今度そっちに帰るよ、なんて連絡が来たのが先週のこと。
 久々に見る彼女はすっかり髪が伸びていて、『伸ばし中なの、似合うでしょ』なんていたずらっぽく笑うから言葉に詰まった。

 その笑顔は変わらない。それに弱い、俺も。

「なんか、背伸びた?」
「そりゃあまあ、三年も経てばな」
「え、もうそんなに経つの? まずいな、私だけすぐにおばあちゃんじゃん……」
「……大して変わらないだろ、俺と」
「なに、優しいじゃん。……あ、ねえ、大学どう? 大変?」
「……別に。社会人ほどじゃない」

 どう足掻いたって、俺の先を行くこいつ。埋まらないその時間がずっと嫌いで、必死に追いつこうとしていた。

 けど今は違う。こいつが得意げに語っていた労働終わりのハイボールの美味さも、もう俺は知っている。

「……なあ、」
「ねえ」

 話し始めがぶつかった。
 二人分の足音が、ひとつ、追いつくようにまたひとつ、止まる。
 もう歩幅くらい合わせられるようになった。好きな速度で歩いてたって、いくらだって並んで歩ける。

「私ね」

 横で立ち止まる彼女が、栗色の髪を耳に掛ける。その小さな手にどうしようもなく胸が締め付けられて、でも同じくらい、嫌な焦りが沸き出た。

 ───やめろ、言うな。
 どうにかして遮りたくて、ほとんど衝動任せに、その手を取って握った。
 少しでも力の加減を誤れば、簡単に壊してしまいそうな華奢さ。この感触を誰にも渡したくない。この先も隣で握っていたい。俺を心に入れてほしい。
 ずっと見ていた。ろくな相談もなく、私東京で就職するんだ、なんて報告される前から、ずっと。
 なあ、今、どれくらいその頭の中に、俺はいる? 確かめたくなって、名前を呼んで、目を合わせて───後悔した。

 丸く揺れる瞳の奥、点滅する青信号。
 俺の背中の光景に気がついた彼女は、俺の言葉を待つことすらせず、横断歩道の向こう側へ向かって駆けていく。

「……コータ!?」

 離される手のひらが、突然空気に触れて、ひやり、熱を失った。

「えっ、なんで!? 来るの明日じゃなかったの?」
「急にごめん、早く会いたかったから」

 "会いたかった"
 向こう岸の知らない男が告げる、俺が一番、言いたかった言葉。

 さっきまで横を歩いていた小さな背中は、俺じゃない名前を呼びながら、ひとまわり大きなその身体に包まれている。

 ───ああ、そうだよな。分かっていた、どこかで。

 ショートカットが一番好きだと言っていた。洗うのも楽だしすぐ乾くからって。たまたま切っていなくて伸びてることはあっても、『伸ばしてる』なんてことは一度も無かった。

 次会う時は素敵な旦那さん連れてくるから、って笑っていたのが三年前の最後だった。
 いつも何かと勢い任せだけど、言ったことは絶対に実行するやつだった。

 仲良さげに言葉を交わす二人の頭上で灯る、赤い光。海も壁もないはずなのに、この横断歩道を堺に、まるでこちらは別の世界だと切り離されている気がした。

「え! ちょっと、帰るのっ?」

 とてもじゃないけどここには居られない。下唇をぐっと噛みしめながら踵を返した瞬間、彼女の声が響いた。

「……ねえ、私ね!」

 静かな夜、対岸の俺に届けたものだと、よく分かる声量。

「結婚するの、彼と!」
 
 振り向かないままの俺の背にぶつかって落ちる、何も知らない無邪気な言葉。
 
 ……ふざけんな、知ってるよ。だから一人になろうとしてるんだろ。
 悔しくて、苦しくてムカついて、でもそういうところがやっぱり好きで、目を細めながら小さく笑った。
 おめでとうはまだ言えない。張り裂けそうな胸の奥で、君が最後に幸せになるのが、俺の隣であれと願っているうちは。
 はあっ、と深く息を吐く。

「……なめんな」

 なあ、どうせ、知らないだろ。
 俺が東京の就職先を見つけたことも、そのために死ぬほど努力したことも。

「俺の方が、会いたかったよ!」

 ───ずっと、ずっと。

fin.