知ってるよ……。ラジオでも連日報道されていた。僕は怖くて怖くて。ただでさえ、いつどこで戦争が起こるかも分からない世の中なのに、そんな恐ろしい死に方で締めくくるなんてごめんだよ」
するとリンは、つとめて明るくA氏を励ます。
「A様、ご安心ください。その打開策として、近年エイリアンの一部の団体が法人化し、地球上で初めて慈善団体を立ち上げました。我々、宇宙生命保険機構です」
リンのめくった資料には、バギーにもプリントされていた赤色のロゴが載っている。
「その打開策こそが、我々の看板商品である終末保険です。加入されたお客様は、弊団体が用意した特殊なカプセルに入って冷凍睡眠状態になっていただきます。痛みも老化もなく、終末が完了するまでの時間を安全にやり過ごしていただけますよ」
「そう! これだよ! こういうのが欲しかったんだ」
A氏は思わず安楽椅子から身を乗り出した。
しかしまた横から、不機嫌そうなダダがふたりの会話に割って入る。
「ただし加入には保険料が要るよ。うちもボランティアじゃない。運営には金がかかる。よって、あんたの持ってる最も価値あるものを支払ってもらう。金銭、家、貴金属、食料、兵器、家畜、何でもいいけど」
「あ、ああ。だが生活の足しに、金目の物はすべて売ってしまったんだ。もうこの家に大した物はない……。だから、ダメ元で申し込みをしたんだよ」
リンは部屋の中を見回す。建物自体は大きいが、いつ崩れてもおかしくない劣化具合で、資産価値は低そうだ。
壁の造り付けの棚を眺めていたとき、その中のひとつの置き物が目に止まった。
茶色と黒のまだら模様の、古い猫の剥製が飾られていた。作られてから相当の年数が経っていそうだ。毛は埃をかぶっており、眼窩に埋め込まれたビー玉はくすんでいる。悲しい眼差しで3人の姿を見つめていた。
「A様、あちらの剥製などはいかがですか? 充分な資産になりますよ」
「え? ええと、あれは子どもの頃飼っていた猫なんだよ。名前はチビ。血統書もない雑種なんだが……」
「充分です。猫は今や絶滅危惧種。エイリアンの技術を使えば、剥製の毛のDNAからクローンを造れます。終末後の世界において、猫の個体数回復におおいに役立てられるでしょう」
リンの言葉を聞いたA氏は、目に涙を溜めて喜んだ。
「そ、そうか! ありがたい。よろしく頼むよ。これで終末を乗り切れるばかりか、終末後の世界でチビのクローンと再会できるかもしれないんだね。楽しみが生まれると世界はなんて彩りに満ちて見えるんだろう!」
両手で顔を覆い、A氏はオイオイと泣き出した。
ダダはリンの頭越しに、A氏の担保である猫の剥製を覗き見る。すると整った顔をこれでもかと歪めて、不快そうに舌を出した。
「………うえ、気持ちわる」
A氏に聴こえないよう、リンはすぐさまダダの尻をつねって黙らせた。
「ご満足いただけてこちらも安心しました。では契約締結ということで、さっそく本部に報告いたします。明日の朝には冷凍睡眠カプセルが届きますので、今晩中に出立のご準備を済ませてくださいませ」
リンは鞄から電子タブレットを取り出す。
契約者のサイン欄を表示し、タッチペンとともにA氏に差し出した。
「規約とはいえ、そんなに急なんだね。住み慣れた我が家との別れを一晩で済ませろっていうのかい?」
「反政府軍とエイリアンの戦争は今も世界中で起こっています。この地区もいつ戦場となるか分かりません。大切なご加入者様を守るため、早急な措置となることをご理解ください」
A氏は少々渋る様子を見せたが、元々諸規約を承知の上で申し込みをしたらしい。リンが言葉柔らかく説得すると、やがて納得して契約欄にサインした。
「ありがとうございます。これでA様は、晴れて終末保険のご加入者様となりました。また明日の朝お伺いします」
仕事を済ませると、リンは手早く荷物をまとめ始める。元々手ぶらだったダダは特に支度することもなく、何気なく部屋の中を眺めた。
「1階の汚部屋っぷりに比べたら、2階は多少は片付いてるんだね」
ダダが率直な感想を述べた。
リンがまた尻をつねろうとしたが、家主であるA氏はアハハと笑う。
「子供の頃、事故で脚を怪我してね。階段が使えないから、もう長いこと2階で生活してるんだ。お恥ずかしい」
「若いのに気の毒だね。お手伝いでも雇ってるのかい? 食料とか、色々入り用だろ?」
「ああ。週に一度、地区のボランティアの方が訪ねてくれるんだ。本当に助けられっぱなしだよ。……そうだ、彼らにも、僕が家を空けることを伝えておかないと」
A氏はしばし周辺をキョロキョロ見回した。まずシワのついた紙切れをつまみ、続いて胸ポケットからボールペンを取り出す。
A氏は、ボランティアに宛てて手紙を書き始めた。
まず、日頃の感謝。次いで、自分が終末保険への加入が決まったこと。自分がいなくなった後、家財は好きに利用して構わないことを、一字一字考え込みながら、丁寧にしたためた。
「はは、誰かに手紙を書くなんて久々だから緊張したよ。それも、美女ふたりに見られながらなんて。……すみませんが、この手紙を玄関ドアに貼っていただけますか? いつボランティアの方が来てもいいように」
「承知しました」
短く答えると、リンは手紙と営業資料を手に、一旦退室した。
決して呼んだわけではないが、ダダはリンのそばにぴたりと寄り添い、当たり前のように同行する。
2階と比べると、1階はやはり凄まじい荒れようだ。先ほども嗅いだ悪臭に、リンは顔をしかめる。
「リン。良い子のリンちゃん」
「……なんなんですか」
「あいつの言葉、信じてないだろ?」
ダダの質問の意図を、リンはちゃんと理解していた。
「嘘ですね。彼がここの家主というところから全部。ダダはなぜ分かったんですか?」
「使用感のある羽ペンとインク瓶が目の前に置かれてるのに、視界に入らない胸ポケットのボールペンを使ってた。多分、羽ペンの使い方を知らないんだ。他にも、何の躊躇いもなく電子機器を使いこなしてたし。あいつが事前に送ってきたプロフィールだと83歳……高齢者のはずだろ?」
ダダは得意げに胸を張る。
長身と豊満な肉体を持ちながら、ずいぶん幼い仕草にリンは「はぁ」のみ答える。
「ふふん、リンちゃんもそれで気づいたんでしょ?」
「いえ。飾られていた絶滅種のイリオモテヤマネコの剥製を“昔飼ってた”と言ってましたし、あと」
「あと?」
「単純に顔写真が違っていたので」
リンが鞄の中から取り出したのは、A氏の事前プロフィールだ。しかしそこに載っている顔写真は、先ほどの男とは似ても似つかない、老い先短そうなシニア男性のものだった。
「恐らく、高齢者を装ったほうが優先的に加入できると思ったのでしょう。偽装に使った高齢者の遺体も、おそらくこの1階のどこかにあると思います」
生活臭に混じる嗅ぎ慣れないニオイの正体は、おそらくそれだろう。
ふたりが特に取り乱した様子を見せないのは、このような事例が初めてではないからだ。保険加入のために手段を選ばない地球人はいくらでもいる。
「どうします? 私としては、このまま本部に戻って報告すべきと思うのですが。虚偽申告は立派な規約違反です」
「あー、んー、でもサインしたことだし、明日冷凍カプセルが届くまであいつはどこへも逃げないよ。私達は問題なく審査が通ったフリしておこう。どうせ冷凍カプセルの行き先は本部だ。事情だけ本部にメールしておくよ」
本部とのやりとりはダダの役目だった。
タブレットを預かり、操作をする彼女の横顔を、リンは恨めしげな目で睨む。
「なぁに、リン」
熱い視線を浴びながら、ダダはタブレットから目を離すことなく訊ねる。
「……ダダ、やっぱり区別ついてないんですね。30代と80代を見間違えるなんて」
「ええ!? ちょ、なに? なんで怒ってるの?」
明らかに拗ねた様子のリンに、焦ったダダはメールそっちのけで、ご機嫌を取ろうと努めた。
しかしリンはすっかりヘソを曲げている。ダダが何度「怒ってる?」と訊ねても、リンはぶっきらぼうに「怒ってません」と返すだけだった。
玄関ドアの目線の高さに手紙を貼ると、ふたりは報告と挨拶のために再びA氏の自室を訊ねた。本当はこのまま引き上げるつもりだったが、
「良ければ今夜は泊まっていってください。長時間の運転でお疲れでしょう。部屋はたくさんありますし、シャワーも使えますので、ぜひ」
A氏がそう申し出た。
ダダは「いいよそんなの」と断ろうとしたが、「シャワー」の単語にリンが即座に反応した。長期間の車移動のせいで、まともなシャワーを浴びたのは記憶にないほど昔である。
「ありがとうございます、A様。ではお言葉に甘えて」
「おいおいリンちゃん……」



